建物に関連した幻想文学についての二冊

f:id:ikoma-san-jin:20210515133227j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20210515133249j:plain:w140
幻想文学48 特集:建築幻想文学館」(アトリエOCTA 1996年)
植田実『真夜中の庭―物語にひそむ建築』(みすず書房 2011年)


 建築の本の続きですが、しばらく物語の世界に入って行きたいと思います。その道案内となる本を二冊読みました。「幻想文学48」は、建築が主役となっている幻想文学を網羅的に紹介したもの。『真夜中の庭』のほうは、フランス文学出身で建築関係の編集をしている人が、自分の好きな小説や絵本を紹介した本です。

   
 久しぶりに「幻想文学」を読んで懐かしく思いました。昔は出るたびごとに新刊で買って、ブックガイドのところだけ熱心に読んでおりました。今も40冊ぐらいは所有しておりますが、何を隠そう、通読した号はほとんどありません。今回通読してみて充実ぶりに感心しました。もう歳なので何冊読めるか分かりませんが、そのうちまた別の号も読んでみたいと思います。

 建築と幻想、あるいは建築と文学に関するいくつかの論点が提示されていました。
①塔、城、神殿、迷宮、地下室、屋根裏、窓、扉といった建築の形や部分は、もともと文学的・哲学的なイメージを持つもので、多くの小説でそれらの表象が利用されている。建築幻想文学と名指ししているのは、建築を意識的に中心に据えた幻想文学ということ(石堂藍の文章を要約)。

②一方、建築家の立場からすると、現実に建っている建築は幻想とは言えない。ピラネージ的なものを描いているように見える建築家たちでも、リアリティを追及していて空想を描いているつもりはない(飯島洋一)。たしかに、建築は言葉なしでも成立するものだ。

③「遠くから眺めると、われわれにとっては混乱であるものが秩序と思えるかも知れず―われわれにとって不恰好なものが美しく見えるかも知れない」というポーの「アルンハイムの地所」からの引用があったが、結局は、建築物を見る側の視点の問題ということだろう。それは内面的なもので、現実の建築からは独立したものだ。

④つまり、合理的と思われるものであっても、見方によれば幻想になりえるということだ。福島県にある二重螺旋構造のスロープからなる木造三層六角堂の「さざえ堂」という建物は、幾何学と言えども、情念が度を超せばバロックになることを証明しているし(藪下明博)、遠近法が合理的なものと考えられたのは19世紀の絵画理論のなかでのことで、それ以前の18世紀のビビエーナ一族が使っている遠近法は化け物だ(高山宏)という。

 いくつか興味深い事実を知ることができました。例えば、『黒死館殺人事件』の生原稿に接した東雅夫の報告で、タイトルが掲載直前に書き換えられていて、その前は『黒死病館殺人事件』だったこと。自らの内に「メーズmaze迷路」の存在を感じるとき、それを「ア〈メーズ〉メントamazement驚愕」と言うこと(高山宏)。ブルーノ・タウト生駒山頂にユートピア的な小都市計画を考え設計していたこと(高山直之)。

 また読みたい本やゆっくり眺めてみたい絵画や映画などが続々と出てきました。本についてはたくさんあり過ぎるので省略しますが、絵画と映画は以下のとおり。R・ダッド「崖上の城」、ヤン・シュワンクマイエルの映画「ファウスト」と「フード」、クリスチャン・ジャンク「フランケンシュタイン城」、ジョゼフ・マイケル・ガンディー「マリーンの墳墓」、トマス・コール「建築家の夢」(カプリッチョという絵画のジャンルは、いろんな時代の建築を同じ場面に並べて見せる手法のことと知った)、チャールズ・ロバート・コッカレル「教授の夢」。


 『真夜中の庭』の著者は今回初めて知りましたが、優しい人柄がうかがえるような平易な語り口、私の感覚に妙にフィットする好みで、ファンになってしまいました。何よりも、自分の好きな世界を素朴にいとおしんでいる感じがいい。幻想小説やファンタジー、童話、絵本を一冊一章の形で取りあげ、建築との関係で文章を綴っています。とくに気に入ったのは、「衣裳箪笥の奥」、「いつか訪れた庭園」、「空き家」、「遠く、自由な場所」の4篇。

