
Frédérick Tristan『Les égarés』(Balland 1984年)
439ページもある長編。しかも文字が小さくて1ページに41行もあり、通常のフランス書なら3冊分ぐらいの量です。いつものように三分の一程度に抄訳しながら読んでいたら、A4で75ページにもなってしまいました。そうした分量にもかかわらず、1930年代の金融恐慌やナチス台頭の暗雲立ちこめる社会を背景に、誘拐事件という大衆小説的なスリルに満ちた場面や、スペイン市民戦争の描写もあり、退屈せずに読めました。
トリスタンは、この本で1983年のゴンクール賞を取ったということですが、私には、それ以前に書いた『LA GESTE SERPENTINE(蛇状叙事詩)』の方がはるかにすごい作品に思えます。おそらくゴンクール賞の審査員たちには、作家とその影武者と出版社が複雑に絡んでいるこの作品の仕掛けが、自分たちの身近な出来事と感じられたのだと思われます。
長編なので、物語の大きな枠組みだけを紹介しますと(ネタバレ注意)、
①語り手は、作家だが、出版社への売込みが苦手。弁舌爽やかで魅力的な男と知り合い、作家は籠って書くことに専念し、その男が作家の影武者となり出版社と交渉をするという役割分担を決め、遊び半分で始めた。ところが1冊目が爆発的なヒットとなり、後戻りできなくなる。影武者は記者会見やマスコミ対応もすべて引き受け、世界中を駆け回り、ミュージカル化、映画化、マスコット人形の販売の交渉など、精力的に活動する。
②影武者の出自は複雑で、捨て子だったがある貴族に引き取られて育てられた。貴族の城館の書庫の本を読んで育ち、かつ記憶力が抜群で、それが弁舌に華を添えていた。出会う人々はことごとく彼の魅力に惹きこまれる。影武者は、自分が誰の子か、育ててくれた貴族と何か関係があるのではと思い、貴族の過去を探る旅に出る。結局、貴族の従兄弟で、今やイギリス王室や政界に大きな影響力をもつ人物とユダヤ女性のあいだに生まれ、その貴族に預けられたことを知る。
③影武者は、ドイツで講演の際、ナチスに追われて亡くなったユダヤ人作曲家の娘を助け出したことから、結局その娘と結婚することになるが、その頃から、西洋の危機を感じて、反国家社会主義、反共産主義的な行動をとるようになる。あげくに敵対勢力から息子を誘拐される。愕然となった影武者は、作品の宣伝、ミュージカル、映画、人形販売をすべてエージェントに任せて、自分はアフリカに慈善病院を作り、バルセロナでスペイン市民戦争に参加する。
④そうした功績が認められて、影武者はノーベル文学賞を受賞することになった。受賞演説では、作品から離れナチスの台頭など西洋の危機への警告に終始した。ところが、ストックホルムで、育ての貴族と会ったことがあるという人物のもとを訪れ衝撃的な事実を知る。育ての貴族は、ナチスのもとになる秘密結社を創設していたのだった。愕然となった影武者は、ストックホルムから再びバルセロナに向かう。そこでユダヤ教に改宗したあと、暴漢に襲われ死んでしまう。影武者の死をみとった作家は、この本を書き真相を世の中に明らかにしたのだった。
この枠組みに加え、作家が母親を虐待する父親に憎しみを抱いていて、それが処女作に大きく反映していたり、影武者に恋した出版社主の娘が、結局自分が作品を出版するのに利用されただけと知って影武者に復讐しようとしたり、語り手の妻が、その娘に誘われてオカルト思想を吹き込まれ、語り手の敵対勢力の側に味方して泥沼の離婚劇を演じたり、影武者がミュージカル女優や映画女優などいろんな女性と情事を繰り広げて問題を起こしたり、影武者の妻が自暴自棄になって自動車事故を起こし重傷を負ったりと、いろんな出来事が起こります。
作家と影武者がお互いを補完し合って一人の作家を演じますが、この秘密は二人だけのもので、出版社は元より、お互いの妻にも秘密を貫き通します。そこでハラハラする場面も出てくるわけですが、一種の二重人格小説の雰囲気もあります。文中で、カインとアベルの物語への言及がたびたびあり、カインは文明を作る建設を担い、アベルは自分の血と犠牲でそれを育て成長させる役割を担うとしていますが、この構図が、カインとしての作家、アベルとしての影武者という役割分担に重なっています。
題名の「Les égarés」は、影武者、作家、出版社の娘らが、自らの出自や両親の真実を求め、さ迷っていることを示すと同時に、現代の人々が、神を失い、虚妄の理念の中でさ迷っていることを示しています。文中で、「égarées」という言葉が出てくるのは、私の気づいた限りでは一カ所あり、出版社主の娘が話すところで、「私は贖罪を信じてるのよ。迷った人の魂を救い、傷ついている人の魂を癒すことができると」(p112)という文脈で使われていました。
