ビルスマのフランショーム

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フランショーム/ショパン『19世紀チェロ作品集』(SONY SRCR9515)
ビルスマ(チェロ)、オルキス(フォルテピアノ)、ラルキブッデリ&スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ
アントニオ・ストラディヴァリ作の銘器による演奏


 2年ほど前、梅田の中古CD店で何気なく手に取ったCD。ビルスマはひと頃、ヴィヴァルディのチェロソナタをよく聴いていました。昨年亡くなられたということもあって、11月ごろから、ずっとこのCDを聴いています。9曲が収められていますが、全体を通して弦が中心なので、けたたましくなく、穏やかな響きなのが気に入っています。ストラディヴァリウスの名器だからか、ガット弦を使っているからか、チェロが、とくに高音部で、苦し気に語りかけるかのような声色になるのが心に沁みます。

 フランショームという人は、19世紀フランスのチェリストであり作曲家で、メンデルスゾーンショパンと親交を結び、とくにショパンとは家族ぐるみのお付き合いだったようで、ショパンが彼のためにチェロ協奏曲を作曲したということです。先日テレビで、ショパンにはヴァイオリン協奏曲がないのにチェロ協奏曲があるのが不思議という話が出ていましたが、フランショームの存在が大きかったわけです。

 1曲目「オーヴェルニュの歌による変奏曲」の序奏が終わってすぐ、30秒あたりから奏でられる囁くようなチェロの高音部にさっそく惹きつけられます。その後も気だるげな響きあり、軽快なパッセージあり、いくつかの変奏が次々と展開しますが、6番目か7番目、ちょうど9分10秒あたりからの演奏は、ゆったりとしつつ高揚感があってとくに好きな部分です。

 このCD中もっとも気に入っているのは、3曲目の「ノクターン」(ト調)で、ショパンの二つの「ノクターン」(作品15-1と37-1)を合わせて編曲したものだそうですが、二つの旋律とも、うっとりと心が落ち着くメロディで、どこか少し悲しみを帯び、諦観さえ感じられます。私の好みはやはりゆったりとした曲のようで、もうひとつの「ノクターン」(7曲目、変イ長調、作品15-3)も、北欧の小品にあるような(私の思い込みかもしれません)単純なメロディと繰り返しの多い構成ですが、愛すべき小品です。

 「カプリス」というタイトルの曲が3つありますが、古楽的な雰囲気の中で荘重に始まる2曲目(ハ長調、作品7-7)、葬送の気分さえ漂う気がする6曲目(イ短調、作品7-4)、グロテスクな様相の8曲目(ホ短調、作品7-2)というぐあいに、いずれもカプリスというタイトルの割には重々しい印象。4曲目の「グランド・ヴァルス」がいちばん変化に富み、華やかで、バランスよくまとまっています。5曲目の「『悪魔のロベール』の主題に基づくピアノとチェロのための協奏的大二重奏曲」は、ショパンとの合作ということだけあって、ショパン色が濃厚で、うまく表現できませんが、浪漫派的な暑苦しさと軽快さ、華麗さが同居している感じです。9曲目「ロシアの歌による変奏曲第2番」は、冒頭ブルックナーを思わせる響きがあったり、ジプシー的な節回しのところもある不思議な曲です。

 このCDに収められている曲はいずれもレベルが高く、がっかりする曲が一つもありません。フランショームの曲は、ロマン派的な香りがする中に、古典主義的なところもあり、バッハ以前の古楽の響きもどこかにあるような変幻自在な表情を持っています。ネット情報によると、チェロ協奏曲をはじめ55曲もチェロの曲を作曲したと書いてありますから、他の曲もぜひ聴いてみたいと思っています。

フランス詩の本二冊

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宇佐美斉『フランス詩 道しるべ』(臨川書店 1997年)

谷口正子『フランス詩の森―神を探した詩人たち』(国書刊行会 1999年)

                                             