 建築関係の雑誌や本の編集に携わって来られた方らしく、肌感覚で建築が語られています。例えば、「衣裳箪笥の奥」では、まず部屋の内部が寝台と机と椅子と明かりという住まいのかたちとして語られ、次に室内と外部とのつながりを示す道や門、廊下、階段に眼を向けた後で、ファンタジー世界のなかでは、箪笥の奥が別世界のナルニア国に通じる抜け道となると、物語の話に移っていきます。

 異世界がお好きなようで、見知らぬ通りの塀の途中にある緑色の門扉を開けて、美しい宮殿の庭に紛れ込む体験への憧憬を語る短編(H・G・ウェルズ「塀にある扉」)、友だちの家の座敷から廊下や人けのない座敷を通り抜けてどんどん下へ降りて行くと自分の家の団欒に帰り着く話(筒井康隆「遠い座敷」)、少年が夏の間過ごした大きな邸宅で、大時計が深夜1時を打つと庭が古い時代にタイムスリップし、少年はそこで昔の子どもたちと遊ぶが、それは家主の老夫人の夢のなかに入りこんでいたという物語(フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」)が紹介されていました。

 上記の異世界ものは子どもの体験がベースになっていますし、この本で紹介されている半分以上は、児童向けファンタジーや童話、絵本となっています。子どもの世界というものが、現実の大人の世界の尺度とは異なる次元で展開しているというところに、こうした物語の源があるような気がします。この本全体が素直なトーンで覆われ、言葉のひとつひとつが心に沁みてくるように感じられるのも、著者のそうした資質にあるように思います。

 次のような文章は、建築関係者が書いたものというより詩人の言葉ではないでしょうか。「家のいちばん美しい光景は、ある意味では最後の最後に現れる。住まわれた果てに空き家となったとき、廃屋になったときである。建物の機能が終わったただの廃墟は、それがどんなに小さく無名でも別の詩性を帯びはじめる」(p59)

建築に関する本二冊

f:id:ikoma-san-jin:20210510095655j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20210510095717j:plain:w145
上田篤『日本人の心と建築の歴史』(鹿島出版会 2006年)
岡野忠幸『建築古事記』(東京美術 1973年)


 先日読んだ李家正文の『異国思想の伝来と日本の宗教』のなかにあった神社など日本の建物についての記述が面白く興味が湧いたので、日本建築に関連した本を読んでみました。この2冊は同じ建築を扱いながら、性格がまるで違っています。大雑把に言ってしまうと、上田篤の本は、建築史というより仏教を中心とした宗教史で、岡野忠幸の本は、建築のパーツにまつわる蘊蓄を開示した本。


 上田篤の本は、著者の個人的な資質が多分にあると思いますが、哲学的といってもいいような探求心が根底にあり、知識を網羅するだけの学問とは一線を画しています。数少ない事実をもとに、それらを繋げ推理することで、過去の日本の姿を思い描くところは、(実はあまり読んでませんが)梅原猛に似ているのではないでしょうか。推理が飛躍してとんでもない(と私には思われる)世界を描くあたりは一種の奇書と言えるでしょう。

 疑問を持ちそれを解明しようとすることが大切と力説し、それを自らも実践して次のような説を展開しています。
縄文人たちはなぜ建物全体が屋根と言ってもいいほど気密性の高い竪穴住居に住んだのか。それはその住居のなかで土器をとろ火にかけて、物が何日も腐らないようにしようとしたからだ。そのため土器に縄のもつ呪力を写し取ろうとして、縄文土器が誕生したのではなかったか。

縄文人は食料用の動物、ブタやニワトリの飼育をおこなわなかった。卵でさえ日本人が食べるようになったのは江戸時代になってからだ。なぜか。それは、縄文人にとって食べることは、空腹をみたすためだけのものではなく、野生動物のもつ生命力を身につけることだったからだ。

③日本の住居はなぜ床が高いのか。高床式住居の起原は弥生時代の稲倉にある。弥生時代に稲と鉄がセットで入ってきたことにより、本格的稲作が始まり、稲の保管にはそれまでの湿気のある竪穴式建物は適さなかったので高床にしたのだ。そしてそれが一般の住居として広まっていった。

