西郷信綱『古代人と死』


西郷信綱『古代人と死―大地・葬り・魂・王権』(平凡社 1999年)


 「地下世界訪問譚」、「黄泉の国とは何か」という章があり、あの世が論じられているようなので、読んでみました。西郷信綱は以前、『古代人と夢』を読んで(2022年12月25日記事参照)、探求心の幅広さや論述の巧みさに感心した記憶があります。この本でも、過去の主要な資料や論説に目配りしたうえで、思考の道筋が分かるような記述の進め方や、大胆な推量をしているところに魅力を感じました。

 ただ、私の場合、古典の素養もなく、考えも至らないので、それがどの程度正鵠を得ているかの判断はつきかねます。ただ読んでいて、説得的な印象はもちました。宣長とか真淵など教科書に出てくるような歴史的な大御所、柳田国男折口信夫といった大家と、同じ問題をめぐって、臆することなく意見を述べているのは、権威に拘泥することのないスケールの大きさを感じさせます。

 この本は、ノミノスクネ、地下世界、大祓の詞、三輪山神話、諏訪社、姥捨山、黄泉の国、天武の葬礼という古代世界に関する8つのテーマを取り上げています。そのうち地下世界と黄泉の国はほぼ同じテーマですが、他の項目についても互いに関連しあっています。

 もとは国文学者だけあって、言葉の成り立ちや発音のあり方にもとづいて、論を展開しているところに、一つの特徴があるように思います。例えば、スサノヲは荒れスサブことと縁のある名、ノミノスクネは野見で野のなかに墳丘を造るべき立地を見定める意(ではないか)、黄泉(ヨミ)は闇(ヤミ)にもとづく語、ネズミは地下に棲むものということから根棲(ネズミ)、ヨミガエルは黄泉から帰る意、壱岐は行き来するイキにもとづく名、対馬は舟泊りの津である島の意、大和政権の両端である東(アヅマ)とサツマのツマは端の意味、ヒタチは日立で日が東から立ちのぼる意、ヤシロ(社)は神の来臨にさいし仮屋を設ける所の意で漢字を当てれば屋代、シロは苗代のシロと同じ、葬るという意味の古代日本語ハブルは投げ捨てるの「放(ハブ)る」殺してばらばらにする「屠(ハブ)る」と互いに通底しあう同根の語、ほかにもいろいろありましたが、書ききれないので略します。


 いくつかの印象深かった説を記録しておきます。
①ノミノスクネについて:ノミノスクネが大力の持主であることは、古墳のもつ巨大な造形力とかかわりがあるのではないか。人の代わりに埴輪を埋めることを提案したというのも、ノミノスクネが宮廷の葬礼を掌る土師氏の祖であったからである。菅原道真はノミノスクネの裔であった。またクヱハヤとの勝負が相撲の始まりとされているが、力士像は弥生期からあり、もっと遡るものである。

②地下世界と黄泉について:地下に死者の世界があるとする神話的思考が生じるのは、死体が地に埋められていたからである。一方、古代人は、水平線には縁があり、そこが水の渦まく急な坂になっており、その下の方に海神の国という他界があると考えていた。

③火葬について:火葬が広まるにつれ、この世とあの世の素朴な連続性が断ちきられ、魂と身体の二元論が生じ、死者の魂をあの世でいかに救済するのかということが次第に主題化されてくる。さらに一人一人の娑婆での行ないが来世で審判されるとする仏教が普及して、死というものが個人化されていった。また火葬により、腐り果てるまで死体とつきあうという経験が蒸発してしまって、死は一瞬のできごととなり、死ぬということが長期にわたる過程であることが忘れられてしまった。

姨捨山伝説について:すでにインドの雑宝蔵経に、老人を駆り集めて棄てる棄老国の話があるほど、全世界に似たような話がある。例えば、平安京でも、鴨河原などで5500の髑髏を焼いたという記述があるなど、病者が放り出されたり、棄てられた死体がごろごろしているといった日常が眼の前にある状況を考えれば、姥捨山伝説が生まれてきてもとくに不思議はない。

⑤殯宮の政治的意味について:大嘗祭は、ホノニニギが高天の原からこの水穂国に最初のスメミマとして降臨したという神話の儀礼的な再演であり、民間でおこなわれる一種の成人式である霜月の季節祭りがその原型であった。しかし、殯を営むことが一部の王族の特権と化していき、天武の殯宮の際には、王権の偉大さを見せびらかす政治的な劇場となった。

大国主について:出雲の大国主は、多くの地方の国主たちにより行なわれてきた天孫への国ゆずりを一人物に一回化して語ったもので、大国主とは、各地の国主たちを収斂した人物なのである。

⑦狩猟の神としての諏訪社について:壬申の乱信濃兵の騎馬隊が活躍したが、信州は、宮廷の牧を多く擁し、梓弓の産地でもあり、また諏訪社は狩猟の神であった。狩猟と戦さとは組織の上でも技術の上でもひと続きのものなのである。

⑧ヤマトヒメとヤマトタケルについて:斎宮の始まりは倭姫とされるが、それと、隼人や出雲健を従わせエミシを討とうとしたヤマトタケルとは、ワンセットをなす名前である。つまり斎宮という宗教的力と、国土平定の武力とが、互いに不可分であったことを象徴している。

