リチャード・モリス『光の博物誌』


リチャード・モリスはやし はじめ訳『光の博物誌―神話・絵画・写真・現代物理学etc.』(白揚社 1980年)


 この古本は買ったときからカバーが外れていました。以前、2019年10月に3冊ほど光に関する本を読みましたが、今回は、その続きとして、その後買った本も含め5冊ほど読んでいきます。まずは総論的に、博物誌から。博物誌というのは私の好きなジャンルで、学生の頃は、澁澤龍彦や種村季弘の奇妙な博学知識がちりばめられたエッセイに耽溺し、その後、多田智満子の神話的博物誌やバシュラールの詩的博物誌(文学誌?)の洗礼を経て、魂、色、水、火、香、文様、塔、鏡、庭、円や多角形、数などについての博物誌的な本の蒐集に励み、このブログでも、このうちのいくつかについて書いてきました。

 それらの本の題名を見ていると、博物誌という言葉はなくても、博覧会、宇宙誌、物語、漫遊記、神話学、地誌学、文化誌、文化史、文学誌などがあり、博物誌というものが、歴史、地誌、神話、民俗学、哲学、文学など幅広い領域から探求されていることが分かります。この本も、著者の経歴からすると、基本は物理学が専門のようですが、光について、神話、宗教、美術、写真などからも多面的にアプローチをしています。

 物理の専門的な記述になると、途端に理解を越えたおまじないのように思えてくるし、それ以外のところは、だいたい知っているようなことが多かったので、身についたかどうか分かりません。科学の分野では私の分かる範囲で、新しく知り得た、あるいは忘れていて思い出したことをいくつか紹介しておきます。

 まず、冒頭、宗教の視点から光についての考察がありました。その要点は、
光の主と闇の精霊が戦い合う二元論的宗教のゾロアスター教がキリスト教に与えた影響は大きかった。神と光を同一視し、光明がサタンに率いられた暗黒の軍勢と闘うという構図は、『新約聖書』全体を通してあちこちに見られる。ユダヤ教はすでに信仰体系が確立していたので、キリスト教ほど影響は受けなかったし、仏教もゾロアスター教的モチーフとしては、光輪や光明の仏としての阿弥陀仏があるくらいである。


 次に、古代中世の哲学者、科学者が光をどう考えていたかについての記述も面白く読めました。
①ギリシアの哲学者のなかには、光が微粒子であると考えた人たちがいる。ピタゴラスは物体から放射される微粒子が眼に当たると視覚像が生ずるとし、100年後のエンペドクレスは、逆に、眼から放出された何ものかが物体に衝突して視覚が生ずるとした。両者とも光が太陽と関係があるとは思っていなかった。

②光の速度については、ガリレオが、夜、1.6キロ離れたところに助手を配置し、お互いに覆いをつけたランプを持って、片方が覆いを取りその光を確認すると同時に他方も覆いを取るという方法で、光の速度を測ろうとしたが反応のズレの方が多すぎて失敗。それに対し、そのほぼ30年後に、レーマーが何百万マイルも離れた木星の月を観測することで、光の速度を計算した。→調べてみると、木星の月イオが木星の裏側に隠れて消える現象が、地球と木星の間の距離の近い時は短く、遠い時は長くなることに気づき、その差は、光が地球の公転軌道の直径分を進むのに要する時間だと考えて、計算したということだった。


 絵画が光をどう表現してきたかについては、
①光と影によって立体感をもたせようとする明暗法は、一部ヘレニズム時代のギリシア画家やローマの芸術家にも用いられたが、中世には忘れ去られた。その結果、ルネサンス以前の芸術の大部分について光の不在が特徴となった。

②それ以後の画家で、光の画家と言えるのは、光源がないように見える幻想的な光を描いたブレイク、ロマンチックなシンボルとして光を描くことを追求したターナー、対象を描くのではなく、対象を見せている光を描こうとした印象派の画家たち。


 写真についても興味深い指摘がありました。
①カメラ・オブスクーラの原理は、12世紀には早くも知られていて、アラブの学者アルハーゼンは日食を観察するのにその仕掛けを用いていた。17世紀までには、持ち運びのできるカメラが開発され、19世紀初期には普及して、画家たちは透視図を描く際の補助として使ったり、ガラスに薄紙を重ねて自然の風景をなぞったりした。

②写真を作るには三つの要件がある。第一には映像を作り出すカメラ、第二には映った像を記録する何らかの感光物質、第三に、その映像を恒久化する何らかの方法。写真が誕生するまでには、第二と第三の部分で苦労があり、いろんな技術的な試みがなされた。


 現代物理学に関する分野では、私の無知を曝け出すようで恥ずかしいかぎりですが、次のような話が刺激的でした。
①大爆発(ビック・バン)によって宇宙が創造されたとすると、それ以前には何があったのか。しかしこのような問いは、時間そのものが大炸裂の中で作り出されたとすると意味がなくなる。

②現在宇宙は毎秒数千キロというもの凄いスピードで膨張しているが、それは全体の星雲についてであって、星雲内で重力によって互いに結びついている星の距離は変わらない。

③宇宙が誕生したとき、原初の火の玉状態では、光が支配的であり、物質は脇役にすぎなかった。光があまりにも強かったので、最初の70万年のあいだは、安定した原子が作られなかったからである。その後は、物質支配期となった。200億年が経過していると考えられている。

④空間の湾曲というのはイメージしにくいものだが、一つの類推がある。トランポリンのように平たく引き伸ばされたゴムのシートの上に錘を乗せると凹みができるが、錘の近くに小石を置いてみると、小石は錘の方に滑っていく。小石に適当な速力を与えることによって、錘の周りを回らせることができる。これは錘が力を及ぼしたからではなく、空間が湾曲したためなのである。

石井高『秀吉が聴いたヴァイオリン』


石井高『秀吉が聴いたヴァイオリン』(三信図書 1993年)


