光に関する哲学書二冊

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山崎正一『幻想と悟り―主体性の哲学の破壊と再建』(朝日出版社 1977年)
H・ブルーメンベルク生松敬三/熊田陽一郎訳『光の形而上学―真理のメタファーとしての光』(朝日出版社 1977年)


 どちらも「エピステーメー叢書」なので本の装丁は同じ(たぶん杉浦康平)、内容も少し似通っています。ともに哲学の分野の本ですが、近代の哲学が抽象的な概念にこだわり過ぎた反省を踏まえ、『幻想と悟り』では、鏡、水、光(ほかに空海道元についての章もある)、『光の形而上学』では、光という根源的原理的な力を持った物質・現象をもとに考究しています。また両者ともギリシア哲学から説き起こす通史的な性格も帯びています。

 同じような発想では、バシュラールのイメージの詩学が思い浮かびますが、バシュラールが文学作品を中心に議論を展開していたのに対して、こちらは哲学思想を素材にしていて、そのせいか両者とも難しくて半分も理解できませんでした。とくに、『幻想と悟り』のほうは、西洋の思想のみならず、仏教思想からの引用が多く、道元の章などはほとんど理解不能でした。


 山崎正一は今春、『神話学の知と現代』という本を読んだ時に、近代の科学的な知を乗り越える神話的な知への期待を語っていたことで印象に残っていました(2019年3月11日記事参照)。この本でも、真理の世界がまずあって次に行動の世界があると考えるのは転倒の錯誤であるとし、価値の問題が主観的心理の感情の問題であるとして学問から追放された結果、意識の狭い世界に入り込んで誕生したのが近代科学であると批判していました。

 「鏡のエピステーメー」の章では、鏡に関するいろんな発想、比喩が出てきたので、おぼろげながら理解できた範囲で列挙してみます。まず鏡の幻影性を中心としては、①水に映る影の不確実さ、②感覚的事物は真実の存在が鏡に映じた映像のごときもの、③人間の心は歪んだ鏡であり事物を歪める、④夢は鏡中の像のごとし、⑤現実の世界も虚妄の世界であり映像に等しい、などが挙げられます。次に、鏡の明晰さについて、①普段は見えないものが鏡では見えるという曇りなき知性をあらわすもの、②心の明澄さを明鏡に喩える、のほか、③一切の事物事象が相互に区別され、対立しながら、しかも相互に含み合い、映し合っている、「一珠のうちに百千珠を映現し、しかも百千珠、ともに一珠の中に現ず」といった比喩がありました。

 「水のエピステーメー」では、水を生命、運動の原理と見て神的なものとしたタレースのように、水を万物の原理とする見方がある一方、地上の人間に不正の償いをさせる恐るべき水でもあるとして古代の洪水神話を挙げています。「人は二度と同じ河に入ること能わず」とヘラクレイトスは、水の流れに喩えて万物流転を説きましたが、東洋でも孔子が「子、川のほとりに在(いま)して曰く、逝くものは斯くの如きか。昼夜をおかず」と同様の感慨を漏らしていることに言及しています。また仏教に「水想観」「宝池観」というものがあるとして、恵心僧都水観をしたとき身体が水となり部屋が水で満たされたという逸話を紹介しています。

 「光のエピステーメー」では、地が暗黒に覆われていたときに、「神、光あれと言いたまいければ、光ありき」という『創世記』の言葉を引用し、当初から「光と闇」が「平和と禍」の意味で二元論的な構図を持っていたのが、プロチノスの時代に一者から流れ出る光として、またアウグスティヌスの時には父、子、聖霊がともに一つの光だとして一元論的になり、ヘーゲルの時代にまた光と闇の弁証法となったこと、東洋では、仏教の華厳経の「大毘盧遮那仏」や密教の「大日如来」がいずれも同じ光明遍照・無量光の御仏として一元的な太陽的な存在であることが指摘されていました。