 そのほか、1)殿舎に神が常住するという考えは、仏像の鎮座する寺院形式によって新たに触発されたものとか、2)喪屋でアソブという記述があるが、アソブとは歌舞音楽を演ずることで、死者の霊を慰めると同時に、その騒々しい音や声によって邪霊を近づけぬようにするものであったとか、3)仏教によって西方の極楽浄土が説かれる以前の世では、西方はむしろ鬼類の棲みかだった、などいろいろありましたが、たくさんすぎるので端折ります。

小松和彦『異人論―民俗社会の心性』


小松和彦『異人論―民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫 1995年)


 あの世や他界の話から少しずれますが、『異界と日本人』を読んだ流れで、同じ著者の作品を読んでみました。昨年12月の古本市で購入したもの。まず、中沢新一による「解説」に眼を通して、大学院生だった小松と学生だった中沢の二人が、民俗学を志し、当時流行だった構造人類学を援用しながら、一緒に研鑽する姿が活写されていて、ほぼ同世代で、何をしてよいやらウロウロしていた私としては、羨ましさを覚えました。

 小松和彦は、自分の問題意識を明らかにし、探求の手順を分かりやすく見せながら、丁寧に書き進んでいく書き方をしており、好感がもてました。最初は、純然たるフィールドワークの世界の話で、ややとっつきにくいと思っていたら、同じテーマをもった昔話の方に話が移ってから俄然面白くなってきました。私の場合、やはり物語に興味があるようです。

 もっとも面白かったのは、民俗社会に神秘的なできごとが発生し、ある特定の家系が富んだり没落したりする現象を、その神秘的なできごとが社会の外部からくるか内部からかの二つ、特定の家系を社会の人びとが忌避するかしないかの二つを軸に、4つの象限に分けて考え、それを伝説や昔話のパターンで説明しているところです。

 昔話の内容まではここで紹介できないので、この本を読んでもらうしかありませんが、内部で発生し忌避しないタイプとして「座敷ワラシ」、内部で発生し忌避されるタイプとして「動物憑き」、外部からやってきて忌避されないタイプとして「竜宮童子」型昔話、外部からやってきて忌避されるタイプとして「こんな晩」型昔話や信貴山縁起の「山崎長者伝説」をあげ、「大歳の客」は外部からやってきて忌避されない場合と忌避される場合が描かれている昔話として整理されていました。

 古代の民俗社会を考える場合、現在われわれがもっているような価値観とはまったく違う世界だと思わないといけなくて、異人という存在は、われわれが考える旅人といったものではなく、閉鎖社会にめったに訪れることのない貴重な存在だったわけです。異人殺しについても、昔は人権概念が薄く、簡単に人を殺してしまうようなところがあったのは、「通りがかりの者を人柱にするという話が全国に残っている」(p21)ということからも推測できます。著者は、「異人殺しは公然と語りうる事柄ではない」(p23)と書いていましたが、密閉された社会のなかでは手柄のように得意げに語るといったこともあったのではないでしょうか。

 「主題」について考察している「猿聟への殺意」の章では、著者の考え方のいくつかに若干の疑問をもちました。まず、テキストと主題の関係について、
①著者は、「一つのテキストには一つの『主題』しかない」(p136)と書いているが、テキストはあらゆる顔をもっているものと思う。

②「『主題』とはテキストを生み出す志向=意図であって、現象としての『テキスト』に外在し、先行している」(p138)とも書いているが、テキストから離れて主題は存在しない。

③「昔話テキストを貫く『主題』は、昔話を伝承している民俗社会の人びとの“現実”“人生”に深く関係している」(p139)というのは正しい指摘だが、一方、昔話の物語としての面白さは、一人の天才的話者の創作的行為に負った部分もあるはずである。

 また、これも話の詳細は省きますが、「猿婿入」の昔話を素材にして分析を加えている部分でも若干の違和感がありました。まとめると次のようになるかと思いますが、構造主義的な分析が勝ちすぎているようにみえます。
著者は、この物語を、まず人間の社会と異類の社会の交渉という大きな枠組みで捉え、登場する人間のなかに、爺・末娘の結束に対立する長女・次女という構造を見、また爺が猿に畑仕事をしてもらう代わりに末娘を婿入りさせるという等価交換の図式を見、それが末娘の裏切りで人間社会の勝利へと導くといった流れを確認したうえで、この物語の根底には、異類に対する人間の悪意があり、人間が知恵で優っているということでそれを肯定しようとする意図があるとしている。

④普通に考えれば、この物語のポイントは、末娘の狡知にあり、石臼や米の重さのせいで折れる枝というトリックに話の妙味がある。娘を恋する猿に、餅を搗きたいからと石臼や米を担がせ、さらに谷川の傍に咲く桜の花をとってとせがんで、猿が木に登ると枝が折れ川に流されて溺れ死ぬという顛末であるが、われわれから見ると、猿の純情さに憐憫を感じ、それと対比して娘の非情さに憤りを感じてしまう。