高天原はどこにあったのか。高天原八百万の神々には二系統あり、天照(アマテラス)と高木の神(タカギノカミ)である。高木の神の系統は一大水軍であり巨木文化をもっていた。関東、東北、北陸地方にかけて巨木文化があったことが分かっており、北陸地方は巨木が生育する古来からの重要な造船地帯であった。かつての日本海には潟が無数にありそこに海の国が形成されたと思われる。ところが2300年から1800年前にかけて地球が寒冷化した時期があり、彼らが南下して九州各地に点在していき、2世紀の終わり頃に瀬戸内海を通って畿内に侵入し、大和を制覇したのである。

五重塔はなぜ倒れないのか。地震への対処法として、中央に心柱を置くという日本独自の工法を見出したから。それにより塔自体が一本の柱のようになって仰ぎ見られる存在となった。これはかつての日本の巨木信仰のあらわれではないか。

 日本仏教の見取り図を次のように描いていました。
⑥仏教が日本に入ってきた初めのころは、百済仏教の直輸入で、渡来僧たちでかためられ、寺は貴族や有力豪族が集まる鹿鳴館のようなものだった。聖徳太子は僧になることより修行を大事にし、その修行主義が最澄らに引き継がれていった。当時、仏教界には三つの勢力があって、奈良時代の南都の寺は戦前の帝国大学のようなもので一般民衆の近づくことのできないもの、平安時代天台宗の叡山は貧しくても志を持つ若者の集まる塾、一方、真言宗の東寺や高野山は下級貴族にも門が開かれた劇場のようなもの、この三者鼎立時代の仏教界の目標は国家鎮護ということにあった。しかし、荘園領主となった寺は僧兵を抱え、時の政府と衝突するようになり、国家鎮護の場だった叡山は国家呪詛の場に変わってしまった。空海は天才で最澄は愚の人だったが、空海真言宗からは有力な後継者はほとんど育たず、逆に最澄は悟りの制度をつくることで、その後の仏教界の重鎮を続々と輩出させたとも。

 明治以降の学問のあり方については、次のように嘆いています。
⑦安藤昌益の哲学、三浦梅園の論理学、本居宣長国学伊能忠敬の測量術など、古くからあった日本の学問芸術などのおおくが省みられなくなった。小中高校では和歌や俳句の作り方すら教えられていないし、江戸時代の音楽も、絵画も、陶磁器、漆器、染織、木工などの伝統工芸も学校教育から姿を消した。大学の建築関係学科でも、日本の伝統木造建築技術はほとんど教えられていない。

 細かいところでいろいろと面白いことを知ることができました。例えば、古代人は月夜の晩に恋をしていたこと、6300年前に九州の南端で起きた火山大爆発によって九州一帯が長らく無人地帯と化していたこと、むかし奈良盆地には大和湖というのがあり8世紀の初めごろまでは湖の形が残っていたこと、『後漢書東夷伝』という書に倭の「国には女子おおく、大人はみな四・五妻あり」と出ていること、古代の天皇や皇太子が病弱で早々と世を去ってしまった原因は度かさなる血族結婚ではないかということ、空海長安景教キリスト教)にも接しイエスの奇跡も研究したのではと言われていること。


 一方、『建築古事記』のほうは、文章に軽妙な味があります。下(しも)の話になるとそれがいかんなく発揮されているようです。
近畿地方一帯は、一年間のうち大部分の風向が東北から西南に流れている。鬼門には便所を造るなという教えも、開放的な日本住宅では、ささやかながら科学的であり、経験からの指針であったのだろう。

②古い時代では庶民の住まいには便所という定まった施設がなく、一定の不浄な場所で、決められた日時に集団で共同排便をするという俗習があったらしい。婦人にとっては、しゃがんでも腰下まわりを隠せる長い裾のゆったりとした着物が不可欠であったし、高下駄も男女共通の排便道具であった。

 真面目なのもあります。
③「納戸」と呼ばれている屋内の収納室は、その元をただせば「塗籠(ぬりごめ)」と呼ばれた平安時代寝殿造りにある寝室から出発しているが、当時から、密室の息苦しさから使われないことが多く、寝室兼用の収納室という位置づけであった。

④元来、松は神秘長久の象徴として山間信仰に親しまれてきたが、やがて観世座の能へと移向し、「松の御庭」の能舞台となった。上空に向かって立つ樹は神が宿り、地に這うように下がった枝は神が地上に降り立つための足場とみなされた。正月につきものの門松も、松の持つめでたい長久の神秘性に由来している。