 そのほかの章で、印象に残ったのは、プラトンなど哲学者が求めたのは独創性ではなく永遠の真理であり、人々が彼らに期待したのも真理だったという(p132)近代の独創性信仰を批判したような文章や、真理というものが閉鎖的な完結性をもつものでなく開かれた不完全な系であるという指摘(p132)、産業革命フランス革命やロマンティークの哲学が学問から敬虔さを奪い人間から調和の理想を奪ったという記述(p200)など。


 『光の形而上学』は、「はしがき」で生松敬三が述べているように、「ギリシア古典古代からヘレニズム期をへてローマ時代へと光のメタファーがいかなる変貌をとげて光のメタフィジークを生み、伝統を異にするキリスト教の中にいかに受容され、そして中世から近代へと流れこんでいったか」をたどった本ですが、このメタファーがメタフィジークに移っていくというところがよく分かりませんでした。途中、コラム的に「プラトンの洞窟」の比喩と「聞くことと見ること」の比喩についての文章が挟まれていました。神秘主義という言葉はあまり出てきませんが、ほとんど神秘主義思想の読解ともいえる内容となっています。また光をめぐるメタファーはそれ自身が美しい詩文のようで心惹かれるものがありました。

 まず、光の特徴や光に関する比喩をいくつか並べますと、暗闇の中で道しるべとなる光、逆に眼をくらませる光、真理は存在そのものにおける光、みずから光り輝きすべてのものに光を授ける善、洞窟の中の光と影、救い・不死性としての光、内的な道徳的明証性としての光、栄光という光、創造者としての神は光、神的意志の放射としての光、啓蒙としての光、などなど。

 ほかに、光をめぐる魅力的なメタファーに満ちた文章をいくつか引用しておきます。

光と闇とは、相互に排除しあいつつ、しかも世界の構造を仕上げるところの絶対的・形而上学的な対抗力を表わすことができる・・・光があらわれたときには暗黒はもはや存在しえない/p24

光と闇とは、火と土と同じく、元素的な始源の原理である/p25

光は、それが可視的ならしめたものにおいてのみ見られる。光が諸事物の可視性とともにはじめて「あらわれ」、したがって光が呼び出したものとは種類を異にするということが、まさしく光の「自然性」をなすわけである/p28

光のもとにあり、光のなかにある暗黒というものが存在する・・・古代悲劇は容赦のない明るい光でこの暗い底層を照らし出す/p30

絶対的な光と絶対的な闇は合致する。ディオニシウス・アレオパギタはこれを徹底して、あらゆる神秘主義に範型となる「神の闇」という定式をつくり出す/p32

人間はみずから光であることはできない・・・人間は光ではなく、たんに光によって点火される燈火たるにすぎない(アウグスティヌス)/p64

暗闇の中で眼を開けていることはなんの役にも立たないが、「光の中にあり」ながら眼を閉じたままでいることもまた役に立たぬ(アウグスティヌス)/p74→前者は善き異教徒、後者は悪しきキリスト者のことだそうです。

四天王寺秋の大古本祭りと天神さんの古本まつりほか

 少し間を置きましたが二つの古本市の報告。最近古本市に行っても、大きな本は買うのをためらわれることが多くなりました。これはわれわれ年寄り古本仲間の共通の傾向です。四天王寺の古本市は、用事があって三日目の日曜日に馳せ参じました。三日目ともなると初日とは違い悠長なもので、10時の開場前にほとんどの店がもう開いていました。とくにこれといったものはなく、薄くて小さな本ばかりを購入。

ピーター・V・マリネリ藤井治彦訳『牧歌』(研究社、昭和48年10月、100円)→100円均一コーナー

浅沼圭司『映ろひと戯れ―定家を読む』(小沢書店、78年5月、200円)→池崎書店の安売り棚

CHARLES BAUDELAIRE『LES FLEURS DU MAL』(Jean-Claude Lattès、87年10月、300円)→文庫本ぐらいの大きさで、手元に置いて読むにはぴったり。これも池崎

川本三郎『大正幻影』(新潮社、90年11月、200円)→ピエト文庫

池内紀カフカのかなたへ』(講談社学術文庫、98年1月、166円)

金岡秀友『日本の神秘思想』(講談社学術文庫、93年8月、167円)