⑤著者は、長女と次女を親の頼みを拒絶する冷たい娘として捉えているが、末娘の狡知に比べて、上の二人の娘は素直な女性であり、末娘の方が冷酷非情なわけである。

⑥著者は、「爺はこのとき、自分の娘を犠牲にしてでも辛い仕事から解放されたい、という邪悪な気持ちに取り憑かれ」(p151)と書いているが、爺は、猿が人語を解すとは思っておらず、素直な気持ちを呟いたまでである。


 その他、印象に残った部分は、
①伝説と昔話の違いについて:伝説は、表層の現実に足を下ろしているのに対し、昔話は、表層の現実から切り離された普遍的事柄を語っているので、民俗社会の深層に潜む心性がいっそう明瞭な形で刻み込まれている。昔話の方が単純であり、メッセージの純化が図られている、としているところ。

②「こんな晩」型昔話の面白さ:宿を貸した六部を金に眼がくらんで殺した百姓に唖の子が生まれたが、ある夜、「おどっつぁん、ちょうど今夜のような晩だったね」(p71)と初めて口をきき、その子の顔が殺した六部の顔とそっくりになっていたという場面の衝撃力。

③山姥と河童について:山姥という存在は、奥山と村とが同質の空間ではないことを告知すると同時に、この二つの領域が相互に深く関連していることを示す存在であり、山の民との実際の交流から生まれたイメージ。同様に、河童のイメージは、周囲の人びとから「非人」「河原者」として賤視されてきた実際の川の民からきている、としているところ。

④蓑笠の意味について:葬送儀礼や婚姻儀礼で、死者や花嫁に蓑笠を用意する風習が各地で報告されているが、葬送儀礼の場合は、死者があの世へ旅していくための旅装束であり、婚姻儀礼では、花嫁が実家から婚家の成員になるという境界を通過するしるしとして用いられている。誕生の際の赤子を包む胞衣=エナも蓑と笠に相当する旅装束と考えられていた、という。また百姓一揆の際、蓑笠姿をすることが多かったが、蓑笠をつけることで農民身分もしくはその社会生活からの離脱を示そうとしたのでは、とも考えられるとしているところ。

12月は古本市2か所へ行く

 12月は、たにまち月いち古書即売会と、阪神百貨店の古書ノ市の二つの古本市に出かけました。
阪神古書ノ市では、忘年会を兼ねて古本仲間が結集。いつも買っている寸心堂で、二冊。
レオン・ブロワ田辺貞之助訳『ヴィリエ・ド・リラダンの復活』(森開社、76年5月、500円)
→ただし裸本
Bernard Noël『LE CHÂTEAU DE CÈNE』(L’ARPENTEUR、90年12月、500円)
→CÈNEという単語の意味が分からなかったので、裏表紙の謳い文句で買ったが、何のことはない『聖餐城』の原書ということが分かりがっかり。

 オヨヨ書林の出品で二冊。
シャルル・ヴァグネル大塚幸男訳『簡素な生活―一つの幸福論』(講談社学術文庫、01年5月、500円)
→そろそろ簡素な生活をしたいと。
『続・寺山修司詩集』(思潮社、92年10月、500円)

 あとは、古書さいとうで、
長山靖生『日本SF精神史―幕末・明治から戦後まで』(河出ブックス、09年12月、700円)
 ダンデライオンで、
「季刊 文学 増刊 酒と日本文化」(岩波書店、97年11月、500円)
  
 12月半ば、阪神沿線飲み歩きの会の途上、たにまち月いち古書即売会を覗いて、下記3冊。
蜷川譲『優しいパリ―巴里の日本人』(創樹社、90年4月、800円)
→ブックソニックの出品、下記二冊は不明。
湯本豪一『日本幻獣図説』(講談社学術文庫、23年3月、400円)
小松和彦『異人論―民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫、95年6月、500円)
    
 本日、新しく買った骨伝導イヤホンをつけて散歩の途上、立ち寄ったBOOK-OFFで、
沼野充義編『ロシア怪談集』(河出文庫、90年5月、220円)
→このシリーズでロシア篇だけが欠けていた。

 そのほか、日本の古本屋で、下記二冊。
幻想文学43 特集:死後の文学」(アトリエOCTA、94年2月、700円)
幻想文学53 特集:音楽+幻想+文学」(アトリエOCTA、98年9月、500円)
   
 来年は後期高齢者に突入するので、さすがに控えようと思っているところです。
皆さん、よいお年を。

久野昭編『日本人の他界観』


久野昭編『日本人の他界観』(国際日本文化研究センター 1994年)


 国際日本文化研究センターでの連続研究会の成果をまとめた本。1988年11月を皮切りに、1993年9月まで、50回にわたる長大な研究会で、おそらく国際日本文化研究センターの当時の所長であった梅原猛の肝いりで始まったもの思われますが、梅原猛の影は一つも見当たりませんでした。というより、編者の久野昭による「序」では、「層を表面から削っていって最後に到達した層のみを日本人の伝統的な思想の層とみるたぐいの発想は、日本の文化的な、とりわけ思想的な伝統に対する認識不足も甚だしい」(p3)と、暗に梅原を批判しているような口ぶりも感じられました。