 2か月ほど前にヴァイオリン音楽シリーズを書いていたときに、この本を持っていたはずだと探して見つからなかったので、処分したものとしてスルーしていましたが、ひょっこりと出てきたので、遅ればせに読んでみました。この本を買ったのは、やはりタイトルの秀吉とヴァイオリンというミスマッチに衝撃を受けたからです。織田信長が安土城にオルガンを持ち込んで聴いていたという話は聞いたことがありましたが、秀吉もかという思いでした。

 しかし、この本はタイトルにミスリードされるところがあって、中身は、クレモナ在住のヴァイオリン製作者である著者石井高の波乱万丈な一代記というのが本当のところです。1943年生まれで、幼時を戦後の困窮した時代に過ごし、身体も弱く、アレルギー症で養護学園に入ったり苦労されたようで、性格も内気で孤独癖のある少年だったといいます。幼いころから絵や工作が好きで、ブリキで小さなオーケストラを作ったというのは、すでにヴァイオリン製作の片鱗が表われていたということでしょうか。

 養護学校で仲間たちの応援で空中転回ができるようになったあたりから、徐々に自信もつき、人に好かれるようになりたいと思うようになって、中学校では、演劇で主役をしたり、級長になったり、そして念願の都立高校にも入学できました。しかしそこからまた運命が大きく変わり、ヴァイオリンを聴かせてくれ登山の楽しみを教えてくれた父親が癌で数カ月入院後亡くなり、軍手に生ゴムを塗る工場を継ぐことになります。

 家業のために勉強をしようと、東京理科大学の工業化学科に入学し、東京大学工学部の実験助手になったりしますが、ヴァイオリン製作への情熱が抑えがたく、家業を放り出して、ヴァイオリン製作の師のもとに弟子入り、そしてついにアマティやストラディヴァリの誕生の地クレモナで修業する決心に至ります。国立国際ヴァイオリン製作学校に通いますが、家賃を滞納するなどの貧窮生活に陥り、それを助けてくれたのが居酒屋の親父。

 中学校高校で身につけた人に好かれる術と明るく楽天的かつ粘り強い性格で、苦境を乗り切りながら、ヴァイオリンの製作、復原、修復に励み、クレモナ市長から「楽器作り名人」の称号を貰うまでになります。しかし無理がたたったのか、肺結核を発症しサナトリウムに入院したり、それが回復した後も脊椎腫瘍の難病に襲われ、日本でのヴァイオリン個展開催の2週間前に、足の複雑骨折に見舞われますが、ギブスを嵌めた状態で何とか成功させるという話です。

 それで肝心の秀吉とヴァイオリンの話。著者がクレモナへ行ってまもなく、古文書館員から、4人の日本人が昔クレモナに来ていたことを聞かされ、ずっと気になっていましたが、それから15年後、たまたま日本へ行く飛行機で隣り合った歴史に詳しい人とその話になり、あとで、『天正遣欧使節記』という本が送られてきたのがポンと背中を押しました。「この少年たちがアマティに会った可能性はないか」という疑問が生じ、持ち前の探求心と粘り強さで、探索が開始されます。

 少年使節は1585年7月18日から3日間クレモナに滞在したことが分かっていたので、クレモナの古文書館でいろいろ検索してみたが、少年使節に関する資料は何も見つかりませんでした。その後、日本へ行って、フロイスの『日本史』、『イエズス会日本年表』、『耶蘇会史・アジア第二部』、『信長の世』などの資料を読み、長崎では、県立美術館、市立博物館、26聖人記念館、長崎純心女子短大、県教育委員会と訪ね歩いて調べ、さらには、神戸市立博物館の南蛮屏風を確認し、また天正少年使節研究の第一人者松田毅一の自宅も訪問しています。こうした探索の過程もこの本の醍醐味となっています。

 それで、結局、何が分かったかというと、天正少年使節がヨーロッパから持ち帰った楽器については、フロイスなどヨーロッパ側の記述を越えるものはなく、大名など多くの日本人が見ているはずなのに、日本側には楽器についての資料がまったく残されてなかったのです。そのフロイスの『日本史』の記述も含め、天正少年使節の楽器演奏については、次のような事実を知ることができただけということです。

①少年たちは、8年半にわたる旅の中で、楽器演奏法を習得し、ポルトガルやスペインで、オルガンなどを教会で演奏しており、見事な演奏だったことが報告されている。

②秀吉との謁見式は、1591年3月3日、京都聚楽第で催された。少年たちが、クラヴォ(クラヴィチェンバロ)、アルパ(ハープ)、ラウデ(リュート)、ラベキーニャ(胡弓に似た弦楽器)を演奏すると、秀吉は熱心に耳を澄まして聴き、3回アンコールを命じ、その後楽器を手に取って、あれこれ質問したという。

③どんな曲を演奏したかについては、「皇帝の歌」(ジョスカン・デ・プレ作曲)の可能性が大きいが、まったく分からない。

関口義人『ジプシー・ミュージックの真実』


関口義人『ジプシー・ミュージックの真実―ロマ・フィールド・レポート』(青土社 2005年)


 前回読んだ『オリエンタル・ジプシー』は、アラブ・イスラム世界のジプシーのルポルタージュでしたが、同じ著者による本作は、その前編に当たるもので、中東欧のジプシーについて調査した本。ブルガリア、ルーマニア、セルヴィア、モンテネグロ、マケドニア、アルバニア、ハンガリー、オーストリア、チェコ、スロヴァキアと駆け巡っています。

 まずジプシーのインドの起源に関する考察から始まります。ジプシーの原郷はインド北西部のラジャスターンではないかという見解を述べ、その理由を3つ挙げていました。
ア)現在もラジャスターンには、砂漠の芸能集団が存在しており、成立からおよそ3500年を経てなお、音楽や舞踊の15部族、蛇使い曲芸師など芸能の4部族、占いの6部族が明確に分かれている。この生業は現在のロマが受け継いでいる職種と似ている。

