ボードレールの概説書二冊

f:id:ikoma-san-jin:20200206102617j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200206102639j:plain:w150
セシェ/ベルトゥ齋藤磯雄訳『ボードレールの生涯』(立風書房 1972年)
パスカル・ピア福永武彦訳『ボードレール』(人文書院 1966年)

                                            
 ボードレールについての本を読んでいこうと思いますが、まずは、海外の翻訳本から。ボードレールについての基本的な情報を得るために適当に二冊を選んでみました。セシェ/ベルトゥの本は、ほぼ時系列に生涯の出来事を辿り、ピアの本は、ボードレールの書いたエッセイや手紙をもとに、テーマ別に断章形式で叙述しているところが特徴です。


 『ボードレールの生涯』では、
ボードレールの貴族主義的な趣味や芸術に対する情熱は、貴族の家の家庭教師であり進歩的な学者と親交のあった父親からの影響が大きいこと、
ところがその父親が早くに亡くなり、母の再婚相手が軍の幹部で後に将軍となる人物で相容れず、語学に秀でた息子を外交官にしようとした父と対立して、文学の道へ進んだこと、
成人となって父親の遺産75000フランが入ったため、2年と3か月豪奢な生活を送ったが、義父から直ちに公証人をつけられて年金で管理されることになったこと、
しかし浪費癖は治らずこれが一生借金にまみれる生活のもととなったこと、
などが辿られています。

 ボードレールが晩年失語症になったことは有名ですが、最初に予兆を感じて、「私は或る奇怪な警告を受けた・・・痴呆の羽風が頭上を吹きよぎるのを感じた」と書いたとき、まだ40歳だったというのには驚きました。晩年の生活は悲惨で、借金に追われてベルギーに逃げたものの、講演会を開いても20人ほどしか集まらなかったり、約束の講演料が値切られたり、ベルギーの出版社からの全集出版の計画が破綻したりして、それでベルギーを罵倒する書物を出そうとさえしたようです。

 負債を解決するためにパリへ束の間戻った際に、北駅でカチュール・マンデスに偶然出会い、擦り切れた衣服を見てボードレールの窮状を悟った彼の家に泊めてもらうことになりますが、マンデスが報告しているボードレールの姿がこの本のもっとも迫真的な部分です。ボードレールは、生涯に稼いだ作品の収入を指折り数えあげた後、寝床で、将来の壮大な文学的企図を自らに語るかのごとく喋り、次に敬愛する作家を何人か挙げた後、ネルヴァルのことを狂ったように語り始め、ネルヴァルは自殺でもなく気違いでもなかったんだと、まるでネルヴァルが憑依したかのように叫んだこと、そして黙りこくった後、突然慄然とするような嗚咽を漏らしたということです。「私は身動きも出来なかった。胸を抉られて私は眼を閉じた」(p262)とマンデスは書いています。

 他にも、専門職を嫌悪してディレッタントの道を選び、人を驚かすことが生涯を通じての一大関心時であったというダンディな姿が活写されているところ、また「恋をするあらゆる男女の一組は、彼の眼には、一人の拷問執行者と一人の犠牲者として映じた」(p192)というように、恋愛の悪魔性に敏感であり、自らを「穢れし女をあまりにも愛せしゆえに若くして/土龍の群の王国に降りたる者」(p189)と歌い、若き日に娼婦たちと交渉を持ったボードレールが、一方匿名の手紙で片思いを綴るというプラトニックな恋愛をし、結ばれると同時に破局するという自家撞着的な悲劇を演じる姿も描かれていました。


 パスカル・ピアの本では、ボードレールがダンディズムの韜晦を生きながらも、いかに文学に対して真摯に向き合っていたかということが分かります。文学は道徳とは異なる目的を持ち、詩は書く悦びのためだけに存在すると、文学の合目的性を否定する一方、詩人は天国から地獄に至るまでの一切のものを描写できなければならず、散文を書く場合にもつねに詩人であるよう心掛けるべきとしたこと。詩の美学については、憂鬱は美のすぐれた伴侶であり、奇妙さが美の特質であるとし、詩の形式としては、冗漫な詩を嫌悪し、窮屈であるだけ詩想がより強烈にほとばしり出るソネのような短詩を称揚したことが紹介されています。

 他に、
異母兄のクロード・アルフォンス・ボードレールも遺伝の影響か半身不随のまま死んだこと、
文部省からポーの翻訳などに補助金を受けていて、1857年から1861年にかけて、5回にわたり計1000フランももらっていたこと、→結局政府にはかなり恩恵を受けていたことが分かります。今の日本では考えられないこと。
出版者のヘッツェルに、『悪の華』と『パリの憂鬱』の5年間の出版独占権を前金600フランで売りながら原稿を渡さずじまいだったこと、
ポーの翻訳に関する著作権はミシェル・レヴィに2000フランで譲渡、さらに死後ボードレールの全著作権が1750フランでミシェル・レヴィが落札したこと、
などが書かれていました。


 浪費癖が生まれた原因は分かりますが、どうして少しでも改善できなかったのかと不憫に思ってしまいます。専門職や定職を嫌い、流浪を気取っていても、結局は政府にすがったり、まわりの人に迷惑をかけたりと、人間としてはあまり尊敬できないところがありますが、それが作品の原動力になっているとしたら、後世のわれわれは良しとしなければなりません。