 9名の報告者による論文が寄せられていて、テーマも、仏教、道元、日本のキリスト教、絵画、西洋哲学、日本思想、フィールドワークと多様ですが、我田引水の我田の部分が多くて、肝心の他界の考察が薄くなっている論考が多い。とくに「道元における生死と業の問題」、「繪畫に映った日本人の他界観」、「日本における他界観に関わる考え方をめぐって」の3篇。バランスが取れていると思われたのは、最後の2篇「他界地理学事始」と「他界のちかさ」でしょうか。

 哲学系の執筆者が多く、難解な部分もたくさんあって、誤解があるかもしれませんが、他界に関して、各論者を通じて、いくつか共通の考え方が現われているように思えました。
①ひとつは、他界をなぜ必要としたかということについて:「他界を考える」の氣多雅子は、他界を生み出すもとは死の不安で、死後も何らかの仕方で存続し得るのかという不死性の追求から「霊魂」なるものを想定したわけで、他界とは死後の霊魂の在り場所ということになると言い、また「日本における他界観に関わる考え方をめぐって」の野崎守英も、存在の気配をまったく失うことになるのは腑に落ちないと人びとが思って、魂という領分を想定したとしている。

②つまり、他界が生まれる土壌として:そうした切実な不安があるわけで、「キリスト教他界観とその日本における意義」の青山玄が言うように、深刻な不安と苦しみの中で生活していない者には、他界に対する信仰や夢が現実味を帯びて理解できないものであると言い、また野崎守英も、幻想というものは近くより遠くに向かう特質があり、江戸期以降は目の前の現世に関心が移ったので、他界は実在しないという通念が広がり始めたと書いている。→前回読んだ小松和彦『異界と日本人』の中でも江戸時代になって異界が薄れてきたと、同様の指摘があった。

③そうした不安や苦しみが生まれる背景として:氣多雅子は、子の誕生や、死にゆく者の看取り、埋葬などの体験を通じて、生々しい手触りが個人の中に蓄積されていくことを挙げ、他界の表象はそうした身体的な蓄積を反映したものと考察、また野崎守英は、古人は近親や知己の死に直面することしかなかったので、死に対する荘厳な気持ちが強かったが、現代のわれわれは、情報の普及のせいで、まったく関係のない他者の死に触れることが多くなり、それが希薄になったと指摘していた。

④他界の哲学的考察としては:氣多雅子が、いくつかの論点を提示していた。
ア)「世界」という観念は、存在者から切り離してそれ自体で存在するものとしては問題にされ得ないこと、
イ)世界の絶対的限界というものは経験的に不可能であり、「他界」という観念は成立し得ないこと、
ウ)「不死」は超時間性をもつ言葉だが、「死後」という規定は明白に時間的な表現であり、「死後の世界」という表現は、感性界の領分にあること、
エ)身体と対立する形で霊魂という概念を設定するには、霊魂がある種の客観的実在性をもつことが必要になるが、それには疑念があること。
 また「繪畫に映った日本人の他界観」の新田博衞は、目に映るのは物体のこちら側だけで向こう側は見えないが、物を見る場合、つねにその向こう側も含んで成立しており、向こう側を見る目を「心眼」と名づけるとすると、触覚の延長線上にある「肉眼」と異なり、心眼はきわめて言葉に近い、他界は、向こう側として心眼に映るものであり絵画として描き出され得ると述べている。

⑥他界というイメージのあり方については:やはり氣多雅子が、他界のイメージは、われわれの知覚する空間を延長したものになり、比喩的、暗喩的、象徴的な仕方で構想されるが、最終的には、霊魂は如何なる場所性ももたないという主張と対決することになると書き、野崎守英も、心の領分で支配的なのはイメージで、そうしたイメージの領分は意外に深く人の心性を動かしているとし、この領分を、事実の事実性という観点に立って虚偽と定義してしまうと、人間のあり方自体を否定することになってしまうと指摘、「他界のちかさ」の古東哲明も、他界観とは、その成り立ちのはじめから、根本幻想であり、死や死後というゼロでしかない位相を、表象化・イメージ化・概念化することを当然の前提として成り立つものとしている。
 上記に関連して、他界の具体像に関しては、野崎守英も古東哲明も、他界の内実が極めて具体性に乏しく貧弱であることを指摘している。


 その他、個別の議論として印象に残ったのは、
①当初、ユダヤ教において他界観は単に此岸の連続として意識されていたが、人間の正義感や正義に対する願望が高まるにつれ、生前の行ないによって死後罰せられるという信仰が現われるようになった。しかし、この善い行いをするように励ましてくれるはずの他界観が、罰を与えるという点で恐れられる存在になってしまい、その不安に耐えられない親鸞やルターが現われて、自力から他力、願力、万物救済の来世観へと変化していったのである(カール・ベッカー「仏教における他界観」)。

②日本にキリスト教が導入されたときのキリシタンの反応が興味深い。フランシスコ・ザビエルが語った地球が円いこと、太陽をめぐる惑星の軌道、月の満ち欠け、日蝕などの天体現象の話に、驚くほど強い好奇心を示したこと。またザビエルが「地獄に落ちた人には救いがない」と言うと、みんな泣きながら、「神はなぜ地獄にいる人を救うことができないのか」「なぜ地獄にいつまでもいなければならないのか」などと質問したという(青山玄「キリスト教他界観とその日本における意義」)。