小説の中心にあるのは、自らの起源を求めてさまよう魂の遍歴を描くところにありますが、ほかにいくつかのテーマを巡って議論がありました。
①文学が過酷な現実に対してどんな力をもてるのかという問題: 文学は頭の中だけのことで、事実に対しては何もできない。文学は雨の日の気晴らしにすぎないとも言える。だが、作家は、政党的立場ではなく、人間として、それぞれの出来事についてできるだけ意見を発信すべきである。敵対的な意見であろうとも真実に照らして必要なら言うべきである。視点を提供するにすぎないが、でもその視点が必要なのだ。闇のなかでは、光に向かって歩まなければならない。銃を前にしては、手を挙げて拒否の姿勢を示すしかないのだ。
②伝統を守ることの矛盾: 伝統を守る一貫した社会は、規則への従属を強い、奇妙に思われる習慣が持続した社会である。自由を求める社会は、そうした規則を拒絶する半面、目的もなくさ迷うことになってしまう。神を拒否するということはそういうことだ。
③現代(西洋)文明の失敗: 現代人はみんな地上にへばりついて、誰も垂直に動こうとはしない。哲学者も現象しか見ておらず、みんな断片の世界にはまり込んで、バラバラになった鏡の破片のように、世界の破片を反射しているだけだ。それは神を殺したからだ。われわれは滝のように落ちてくる情報の迷路のなかで彷徨ってるのだ。言葉も死んだ。現代人の悲劇は、言葉が価値のない虚ろな力しか持ってないことである。意味の氾濫は逆に意味の喪失を招いてしまった。西洋文明が進んでいる道は前が見ないまま、進めば進むほど、見えなくなっている。いったいわれわれはどこへ向かっているのか。
④見えないものを見る力の重要性: 出版社主の娘は、「醜い人は奥底にとんでもない美しさを秘めているから隠していると思った。町を歩いていても、不具の人を見れば天使だと思い、猫や犬は妖精や魔術師だと思った。世界は見たようなものではない、真実は隠れているのだ」(p115)と告白し、作家は、「あなたには、眼に見えるものと見えないものの境がなく、現実と想像のあいだに溝がないのだ」(p381)と悪夢の中で語りかけられる。影武者は、ティツィアーノの『トビアスと天使』の絵を挙げて、次のように語る。「天使が幼年トビアスの手を引いて、水平線を指さしているんだけど、そこには見えないものと見えるもののあいだの合意が感じられるよね。現代の画家だったら、トビアスと犬しか描かないだろう。滑稽じゃないか。われわれは見えない世界を失ってしまったんだ。天使が居なくなれば、世界は終りだ」(p388)。
⑤共産主義もファシズムも同じ枠組みで動いていること: ドイツのファシズムとソ連の共産主義のどちらを選ぶかという問題設定は、ヒットラーが望んでいる二元論であり、ファシズムと共産主義は同じヤヌスの二つの顔で、ファシズムだけでなく、共産主義も仮面のうしろに動物の鼻づらを隠し、人々に毒を吹き込んでいる。ともに間違いを絶対に認めないという点で共通しているのだ。間違ったときに訂正できる自由があるかということが重要、それで影武者は、党派に与せず、無垢の立場で政治に参加すると表明する。
また、いくつかの絵のイメージがこの物語の重要な道しるべになっています。一つは、ティツィアーノの『トビアスと天使』で、上記の④のように、見えないものを見る力の重要性を語る際に引用され、もう一つは、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日』で、影武者がスペイン市民戦争に参加し捕まって銃殺される直前に思い浮かべる絵。結局は解放されますが次のような場面。「士官が何かスペイン語で命じた。兵士は気をつけをし、また別の命令で、われわれに銃を向けた。すべては夢のように過ぎ、死んでいくのかと思った。ゴヤの白いシャツの男の絵を思い出した」(p367)。この物語の最後の文章でも、「残っている唯一の希望は、銃を前にして、手を挙げて拒否の姿勢を示すことだ」(p439)と引用されています。
作家の書く小説が合計4作出てきて、その中身が作家や影武者の人生と密接に関連していて、作中つねに話題になります。これらは、トリスタン自身の作品をモデルにしているようです。文中の処女作『ベルゼブル』は、トリスタン自身の『Le dieu des mouches(蠅たちの王)』、二作目『ヤコブ・スターンの神話的冒険』は『Les tribulations héroïques de Balthasar Kober(バルタザール・コベールの英雄的苦難)』、三作目『猿の王』は未読で不確かだがタイトルからは、『Le Singe égal du ciel』、四作目『顔のない男』は『HISTOIRE SÉRIEUSE ET DROLATIQUE DE L’HOMME SANS NOM(名無し男の真面目で滑稽な物語)』と思われます。