イ)ラジャスターンの人々とヨーロッパ諸国のロマとのDNA比較研究が一定の類似性を示していること。

ウ)言語の点でも、インド系諸語とロマの言葉のあいだに、共通する単語が見出されていること。


 それぞれの国について、ロマ人口の総数や割合が書かれていましたが、それらをまとめてみると、次のようになります。
ロマ人口の多い順では、ルーマニア220~250万(全人口比約10%)、ブルガリア70~80万(約10%)、ハンガリー55~60万、スロヴァキア40~50万、チェコ25~30万(約3%)、オーストリア2万5千~3万、モンテネグロ2万6千。その他、マケドニアは、単位面積当たりの密度から見れば世界最大のロマの集積率を示しており、首都スコピエ郊外の集落人口は4万5千とのこと。


 ロマ社会の特徴について印象に残った最たるものは、著者が12ヶ国を歩いて共通して感じたという、彼らの「穢れ」に対する考え方です。
①穢れは純潔と対比される概念であり、身体、死、女性、飲食、衣服、そして人の行為などの面に適用される。例えば、生理中だったり出産時/直後の女性は穢れているとされ、また死は穢れであり、死者を弔う儀式の目的は主に生きている遺族が死者による穢れから自らを清めるために行なわれる。人が行為によって穢れてしまうケースとしては盗み、姦淫、殺人などがある。

②ロマの穢れは内部と外部を隔てるという発想を基準にしている。体内は清浄だが皮膚を含めて外側は不浄であり、家の内部は散らかっていても清浄で、外は穢れている。ロマは浄いがガジョ(非ロマ)は穢れている。

③また穢れは伝染するものであると考えられ、穢れた者に不用意に接した者も穢れてしまうとされる。インドのカースト制度においても、「罪」と「穢れ」の概念があり、穢れの伝染が、飲食・婚姻・社会的交際の三つの接触によって生じるとされているのと似ている。こうした穢れの概念が存在した結果、ジプシー社会における異民族との交婚の忌避という伝統が保たれ、結果としてそれが彼らの同質性の保持に貢献してきたのである。


 その他、ロマ社会の特徴として、いくつか記述がありました。
①一つはロマ社会の内部に、職能や来歴によるサブ・グループがあり、ロマ自身もジプシーというより、サブ・グループを自らのアイデンティティとして表明する場合が多いとのこと。またロマ社会の内部でも対立や差別があるということで、例えば、アルバニアにおいては、イェヴグスというマイノリティ・グループがあり、1万人前後で居住地域も異なるという。

②ロマ集落は日本の長屋文化にも似ていて、居住者全体がひとつの家族のような関係性を保持している。ロマの生活は家族や部族単位としてのみ実体があり、周囲の世界との関わりにおいて、個人化されることがなかった。それゆえ、ロマたちの名前にはそれを傍証する資料や記録、つまり市民としての戸籍や登録などが存在しない場合が多く、集落の長が名前を付けたりしている。放浪していた当時のロマたちには互いを呼び合う愛称以外の名前は必要なかったからと、著者は推測している。

③ジプシーに対する差別感が広まっていった理由の一つに、東欧へ侵攻してきたトルコの脅威による市民の恐怖心の高まりや、プロテスタントによる宗教改革が及ぼした社会不安を払拭するために、政府が行なった反ジプシーの布告がある。


 音楽に関連した話題で、共感できたものや新しく知ることができたのは、次のようなものです。
①著者がマケドニアで、7、8人のジプシー・ブラスバンドがこちらにやって来るのを見たとき、「チンドン屋」の風情にも似た何か懐かしい音風景に出会ったような気がしたという。インドにおける砂漠をさ迷う門付け楽士に始まり、アルメニア、トルコ、イラク、イランなどで街角に突然現われる楽隊、バルカンに見られる冠婚葬祭の日雇い楽団にいたるまで、彼らはそこに居合わせた衆人たちの意識を瞬時にトリップさせ、日常のなかに「ハレ」の場を演出する役割をもっているのである。

②ハンガリーのロマ音楽事情については、かなり詳しく書かれていました。
ア)ハンガリーでは、バルカン諸国のように地方の町や村でロマの演奏を聴く機会はきわめて少ない。というのは、ほとんどが都市型の音楽職人になってしまったためである。治世者の後押しによって発展し、ヨーロッパのクラシック音楽文化のもたらした教育システムの中に組み込まれ、高度な演奏技術や優れた読譜力を身につけたミュージシャンが多く、バイオリン、ツィンバロムには世界的な名手がそろっている。その音楽はロマ特有のワイルドさよりは様式化されたクラシカルなものとなっている。

イ)クラシックの作曲家の作品には、ジプシー音楽の影響を受けた作品が数多くある。ハイドン「ツィンカレーゼ」、シューベルト「ハンガリー風メロディー」、ウェーバー「ハンガリー風ロンド」、リスト「ハンガリー狂詩曲」、ブラームス「ハンガリー舞曲集」、ドヴォルザーク「ジプシーの歌」、サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」。ここでハンガリーという言葉で示唆されているのは、ジプシー風ということであり、ハンガリーがジプシー音楽を代表するような形になっている。

ウ)しかし、ハンガリーのロマ音楽の最盛期は、19世紀半ばまでで、20世紀中盤のロマ・ミュージシャンの数は、およそ25%に減少したという。

③その他、次のようなものがありました。
ア)ロマのような放浪芸人のあり方は、ラジャスターンの芸人や西アフリカの語部であり吟遊詩人であるグリオ、さらにはフランス北部のトルバドゥール、スペインのロマンセーロ、ギリシャのレンベーティカなど、その原点は流謫に追いやられた放浪者の歌であった。アジアでも、スリランカのバイーラ、インドネシアのクロンチョンなどが存在している。