 これからボードレールに関連した本を読んでいこうと思います。まずフランスの近代詩についての概説本から読んでみようと、無作為に本棚から2冊取り出しました。同じフランス詩を論じていても、この二冊は取り上げている詩人で重なるのはボードレールランボーだけですし、論じ方もまったく違います。一口で言えば、『フランス詩 道しるべ』は「道しるべ」と謳っていますが、学術論文に近く専門的で、『フランス詩の森』は、初心者向きに噛んで含めるようにやさしく書かれています。

 

 ボードレールについて、二人がどう見ているかについて、まず宇佐美斉は、フランス詩の流れのなかでボードレールの位置を再検討し、下記のような指摘をしています。

ボードレールは内面的には過激なロマン主義を生きつつ、表現の形式においては反ロマン主義的で、ほとんど古典主義を思わせる秩序と形式の美のうちに、音楽の愉悦と官能の悦楽と悪魔的な諧謔とを歌った。そこには主客未分の「純粋経験」があり、ロマン主義の主観主義でも、高踏派の反主観主義でもない立場にいる。

②『悪の花』の「悪」のフランス語malには、「悪」と「病い」という二つの意味があり、ボードレールは『悪の花』の初版で、冒頭のエピグラフにアグリッパ・ドーヴィニェの「悪」の主題の詩を引用し、ゴーチェへの献辞ではmaladives「病い」という言葉を使っていて、malに二重の意味を含ませている。

ボードレールは、「病い(=悪)」を徹底的に見すえることによって、そこから新しい創造の糧をくみ取った。先行する詩人として、「フィレンツェの美術館におけるレオナルド・ダヴィンチのメデューサ像について」という長詩でメデューサの「悪」の妖しい魅惑と恐怖を歌ったシェリーを挙げている。

ボードレールはベルトランが開拓した散文詩のジャンルを軌道に乗せ、後続のランボーロートレアモン散文詩へとつなげた。ボードレールが散文で意図したのは、リズムも脚韻もなしで詩的な散文を生み出すことであり、もうひとつは、『悪の花』の「パリ情景」でも展開した都会との魂の交流を描くことであった。

ボードレールの詩の日本での受容は、上田敏が『海潮音』で紹介したのを嚆矢とするが、リズムや口調を重視するあまり和風の装飾過多の訳語を用い、倦怠、憂愁や悲哀の面をクローズアップさせているのに対し、荷風ボードレール訳は、日常の平易な言葉を用いながらも品位と風格を保ち、「悪=病い」のテーマをきちんと見すえた正確なボードレール像を提示している。

 

 谷口正子は、ボードレールによってフランス詩が初めて近代的な性格を持つようになったと位置づけ、ボードレールの意識的な詩作態度は後の偶然を排除するマラルメへとつながり、「万物照応」の理論は宇宙そのものと合体しようとしたランボーとつながる、という二つの流れを生んだとしています。とりわけ、「万物照応」をボードレールの美学の中心として捉え、「美女への讃歌」、「髪」など他の詩にも、「万物照応」の世界を呼びおこす「無限」「匂い」「色」「音」「夜」などの言葉が貝細工のようにちりばめられ、具体的な女性の肉感的な姿でさえも、詩人の形而上学的な欲求のなかに吸い込まれて行くと書いています。

 

 谷口正子の本は、カトリック系の機関誌に連載したものをまとめたもので、彼女の立場から言うと、ボードレールの『悪の華』は失われた楽園の再創造を奏でる一大交響曲であり、そこに見られる現世への欠如感は原罪の意識につながるものと論述を進めています。

 

 ボードレール以外の話題でも、いくつか教えられるところや興味深い指摘がありました。『フランス詩 道しるべ』では、

①まず目下わたしのいちばんの関心であるイロジスムに関して、論理性と明晰さを重視するフランス詩の伝統に対し、ヴェルレーヌが「詩法」という詩で「いい間違い」や「朦朧」を提唱し反逆したと書いていたが、これはイロジスムの発生起源に触れるエピソードだと思う。

