:永井荷風関連の本二冊

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赤瀬雅子『永井荷風とフランス文化―放浪の風土記』(荒竹出版 1998年)
東秀紀『荷風ル・コルビュジエのパリ』(新潮社 1998年)


 以前、赤瀬雅子『永井荷風とフランス文学』という似たような題名の本を読んで、荷風が愛読していたフランス文学との比較が面白かったので(2015年12月1日記事参照)、その続編かと思って読んでみました。ついでに荷風関連の本をもう一冊。これも荷風そのものを取りあげたというのではなく、荷風の都市論的な側面をピックアップして、コルビュジエベンヤミンの都市に対する考え方と比較しています。永井荷風の作品は「ふらんす物語」「珊瑚集」以外は接したことがありませんでしたが(と思う)、今回、「日和下駄」「すみだ川」「深川の唄」「あめりか物語」「墨東綺譚」「雨瀟瀟」などを読んでみたくなりました。


 『永井荷風とフランス文化』は、永井荷風をいろんな側面から論じています。ヴェニスに憧れるレニエの作品との類似点を見たり、荷風の批評精神の元には朱子学的な素養があると指摘したり、日本の他の作家が船旅をどう描いたかを参照したり、荷風の描いた女性像をロティやゾラの女性と対比させたり、荷風の生き方と『ラ・ボエーム』の放浪芸術家の生活態度、荷風の愛したパリの路地とベンヤミンのパッサージュとを並べて論じたりしています。

 水都を語ったレニエと、水のある風景を愛した荷風の関係を、青柳瑞穂以外に、吉田精一堀口大學須永朝彦が論じていること(p8)、昭和20年代に河出書房の行った日本近代文学中最も優れた作品を問うアンケートで様々な作家が永井荷風の「墨東綺譚」を挙げていたこと(p50)、前田河広一郎が英語で短篇小説を書き(p75)岸田国士が『古い玩具』をはじめフランス語で書いたように(p80)昔の作家は意外と外国語に通じていたこと、荷風がジョージ・デュ・モーリアの『トリルビー』を読んでいて面白いと綴っている(p132)ことを知りました。また「『珊瑚集』を上田敏の『海潮音』と並べて高く評価する見方は圧倒的であるが、そのよさの質は、散文作家の訳詩のよさであるとみたい」(p113)と書いているのは同感です。


 『永井荷風とフランス文化』は、いろんな雑誌に書いた論文を集めたものだったせいか、一貫した興味は感じられたものの若干散漫な印象がぬぐえなかったのですが、『荷風ル・コルビュジエのパリ』は、周到に準備をしたうえで書き下ろしたもので、読み物として面白くできあがっています。基本的にはコルビュジエ伝ですが、荷風の境涯と合わせてみることで、より面白くなっています。よく調べていて、それを分かりやすく整理して叙述しているのには感心しました。

 コルビュジエについてはあまりよく知らず、いくつかの建築の写真だけを見て、単なる近代主義合理主義の信奉者だと敬遠していましたが、それだけではないことがよく分かりました。もともとアーツ・アンド・クラフツ運動の実現を目指していた師にデッサンの教えを受け建築を勧められたこと、研修旅行の帰りにウィーンで見た『ラ・ボエーム』がきっかけでそのままパリに1年と少し居座ったほど浪漫的側面があること、雑誌『レスプリ・ヌーボー(新精神)』の創刊に加わり自らも詩を書くなど、彼の根には詩人としての資質や芸術への憧れがあったことが分かります。

 コルビュジエの合理性志向に影響を与えたものは、いくつか挙げられていますが、私なりに整理しますと、①当時パリで最先端だったピカソやブラックの立体的な絵画、②古代ギリシアの建築や彫像に見られる均整美、③フランス古典主義庭園の形式美、④機能美を説いたル・デュックのゴシック建築論、⑤当時のヨーロッパを席捲していた工業力、などです。コルビュジエは、これまでの建築にあった装飾的な部分を削ぎ落し、機能を優先した造型を考え、さらに効率的な建設が可能になるユニット工法を編み出しました。都市計画においても、オスマンのパリ改造をさらに大胆にして、パリ中心部の高層化や高速道路を含む格子状の道路パターンを設計したりしています。

 コルビュジエの悲劇は、都市計画には、オスマンにとってのナポレオン三世のような権力者の後ろ盾が必要なのに、旧弊な建築家たちの側についていたフランス政府当局から受け入れられなかったことです。それで自らの都市の理想を実現しようとして、はじめは自動車会社などの企業に、その後ソ連に取り入ろうとして共産主義に近づき、そしてサンディカリズム、世界大戦中はヴィシー政権に擦り寄ろうとして、次々に失敗していったことです。

 コルビュジエのすべてを白紙にする未来志向的な考えに、ヴァレリーが「人は過去の経験からしか出発することはできない」と応じたことが書かれていますが(p100)、荷風も東京の近代的な変貌を忌避して江戸の情緒が残る下町を愛し(東京大空襲でそれも灰燼と化します)、ベンヤミンオスマンの都市改造で取り壊される以前の路地裏にパリの本質があると論じたことが書かれていました。コルビュジエ自身も、戦後は、近代的な大規模都市開発が経済性効率性の上では充分であっても、人間の生活すべき場所としては疑問があると感じ、都市計画家としてではなく、建築家さらに言えば芸術家として、残りの人生を生きようとしたと書かれていました(p213)。そうして柔らかな曲線に満ちた浪漫的なロンシャン礼拝堂を残せたことは、幸せだったと言うべきかもしれません。

 この本でもいろんな知見を得たというか、ゴシップ的興味を満たすことができました。夏目漱石がロンドン留学への行き道にパリ万博に立ち寄り、その印象が不愉快なロンドンに比べてあまりにも良かったので、帰りにも立ち寄れないか文部省と交渉していたこと(p24)、コルビュジエがウィーンで当時グスタフ・マーラー音楽監督兼指揮者だった国立歌劇場やコンサートに通っていたこと(p41)、コルビュジエの兄が作曲家であった関係でストラヴィンスキーアンセルメとも親しかったこと(p59)、コルビュジエが南米でまだ若かりしサン=テクジュペリと出会って意気投合し飛行機に乗せてもらっていたこと(p149)、その南米からの帰りの船でジョゼフィン・ベーカーと出会い愛人関係となったこと(p159)など。