イ)ジプシー・ミュージックには、一貫した音楽的特徴や共通のモードと言えるようなものは存在しない。

ウ)例えば、ブルガリアのイヴォ・パパソフのグループの演奏には、ジャズやロック系ジャム・バンドの即興演奏と同じようなノリのよさがあるが、同時にそれらと一線を画するブルガリアン固有の変拍子の展開がはっきり聴き取れる。

夏の阪神古書ノ市ほか

 6月末の報告から2カ月が経ちますが、買った本はわずか。歳とともに購入欲がどんどん薄れて行くようです。
 以前は、毎日のようにヤフーオークションを眺めていましたが、最近は探求書が発生した時だけ検索するような感じ。古本屋探訪も、大阪に出たついでに行く槇尾書店や、年2、3回程度覗く天牛書店(天神橋筋店、緑地公園店)や阪急古書の町ぐらい。古本市は、四天王寺、阪神百貨店古書ノ市、京都百万遍は、ほぼ皆勤ですが。

 それで先日阪神百貨店の夏の古書ノ市があり、初日のお昼すぎに行ってきました。会場に入ったとき、ちょうど開店からの客がレジに長蛇の列をなしていました。私が買った3時ごろは誰も並んでいませんでしたが。
 いつも寸心堂で買うフランス語の原書が今回はあまり出品されておらず、がっかり。その寸心堂の出品で、下記を購入。当然持っているはずと思い、この25年ほどの購入記録を検索してみて出てこなかったので、W買い覚悟で買ったところ、やはり重複。
R.L.ブレット児玉実英訳『空想と想像力』(研究社、昭和46年4月、300円)

 OYOYOSHORINでは、下記。
竹内実『中国喫茶詩話』(淡交社、昭和57年1月、1320円)
→時代順に(?)、中国のお茶が出てくる詩を引用しながら、お茶の歴史や飲み方について書かれているようだ。中国詩の解説本はたくさんあるが、こうした視点の本は珍しいと思う。

 矢野書房では下記。
槇佐知子『日本昔話と古代医術』(東京書籍、89年6月、500円)
→『医心方』の研究者が、日本の古代医術との関連を中心に、日本昔話の解説をしているようだ。これも面白い視点。

 次は、出品者が不明(というか忘れた)。
多田憲一『海洋文學ノート』(高山書院、昭和18年11月、500円)
→ハイネ、グリルパルツァー、シャミッソー、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの詩を取り上げて論じている。他に海洋美学や日本海景論など美学者ならではの章も。これも変わったテーマの本。

谷川俊太郎『わらべうた』(集英社文庫、昭和60年4月、250円)
→挿絵付きのきれいな本。もちろん詩もリズムに溢れて楽しく面白い。

 8月初旬に、近鉄阪神沿線を飲み歩く会に行ったついでに、堺筋本町の槇尾書店に立ち寄って、400円均一棚で下記を購入。
『柿本多映句集』(ふらんす堂、93年11月、400円)
→柿本多映という人はまったく知らなかったが、橋閒石に師事したということや、ぺらぺらとめくって、私の趣味に合いそうな作風だったので購入。例えば、適当に抽出すると、「空蝉を拾へば水の零れけり」とか「夢の辻曲がり違へて蜷の昼」、「百物語尽きて鏡に顔あまた」など。

 ネットでは、下記を購入。
 このところ読んでいた西欧主流近代音楽の周辺の音楽に関連した書籍として。
伊東信宏『中東欧音楽の回路』(岩波書店、09年3月、1316円)
関口義人『ジプシー・ミュージックの真実―ロマ・フィールド・レポート』(青土社、05年10月、1230円)
  
 シュペルヴィエルの翻訳者研究者がどんな句を作るかと。意外とまとも。
後藤信幸全句集『葛の空』(巴書林、21年1月、1125円)

ANDRÉ DHÔTEL『Un soir…』(アンドレ・ドーテル『ある夕べ』)


ANDRÉ DHÔTEL『Un soir…』(GALLIMARD 1977年)


 アンドレ・ドーテルをフランス語で読むのは4作目。前に読んだ『Les voyages fantastiques de JULIEN GRAINEBISジュリアン・グレヌブスの不思議な旅』、『La nouvelle chronique fabuleuse新・架空噺』の2作に比べると、幻想味は薄まっていましたが、それなりに面白い。ランスを中心としたフランス北東部らしき町や村が共通の舞台となっている11の物語を収めた短篇集で、自然の風景や自然な感情の動きへの愛おし気な眼差しが感じられます。後述の2篇を除き、ほとんど普通の生活風景が描かれていますが、少しだけ常軌を逸して変幻する部分があり、それがこの小説の魅力となっています。

 その常軌を逸して変幻する部分とは、婚約式をすっぽかして会場を素通りして歩き続けたり(Un soir…ある夕べ)、婚約者が一瞬村娘に気を惹かれたり(La maison de campagne田舎の家)、愛の告白を盗み聞きして嬉しいのに逃げ出す娘であったり(Conte d’hiver冬の物語)、なぜか執拗に眼の前に現われるサンドイッチマンだったり(Qui était Monsieur Janvier? 1月氏とは何者だったのか?)、平穏な夫婦生活に突如嵐のような騒動が起こったり(Trois jours de colère怒りの3日間)、ふとした再会でそれまでの生き方が一変したり(La route de Montréalモントリオールへの道)、昼は怖ろしく魔窟のようなジプシー風の集落が夜穏やかな面を見せたり(Les Nuits de Malmontマルモンの夜)、恋が成就しそうになる直前に酒のせいでタガが外れたような行動に出たり(Auberges飲み屋)、元同級生のドジな男を避けて優秀かつ自然体の男と婚約までするが最終的にドジな男を選んだり(L’Horizon水平線)します。

 瞳、眼差しが魅力のポイントとなって、男女間で惹かれあうという話がいくつもありました。例文を挙げると、「唇と瞳は驚くべき魅力を放っていた」(「Un soir...」p11~12)、「また突然あの謎めいた眼に出会ったのだ(「Qui était Monsieur Janvier?」p92)、「とにかく、この眼と髪をずっと見ていたかった」(「La route de Montréal」p135)、「ジャンヌが君に優しい目線を送ってくれてるのに、まだ酒が必要かい?」(「Auberges」p180)、「彼女はきれいな眼をしていた」(「Fernand qui est mort au bord de la rivière」p206)。