散文詩の流れについては、文学はそれまで韻文で語られていたが、韻文に見切りをつけて散文にポエジーを注ごうとしたフェヌロンを先駆けとして、18世紀にルソーを中心として散文の発展があり、19世紀のロマン派の時代にそれが一挙に爆発して、ベルトランからボードレールにいたる散文詩の誕生につながる。この流れの逆に、韻文の復権を強く訴えたのが、高踏派から象徴派にいたる詩人たちで、その極北にマラルメがいる、としている。

③19世紀には、散文詩とは別に、自由韻律詩の出現があったが、双方とも韻文のもつ音楽性に代わるものとして、視覚と空間性を重視した。20世紀に入ってルヴェルディがそれを「イメージの詩学」と名づけたが、シュルレアリスムの詩人たちがその手法を意識的に用い、英語圏においても同時期にイマジズムの詩運動が起こった。

ランボー散文詩集『地獄の季節』は、もう一つの散文詩集『イリュミナシオン』と異なり、一人称主語が頻出するが(前者ではjeが340回、後者では59回)、その「私」も、「私とは一個の他者であるJe est un autre.」の「私」であり、「私が考える」のではなく「私は考えられる」、あるいは「私において何者かが考える」という「私」で、先験的な「私」ではない。

ランボーの『地獄の季節』の有名な「太陽と溶けあった海」の永遠性が、同じく有名な「季節の上に死滅する人々から遠く離れて」という語句と呼応しているという指摘も新鮮でした。

 

 『フランス詩の森』は、カトリック系詩人ばかりが取り上げられ、かつ引用の詩もその傾向の強いものが多くて、あまり馴染めませんでしたが、なかでは、「十字架の聖ヨハネボードレールの詩の合体とも言える」と紹介されていたピエール・ジャン・ジューヴの詩が、神秘的な聖性を感じさせるものでした。

ANNE RICHTER『Cauchemar dans la ville』(アン・リヒター『町なかの悪夢』)

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ANNE RICHTER『Cauchemar dans la ville』(HRW 1995年)

                                             

 森茂太郎の「ベルギー幻想文学私記」(「小説幻妖 弐」所収)で知った作家で、Baronianの『Panorama de la littérature fantastique(フランス幻想文学展望)』にも名前が載っていました。子ども向きの本のようで、簡単な文章で書かれていたのと、117ページと少なかったので、4日ほどで読み終えました。と偉そうに書いても、単語や言い回しは知らないものや、すっと出てこないのがあって、1ページに二つ三つは辞書を引かないといけませんでしたが。

 

 書き方はかなり手慣れた感じを受けましたが、子ども向きの限界があって、どうしても話が単純になり、人物が類型化して、先が読めてしまうのと、怖がらせようという仕掛けや、ユーモアで和ませようとするところが目について、十分楽しめませんでした。あらすじは次のようなものです(ネタばれ注意)。

 

広大な地所を持つ家庭の好奇心旺盛な姉と弟の二人の子どもが主人公。弟の目線で語られる。満月の夜、弟が狼の遠吠えで目覚め、長年空家になっている隣家の方から物音が聞こえたので、行ってみると、びっこを引いた男が誰も住んでいない洋館の中に消えた。石を投げて男を外へおびき出したすきに、建物に入ってみたが恐くなって這う這うの体で逃げ出す。

 

姉に話すと、姉は以前図書館で調べたことがあって、15年前隣家が引っ越しする直前に近隣で謎の失踪事件があったらしいと言う。図書館で昔の新聞をもう一度調べ直すと、ハロウィーンの夜に事件が起こっていたことが分かる。今日は10月15日だ。隣家を夜見張ることにする。1週間後の金曜の夜また男が現れたが背の高い別人だった。後をつけるうちに見失い、その後びっこを引いた男が現れた。姉は同一人物だと言う。