李家正文『古代東アジアに遡る』

f:id:ikoma-san-jin:20210505101414j:plain:w150
李家正文『古代東アジアに遡る』(泰流社 1987年)


 引き続き李家正文を読みました。前に読んだ『史伝開眼』と同じく、いくつかのテーマを並列に論じたもので、古代東アジアで腰帯にぶらさげていたもの、仏具が金色な訳、異国の花嫁、去勢された男性の実態、名前がどうつけられたか、古代の狩猟などがテーマとなっています。昔の文献資料を幅広く渉猟していて、感心してしまいます。


 いくつか面白い話題がありましたので、少し誤解している部分があるかもしれませんが、ご紹介しておきます。
①古代人は腰帯にいろんなものをぶらさげていたが、その起源は中国に遡り、袋の中にそろばんや小刀、磨き石など身の回りの品を入れていたようである。唐の時代は魚の形をした袋の中に符契(身分証明証のようなもの)を入れていた。魚の形は亀の形になったり魚に戻ったりしたが、ずっと続いた。同様の物が新羅でも発見されているし、日本でも聖徳太子肖像画にも描かれ、官職にある者に対して衣服令で魚袋を付けるよう定められていた。形は鯉もあれば鮒も鯛もあるとのこと。この伝統が後世の印籠、腰巾着、煙草のきせる袋、ひいては女子のポシェットなどに受け継がれていると著者は想像している(「黄金のベルトと腰佩の魚」より)。

②西洋では、食事用のフォークは11世紀に使われた記録が最古であるが、中国の周(前11世紀-前771年)と春秋時代(前770年-前476年)の古墳から、骨製のフォークが大量に見つかっているので、磁石や絹、紙、扇などと同様、中国から西方に伝わったのではないか(「黄金のベルトと腰佩の魚」より)。

③寺では、仏像に始まり、仏具や格天井に至るまで金色に塗られているが、『大智度論』の仏陀の三十二相のなかで、仏陀の身が金色に輝いていたというのに基づくという。漢の時代に、軍隊が匈奴の地に行ったときに、匈奴の王が金人を祭っており、金人を獲物として持ち帰ったのが仏像が中国に来た初めとされている。釈迦牟尼の出自であるサカ族は黄金をふんだんに使っていたので、北方の習俗に対する郷愁があったのではないかと指摘している(「仏像仏具はなぜ黄金色か」)。→スキタイ文化は黄金文化と言われるが、関係があるのかも知れない。

④古代の異民族間の婚姻について事例が紹介されていた。中国の王たちは娘を匈奴などの異族に嫁がせて和親を促進する政略結婚的な動きをしていた。一方、異族から中国に嫁いだ女性もいて、どんな民族か私の知らないのもあるが、鮮卑、西域曹国(クバーディアン)、ウィグル、ペルシアなどが挙げられていた。日本でも、562年、高句麗を攻めたとき、二人の女性を連れ帰って、蘇我の稲目が妻にし、また秀吉の文禄の役の際、多くの朝鮮両班(ヤンパン)の子女を連れて帰って侍女にしたり、そのなかには妻となったのもいる(「異国人の花嫁たち」)。

⑤宦官は、悪さをした罰としてだけでなく、幼いころから宮廷で働かせるために去勢されたというから、権力の恐ろしさを知らされたと同時に、その数の多さに驚いた。3000人から、多いときは13000人ぐらいいたという説や、10万人という説もあるそうだ(「去勢された男ども」)。

⑥もともと古代中国では、姓は女扁の文字が示すように、母系中心の時代にあって他の族と区別するためのものであったという。その後は、帝王から賜るものとなり、必ずしも子孫がそれを受け継ぐとは限らなかったようだ。姓の付け方は、生まれたところか、いま住んでいる地か、あるいは国号、官爵などで称せられた。中国のこの賜姓の風習が日本に伝来して、天皇は歴代にわたって姓を賜ったが、中国の皇帝が姓を持っていたのに対して、日本の天皇には姓がない(「賜姓考」)。

⑦万葉仮名は日本オリジナルのものと思っていたが、すでに、新羅に同じような考え方に基づく郷札(ヒャンチャル)というのがあることを知った。一字一音の韓音に漢字を当てて韓国の言葉を表現したらしい(「賜姓考」)。