③縄文後期の集落の構造は、中心に死者の領域があり、その死者の領域を取り囲むかたちで生者の領域が広がっていたが、弥生時代になると、方形周溝墓が集落の外側に造営され、生者の生活空間とは切り離されるようになった。しかし死者の占める空間のほうが、生者の占める空間よりもずっと広かった(正木晃「他界地理学事始―日本古代の霊的航海者のための里程案内」)。

④本来の仏教は輪廻転生を主張し、霊魂のような永続的な実体を認めていない。インド伝来の仏教をそのまま残すチベットの浄土思想では、浄土はあくまで一時的に住するところと位置づけられている。一方、日本では、古来、霊魂が死後も存続するという観念があり、源信は、浄土思想を日本に導入するに際して、極楽浄土を輪廻転生を解脱した末の究極の場所として設定した(正木晃「他界地理学事始―日本古代の霊的航海者のための里程案内」)。

小松和彦『異界と日本人』


小松和彦『異界と日本人―絵物語の想像力』(角川選書 2003年)


 このところ、あの世や死生観についての本を読んでいますが、今回は、少し脱線して異界の話。しかも絵巻物などに描かれている異界に限定しての話。著者によると、「異界」という言葉が流通しだしたのは最近のことで、それまでは「他界」という言葉で語られていたというからには、脱線でもないのかも知れません。ちなみに、異界については、2022年6月ごろからしばらく続けて数冊読んでいますので、参照してみてください。

 著者はまず「序章」において、異界が、境界から生まれるものとして、境界線の引き方に注目します。最も狭い範囲では、自分の家族・親族とそれ以外の人びととの間に、さらにそれが自分の属する村、町、県、国と広がり、次に、生者と死者の間や、人間が制御している動植物と制御していない動植物の間、さらには人間と神・妖怪との間、あるいは、自己の内部でも、通常意識していない無意識の部分や、苦行や薬物によってもたらされた変性意識に異界があると、いろんな線の引き方があることを示します。そして、鬼や妖怪が棲む異界への入り口として、山や門、橋、水辺、夜の闇などを挙げています。

 本論では、いくつかの絵巻をもとに、物語を紹介しながら、異界のあり方について議論しています。学者の紀長谷雄と鬼が双六勝負する『長谷雄草紙絵巻』、大江山酒呑童子を退治する『大江山絵詞』、玉藻前に変じた妖狐がとり憑く『玉藻前草紙絵巻』、百足退治で有名な『俵藤太絵巻』、ご存じ浦嶋太郎の『浦嶋明神縁起絵巻』、七夕物語の『天稚彦草子絵巻』、義経が「虎の巻」を盗み出す『御曹子島渡』、高僧が中国の天狗を打ちすえる『是害房絵詞』、老僧が狐に化かされ愛欲に溺れる『狐草紙絵巻』、古道具妖怪の百鬼夜行を描いた『付喪神絵巻』、若妻に死霊が憑いて事件を告発する『死霊解脱物語聞書』の11章。

 興味深い話としては、
①日本の昔にも人造人間の話があったこと:『長谷雄草紙絵巻』で、負けた鬼が連れて来た美女が実は人(鬼)造人間だったというところから、西行が人造人間を作ろうとして失敗したという話(『撰集(せんじゅう)抄』の「西行、高野の奥で、人を作ること」)の話や、その技術が「反魂の秘術」として貴族たちの間で伝えられていたこと、さらに、陰陽道では骨になった人間を再生させる秘術へと変化したこと、が書かれていた。

陰陽師が想定する悪霊の代表の一つが鬼であり、仏教(密教)系の山岳宗教者に敵対する悪霊の代表格が天狗、ということ。

③龍宮の絵画的表現のモデル:龍宮的物語は、山幸彦が行った海中の「海神宮」に始まり、浦嶋子の蓬莱の島、浦嶋太郎の龍宮、俵藤太が招待された龍宮、大江山酒呑童子の鬼が城があるが、その龍宮的異界観の絵画的表現は、当時の日本人にとってもっとも具体的な異郷であった中国や朝鮮の宮殿がモデルになっているという。

④龍宮の時間:龍宮で3年過ごし人間界に戻ったら700年経っていたということは、人間界からみた場合、龍宮では時間が停止しているように見えるほどゆっくり進むということである。逆に、『今昔物語』の狐の「浄土」の話では、狐の世界の一年が人間世界の一日と、時間が速く流れている。


 いくつかの主張がありました。
①日吉山王社と延暦寺の関係に見られるように、土地を守る古来の神が、新興勢力である仏教に征服され支配下に入って、守護・鎮守神として祀られるというパターンがあり、酒呑童子の物語も、土地の神であった酒呑童子が京からやってきた振興の政治・宗教勢力に征服され追放される物語として読める。