 

次の金曜のハロウィーンの日に的を絞って見張ることにした。カーボーイに仮装した姉弟の前に、また背の高い男が現れ、つけて行くと、男は突然苦しみだし路上に倒れた。再び起き上がったときはあのびっこの男になっていた。顔は灰色の毛で覆われ口元は犬のようだった。狼男だ。後をつけて行くと、バットマンの仮装をした小さな男の子を襲って肩に担ぎ、館の方へ戻ろうとする。しかし狼男は自分の姿をハロウィーンの仮装と思っている男の子の初心さを見て改心し、ひとり館に戻って館に火を放った後、銀の弾を自らの胸に撃ち込む。

 

 終わり方は尻すぼみの感が拭えません。満月の夜に狼の遠吠えを聞くというところから始まり、銀の弾を撃ち込んで死ぬという典型的な狼男ホラーです。それに打ち捨てられた洋館という幽霊譚的雰囲気や、謎を追って徹夜で見張ったり尾行するといったミステリーの味わい、二人の男が同一人物という変身譚的要素が入り混じりながら、最後はハロウィーンの喧騒のなかで事件が展開していきます。両親も姉も、隣家に狼男の呪いがかかっているということを知っていたようですが、弟を恐がらせまいと黙っていたらしいことが分かります。

岩﨑昇一の詩集二冊

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岩﨑昇一『無みする獣』(日本図書刊行会 1997年)

岩﨑昇一『藍染の家』(ふらんす堂 2011年)

 

 以前、『無みする獣』を買ったとき、簡単な感想を書いたら、著者の方からお礼のコメントをいただきました(2014年10月18日記事参照)。今回、イロジスム(非論理)の詩の最終回として、最近買った『藍染の家』と一緒に取り上げてみます。この二冊はテイストがずいぶん違いますが、手法はよく似ていると感じました。

 

 『無みする獣』は、きわめて個性の強い詩集で、強烈な毒気を発散しています。音楽で言えばブルースか。「ことわる」「なれあう」というように動詞をタイトルにした32の詩篇からなっていますが、各篇が同じ雰囲気を持った連作詩のような形で、どれがどうつながっているのかはよく分かりません。全篇通じて言えるのは、主人公がモノローグとして語るなかで、強烈な感情がくっきりと描き出されているのに対し、その原因であり背景となる具体的な出来事はぼんやりとしか浮かび上がってこないところに、よじれるような感覚があります。

 

 主人公は、どうやらやっかいな組織のなかにはまり込み、にっちもさっちも行かなくなっているようですが、その組織は、「前任者とはなしをしたい」(p4)「投函した/移動具申を」(p6)というように普通の会社組織のようでもあるが、「丸山町の路地うらだった/ふいを狙って斬りつけたのがいけない」(p16)「足をあらいたかった」(p17)「箍のはずれた若い手合いが/すごんで詰め寄ると」(p52)というように、やくざ的な組織のようにも思えますし、「ビラをばらまき煽動する」(p57)「追っ手は すでに/・・・/ほらあの黒い背広の/柔和なおとこもそうだよ」(p58)というように、かつての学生運動の過激なセクト、あるいは「朝の/あいさつからしてなっていない/分別ゴミの処理ができていない」(p59)みたいに町内会のようなところもあります。

 

 全篇、内輪揉め、裏切り、密告、恫喝、蔑み、騙し合いのような状況が、怨念と呪詛に満ちて語られています。口語的な言葉の一つ一つがどぎつく力を持っています。例を挙げると、「これまでの経過はチャラにする」(p4)「みせしめにせよということらしい」(p13)「やらなくてはこちらがやられる」(p16)「かさにかかってつつきにかかる」(p22)「そういうことなら/あんたらどうする気ねと」(p48)「手めえの口にする半分も生きてみろと」(p53)「地獄までつれこまないことには/おさまりつかない恨みの」(p63)「いまさら/聞いてねえよはないだろう」(p83)「おどらせやがったな/すずしい顔して あいつ」(p89)「そこいらの椅子を蹴ってけつれつを/ちらつかせるが」(p93)。最後の方の詩篇は男女間の揉め事のようなところもあります。詩と現実の作者は関係ないものと分かっていながらも、いったいどういう経歴の人なのか気になってしまいます。