柴田宵曲小出昌洋編『新編 俳諧博物誌』(岩波文庫、99年1月、167円)→以上三冊、小野書店3冊500円

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 天神さんの古本市は、初日に行くことができました。フランス書を大量に出しているはずの寸心堂が今回はドイツ語の本ばかりだったのと、いつも何か掘り出し物がある矢野書店が不作で、期待外れと言ったところです。光国家書店がびっくりするほど安値でいろんな本を出していましたが、ほとんど持っている本で悔しい思いをしました。

イヴォン・アラバール山田直訳『詩の心理学』(書肆ユリイカ、56年10月、500円)→矢野書房

藤武夫『ヨーロッパの劇場』(相模書房、昭和34年2月、100円)→100円均一コーナー

蔵持不三也『ワインの民族誌』(筑摩書房、88年9月、500円)→キトラ文庫

鶴岡善久『詩的磁場を求めて』(JCA出版、78年9月、150円)→W買い。

渡辺守章/山口昌男/蓮實重彦『フランス』(岩波書店、83年5月、150円)→以上2冊光国家書店

フリートマル・アーペル『天への憧れ―ロマン主義、クレー、リルケベンヤミンにおける天使』(法政大学出版局、05年4月、300円)

W・S・マーウィン北沢格訳『吟遊詩人たちの南フランス―サンザシの花が愛を語るとき』(早川書房、04年4月、300円)→以上2冊梁山泊 

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 天神さんの帰りに天神橋筋の天牛書店に立ち寄ったところ、先日読んだ『ミニマ・フィロソフィア』で引用されていた『家族の深淵』と『耄碌寸前』があり、まずまずの収穫。

堀江敏幸『その姿の消し方』(新潮社、17年3月、380円)

森於菟『耄碌寸前』(みすず書房、11年11月、950円)

中井久夫『家族の深淵』(みすず書房、95年12月、880円)

高山宏『テクスト世紀末』(ポーラ文化研究所、92年11月、900円)

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 別の日、会社OB総会が上本町であったので、一色文庫に立ち寄り、下記。

正岡容荷風前後』(好江書房、昭和23年11月、500円)

中野美代子塔里木(タリム)秘教考』(飛鳥新社、12年1月、1000円)

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  ネットでは、「日本の古本屋」で、名古屋の山星書店から下記の珍しい本。

よさのひろし『リラの花』(東雲堂、大正3年、3560円)→フランスの訳詩集。奧付きなし。与謝野寛の詩は大言壮語風で嫌いだが、訳詩はそうでもないと思い。ダンヌンチヨ、レニエ、ヹルアアラン、メテルランク、ノアイユ女史、マアグルなど、知らない詩人もたくさんいる。

 

 アマゾン古書で、

嶋岡晨『隅田川とセーヌ河―フランス詩の受容』(日本図書センター、01年4月、1407円)

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 ヤフーオークションでは、

河盛好蔵訳編『紅毛徒然草』(朝日新聞社、昭和28年12月、290円)→レニエ「どんく」が入っていたので。

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随想風哲学書二冊

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庭田茂吉『ミニマ・フィロソフィア』(萌書房 2002年)
山内得立『ホモ・ヴィアトール―旅する人』(能仁書房 1958年)
                                   
 哲学書らしきもののなかから、あまり哲学用語が出てこない随想風の本を選んでみました。『ミニマ・フィロソフィア』は、タイトルにフィロソフィアとは書かれているものの、「あとがき」に「ミニマ・フィロソフィアとは日常的な知恵のこと」とあるのを見て、また『ホモ・ヴィアトール』は、著者名が強面の哲学者でしたが、造本がとてもお洒落だったのと、芭蕉について書かれているページがあったので、買ったものです。

 予想にたがわず、『ミニマ・フィロソフィア』は哲学者然としたところがなく、全編に正直さが感じられ、私の性分に符合するものでした。とくに「死の匂い」が秀逸。枯れ木や落ち葉のここちよさから書き出し、現代人の日常の中から生のディテールが失われていることに筆を進め、菌臭の鎮静効果を説いたあと、耄碌状態で死ぬことを薦めています。中井久夫からの引用になりますが、次のような文章にしびれました。