酒呑童子伝説では武士が妖怪を退治し、玉藻前物語では陰陽師が妖狐を退散させるが、ともに王権を守る話であって、王権を守るには武力と呪力の双方が必要ということを物語っている。逆に言うと、王権は自らを維持するために、絶えず「異界」を周辺部に作り出し、そこに現われる妖怪を退治することによって、正当性を確保していた、ということである。

酒呑童子伝説では、人間界に出没する鬼の存在が災厄として描かれ、『御曹子島渡』では、「虎の巻」を所有するかねひら大王にとってそれを盗もうとする義経が災厄であった。片方にとって好ましい異界が、他方にとっては好ましくない異界というケースである。一方、山幸彦や浦嶋太郎の異界訪問の場合は、異界と人間界は友好関係の上にたっての訪問であり婚姻であった。その場合、異類は人間の姿をとって現われる。

④友好関係をもち婚姻で幸せな生活を送っていたのに、すべて破局が訪れるのは何故なのか。それは、破局が訪れることで、異界が人間界に組み込まれることなく異界であり続けられるからである。

⑤古道具の妖怪が「つくも神」として現われるようになって以来、妖怪のスケールは縮小してしまった。住処は内裏のすぐ裏手になり、妖怪化した理由も感謝されずに捨てられた怨みからであり、帝の世を打倒しようという大それた野望もない。当時の人々の関心が「自然」から「身近な道具」へと移行したこともあって、妖怪は多様な姿で人びとを楽しませ、標本として飾られる時代になったのである。

⑥江戸以降、社会も現世中心主義となり、異界という陰影のある世界が薄らいできた。妖怪は、「百物語怪談会」のなかで細々と息づいていたが、そこでは異界が語られることは少なく、主流は幽霊譚で、それも女の執心が幽霊になる話が多くなっている。

⑦明治以降、科学文明の発達に伴い、妖怪文化は撲滅され続けてきたが、最近、異界や妖怪への関心が急速に高まってきている。異界物語は人間の果てしない欲望を制御する道徳としての役割を担っていたが、その異界の解体・消滅により欲望の解放が行きつくところまできた現代において、失ったものの大きさに気づいたということではないだろうか。

Remy de Gourmont『Histoires magiques et autres récits』(レミ・ド・グールモン『魔術物語、その他の物語』)


Remy de Gourmont『Histoires magiques et autres récits』(Union Générale d’Éditions 1982年)


 新書サイズですが、読んでいる途中でページがバラバラになってしまうほど分厚い本。グールモンは、「フランス世紀末叢書」の『仮面の書』(2010年11月13日記事参照)を読んだとき、読みづらい文章だったという記憶があり、また『Une Nuit au Luxembourg(リュクサンブール公園の一夜)』(2018年3月20日記事参照)でも、神学問答風の文章に辟易したのを覚えていたので、あまり気乗りしない読書でしたが、案の定、的中してしまいました。

 「Histoires magiques」(18篇)、「PROSES MOROSES(陰鬱な散文)」(28篇)、「LE Fantôme(幽霊)」(12篇)という3つの短篇集、それに「L’AUTOMATE, conte philosophique(自動人形、哲学的小話)」、「LE PÈLERIN DU SILENCE(沈黙の巡礼)」、「LE CHÂTEAU SINGULIER(奇妙な城)」という独立した短篇、さらに「THÉÂTRE MUET(無声演劇)」(2篇)の演劇的散文と、「LE LIVRE DES LITANIES(連祷の書)」(3篇)という散文詩からなっています。各篇が、『仮面の書』同様、いろんな文人へ捧げられていて、当時の文人総覧といった感じ。

 なかでは、「Histoires magiques」や「PROSES MOROSES」の諸篇、独立した短篇群が、具体的な物語で読みやすく、比較的面白く読めました。しかし「魔術物語」という本のタイトルの雰囲気からは遠く、主として、19世紀末から20世紀初頭の社会を反映した男女間の恋愛が中心で、不倫があったり、男の妄想、女の妄想があったり、女性遍歴が語られたり。

 幽霊が出たり、神や牧神を幻視したり、不思議な伝承があったりと、怪奇的要素のある作品もあることにはありましたが、あと一つ、何か魅力に欠けていました。おそらく知性が勝ち過ぎたグールモンの資質なのでしょう。心底から神秘に溺れるということがなく、幻想味のある物語や詩を書くには向いていない人だと思います。

 「Histoires magiques」は少し長めの短篇、「PROSES MOROSES」は掌編とも言える程短く、「LIVREⅠ―QUELQUES-UNS(何人かの男たち)」、「LIVREⅡ―QUELQUES-UNES(何人かの女たち)」、「LIVREⅢ―QUELQUES AUTRES(そのほか何人か)」の3部に分かれ、「LIVREⅠ―QUELQUES-UNS」では、プリマリーやパリエタル氏という共通の人物が登場する連作的な部分もありましたが、内容はいまいち。「LIVREⅢ―QUELQUES AUTRES」の「Chambre de presbytère(司祭館の部屋)」以降の数篇は、建物や部屋を想像力豊かに描写したり、古代を回想する文章になっていて、比較的佳篇が揃っていました。