 

 

 『無みする獣』の詩篇は一種独特な閉鎖的な世界の出来事を語っていましたが、『藍染の家』は、いくつかの違った世界が混在していて、開けた感じがすると同時に、その分さらに難解になりました。全部で25篇からなり、『無みする獣』と同様、連作のような雰囲気があります。おぼろげに分かることは、どうやら茶道が話題になっていること、それで器のことが出てきたり、お点前とか稽古、茶室という言葉も出てきます。家が藍染をしているなど、伝統的な世界がベースにあるようです。そこに、家族や隣人が出てきますが、父は認知症、その父の世話をしているらしい母も途中から死んでいたり、兄は幼いころ溺死、その責任を感じた祖父が自殺したり、近所で殺人があったりなど、死が至る所に顔を覗かせています。

 

 いくら読んでもよく分からない部分があり、それがまた魅力とも言えます。冒頭の「故人のように」では、「ように」というからには死んでいないらしく、「病にでも伏しているのか」(p6)という言葉が出てきますが、「弟子が火箸で鼻を突付いていてみたが」(p8)という火葬場らしき情景もあって違うのかなと思えば、「床も寝返りも 息もくさる」(p9)という最後の詩句で病床に戻るといった感じです。その伏せっている人物が話者であるのか父親かよく分かりません。また次の「故人Ⅱ」では、「今朝何者かに開封された手紙を/路地に見つけたときには/すでに殺害されていたことになる」(p10)とあり、誰かが殺されたことが分かりますが、それが誰かよく分かりません。続く「おさない養女はもう帰ってこない。/誘拐された痕跡をさがすが」(p12)というフレーズでは、殺されたのが養女のような気もしますが、誘拐されたということは死んではいないようでもあります。「隣人」という詩では、近所の河原で二十歳の女性が殺されたことが分かり、養女との関連が気になりますが、最後に「(このまま隠し通せるか)」(p21)という独白があって、話者が犯人かという疑いも生じてきます。

 

 個々の詩については、他にもいろいろありますが、切りがないのでこれくらいにします。単に私の読解力のなさによるものかもしれません。もうひとつ全体の構成として不思議なのは、「故人」と「藍染の家」はシリーズのようになって、作品番号がついていますが、それが番号順に並んでおらず、「故人」ではⅡ、(Ⅰ)、Ⅳ、Ⅲ、「藍染の家」ではⅡ、(Ⅰ)の順に並んでいることです。これは雑誌へ発表した順番を、詩集に編集する際に変更したということなのか、もし書下ろしでこの順番とすると、この番号が時系列になっているということを示そうとしたのでしょうか。

 

 

 イロジスムの詩については、これまでも、意味が通らない中で惹きつける力を保つには、つながるものがなければならないと考え、シンタックスやリズムにその役割を見たり、単語の反復や比喩の技巧を見たりしましたが、逆に意味を通らせないという点からも考えてみないといけません。

①イロジスムの詩には、難解の美学とでも言えるものがあり、それは謎としての魅力で、謎自体が読者を惹きつけるのである。隠すことによって姿を彷彿させる一種の象徴主義神秘主義と言える。

②イロジスムの美は意味が次へ続こうとする瞬間に、読者の期待をずらすところから生まれる。ずらすということは、それまでは意味のある世界が築かれていなければならない。

吉岡実が「能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」と書いたように、意味をずらした後、何ものかでつなぎ止めつつ、また意味をずらすという反復運動のなかに美が生まれる。