「菌臭は死‐分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け容れる準備のようなものがあるからのように思う。自分の帰ってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである」(p42)

神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである」(p43)

 冒頭の「二つの朝」からして、死がすぐ近くにあり、親しいものとして生と地続きの人々を描いていて、ドキッとさせられましたし、次の「日常の中の哲学」も、「疑いを自分に向けること」(p18)とか、「歴史がまず各個人のものでなければならない」(p22)とか、全共闘時代によく聞いたようなフレーズに意を同じくしました。「人は今ここにいる」では、ノスタルジアという言葉がもとは医学用語であり、初めは故郷からの離別による精神不安の意味で空間的だったのが、カントによって時間的なものと捉えられたということを知り、「経験というハラハラ、ドキドキ」では著者の6歳の娘さんへの思いに感動させられました。

 この本は、萌書房という奈良の出版社から出されています。地元なので応援したいし、続編もあるようなので読んでみたいと思っています。


 『ホモ・ヴィアトール』の造本は、細川叢書によく似ていて、幅広の版型で、手に取ると軽く、表装の紙質が柔らかくて印字がめり込むような感じなのがいい。能仁叢書とあるので他にもあるのかと思い、ネットで調べてみましたが見つかりませんでした。

 この本は、著者の京都大学での公開講演の内容を、ずっと後になって聴講者のメモを頼りに復元したもので、言葉遣いが易しい感じになっています。内容は、知るということには、通常の認識とは違うbekannt(熟知せられた)というあり方があり、それは直接自らがそのものと合一することにより知るということだ、という前置きのあと、昔から人間を、「知る人(homo sapiens)」と「作る人(homo faber)」とに分ける考え方があるが、この外に「旅する人(homo viator)」を加えたいと主張しています。ホモ・ヴィアトールとは、旅を旅する人で、芸術的、宗教的な性格を持つもので、何かを求めて得る結果に喜びを見出すのでなく、求めること自体に喜びを見出す精神であると言い、芭蕉を例に挙げ芭蕉の言葉を引用しながらその精神を説明しています。

 「知る人」、「作る人」、「旅する人」とよく似た分類として、オリンポス競技での「名誉を求める競技者」、「競技を当てこんで儲けようとする商人」、「競技を楽しまんとする観客」があり、三番目の人たちをアリストテレスが「テオリアの人」と呼んで、「名利を離れて純粋に見ることを人生最上の生活とみなした」(p13)ことが紹介されていましたが、この「テオリアの人」が「旅する人」と呼応するように感じました。

 もう一か所、古代から現代にかけてを、人々の情念から辿って次のように書いているところが印象に残りました。「古代に於いて文化を出発せしめ且つ支配したものは『驚き』の念であり、中世の指導的情念は『讃嘆』であったが、デカルトに始まる近代精神は『懐疑』に発し、カントの『批判』を通して現代に於いてそれは遂に『絶望』にまで追いつめられた」(p80)。現在はそれすらも通り越して、私もその中にどっぷりと浸かっている「能天気」の時代と言えるでしょうか。

MONIQUE WATTEAU『LA COLÈRE VÉGÉTALE』(モニク・ワトー『植物の怒り』)

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MONIQUE WATTEAU『LA COLÈRE VÉGÉTALE―La révolte des Dieux Verts(緑の神の反乱)』(marabout 1973年)

 

 marabout叢書の一冊。マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』や「小説幻妖 ベルギー幻想派特集」の森茂太郎評論でも、取り上げられていた女流作家です。この作品とあといくつかを残しただけで筆を折り、画家に専念したということです。どんな絵か見てみたいものです。

 

 文章が平易だったこと、マレーや地中海の島という自然を背景にした出来事であること、主人公の眼で叙述しながら途中で妻の父の手記が紹介されたり妻の日記がしばらく続いたり変化があったことで、面白く読むことができました。樹々が動いたり、みるみる植物が繁茂する場面などは特撮を使わないといけませんが、映画にしてもよさそうなヴィジュアルがあります。

 