 ほか、「La débâcle de printemps春の解氷」と「Fernand qui est mort au bord de la rivière川辺で死んだフェルナン」の2篇は、冒頭から、日常生活をかけ離れた極限状況を描くサスペンス小説で、他とテイストが違いますが、常軌を逸した変幻の部分を極端に拡大した作品と言えるでしょう。


 各篇を簡単に紹介しておきます(ネタバレ注意)。
Un soir...
ランス近郊の小村。ふらふらと村をさ迷うのが趣味の主人公は、すれ違っただけの女性の一瞬の姿が忘れられず、探し求めて、ようやく女性が手伝いをしている青果店を見つける。幸い従姉妹の知り合いと分かり、婚約式までこぎつけるが、ふと魔が差したのかすっぽっかしてまたふらふらと歩き続けてしまう。そして倉庫に入ると、そこにはやはり逃げて来ていた婚約者がいた。二人は運命的に結びつけられていたのだった。

〇La débâcle de printemps
叔母の遺産を当てにしている二人の甥は、自分だけが遺産に与ろうとしていた。叔母からの手紙を取り合ううちに、風に吹かれた手紙を取りに氷の張った川に入った一人とそれを追う一人。割れそうな氷の上で事態はどんどんと深みにはまっていく。そしてあげくの果てに…。スリルに満ちた展開の短篇。

La maison de campagne
主人公は、婚約女性の家族と田舎の家にヴァカンスに行くが、森で村の娘と出会い、野性的で調子はずれの雰囲気に惹かれる。一家は事情でその家を離れ、婚約者の女性も村の娘に嫉妬して去り、主人公だけその家に留まることになるが、最後は元の婚約者と一緒になってめでたし。婚約者と村の娘の名前が同じというのがこの短篇のキーポイント。

Conte d’hiver
旅の途中で出会っただけだったが、一途に愛する男と、その愛の重さに耐えられない思春期の娘。男が娘の祖母に娘への愛を語り、結婚したいと告白しているのを盗み聞きした娘はなぜか逃げ出す。雪の中の追跡劇は、「La débâcle de printemps」と同じくハラハラさせられた。

Qui était Monsieur Janvier?
主人公は女性記者。町でふと見かけた男に惹かれる。その男はサンドイッチマンやサンタクロースの姿で彼女の前に現われる。男は昔一目見て好きになったが死んでしまった少女に似ているという理由で彼女の前に現われたのだった。その後、別れても別れても出会ってしまう男女。ついに二人は結婚し家庭をもつ。不可解なお伽噺のような物語。

Trois jours de colère
若い娘とのちょっとした恋の真似事がきっかけで、妻とのあいだに大騒動が持ち上がるが、3日間経ってみれば、より絆が深まることになるのだった。主人公マトレーに、カミュの『異邦人』的なストレートで冷ややかなタッチが感じられる物語。

La route de Montréal
実直な農夫が、50歳を過ぎて、親しい農家の娘と結婚話が進むなか、昔知り合っていた故郷の娘と偶然出会い、その眼が忘れられず惹かれていく。話の展開が不自然。主人公がマチルド(故郷の娘)だろと何度も問いかけるのに、娘はなぜ自分がマチルドだと頑なに認めなかったのか。

〇Les nuits de Malmont
人々から魔窟のように恐れられているマルモンの村落。隣家同士がいがみ合っていて、町に住みながらその一方の娘に恋した主人公は、娘の母からの脅迫まがいの言葉を投げつけられると同時に、娘自身の二面性にたじろぐ。諦めかけたとき、夜の村落を訪れて、マルモンの人々が限りなく優しいことを知る。

〇Auberges
酒乱小説。友に酒を飲みすぎると諫めた方が、浴びるように酒を飲み始め、光、ヤグルマギクと、美しいものを求めて徘徊し、美しい少女を見つける。その姉と交際し順調に進んでいたが、酒乱のせいでふいと一人で列車で旅立ってしまう。3年後、残された姉が友の方と結婚したところへ戻ってくるが…。めでたしの結末がご都合主義的だが、ほのぼのと幸福感が広がる。

〇Fernand qui est mort au bord de la rivière
人里離れた石切り場という特殊な場で起こるドラマ。前科者三人が親方に雇われるが、若妻にちょっかいを出したことで監禁される。激しい憎しみを抱いていたのに、傷ついて死にかけた親方を、望み通りに川辺に連れて行く。小川という言葉が天国であるかのように響く。サスペンスもあり昔のフランス映画を見ているようだった。

L’Horizon
主人公の女性には、中学時代の二人の級友が居て、片やドジな奴で何でもやろうとして何ひとつできず貧乏、片や優秀さを誇るでもなく自然体で海外を旅したり翻訳をしたりする医学生で、親も裕福。後者と婚約し結婚の日取りも決まるが、何故か彼女は前者に惹きつけられ、未来を選ぶのだった。

関口義人『オリエンタル・ジプシー』


関口義人『オリエンタル・ジプシー―音・踊り・ざわめき』(青土社 2008年)


 今回はジプシー(ロマ)に特化したルポルタージュを読みました。著者は10代でアメリカへジャズ修業に赴き、そこでジプシーの音楽に惹かれて、ジプシー自体を調査研究するようになったという経歴の持ち主で、この本は、著者が中東欧のジプシーについて書いた『ジプシー・ミュージックの真実』という本の続篇です。アラブ・イスラーム世界のジプシーについて書かれていますが、タイトルを見ただけでも、前著に比べて、音楽の要素が後退しているように見えます。