阪神百貨店の古書ノ市ほか

 年末は阪神百貨店の古書ノ市の初日に行ってきました。今年は参加店舗が少し減ったようで、レコード市の賑わいに押されていました。大勢の人混みのなか、長蛇の列に並んで、結局買ったのは、下記一冊。

アンリ・メショニック竹内信夫訳『詩学批判』(未来社、82年10月、500円)

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 その日、友人宅で忘年会があり、途中の緑地公園駅で天牛書店に寄ろうと歩いていると、偶然洒落た古本屋を見つけました。「blackbird books」というお店。新しい本が中心ですが、海外文学の品揃えも充実していました。聞いてみると、6年以上前から開いているとのこと。迂闊でした。ここでも一冊。

松浦寿輝『黄昏客思』(文藝春秋、15年10月、800円)

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 天牛書店江坂店は関西でも古本量がいちばん多いのではないでしょうか。1階で下記三冊。

福島慶子『ヴァンは酒ならず―ヨーロッパ食べ歩き』(朝日新聞社、昭和29年12月、180円)

高柳克弘『どれがほんと?―万太郎俳句の虚と実』(慶応義塾大学出版会、18年4月、300円)

潮江宏三『銅版画師ウィリアム・ブレイク』(京都書院、平成元年4月、480円)

2階の均一本コーナーと文庫本売り場で。

向山泰子『ラファエル前派運動とD・G・ロゼッティと』(青山学院女子短期大学学芸懇話会、74年5月、100円)

David Larkin編『Fantastic Art』(Ballantine Books、73年5月、100円)→W買い

田村圓澄『古代朝鮮と日本仏教』(講談社学術文庫、昭和60年1月、250円)

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 ほか、日本の古本屋とヤフーオークションで、下記。

大和岩雄『十字架と渦巻―象徴としての生と死』(白水社、95年9月、1200円)

フランシス・ド・ミオマンドル川口篤譯『水に描く』(実業之日本社昭和15年11月、1200円)

「文藝時代 怪奇幻想小説號」(金星堂、大正15年8月、600円)→こんな雑誌の特集が大正時代にあったのは知らなんだ。日本近代文学館1967年刊の復刻版の中の一冊らしい。

高橋優子『薔薇の合図(シーニュ)』(天使舎、03年10月、500円) 

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 今年は量より質を念頭に古本と接したいと考えております。

Maurice Magre『Nuit de haschich et d’opium』(モーリス・マーグル『ハシッシュと阿片の夜』)

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Maurice Magre『Nuit de haschich et d’opium』(KAILASH 2010年)

                                              

 前回のフランス書は大部の本でくたびれてしまったので、88ページの薄い本を読んでみました。初版は1929年、フラマリオンから出ていますが、この本は、再刊。インドのたぶんプリントオンデマンドの本屋から、送料込み1699円という格安価格で購入しました。その本屋の住所が、くしくもこの小説の舞台となっている南インドのポンディシェリであるのは何かの因縁か。それでポンディシェリをネットで調べてみると、フランスの旧植民地だったことを知りました。そういう訳で、小説の舞台がポンディシェリで、またフランス語本の出版社がいまも残っているわけです。いちど行ってみたい気もします。

 

 モーリス・マーグルは、これまで『LUCIFER』(2012年12月3日記事参照)、『Les Colombes poignardées』(2013年7月24日)、『LE MYSTÈRE DU TIGRE』(2016年6月3日)の3冊の長編小説を読みました。今回は中編なので、構成もすっきりして読みやすく感じました。あらすじは下記のようなものです(ネタばれ注意)。

 