 およそのストーリーは次のようなものです。

主人公は、動物を捕獲して動物園に売る仕事をしている男で、マレーの森のなかの寺院で、西洋人の娘と出会う。彼女は布教に来たオランダ人の宣教師の娘で現地で生まれたが、5歳の時に母、父を相次いで亡くし、現地の乳母に育てられた。彼女は樹や植物と話すことができると言う。二人は一目見て恋に落ち、その場で永遠の愛を誓う。そのとき石像の頭が落ちてきて、主人公に当たりそうになる。他にも不思議な現象があり、主人公が寺院に向かう途中は植物が繁茂して道が塞がれていたのに、帰りは道が開けていた。

 

別の島で落ち合う約束をし、別れ際に、彼女から父親の手記を渡される。船のなかで読んでみると、父親は現地の自然に魅惑され布教も忘れてしまったようだ。約束の島に現われた彼女と小さな湖で結ばれる。ヨーロッパに向けて船出する前日、島の儀式に参加した彼女はみんなの前で花を髪に挿して踊る。その最中に遠くで大木が倒れる音がする。彼女は自分が大事にしていた樹が倒れた音だと言う。

 

パリで一緒に生活したものの、南国育ちの妻には合わず、二人で主人公の祖母が遺したレバント海の島にある家に向かう。主人公が先に家に入って家の補修をしている間、妻は外の小屋で待つが、しびれを切らして庭に入ったところ、植物が繁茂し襲いかかってくる妄想に囚われて倒れてしまう。介抱された妻は、家の中に樹々が入り込んで、根を生やし壁の隙間に入り込み、寝室では薔薇の樹が床を突き破って生えているのを見る。家は広く、一室だけ植物が入り込めていないガラスと石の部屋があった。

 

ある日、島のバーで飲んだ後、家に帰ると、一人の大男が家の前で待っていた。変わった建物だから中を見たいと言う。家に招じ入れて話すうちに、男の話術と親しみに魅せられ、招待客として迎えることにする。大男はガラスの部屋を選んだ。お休みの挨拶で、大男がマレー語を喋ったので二人はびっくりする。その後、妻は大男と親しみを増すうちに、大男が何か企んでいると見抜き、聞きだそうとするが、はぐらかされるだけだった。

 

徐々に家の中や家を取り巻く植物の成長が激しさを増してきて、寝室も薔薇の枝が繁茂し、窓は薔薇の花で覆われ、ベッドにいても薔薇の棘で足を傷つけるまでになった。庭では昆虫や小動物たちの死骸が次々に見つかった。そしてある日、子ども同然に可愛がっていたリス猿が行方不明になる。二人はパリへ戻ることを決意する。荷造りをしていると、商人が売りに来た貝の中にリス猿のものと思われる動物の眼玉が二つあった。

 

リス猿を探そうと二人で外に出て入り江まで辿る途中で、大地を揺るがしながら樹々が追いかけてきた。ほうほうの体で逃げ、二人で海の中に飛び込んだ。気がつくと、港近くの岩の上で倒れていた。数日後の夜、妻は自分で作った服を着て見せ音楽に合わせ二人で踊る。翌朝妻は死んでいた。主人公が呆然とするなか大男は怒りに任せて森に火を点けながら去って行く。樹々は黒焦げになった。妻を埋葬しようと穴を掘るが、焦土のなかに緑の芽がはや生えていた。主人公は陸地では妻を植物に奪われると、妻と一緒に海の中に沈むことを決意する。

 

 長くなってしまいましたが、大きな軸は主人公と妻との愛の物語で、彼女を恋している緑の神々が嫉妬して主人公と妻の愛を妨害し、挙句の果てに妻を殺してしまうという流れです。途中宇宙開闢の神の化身と思われる大男が登場して最後に緑の神々と対決するという構図があり、結局人間同士の愛が勝つという結末が導かれています。

 

 醍醐味としては、植物が意思を持ち人間を襲うという恐怖で、昔テレビ映画(「世にも不思議な物語」か?)で、セイタカアワダチソウみたいな草がものすごい勢いで繁茂する恐怖映画を見たことがありますが、それに近いものがありました。また東南アジアの舞台設定や動物たちが出てくるところなど、モーリス・マグル『虎奇縁』を思わせるところがありました。