 さすがに10代でアメリカへジャズ修業に行ったというだけあって、その行動力とヴァイタリティには驚くべきものがあります。言語の障壁から事前のリサーチができないまま現地に入り、通訳を雇って、わずかな伝手を頼りに交渉し、自ら車を運転して見知らぬ土地へ入っていき、チップ程度の謝礼を武器に取材を続けるというのは、普通の人間のできることではありません。まさに開拓的な仕事で、現代でもやる気さえあれば、まだまだ未知の領域があるということを知らされました。

 ただ、取材自体をありのままに伝えるという点ではハードボイルド的な展開の面白さはありましたが、ジプシー音楽への関心からこの本を手に取った者としては、この本の作りとして取材した材料を並べただけという感じも否めません。せっかく取材したから全部載せたいという気持ちは分からないでもありませんが、もう少し削った方がいいように思いました。肝心の音楽に関しては、最後のほうにいろいろ情報が出てきたので、良しとしましょう。

 ということで、まずジプシーに関する記述から、主だったものを集めてみました。
①ヨーロッパ全域には800万~1000万人のジプシーが存在するが、実はアラブ・イスラーム世界にも200~300万人は存在する。

②「ツィガーヌ」の語源は「異教徒」を意味するギリシャ語「アツィンガノス」から来ており、ジプシー差別の裏側には、アラブ・イスラーム世界に対する西欧の偏向思想がうかがわれる。

③ナチスのユダヤ人の大量殺戮の陰で、60万人とも100万人ともいわれるジプシーが殺害されたという事実は長い間明らかにされてこなかった。ユダヤ人と区別するために、「Z」を身体に刻印されたという。

④60年代後半にはヨーロッパを中心に人権擁護の動きが活発化し、ヨーロッパ評議会や国連の人権監視委員会などがジプシー問題を取り上げ始めた。

⑤アラブ・イスラーム世界のロマ(ドムと呼ばれる)と東欧のロマとが驚くほど似ているのは、家の中にほとんど家具らしきものが存在しないこと、そして室内が本当に散らかっていることだ。彼らは一切片付けるという習慣をもたない。

⑥ロマとドムというもともと同根の流れ者たちは、アナトリアを分岐点として二手に分かれた。アナトリアで最初にドムたちが記録されているのは、ビザンチン時代の11~12世紀で、熊使いとして記述されている。13世紀末のビザンチン帝国内では、蛇、熊、猿(ヒヒ)などを飼育し見世物にする人たち、14世紀初頭には、アクロバット、ジャグラー、ダンサーなどの芸能や篩作りなどを仕事にしている人たちとして記録されている。本人たちはエジプト起源と公言したり、インドから来たと主張しているようだ。現在、イスタンブールのタクシム広場で花屋をしている人たちはすべてロマ。

⑦ロマのアメリカへの流入は、大きく分けて三つの時期があり、1850~60年代にはイギリスから、1880年代にハンガリーやバルカン北部から、そして1900年代になって東欧系、主にルーマニアからの移住者たちがいる。この第三波のグループはニューヨークに定住した。


 音楽に関する話題では、総論として、アラブ世界の音楽の中心は明らかに西のカイロ(エジプト)と東のベイルート(レバノン)であり、ジプシー・ミュージシャンが成功を手に入れられる可能性のある国は、ハンガリーとトルコだけではないか、と感想を述べていました。地域別にいろいろありましたが、次のようなものです。

トルコ:
①イスタンブール、クンカブ地区のシーフード・レストラン街には、ジプシー・バンドの生演奏を聴かせる店が多数ある。南部バルカンのように、街角での演奏をするジプシーはほとんどいない。

②クラリネットがジプシー音楽の形成に果たしてきた役割は大きく、南バルカンからアナトリア(トルコ)にかけてとくに顕著。トルコにクラリネットが導入されたのは20世紀後半になってからで、多くのスター的クラリネット奏者が登場した。その一人バルバロース・エルキョセは、ヨーロッパにトルコのジプシー音楽がどういうものなのかを示した。ダンス音楽とクラリネットの音色の相性も良く、ベリーダンサーが踊る際にクラリネット奏者と絡むのも、一つのパフォーマンスとして定着している。

③ダルブッカの名手ブルハン・オチャル率いるトラキア・オールスターズの演奏は強烈な印象を残したが、それは、トラキアが民族音楽の宝庫で、彼らの体内には、幼い頃から染みこんだ民族音楽のメロディーの豊富なバリエーションがあり、互いに目と目で合図しながらそれらのリズムや旋律が次々に繰り出される様に、重層的な伝統の重さが感じられたからである。

④ドン・チェリーがトルコを訪れ、トランぺッターのエルギュン・シェンレンディリジの演奏を聴いたときの名言。「彼は西洋の音楽も演奏できるが、われわれがトルコ音楽を演奏するのは容易なことではない」。その息子で若手クラリネット奏者のヒュスヌ・シェンレンディリジは、正規のクラシカルな音楽教育を受け譜面を重視しており、バンドのメンバーにもそういうミュージシャンを集めている。新世代のジプシー・ミュージックが生まれ始めているのである。

シリア:
シリアには、「クルバット」と「ナワール」の二種類のロマがいるが、ナワールの特徴は女性がみなダンサーということである。男たちの中にはトリビーヤと呼ばれる楽士たちがいて、ウード、ダルブッカ、ネイ、カーヌーンなどのアラブでおなじみの楽器を操るし、時には歌も歌う。女性の歌や膝をついての首振りダンスは、インドのスタイルに似ていた。

ギリシャ:
ギリシャのジプシー・ミュージックは、ヴォーカル、クラリネット、ブラスバンドの3つのジャンルに分けることができ、ロマ・ミュージシャンだが、ロマを越えて国民的歌手になっているコスタス・ハジズや、多くのクラリネット奏者に衝撃を与えたクラリネットのヨルゴス・マンガスなどがいる。