 最悪だったのは、「LE Fantôme」の諸篇で、ダマススとヒアシンスという男女二人が登場し、会話を繰り広げる連作短篇で、本質と形式をめぐっての哲学問答があったり、キリスト教の教義に関する神学問答があったり、抽象的で分かりにくく、この本でもっとも苦痛な読書となりました。が「Les Figures(聖像)」の次のアレオパギタの一節は貴重。「神は魂でなく数でなく秩序でなく大きさもなく平等でなく類似でもなく相違もない、神は生きておらず生命でなく本質でも永遠でも時間でもない、神は知識もなく賢くもなく統一も神性もなく善でもない、誰も神の何ものかを知らず、また神が何も知らないことを知らない、神は言葉でもなく、思考でもなく、名づけられもせず、理解もされない」。

 「PROSES MOROSES」や「LE Fantôme」のなかでも、散文詩的な作品がありましたが、「LE LIVRE DES LITANIES」は完全な散文詩で、薔薇、花、樹の名前を百科事典のように網羅しながら、それを人間の姿や態度に擬えて描写し評価しています。


 特別感じいった作品はありませんでしたが、何とか佳篇と思われるものをいくつかあげておきます。「Histoires magiques」では、次の5篇。
Les Fugitives(逃げていく女)
一人の女性の中にすべての女性を見、街中の見知らぬ女を追い求める男の欲望の果てしなさを描いたボードレール散文詩

Sur le seuil(戸口で)
「絞首台の館」と呼ばれる館には「牧師さん」と呼ばれる尊大な鷺が住み着いていた。領主の老侯爵がその鷺に「後悔」という別名がついている理由として、昔の思い出を語る。物心がついたとき、薔薇の花を摘めばすぐ萎れることを知り、そこから欲望はそれ自体を楽しみ決して実行してはならぬという哲学を身につけた。幼い頃から一緒に育てられた従姉妹を愛し欲望を感じたが、つねに戸口にとどまった。彼女が死ぬ際に、愛を告白されて、ようやく自分が愚かだったことを知ったと。

La Marguerite rouge(赤いマーガレット)
侯爵の未亡人の身体は誰も見たことがなかった。家系に伝わる伝説では、祖先が魔女狩りにあい、マーガレットの刻印を胸につけられ、その刻印が代々母から娘に受け継がれていて、愛した男はすぐ死ぬという。親戚の若い男が、その伝承を語ったあと、二人は恋に落ちた。侯爵夫人の胸には、実際に刻印があり、男は死んだ。未亡人は、その後激しい修道生活に入り、教会を呪いながら自殺同然に死んで行く。

La Magnolia(木蓮
瀕死の婚約者のベッドの横で、司祭によって結婚式か通夜式か分からない式を挙げ、新郎は、木蓮の花を口に当て木蓮の下で待ってると言い残して死んだ。新婦はそれから毎晩、木蓮を見張り、ある夜、男の姿があったので駆け寄ったが、蛇のような腕で抱きしめられ殺された。みんなが倒れていた新婦をベッドに運び込むと、その手には萎れた木蓮の花があったという。

Danaette(ダネット)
一種の散文詩。夫人は、密会の約束があるというのに、雪が降り続けるのを呪っていた。「雪は空で天使が戦った結果落ちてくる羽根の破片」という女中の言葉が呪文のようになり、夫人は、雪の幻想の中で、雪に愛撫され、永遠の雪の世界へ旅立っていく。

 「PROSES MOROSES」では、「LIVREⅢ-QUELQUES AUTRES」の後半の2篇。
L’Entrée des hommes d’armes(武人の入城)
中世の古城が今は旅籠になっている館。中庭で昼食をとりながら、中世の騎士の入場を思い浮かべる。

Nouvelles des Iles Infortunées(不幸な島からの知らせ)
無人島で連れ帰ってくれる船を待つ男。野生の四つ足の女の群れを発見し、一匹を連れて帰るが、その眼に魅惑されてしまう。やがて立ち上がって人間の姿になった女に支配され、反対に自分が獣のように四つん這いになって草を食むことになる。船は迎えに来ない。


 Hubert Juin(ユベール・ジュアン)の「PRÉFACE(序文)」では、
グールモンが国立図書館に勤めていたときに、子ども向けの要約本を書いていたのが賞を受けて、そこから作家への道を歩み始めたこと、
ベルト・クリエールという金持ちの夫人と出会ったことで、いろんな作家や画家と知り合い、文壇への登竜門が開かれたこと、
愛国心遊び」というエッセイが当時の対独強硬派の逆鱗に触れ、国立図書館を解雇され、またその後雑誌への寄稿を拒否されるようになったこと、
そのころ、グールモンに顔の皮膚が爛れるという悲劇が襲い、隠遁するようになったこと、晩年は科学への関心が高まったことなど、
新しく知ることができました。

吉野裕子『日本人の死生観』


吉野裕子『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』(講談社現代新書 1982年)


 今回も古代日本人とあの世観の話。吉野裕子の本は、古本でもよく見かけますが、読んだことがありませんでした。論旨がはっきりしていて、途中で退屈することもなく、興味深く読めました。素人目には少し極端な説のような気もしますが、内容の真偽については、私には判断する能力もなく、また学会や研究者間でどれほど認められた学説かは知りません。