        

 最後の場面で、海に沈んでいくところは、荒唐無稽としか言いようがありません。足に重い石を括りつけて海面に身を投じてから、3ページにもわたって、海の中の様子が延々と描写され独白が続くのは不自然ですし、そもそもその場面を誰が書いているかということが成り立ちません。幻想物語にも本当らしさというのは必要だと思います。

ベルリンの古本屋ほか

 前回古本報告からずいぶん間が開いてしまいました。この間ドイツへ旅行しましたが、昨年パリでの作戦に味を占めて、ベルリンで家内らをアルカーデンという大型ショッピングセンターに残して、地下鉄を乗り継いで古本屋に一軒行ってきました。事前にネットで調べていた「Kleistpark」駅近くの「Bücherhalle」というお店です。写真も載せておきます。ネットに各国語の本もあると書いていたとおり、フランス語の本が一棚分ぐらいありました。しかしなかなか探求書は見つからず、ファントマ・シリーズを2冊購入。

MARCEL ALLAIN『LE MORT VIVANT』(COLLECTION REX、?、5€)

PIERRE SOUVESTRE et MARCEL ALLAIN『FANTÔMAS―LE FIACRE DE NUIT』(COLLECTION REX、?、5€)

ドイツ語はからきし分からないので、フランス書の棚以外は見向きもしませんでしたが、今から思うとドイツロマン派画家の画集でも買うのだったと悔やまれます。 

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 古本市では、大阪で飲み会の日に当たっていたので、久しぶりに、ツイン21の古本市に寄ってみました。

石原吉郎『北鎌倉』(花神社、78年3月、1000円)→歌集。古書キリコの出品。

ポール・ヴァレリー生田耕作訳『書物雑感』(奢灞都館、90年8月、500円)→斜陽館

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 店舗買いでは、大阪の蔦屋書店へ鹿島茂原武史の対談を聞きに行く途中、天神橋筋商店街の天牛書店に立ち寄り、下記2冊。

PIERRE LOUŸS『LES CHANSONS DE BILITIS』(ARTHÈME FAYARD、34年1月、1500円)→JEAN LÉBÉDEFFという人の木版画が各ページについている。

北原尚彦『古本買いまくり漫遊記』(本の雑誌社、09年4月、980円)→久しぶりにW買い、しかも7年前に読んでいた。

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 オークションでは、

前田鐵之助詩集『蘆荻集』(詩洋社、昭和2年9月、300円)

赤瀬雅子/志保田務『永井荷風の読書遍歴―書誌学的研究』(荒竹出版、平成2年2月、220円)→以前立ち読みで荷風がレニエの作品をたくさん読んでいるのに驚いたが、もう一度詳しく見てみようと。

瀬谷幸男/狩野晃一訳『中世イタリア民間説話集―IL NOVELLINO』(論創社、16年9月、1240円)

『日本の木口木版画―明治から今日まで』(板橋区立美術館、93年12月、620円)→気谷誠が寄稿している

島本融歌集『アルカディアの墓碑』(丸善出版サービスセンター、平成15年9月、324円)→美学者の観念的短歌?

ジャック・レダ水谷清訳『静けさの帰還』(舷燈社、07年2月、1069円)

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 アマゾン古書で、

高階秀爾バロックの光と闇』(講談社学術文庫、17年11月、735円)

原章二『人は草である』

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原章二『人は草である―「類似」と「ずれ」をめぐる考察』(彩流社 2013年)

 

 ローデンバックの『死都ブリュージュ』についての章があったので購入した本。著者はジャンケレヴィッチに学んだ哲学者です。全編、オリジナルとコピー、類似と差異に関連した文章が集められていました。過去の思想、小説、映画などを引用しながら、自説を展開していますが、『死都ブリュージュ』以外は読んだり見たりしたことがないものばかりで、分かりにくい部分も多々ありました。

 