ポンディシェリに住む主人公は20歳の女性で、夫と離婚したばかり。シランバランでの麻薬パーティの当日、不吉な予兆が現れたので断ることにする。そもそもそのパーティは、彼女がかつて言い寄られ冷たくあしらった三人の男が集まるので、何か罠があるような気がしていた。しかし、同行する女性から、ひそかに思いを寄せている若者が参加すると聞いて、断るのを撤回する。家を出ようとしたとき、乗り物に「行ってはいけない」というメモが投げ込まれる。

 

集合場所の港に行ってみると、若者は来ておらず、馬で直接パーティ会場に来るという説明。シランバランに向かう船の中で、やたらと酒を飲まされ、また主人公の理解できない英語で、3人で何か話して笑ったりするので、やはり罠があるように感じる。シランバランに着いてパーティ会場へ向ったが、会場に到着すると、同行の女性は頭が痛いと言って途中で船に戻ったと知る。ついに女性一人になってしまった。

 

そもそもシダンバランの古い遺跡にみんなで見学に行こうというところから始まった話で、主人公が未体験の麻薬パーティもして、そのついでに主人公が踊るところも見たいということになったのだった。会場は古い遺跡の仏塔のなかで、一晩中貸し切りにするという。夕食の後、阿片を吸いながらくつろいだが、阿片のせいで幸せな気持ちになり、男たちの罠というのは単なる思い過ごしだという気になる。主人公が踊りの衣装を着るあいだ、男たちは何かを賭けてトランプに打ち興じていた。

 

席に戻った主人公に、まず見本の踊りを見せるという。まったく同じ衣装を身につけた女性が登場し、扇情的に舞い、踊り終わると、参加者の一人の男の首にかじりついてキスをした。踊る気をなくした主人公は断ろうとしたが、なぜか体が勝手に踊り出し、さっきの手本どおりに、男のもとに身を投げてキスをした。そのとき男からプレゼントされていたネックレスに付いていた金の小函が外れて落ちた。

 

小函には呪符が入っていた。賭けの対象が自分で、アタルヴァ・ヴェーダの呪法で操られていたと知った主人公は、その場から逃げ出し、這う這うの体で遺跡から脱出する。ちょうどそこには、秘かに思いを寄せていた若者が馬で助けに来ていた。彼も何者かから、主人公が危険だという手紙をもらって駆けつけてきたという。二人はポンディシェリへ戻る途中の小屋のなかでめでたく結ばれる。麻薬よりも素晴らしいものを見つけたというのが落ち。

 

 阿片の吸引の情景や麻薬談義、シランバランの遺跡の壮麗な建物や彫刻の描写、昔の舞姫の衣装を身につけての扇情的な踊りなど、詳しくはお伝えできない細部に魅力があります。マーグルは若い頃、麻薬を常用していたらしく、阿片室の様子やいろんな麻薬の説明も実地の体験があってこそのものだと思います。また、シランバランの遺跡については、ネットで実物の写真を見つけましたので、ご参考までに、添付しておきます。

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 求愛を拒否したから罠を掛けられ復讐をされるのではと恐れおののく一方、考え過ぎではと揺れ動く女性の心理が主軸となっています。警告の手紙が誰かからもたらされたり、男たちが何を賭けているか分からないまま進行していくというミステリーの要素もあります。実は、謎の手紙は、主人公の前夫の愛人が男たちの計画を漏れ聞いて、義侠心をおこしたというのが種明かしです。

 

 ハーレクインロマンスというものを読んだことはありませんが、おそらくそのジャンルに入るような小説で、異国情緒に溢れ、かつ少しエロティックで、最後は秘かに恋する男と結ばれるという、女性が好むような冒険譚と言えましょう。フランス人が南インドを舞台にして書いた物語を日本人の私が読み、かつ女性の気持ちを綴った文章に男の私が共感するというのも、アクロバットをしているような倒錯した感じになりました。

幻想美術の入門書

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千足伸行監修、冨田章、新畑泰秀『すぐわかる画家別幻想美術の見かた』(東京美術 2004年)

 