 この本の主張するところは、結論から言うと、古代日本人が、他界の主として信仰していたのは、祖先神である蛇であり、誕生とは蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身であると考えていたということです。その変身のために行なわれた呪術的行為が、誕生の際の産育習俗、死の際の葬送習俗であるとしています。

 まず、祖先神としてなぜ蛇が信仰されたか、これは、インドのナーガ(コブラの神霊化)、メキシコのケツアルコアトル、中国の伏儀(ふくき)と女媧という夫婦の人面蛇神など、世界的にも共通する現象であり、その理由としていくつか挙げています。
脚なしの蛇が地面を滑るように進むその不思議な能力、
生命の根元としての男根に似た形、
自分より大きな敵を一撃で倒す猛毒、
目、鼻にいたるまで脱皮し生命を更新する姿、
蛇の目が太陽のような光の源泉とみなされたこと。

 誕生が蛇から人への変身ということに関しては、古代日本人は、一人の赤子が誕生すると、必ず一つの産屋を設けたようで、日本各地に残る習俗でも、生まれたての赤坊は、母親の古浴衣、腰巻など古布で、3日から7日ぐらい包み、その後「三日衣裳」と呼ばれる新しい産着を着せられると、著者が沖縄で見聞したことや、柳田国男の記録が引用されていました。そしてこれは新生児が蛇であり、脱皮して人になるという呪術的儀式である、としています。これに関連して、記紀神話で、豊玉姫がお産をしたとき、産屋が完成する前に生まれた皇子「ウガヤフキアエズノ命」の名前の解釈を、従来は、鵜の羽根の産屋が葺きあえずの意味としているが、蛇のことは古来「宇賀神」と呼ばれていたので、宇賀屋葺きあえずが正解ではないかと問うています。

 死が人から蛇への変身ということに関しては、誕生の際と同様、人が亡くなると喪屋が建てられましたが、脱皮の儀式に相当するのが何かというと、それが殯(もがり)で、殯とは「身離れ(もがり)」であり、肉体から肉が腐敗して削げ落ち、骨となる過程、としています。古代人は、腐らない骨を「骨神」として信仰し、死体の腐敗過程を見守ることが残された者の義務とされ、時には死者の傍で酒肴、楽器を持ち寄って歌い踊ったといいます。さらに、現在に残る葬送習俗のなかに「四十九餅」というのがあり、49の小餅にそれぞれ人体の関節の名をつけて、それを参会者みんなで食べるということがあり、これも殯の名残であるとしています。

 蛇の呼称からの考察もいろいろ繰り広げられていました。蛇は古代「ハハ」「カカチ」「カガチ」と呼ばれていて、「チ」は霊格を表す語なので、蛇自体は「カカ」であり、おそらく子音転換によって「カカ」から「ハハ」に移行したとし、「カカ」は畳語で、原語は「カ」であったとしたうえで、神(カミ)は蛇(カ)身であり、屍(カバネ)は蛇(カ)骨、鏡(カガミ)は蛇(カカ)目の転訛、三輪山を流れる初瀬川も蛇(ハ)背川と解され、蛇は田を守る神だったので案山子(カカシ)は蛇(カカ)子からの言葉と、どんどんと展開していきます。

 蛇に関してはこのほかに、古代には、箒神という生死の場面に必ず出て来る神がいて、これまでの学説では穢れを払う箒という捉え方をしているが、これは蛇の形を連想させるシュロ科植物の蒲葵(びろう)を蛇木(ハハキ)として信仰したところから来たのではないかと問い、当初は呪術的な道具だったが、のちに掃除道具としての箒(ハハキ)になったといいます。また現代でも、箒や竜蛇のつくりものを葬列の要素として取り入れる習俗が残っており、ところによっては竜蛇が死者とともに埋葬されることを考えると、死者=竜蛇と考えることができると、しています。

 屋内神としては火の神、カマド神だが屋外神としては屋敷神である荒神という信仰があり、この屋外神としての荒神を祀る荒神祭りという習俗が今でも各地に残っているそうです。ご神体となるのは藁蛇で、祭りの後、大木に巻きつけられるのが、荒神と蛇との関係の深さを示すものである、と書かれていました。そういえば、私のサイクリングコースに、平群の川の上を渡るかのように、蛇のように波打つ藁束がかかっているところがありますが、これは藁蛇の習俗の名残だと思われます。

 古代日本における他界と方位との結びつきについても論じられていました。蛇が冬に穴に入り春地上に現われるように、太陽も日ごと夜は西の洞窟の穴をくぐって朝に東の空に再生すると考え、人間の死も西の方位にあるとみていた。国土の最長東西軸では、出雲がその西の極限に位置しており、そこに出雲が重要視された根拠があり、また大和朝廷から真東には伊勢があり、そこがもっとも神聖な場所であるとされた、といいます。そして伊勢に奉斎されている天照大神も、伊勢に鎮まった猿田彦も、ともに「伊勢大神」とよばれる祖霊の蛇ではないか、さらには、伊勢大神に奉仕する最高女神官の斎宮は、夜ごと、祖神の蛇と交わるべき蛇巫であったのではないか、と主張しています。