 冒頭、デカルト、ルソー、フランクリンを引用比較しながら論じている部分は明快でした。オリジナルな思考を尊重し、コピーであってもオリジナル的な理解があればよしとしたデカルト、社会に毒されず誠実に考えることがオリジナルでありコピーは排斥されなければならないとしたルソー、その二人に対し、オリジナルなんかどうでもよい、ただ良いものであればどんどん真似してほしいと、コピーを擁護したフランクリンを対峙させています。

 

 デカルトは、まっすぐに真に向かって、曖昧で混乱したものを嫌い分割と直線に固執したと、著者は言いますが、都市のあり方に対しても、直線的ですっきりしたものを好んだようです。ルソーはまた他人の物真似に溢れた社会を嫌悪し、未開人の立場で独自なものを追求したと言います。これに対しフランクリンは、真なるものにこだわらず、見栄えさえよければ、優れたコピーの方が下手なオリジナルよりましと考えていたようです。この対立を大きく捉えると、頭でっかちと現実主義者、あるいは学者対商人の構図が隠れているような気がします。少し単純すぎますが。

 

 ほかにも、この本に触発されていくつか考えました。

①疑わしきもの・曖昧なものを排除し、真において二重性やずれを克服しようというデカルト的な考えは、社会の秩序と関係しているのではと思う。著者が、「真や善が一つであるのに対して、美は一つではない」(p157)と書いているように、真や善は社会の秩序に必要なので多様であると困るが、美はそうではないということだろう。近代は真・善をそれぞれ一本化することにより、強固な秩序を形成することができ、大きく発展したのではないだろうか。

②この本を分かりにくくしている理由のひとつは、「類似」とか「似ている」ということを抽象的に語っているせいではないか。「似ている」というのには、顔が似ている(輪郭・部品)、音楽が似ている(メロディ・和音・リズム)、服が似ている(色・形)など、多様なケースがある。「似ている」という言葉の背後には、「〇〇が似ている」の「〇〇」が隠れているわけだ。また、〇〇以外の部分は異なる「部分似」という形態もあれば、全体が似ている「そっくり」、完璧に同じ「同一」など、いろんな様相がある。

③考える人がよく陥りがちなことだが、著者は「類似」という言葉にこだわり過ぎ、逆に囚われているのではないか。「類似」一元主義に陥っているといってもよいかと思う。これは著者が目指しているリゾーム的発想とは真逆の思考のような気がする。

④私なりに、オリジナルとコピーについて考えてみた。もしオリジナルにこだわるのであれば、創造的な発露があればそれがオリジナルだと思う。無から何かを創造するというようなオリジナルはこの世の中ではあり得ないこと、すべて過去の何らかの体験や言説の影響を受けているし、そもそも言葉を覚えるということ自体がコピーだから。創造的な発露のないコピーとしては、自己の関与なく、そのまま右から左へ複製を作るようなもの、例えば近代の工業生産があるだろう。ただ生産時には単なるコピーであっても、受容する側には創造的な発露としてのオリジナルが生まれることは十分あり得る。

 

 『死都ブリュージュ』について書かれた章は、この小説のテーマと著者の関心が一致して、見事な評論になっています。最愛の妻を亡くし、ブリュージュの町へ悲しみを癒しにきた主人公が、そこで亡き妻と瓜二つの女性を見かけ、恋に落ちる話であり、遠くから慕っているうちはよかったのに、接近するにつれてわずかな差異が妻を冒涜する印象となり、やがて破局へと至るというストーリーで、まさしく類似と差異が起こす悲劇と言えます。ただ著者が言うもう一つの類似、亡き妻を哀惜し憂鬱に閉じこもる主人公と灰色で死んだような運河の町ブリュージュの間の関係は、類似と言うよりは共鳴とか融合と言うべきものでしょう。

 

 最後に、蛇足ですが、訳文を引用する際に、訳者の名前を書いておきながら、一部変えたところもあると付記しているのは、著作権(肖像権)の侵害ではないでしょうか。まさにこれは著者が問題としているオリジナルの問題なんですが、足元が暗かったようです。それとも敢えて意識してそうしたのか。 

辻昌子『「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論』

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辻昌子『「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論―世紀末的審美観の限界と「噂話の詩学」』(大阪公立大学共同出版会 2013年)

 