⑧古代の狩猟について、狩猟を歌った詩を引用しながら叙述している。当初は祭祀のための狩猟で、そのお下がりを来賓とともに食べるだけだったが、次第に大がかりな遊興のための狩猟に変移して行ったこと。漢の時代には、熊、大猪、虎、豹、狐、鹿などを捕らえ、檻に入れて射熊館という動物園のようなところに運んでいたこと。契丹系の遼、女真系の金、蒙古系の元など、もともと北方の狩猟遊牧民の出自を持つ皇帝は、郷愁に誘われてなかなか狩猟を止めることができなかったこと。日本でも、平群の山で鹿を狩ったりしていたことが『万葉集』に出ているが、仏教の伝来によって殺生が忌まれたので、山野に遊んで草を採るようになったとも(「中国の畋(でん)猟と暴虐」)。


 古代の東アジアについての該博かつ詳細な知識が披露されていますが、ところどころ個人的感情が迸るところが親しみを感じるところ。「墨染や黄衣が、日本に渡ると多彩で豪華な法衣に変わって行った・・・紫や赤などは日本の高僧だけの権威の衣裳でしかない」(p52)と吐き捨てるように書いているのは、どうやら、日本の仏教界に対して、本来の仏教から外れていることをよく思っていないふしが見られます。また、姓の話のところで、自分の名前の「李家」のルーツを求めて若いころから調べていたようで、年老いてから唐の李氏の系譜が偽系図ではないかと気づき、他の資料の裏付けを得るきっかけとなったということです。


 これで、道教や古代中国・日本関連の本は最後で、次回からは、建築関連のテーマに移ります。

4月5月は続々と古本市中止

 大阪兵庫京都と緊急事態宣言が発令され、楽しみにしていた四天王寺、京都勧業館の古本市が次々と中止になりました。次は下鴨の納涼古本市に期待するしかないでしょうか。そんなことで、今回はほそぼそとネットで買いためた本の報告。

 オークションでは、長年探していた本が買えました。国内で買えたのは珍しい。
ANDRÉ DHÔTEL『Les voyages fantastiques de JULIEN GRAINEBIS』(PIERRE HORAY、58年8月、300円)→学生時代に翻訳で読んだ『遥かなる旅路』と同様の童話的冒険譚を期待して。
f:id:ikoma-san-jin:20210430101939j:plain:w150:w150
 
 その他は、
Pierre Louӱs『POÉSIES』(Jean-Jacques-Pauvert、88年5月、800円)
森岡貞香歌集『珊瑚数珠』(石畳の会、昭和52年9月、500円)
高橋優子散文詩集『冥界(ハデス)の泉』(沖積舎、平成9年1月、1300円)→夢幻の中を歩む彷徨譚のようだ
宮本孝正『不完全燃焼―冗句・格言・短詩集』(審美社、99年9月、400円)
吉田正俊『都市と芸術家たち―美都パリの文芸案内』(文英堂、92年10月、429円)
夜想19 特集:幻想の扉」(ペヨトル工房、89年6月、900円)→ウィーン幻想派の特集をしている
f:id:ikoma-san-jin:20210430102035j:plain:w140  f:id:ikoma-san-jin:20210430102057j:plain:w145  f:id:ikoma-san-jin:20210430102116j:plain:w160  f:id:ikoma-san-jin:20210430102135j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20210430102200j:plain:w154

 アマゾン古本では下記1冊、
ギョルゲ・ササルマン住谷春也訳『方形の円―偽説・都市生成論』(東京創元社、19年6月、1325円)→架空都市についての散文詩的断章らしい
f:id:ikoma-san-jin:20210430102224j:plain:w150

Jean Lorrain『MA PETITE VILLE―SOUVENIRS DE PÉRONNE』(ジャン・ロラン『私の小さな町―ペロンヌの思い出』)

f:id:ikoma-san-jin:20210425102509j:plain:w150                                        
Jean Lorrain『MA PETITE VILLE―SOUVENIRS DE PÉRONNE』(la Vague verte 2003年)