 本は手元にずっと置いておきたいという性分なので、ずっと図書館での貸し出しは利用しなくなっていましたが、最近ある用ができて他の本を借りたときに目に留まったので、併せて借りてきました。16世紀以降の絵画作品の中から、幻想的な作品を、一画家につき一作品選んで、入門者向けに分かりやすく解説した本です。個々の画家についてはこれまでその都度接してきましたし、この中の大半はすでに知っていた絵ですが、グラッセ、ボーシャンなど知らない画家も教えられましたし、また一覧で通して見ると、気づくこともありました。

 

 感性のなさと無知を暴露するようで恥ずかしいですが、この本でも説明の際に当然のように使われている、古典主義、ロマン主義印象主義象徴主義といった美術史の概念の境界が極めて曖昧だということです。例えば、アングルは新古典主義と説明が書いてありましたが、この「オシアンの夢」という作品を見る限りロマン主義的な絵画のような気がしますし、ワッツは古典主義者と位置づけられていますが、取り上げられている「希望」という絵は象徴主義そのもののように思われます。

 

 そこで、そういった概念を使わずいったん白紙に戻して素直に眺めた場合、リアルかどうかを軸に次のように分類できるのではないでしょうか。

①細部がリアルだが、絵全体は非現実的なもの、グリューネヴァルト「聖アントニウスの誘惑」、コール「建築家の夢」、マーティン「忘却の水を探すサダク」、ダッド「妖精のきこりの見事な一撃」、ヴィールツ「うるわしのロジーヌ」、レーピン「サトコ」など、この本の中の半分ぐらいはこの分類に入る。

②全体にリアルが少し歪められて個性的な絵になっているもの、ボス「快楽の園」、モロー「一角獣」、シャヴァンヌ「夢」、クノップフ「秘密・反映」など。

③細部が大きくリアルを逸脱しているもの、ブレイク「車の上に立つベアトリーチェ」、アンソール「仮面の中の自画像」、トーロップ「三人の花嫁」、ムンク「叫び」、シーレ「死と乙女」など。

 この象限で欠けている「④細部がリアルで、かつ絵全体も現実感が漂うもの」はさすがに幻想がテーマになっているので例がないが、強いて挙げるとすると、ホドラー「夜」か。

 

 もういくつかの指標を入れ込むともっと詳細な分類ができるような気がしますが、それは専門家の方にお任せしましょう。他にも、細部のリアルは絵のさまざまな技法に支えられているが、近代になってこういう幻想絵画が増えてくるのは、油絵の技法が大きく貢献しているに違いないとか、しかし細部のリアルさというものについては画家によってそれほど差がないので、幻想のさまざまなヴァリエーションは、描こうとするテーマや構想、あるいは画家の持って生まれた資質の違いがやはり鍵になる、といった感想を持ちました。

 

 このところ私的に関心の高い「象徴主義の暗示の美学」が濃厚だと思われたのは、ワッツ「希望」、ジャンモ「誤った道」、ベックリーン「死の島」、クプカ「静寂の道」、プレヴィアーティ「夜を目覚めさせる光」、奇抜な想像力では、ボス「快楽の園」、グリューネヴァルト「聖アントニウスの誘惑」、フィッツジェラルド「夢の素材」、モッサ「飽食のセイレン」、グランヴィル「もうひとつの世界―夢の変容」、クビーン「北極」、エルンスト「聖アントニウスの誘惑」、現実を歪めて描いた作品では、クレイン「ネプチューンの馬」、シュピース「別れ」、崇高の美学は、コール「建築家の夢」、マーティン「忘却の水を探すサダク」、廃墟の美学では、モロー「ナイル河に捨てられたモーゼ」、ファンタジーの世界では、バーン=ジョーンズ「眠り姫」、シュワーベ「百合の聖母子」、ヒューズ「星たちを引き連れた夜」、レーピン「サトコ」、ヴェッダー「死の杯」、ドレ「パラダイス」、などが印象に残りました。