 巻末に、「その後のジプシー・ミュージック」という章があり、そこでは、この本が書かれた時点の最新の動きが、新世代歌謡、ジプシー・ブラスの拡散と増殖、ニューヨーク、クラブ・ミュージックの4つのキーワードで紹介されていました。ここでは二つの項目だけ紹介しておきます。

新世代歌謡:
ルーマニアではマネレ、ブルガリアではチャルガというダンスの要素も加わった二つのジプシー歌謡が流行している。チャルガは、ギリシャのライカとその発展系であるスキラディコとスタイルが似ている。→チャルガについては、この前読んだ伊東信宏『中東欧音楽の回路』でもその魅力が語られていました。

ジプシー・ブラスの拡散と増殖:
ジプシー・ブラスが注目されたのは、『アンダーグラウンド』という映画に、ボバン・マルコビッチ・オーケスター、スロボダン・サリイェビッチ・オーケスターという二つのジプシー系のバンドが出演したのが契機となっている。その後、ベルギーのプロデューサーがルーマニア北東部で発見したブラスバンド、ファンファーレ・チョクルリーアがブームとなり、またマケドニア、コチャニ村を拠点にするコチャニ・オーケスターが参入して、ますます活気づいた。


 音楽に関連して、ベリー・ダンスについての記述も面白く読めました。
①ペルシャの詩人フェルドゥーシーの『王の書』に、ササン朝ペルシャのバフラム・グール王子がインド、パンジャーブに居住する音楽や踊りに長けたルリ族の男女1万人を宮廷の専属の芸能者としてペルシャの宮廷へ徴集した、というのが、ジプシーとダンスとの関わりについての最初の記述であり、5世紀のことであった。

②8世紀、『千夜一夜物語』のハルーン・ラシェッドの時代に、金満ファミリー、バルマク家に仕えた多くの踊り子たちの記録が登場する。1078年、ルーム=セルジューク朝の宮廷では、日々女たちによるダンスが披露されており、その踊り手たちはさまざまな皮膚の色、民族の出自であった。ここにトルコ版ハーレムがスタートする。

③15世紀以降のトルコでは、レスビアンの女性が女性相手に踊るチェンギと、男の踊り手が男性相手に踊るキョチョクという二つのダンスが存在していた。女性が家族以外の男性の前で肌を露出することはおろか踊ることさえ許されないというイスラームの倫理観の溝に密かにホモセクシャルな空間が生まれたのである。

④チェンギの踊り手は大半がジプシーであり、チェンギという呼称もチンゲネ(ジプシー)から来ている。またダンサーに音楽を提供する音楽家は、過去から現在に至るまで、大部分がチンゲネ・ミュージシャンであった。チンゲネ・ダンサーの職域はしだいにトルコ人をはじめとする非ジプシー女性たちに奪われていった。

⑤一方西洋社会では、19世紀に「オリエンタリズム」に彩られたダンサーが登場する。もっともポピュラーな例が、オランダ生まれのダンサー、マタ・ハリであった。

⑥トルコでは、その後、非ムスリムのダンサーが活躍したこともあって、肌の露出は極限までエスカレートし、その踊りは扇情的でエロティックなものとなった。1923年のトルコ共和国の設立は、結果としてベリーダンスに新時代をもたらした。

⑦今日、ベリーダンスは、アラブ文化圏の西半分を覆い、はるかアメリカにまで伝播し、アメリカが20世紀におけるオリエンタル・ダンスの新たな拠点となり、もはやジプシーたちとは無関係に発展を遂げている。

伊東信宏『中東欧音楽の回路』


伊東信宏『中東欧音楽の回路―ロマ・クレズマー・20世紀の前衛』(岩波書店 2009年)


 西欧主流音楽の周辺についての第3弾は、本格的中東欧音楽学者による論考。著者については、前から『東欧音楽奇譚』という著書の題名が気になっていて、今回東欧音楽について書こうとしていたので、ネットで買おうとしましたが、こっちの本が比較的安価で出ていて、買ったものです。結果的には、こちらの本の方が先に書かれているようなので、良かったと思います。古本購入報告はまた月末にいたします。

 さすがに美学者らしく、問題意識が深く、鋭い設問が冒頭から展開され、途中でも随所に、そうした設問が顔を出します。どういうものかといえば、「自分がある音楽に魅きつけられたり、別の音楽には見向きもしなかったり、というようなことは、どこまでが自分自身の判断であり、どこからが状況や環境によって左右されているのか」(p2)、「現在われわれがその中に否応なく巻き込まれてしまっている音楽消費の現状が、どのようなシステムによって成り立っているのか。そこには別の可能性はないのか」(p2)と畳みかけるように問いかけ、中世から近代にかけてのヨーロッパの音楽文化の構造について次のように分析します。

①従来のヨーロッパ音楽文化についての見方は、教会音楽や宮廷音楽のようなラテン語や楽譜という標準語をもった「普遍的ハイカルチャー」と、共通の言語をもたず口頭伝承されてきた農民たちの音楽のような「民俗的サブカルチャー」の、二項の図式で捉えることが多かったが、そこに盲点があり、諸民族のあいだにあってつなぐ役割をしていたもう一つの普遍的音楽を見落としている。

②それが本書で取り上げようとしているロマやクレズマーの音楽、あるいはロシアのスコモローヒ、ルーマニアのラウタールと呼ばれる楽師たちの音楽に他ならない。すなわち、教会音楽・宮廷音楽/農民音楽/楽師の音楽という三層構造として音楽文化を捉え、そのうちの最上層と最下層とが何らかの普遍性をもっていたと見るのがいいのではないか。その視点で考えると、20世紀に入ってから生じた民族や国境を越えた音楽の世界化の現象を、楽師たちの音楽が先取りしていたのではないだろうか。

③中東欧・ロシアの音楽の伝播は、ニューヨークへ伝わる西回りと、満州、上海、東京へと伝わる東回りのルートがある。ヨーロッパと極東を完全に隔絶したものと捉えるのではなく、連なりのなかに見るという視点も重要で、そう思って聞くと、ペギー葉山の「学生時代」や古賀政男の「サーカスの唄」には、どこかクレズマーの響きがある。