 『Venise』に引き続いて、土地にまつわる思い出の書を読んでみました。1898年に300部のみ出版されたものの改訂版で、80ページほどの小冊子。「Ma Petite Ville」、「Le Miracle de Bretagne(ブルターニュの奇跡)」、「Un Veuvage d’amour(愛する寡)」の三篇からなっています。それぞれが独立した短篇ですが、ロランが幼いころ訪れたことのある母方の実家のあるペロンヌという町を舞台にしていることと、冒頭の1篇のなかで、老嬢からくどくどと物語を聞かされ、「ブルターニュの奇跡と、ラフォン夫人の苦難の物語はいちばん信じがたい」と紹介されていた物語が次の二篇となっていることから、連作と言えます。

 初めの二篇は1895年「ル・ジュルナル」紙に最初に発表され、うち「Ma Petite Ville」は少し改変されて、「Sur un portrait(ある肖像)」という題で1897年の『Contes pour lire à la chandelle(蝋燭の下で読むお話)』、その後1902年の『Princesses d’ivoire et d’ivresse(象牙と陶酔の王女たち)』にも収録されています。三篇目の「Un Veuvage d’amour」もその後、登場人物名が変更され、1900年の『Histoires de masques(仮面物語集)』に「デュメルサン夫人」という題で収められています。

 本を読み始めて、序文で上記のようなことを知り、「Ma Petite Ville」はすでに上記の両書で2回も読み、「Un Veuvage d’amour」も翻訳で40年ほど前に読んでいることが分かり愕然としました。が情けないことにほとんど覚えていないので、何度読んでも新鮮な味わいがありました。面白いことに、「デュメルサン夫人」を若いころ読んだときの記録を見ると△と×がつけられていて、『仮面物語集』の前半のおどろおどろしい話に比べてピンと来てなかった様子ですが、いま読むと断然◎。読む側の年齢のせいで感じ方が変わるものだということがよく分かりました。

 今回は前回読んだ『Venise』がレポート的だったことに比べると、小説の味わいが濃厚です。ヴェニスという町は誰にとっても崩落の感覚が共有されており、ロランの眼差しもやや客観的だったのに対し、『Ma Petite Ville』のペロンヌという町の思い出はロランの内面に深く根ざすものなので、個人的な慨嘆がより強く出ているように思います。というのは、序文で、Philippe Martin-Lauが指摘しているように、ロランがこれを書いたときは、すでに40歳を過ぎ、パリの文壇とは揉め事が頻繁にあって愛想が尽き、また腸の潰瘍で手術を受け死を意識し始めたころで、そんな状況のなかで幼い日の思い出が突然蘇ったのです。

 1870年のドイツとの戦争で爆撃により町が破壊され、『Venise』と同じく近代化が進んで町並みがすっかり変わってしまったことを悲しみ、中世には君主たちで栄えた町だったのに、由緒ある貴族たちも姿を消しすっかり成金の町になってしまったと、嘆いています。その昔の町の姿を表紙の写真で見ることができます。2篇目の舞台となっている「ブルターニュ門」に兵士や子連れの婦人が佇んでいる様子が見てとれ、この時代に戻ってこの町を歩いてみたいと思わせられます。


 各篇の簡単な紹介を次に。
◎Ma Petite Ville
幼いころペロンヌにある祖父母の家で、寄宿していた従姉妹の老嬢から伝説の数々を聞かされた思い出を綴る。沼地に囲まれたペロンヌの町のどんよりとした風景と、貴族の末裔の年老いた従姉妹のグロテスクな風貌と装い、彼女の古い家具やアルバムに囲まれた部屋、そしてそこに掛けられた謎の男の肖像画の銀灰色の色調が響きあう独特の世界が描かれている。後になって、老嬢が独身を守ったのはその男のせいと気づく。寂しさと郷愁に包まれた佳篇。

Le Miracle de Bretagne
ペロンヌの城門にあるマリア像は、マリー・ド・メディシスが子のルイ13世の病気治癒を請願して作らせた像で、遠くからも信者が集まる場所だった。が、時代とともに忘れ去られ、いまは門番に見守られるだけの存在になっていた。ある日、唖で聾の子がマリア像の下で突然喋り出し、町中が奇跡に沸いて、翌朝から列をなして押し掛けるようになった。がその奇跡も一瞬だけで、唖の子はその後一言も喋らず、しばらくして忘れ去られた存在に戻る。一瞬晴れやかな時を見せるだけに、わびしさが強く感じられる。