 何年か前にジョルジュ・ノルマンディ、先日はオクターヴ・ユザンヌと、本国のジャン・ロランに関する本を読んだ流れで、手元にあった日本人が書いたジャン・ロラン論も読んでみました。ロラン作品や先行研究、さらには関連する書物をよく読みこなし、緻密な論理で組み立てられていて感心しましたが、読み終わって世代の差を感じずにはおれませんでした。

 

 われわれの学生時代は、それまでの純文学的な作品や重いテーマを持った作品、小林秀雄のような正統的な文学評論がまだ主流ななか、異端と言われた文学や幻想怪奇小説、評論では澁澤龍彦種村季弘などが少しずつ刊行され、それをわれわれは新刊が出るごとにむさぼるように読んでいました。当時翻訳の出ていなかったM・Prazの『THE ROMANTIC AGONY』 (英語版)を教典のように崇めて読書会を開こうとしたりしました。

 

 著者の場合は、すでに幻想小説、異端評論の全盛時代に生まれ育ったせいか、逆に頽廃とか浪漫に浸るのを忌避する毅然とした姿勢があり、社会的な目線を持ち、構造主義的な手法を用いて作品を分析しているという印象を受けました。ロランの初期作品に重要な位置を占める詩にはまったく触れていないということもそのひとつです。ロランの詩的美的な評価が日本に紹介される前に、こうした評論が出版されたことは、日本の読者にとっていいことかどうか分かりません。

 

 先行研究や関連書をよく読んでいるのに驚きましたが、研究を専門にしている場合、自分の意見を素直に書くと先行研究と重なってしまうことになりかねないので、たえず先行研究に目を通さないといけない大変さがあることに気づかされました。私のように能天気に感想を書いているわけにはいかないわけです。

 

 これまでロラン作品を漫然と読んできましたが、いろんな研究を教えていただいたおかげで、ロランの物語の語りの構造や閉じられた館の意味など、作品理解をより深めることができました。小説の虚構性と謎の象徴性を重視した作家ということがよく分かりました。

 

 以下、先行研究も含め、本書の印象的な部分を少しアレンジして書いておきます。

①ロランの小説は、新聞の連載によるものが多く、必然的に細切れの短い作品にならざるをえないので、出版するにあたって、バラバラに発表された断片的な作品をひとつのかたちに繋ぎあわせているという特徴がある。

 ②ロランの一方の代表作『象牙と陶酔のお姫様』の特徴は、デ・ゼッサントに代表される私的空間に閉じこもる人物の楽園喪失物語という世紀末文学のパターンが、伝統的なおとぎ話の枠組みの中で語られているということである。

 ③19世紀の親密な個人的空間に対する関心の高まりは、近代的な大都市文化の成熟と並行して現れた。公共の場に対する個人の隠れ家としての室内をいかに書くかという問題は、芸術愛好家にとって自身の内面性を表現することでもあった。

 ④世紀末文学のなかで私的な室内に閉じこもる傾向と、謎を解決する探偵小説というジャンルが同時代に流行し始めたこととは密接なつながりがある。

 ⑤室内空間と謎との関係で言えば、閉鎖空間を外から見た場合、そこには他者の謎というものが存在し、それをあれこれ推測するところに物語が生まれる。ロランはそれをゴシップ記者としての手法で、謎を解くというより、謎を噂話として語り続けることで、巧みに話を誘導している。

 ⑥ロランはその謎を深めるために、いろいろな仕掛けを張り巡らし、何らかの障害物を設けて、謎をより魅惑的なものにしたり、ひとつの真相を次々と塗り替えて新しい真相を提示していったりする。それは謎が結局は空虚であり、それを明かすことはタブーなので、登場人物たちは噂話で謎の周辺を巡り続けることになる。

 ⑦再び探偵小説との関連で言えば、ドイルのホームズシリーズが、終盤になるにつれ謎の追求を止め、グロテスクな傾向の勝った解決のないものが急増していくというのも、同じ枠組みで考えられる。

 

 この謎を解決しようとせず、保留し続けるという態度は、まさにこの時代の象徴主義的な手法ではないでしょうか。