 そうした問題意識を「序」で提示したうえで、本文では9つの章に分けて、具体例を通して考えを進めています。その項目とは、シャガールとユダヤ人ヴァイオリン弾き、ストラヴィンスキーとロシア農村の楽師、コダーイとクンデラ、モルドヴァのブラスバンド、ブルガリアン・ポップ・ミュージック、レハールのオペレッタ、エネスクとルーマニアの楽師、リゲティ、バルトーク。音楽、絵画、文芸を同じ目線で取り上げているところが面白い。そのなかで印象的だった論述は次のようなものです。

①シャガールとユダヤ人ヴァイオリン弾き:ユダヤのクレズマーの音楽は、何本かのヴァイオリンとチェロ・コントラバスなどの低弦楽器、ツィンバロム、さらに19世紀中ごろから加わったクラリネットという組み合わせだが、これは、ロマの音楽のアンサンブルと同じ。

②ストラヴィンスキーとロシア農村の楽師:
ア)ストラヴィンスキー「春の祭典」のモデルは、ロシアがキリスト教化される以前の異教の神、クパーロの祭り。
イ)バレエ「結婚」の草稿を調べると、ストラヴィンスキーが当初テキストにしていた民俗的歌謡では、至極まっとうな親娘の対話があり、相互補完的で完結していたが、それを、さまざまな矛盾を含みこみお互いを触発し合うやり取りに改変している。著者は、そこに「民俗」を「前衛」と突き合わせる音楽の強さがある、と見ている。

③コダーイとクンデラ:
ア)クンデラの小説『冗談』のなかの登場人物が、ヴェールを一枚ずつ脱ぎながら踊る千夜一夜の女に喩えながら、モラヴィアの音楽の多層性を、ボヘミア、ハンガリー、スラブ、ワラキアと順に古層へと辿る話法が魅力的。
イ)民俗音楽研究を再検討する際に注意すべき点は二つあり、一つは「固有性」を捏造していないか、もう一つは「共通性」を過小評価していないかと、「序」で展開した議論を再び取り上げている。

④モルドヴァのブラスバンド:モルドヴァのブラスバンド奏者たちが、カナダの催しで、「ルーマニアの民俗音楽」として登場したとき、カナダ在住のルーマニア系住民から、「彼らはロマであり、ルーマニア人ではないからおかしい」と抗議を受けた。それに対し、「あなたたちこそルーマニアから離れているのに、ルーマニア人とどうして言えるのか」と反論したというエピソードが紹介されていた。著者は、彼らはモルドヴァという地域の音楽を演奏しており、「音楽を提供するロマ/それを享受するルーマニア人」という需要供給関係の中で成り立っている。それを「ロマの民俗音楽」とか「ルーマニアの民俗音楽」ということには意味がない、と喝破している。

⑤ブルガリアン・ポップ・ミュージック:ブルガリアでは、社会主義以前には、それぞれの村や地方に根付いたフォークロアがあったが、社会主義政府が支援する舞台化された「民俗音楽」が確立したのち、廃れていった。しかし、まだ統制され切っていないロマたちによる「結婚式の音楽」が、80年代ころからセルビアで盛んになった民俗音楽の語法を積極的に取り入れ、ワイルドに過激になって、新しい「チャルガ」というジャンルが誕生した。これはトルコのポピュラー音楽「アラベスク」と似たところがあり、欧米のポップスの語法を用い、都市労働者の音楽として登場してきたものである。

⑥レハールのオペレッタ:この章でも、オペレッタのありきたりの旋律にひそむ過去への郷愁に否応なく惹かれてしまう自分を顧みて、「同じ紋切り型でも、我々を魅了する紋切り型とそうでない紋切り型がある・・・一体その差は何に由来するのか、ということが問題なのだ」と鋭い問いを投げかけていた。

⑦エネスクとルーマニアの楽師:
ア)バルトーク「ヴァイオリン・ソナタ第二番」は、村の楽師のヴァイオリンの音楽と、20世紀の前衛音楽とを、媒介なく容赦なく結合する、という破天荒なアイディアにもとづいている。

イ)エネスク「ヴァイオリン・ソナタ第三番」では、民俗的な笛や村のバグパイプ、それに教会の木切れの音の模倣が見られるが、他の楽器の模倣をするのは、もともとこの地方の民俗音楽の世界でよくあった現象。エネスクは、7歳の頃に、ロマの楽師からヴァイオリンの手ほどきを受けている。

ウ)ポルタメントは、アカデミズムがいかがわしい要素として排除しようとしたものである。ポルタメント、ヴィブラート、各種のターンやトリルや先取音といったものは、旋律を運動として捉えるための技法(ないしその帰結)であろう。音楽を抽象的な音程関係の構築物としてではなく、一つの身体の律動として捉えることである。


 各章の終りにコラムが設けられていて、それがまたそれぞれ興味深い話題提供となっていました。
①「粉挽き場というトポス」では、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」、ヤナーチェクのオペラ「死の家より」の劇中劇のひとつである「粉屋の女房」、ファリアが音楽を担当したバレエ「三角帽子」の原題「代官と粉屋の女房」を取り上げ、舞台となっている粉屋や水車小屋というのが、村人たちからすれば異質なトポスであり、場合によっては「曖昧宿」的な性格を帯びる場合もあったことを指摘し、水車小屋の娘や粉屋の女房が不実な女として描かれる背景を明らかにしている。

②「フィガロはなぜ理髪師なのか」においても、理髪師という職業が、昔は瀉血などの外科医的なこともしており(その名残が理髪店の前の赤と青が螺旋の立体看板)、一種の大道医であった。また笛を吹きながら村を回り、ときには人間にも施術する豚の去勢師という職業があり、これも大道医で、この理髪師=去勢師は、何でも屋で、イタリア喜劇の道化的存在でもあったとしている。