:谷川健一『神に追われて』他

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谷川健一『神に追われて』(新潮社 2000年)
白鳥賢司『模型夜想曲』(アーティストハウス 2002年)
                                   
 幻想小説を続けて読んでいますが、この2冊は幻想小説のジャンルに入るものかどうか。それに両者はまったくテイストの違う作品で、一緒に取り上げるのも、たまたま同じ時期に読んだというだけに過ぎません。


 谷川健一『神に追われて』は沖縄の巫女に取材したノンフィクションです(と思います)。が人物の内面の葛藤を描いているので小説的雰囲気が濃厚です。一口に言えば、神がかりの果てしないすさまじさが描かれています。とくに、身体の異常を訴えて整形外科病院へ行き、そこから心の病だとして、精神病院、教会、寺、新興宗教を転々と渡り歩くルチアのエピソードは、生き地獄を見ているようです。

 「神に追われて」の意味は、沖縄のユタやカンカカリヤと呼ばれる巫女をつとめる女性は、穏やかな状態でその道に入ったのではなく、神に追われて、逃げおおせることができなくなり、神に自分の魂をゆずり渡す形でそうなったということを言っているものです。

 冒頭に、フランシス・トムスンの「天の猟犬」からの詩の引用があり、これがすばらしいので、少し引用してみます。「夜はいく夜、昼はいく日を、われ神を逃げたり。/いく年の門をもよぎり、われ神を逃げたり。/おのが心の迷ひ宮にも似たる道を通りて/神を逃げたり。しかして涙の霧の中に/神よりかくれぬ。又は笑ひの河をくぐりつつ。」(斎藤勇訳)

 ここに描かれているのは、われわれがふつう教会や寺院で感じる静謐な神聖さと対極にある神の恐ろしさであり、われわれが宗教に求める癒しとは対極の苦しみに満ちています。作中の登場人物が、神が乗り移った苦しみを「神は人間にやさしいものである筈なのに、こんなに自分を苦しめるのは神ではない。悪魔だ」(p59)と表現するくらいです。巫女たちは実際に神の声を聞き、神の命じるままに奇矯な言動を繰り広げます。人間関係のドロドロしたものが背後に渦巻いているような気もします。

 といろいろ書いているうちに、この狂気は、島尾敏雄の『死の棘』のすさまじさに通じるとふと思い出しました。その主人公である妻の島尾ミホもたしか南の島の人ではなかったかと調べてみると、奄美大島出身で巫女の家系に生まれていたのでした。


 白鳥賢司『模型夜想曲』は、一言で言えば、怪作。小説の枠組は、幻想小説と言うよりはハードボイルドミステリーでしょうか。典型的なハードボイルドの文章で綴られていて、探偵が主人公。衆人環視のプラネタリウムで、探偵が追いつめた容疑者と巨大な装置がともに消失するという謎も仕掛けられ、暗号も出てきます。味付けにオカルティックな知識や自動人形などの小道具をちりばめたという感じです。

 (ここからネタバレ注意)しかし、単なるハードボイルド小説でないことは、記憶喪失だったり、精神病を患ったり(探偵自身も)する人物が次々と登場し、話題も臨死体験曼荼羅の話から、人間の精神宇宙の広大さに話が及んでくるあたりから、次第に怪しくなってきます。そして最後の十数ページにいたって最大の怪作ぶりが発揮されます。それは、探偵が犯人であり、プラネタリウムが蜘蛛の自動人形であり、探偵がそのプラネタリウムそのものでもあるというのです!
(この辺は私の理解を超えるもので誤解しているかもしれません。)

 ということで、まともな小説を読もうとする人にはこの本はお勧めできません。