:『罵倒文学史―19世紀フランス作家の噂の真相』


アンヌ・ボケル+エティエンヌ・ケルン石橋正孝訳『罵倒文学史―19世紀フランス作家の噂の真相』(東洋書林 2011年)

                                   
 象徴主義も含めた文学史で気楽に読める本をと取り出しました。案の定、作家たちのいろんな逸話が収められていて、読んでいる間とても楽しい気分になりました。罵倒文学史の名のとおり、作家間の対立、批判、誹謗、罵倒を中心にした逸話が収められています。その原因は何かと言えば、恋愛関係のもつれ、相手が過分に評価されていることへの嫉妬、師弟関係の裏切り、アカデミー入会をめぐるかけ引き、政治的闘争、宗教がらみの対立など。
 
 作家たちの好色ぶり、女性作家が女の武器で文壇を荒らしまわる姿、ミュッセ、ヴィニ―などかつてもてはやされた文人の凋落する姿の哀れさ、政治が文学に対してかなり影響力があり文人たちが振り回されていたこと、文人たちのアカデミーに対する思いが強かったことなどに驚きました。

 いくつかの論点が見え隠れしています。ひとつは、ジャーナリズムの役割。ジラルダンの発案で新聞連載小説が誕生して、文学作品の多くが、単行本化される前に新聞や雑誌に連載されるようになり、作家たちの窓口が出版社や編集者であるよりも、新聞や雑誌の編集長であったということ。これにより、作風もずいぶん変わってきたことが察せられます。

 もう一つは、そのジャーナリズムのせいもあり、作家が売れ行きのみを追求するようになってしまい、売れる作品を書く作家が優れているとみなされる風潮が生まれたことです。サント=ブーヴが『産業的文学について』で、文学の商業化を告発し、著作権を糾弾していますが、この頃から職業としての芸術という問題が突出して来たみたいです。

 19世紀においては文学のなかで演劇が重要な役割を占め詩人や小説家たちも争って戯曲に手を染めましたが、それは、作家が名を上げる絶好の場であり、一発当てれば一攫千金も夢ではなかったということのようです。なおかつ、女優たちが、生涯最高の役を射止めるためならどんなことでもする気でいるという誘惑があったのも大きいみたい。

 作家と権威という問題。19世紀、とくにその前半の作家は名士であり、それを最高度に体現していたのがアカデミーで、アカデミーに入会することで、作家が同時代の大物政治家たちと並び立つことができたということです。そこには党派性が存在し、ロマン主義ユゴーが入会するのに苦労したり、ポール・フェヴァルやジュール・ヴェルヌといった大衆的作家が軽蔑され入会を拒否されるということがありました。そうした文学の政治への従属、小説に対する詩の優位を体現するアカデミーに対抗しようとして、ゴンクールがアカデミー・ゴンクールを作ったというわけです。

 ゴーチェが芸術のための芸術を説き、マラルメ純粋詩を唱えたというのも、政治などの不純な要素が絡まり合う作品がはびこっていた当時の状況から考えないと誤解してしまうことになるでしょう。

 今日はフランスにおいても、詩がそれほど読まれず書かれずなっているようですが、19世紀にすでに詩が凋落し始めたことがよく分かりました。詩の優位を体現するアカデミーの存在が希薄になって行ったり、エッツェルやアシェットのような大出版社が経済的理由で詩の刊行を拒否するようになったのが原因です。その当時詩を刊行していたのはアルフォンス・ルメールという高踏派の出版社だけだったので、駆け出しの詩人は高踏派のグループに参加しないわけにはいかなかったとも書かれていました。


 面白いエピソードは、

プルーストとロベール・ド・モンテスキューがレオン・ドラフォスという若い男性ピアニストを取り合いしてモンテスキューが勝利したので、プルーストが仕方なくレイナルド・アーンとくっついたという男同士の絡み合い(p39)。

ジョルジュ・サンドの婿で険悪な仲だった彫刻家のクレザンジェが「あんたのけつを彫刻します。みんな誰のかすぐ分かるでしょう」と言ったように、サンドの乱脈ぶりがすさまじかったこと(p62)。

サンドとショパン恋物語にうっとりした人もこれを読めば幻滅するに違いない。

金に困ったバルザックが雑誌に売り込んで原稿を書く約束をした後、その記事の執筆をわずかな見返りで配下のウルリアック(ボードレールの友人)に任せ、この人物はそれをさらにジェラール・ド・ネルヴァルに下請けに出したという(p129)。

可哀想なネルヴァル。

プルーストマラルメの論争。プルーストが雑誌に、象徴派の世代の思考、イメージ、文法の晦渋さを批判した『晦渋に反対する』を掲載、すぐさまマラルメは同じ雑誌に『文芸における神秘』を書き、テクストの表層と深層を区別し、プルーストが依拠した合理的思考法を攻撃した(p310)。

ポール・ヴェルレーヌの乱暴ぶり。もっとも忠実な崇拝者さえおそれをなし仕込杖をいつ振り回すか常にひやひやしていた。あるカフェで、アナトール・フランスが『優しい歌』の朗読を最後まで聞かないふりをした時、ヴェルレーヌは、フランスの胸元にナイフを押しつけて脅した。幸いなことに、フランスは手遅れになる前に身を振りほどくことができたものの、シャツは破けて血が滲んでいた(p326)。

ランボーテオドール・ド・バンヴィル、シャルル・クロらと意気投合した場所が、先日パリで泊まったホテルのすぐ近くだということが分かって嬉しく懐かしくなりました。ラシーヌ通りとレコール=ド=メドシヌ通りの角、サン=ミシェル大通りに面したエトランジェ・ホテルの四階というのがその場所(p327)。

今はもうありませんでした。