夢日記二冊

  
横尾忠則『私の夢日記』(角川文庫 1988年)
島尾敏雄『記夢志』(冥草舎 1973年)


 明恵夢日記に続いて、現代の夢日記を読んでみることにしました。この2冊は、同じ夢日記でも、書き方がまるで正反対で、横尾忠則は、夢を物語として誰かに喋るように書いていて、絵まで添えているのに対し、島尾敏雄は、作家にもかかわらず、文章が不完全で乱れていて、夢のメモ書きをそのまま印刷した感じです。たぶん、夢を後で思い出すための簡単な自分用のメモを本にしてしまったのでしょう。読者をまったく想定していない書き方です。

 しかし2冊に共通するのは、というか夢そのものの性質からでしょうが、筆者の身の回りの家族とか交友関係の人が、亡くなった人も含めどんどん登場するということ、ずっと昔の話が出てくること、脈絡のない変な話が多いこと、が似通っています。それに個人的な話で恐縮ですが、私が生まれ育った神戸の近所の地名が2冊ともに出てくることです。横尾忠則は結婚したばかりのころ神戸新聞社に勤めていて青谷のアパートに住んでいたらしく、また島尾敏雄の本にも、水道筋を関西学院の正門前を山の方に行くとか、布引、加納町という地名が出てきます。


 横尾忠則については、以前小説作品『ぶるうらんど』と『ポルト・リガトの館』を読んで、その感想をこのブログにも書いています(2010年5月1日記事参照)。いずれも、この夢日記の延長線上にあるような作品です。少し読み直してみようと本棚を探してみましたが、2冊とも売り払ったようで見当たりません。やはり本は手元に置いておかないといけません。

 横尾忠則の夢の特徴は、かなりの分量で、円盤やUFOが出てくることです。宇宙人に遇ったり、円盤に乗ったりしていますが、円盤や宇宙人を見ると嬉しくなるという心理がよく分かりません。この本を書いたころは、宇宙人との交流を本当に信じていたらしく、「まえがき」に、宇宙人からのメッセージを本にして出すようなことを書いています。

 画家だけあってシュールレアリスムのような美しく不思議なイメージの夢が多い。色はよく出てくるし、音が聞こえる夢もあるし、匂いを感じる夢もありました。また、自分を見る夢、夢の中で夢を語る話もありました。登場人物としては、三島由紀夫高倉健が印象的。仕事仲間も実名でどんどん出てきます。亡き父母が出てくるのは分かりますが、夢の中に現われる亡き人を幽霊と呼んでいるのは少し違うような気がします。

 長くなりますが、いくつか不思議な夢を引用しておきます。

ぼくの手の平が病人の皮膚に触れて円状に赤く染まった。やがてその部分に黄色の小さな無数の発疹が出はじめた。発疹は微妙に動きながら次第にアルファベットの文字に変わっていった/p17

指で頭髪をすく同じ仕草で彼女は彼女自身の陰毛を優美にすくのである。長い陰毛をひょいと彼女の左肩にかけるようにして…。上に持ち上げられた陰毛の陰から薄い桃色の陰部がちらっと見える/p39

(なぜ首が落ちないのだろう?)ぼくは思わず男の立っている周囲の床をどん、どん、どんと地響きを立てて小さな四角の部屋の中を何度も何度も跳びはね・・・首を床の上に落とそうと試みていた/p49

ぼくが神だと思ったその老人は、ゆうに七尺はある大男で、頭頂部には髪がなく、耳の辺りから下に真白な髪が肩まで下り、口もとから真白な髭が胴のところまで伸び放題・・・この人物の全身からは輝くばかりの金色の光が放射し、姿は半ば透明でさえあった/p61

地表が昼間で空が夜なのである/p71

一枚の肖像画・・・建築中の日本家屋がうっすらと描かれており、沢山の人達が作業をしているのが見える。気のせいか人々が動いているように見えた・・・まるで自分が画面の中に入って、実際の建築中の家を見ているように。/p79

母とこんな会話をかわしていた。と、その時、もうひとりの母が縁側の隅に突然現われた・・・(母の幽霊だ!)・・・
次の瞬間母はスーッと小さくなって一匹の猫に変ってしまった。しかしその顔だけは母のものだった/p103~4

ふと背後に人の気配を感じてぼくは振り返った。川底に正座した霊人(死者)たちがずらっと一列に並んでいた。それはかなり遠くの川底まで続いているように思えた/p142


 『記夢志』は、珍しく人からプレゼントされたものです。3年前に亡くなった友人からで、二重買いで余っていたからか、とくに私に読んでほしかったのか、今となると分かりません。

 この本は、本文よりもあとがきが秀逸。夢の神秘性について微妙なところをうまく表現しています。これも長くなりますが、引用しておきます。

どうしてそんなに夢は記憶から逃げたがろうとしているのかわけがわからないほどだ。あるときはつかまえて置くために私は夢の中でそのかたちを反復することを試みたことがあったが、どれほど執拗に復習した結果つかまえ得たと思えたのも、目ざめると淡雪がとけ去るごとくにそのかたちを消してしまうのである・・・ただその気配だけが立ち迷っているに過ぎないように思える・・・ほんとうのところ夢は体験などというものではなく、なにか全く別個のものの侵入であって、それはわれわれのふだんの感覚ではつかまることなどできないのかもしれない・・・この夢のノートもそれのひとつとしての残骸と言えようか・・・夢のあの権威のある縦横な深々とした魔の世界は、まるで別なひからびたものとなって文字に移しとどめられているに過ぎないのである/p148~9

 島尾敏雄の作品は、学生の頃に『死の棘』を読んだぐらいで、本人のこともあまりよく知りません。この本で、むかし特攻隊長だったらしいこと、キリスト教信者らしいことも分かりました。作家仲間が実名で登場してきますが、吉行淳之介埴谷雄高武田泰淳庄野潤三上林暁安部公房、小川国夫、遠藤周作らの名前があり、彼らとの交流が盛んであったことが窺われ、また昔の作家たちは今よりもお互いの交流が盛んで深かったように思われます。みんなから作家として注目されていることへのこだわりが感じられる夢がいくつかありましたが、これも作家という存在が昔は特別だったということでしょう。

 これを書いているとき、島尾敏雄に別に『夢日記』というのがあるのに気がつきました。それも一緒に読めば何か分かることがあったかもしれませんが、時間切れで。またの機会に。