◎Un Veuvage d’amour
幼い日、ペロンヌの城壁の近くに鎧戸の閉まった館があり、狂女が住んでいるという噂だった。スペインの宝石商の娘で、たぐいまれな美貌で、一時は町の社交場となっていたが、夫が不慮の事故で亡くなると、精神に異常をきたし、亡き王の喪に服する女王と思い込んで奇矯な振る舞いを始めたという。30年後ふたたび町を訪れると、その古びた館にはもう誰も住んでおらず、近代化の進む町角に取り残され、ひっそりと幽霊屋敷のように佇んでいた。「私の小さな町」と同じ慨嘆が感じられる。

李家正文の本二冊

f:id:ikoma-san-jin:20210420094951j:plain:w166  f:id:ikoma-san-jin:20210420095005j:plain:w150
李家正文『異国思想の伝来と日本の宗教』(泰流社 1988年)
李家正文『史伝開眼―東アジアのカーテンを開く』(泰流社 1993年)


 道教の日本への影響に関連して、本棚にあった李家正文の本を二冊引っ張り出してみました。『異国思想の伝来と日本の宗教』のほうは、仏教、道教儒教が日本にどう伝わったかについてのまとまった論考です。そのついでに、古代中国に材を取りながら、独立したいくつかのテーマについての随筆が収められた『史伝開眼』も読んでみました。


 『異国思想の伝来と日本の宗教』では、最初の二つの章で、日本に仏教がどのように伝わりどんな形で広まったかが語られていますが、日本に伝わる以前、中国がインドから仏教をどう受容していったかや、その後の中国国内での仏教弾圧の苦難の歴史にも言及がありました。次の一章では、神道に対して中国の影響がどうだったかを、仏教の影響を受けて本地垂迹説が生まれたいきさつ、修験道七福神などの信仰、神社の建築などについて考究。道教についても一章を設け、中国での道教の歴史と日本への伝来について叙述しており、日本では宮廷から民間行事まで幅広く道教の影響を受けていることを指摘しています。最後の一章で、儒教についても簡単に触れられていました。

 いくつかの印象的な指摘を記しておきますと、
①中国がインドから仏教を受容する際たいへんな苦労があったこと。インドのアショーカ王(前3世紀頃)やカニシカ王(世紀の初め頃?)が仏教の国外布教に熱心だったが、中国の僧たちは仏典を求めてインドまで難路を旅した。4世紀には法顕が慧景ら十余人とともに、6世紀初頭には宋雲が、そして7世紀前半有名な玄奘が砂漠を越えた。義浄は7世紀後半にスマトラから南海路を通りガンジス河口から上陸したとのこと。一方インド僧も、8世紀前半、善無畏が長安に来て、金剛、胎蔵の二つの曼陀羅の秘法を伝えたという。

②中国で仏教が簡単に布教されたわけではない。というのは、古代から儒教道教があり、新来の異教に対して民衆にも抵抗があった。歴代の皇帝のなかでも、南北朝時代の宋の文帝が仏教禁止令を出しているし、北魏の太武帝は仏像仏画を破壊する仏教弾圧、北周武帝儒教以外は認めなかった。唐の武宗はマニ教景教、仏教と次々弾圧した。

③日本でも、仏教受容の初期には、仏像が2回も捨てられたことがある。百済から献上された仏像を蘇我稲目が祀ったがまもなく疫病がはびこったので、物部尾輿らが難波の堀江に流し棄て、次に、鹿深の臣が百済から持ち帰った仏像を蘇我馬子がもらい受け仏殿を作ったが、疫病が流行したので、物部弓削らが仏殿を焼き仏像をまた難波の堀江に棄てた。しかし天皇がにわかに痘瘡で亡くなったので、仏殿を焼いた祟りとされた。

奈良時代の僧侶の数の多さ。624年には46寺、僧816人、尼569人あわせて1385人が居て、彼らを統率するために、百済僧観勒を僧正にしたとの記述があり、また752年の大仏開眼の儀には、10026人の僧が請ぜられたと書いてあった。

⑤昔にも合理的な考えを持った人が居たこと。後漢光武帝のころ(1世紀前半)、王充という人がいて、世間にはびこっていた方位、俗信、骨相、物忌みなどの迷信、緯書、易の卜占などが、どんなにでたらめなものかということを徹底的に論難しているとのこと。著書『論衡』が東洋文庫に入っているのでまた読んでみたい。

儒教関連では、二つほど。孔子は天道とか鬼神とか現実から遊離したことは語らなかったので、中国古来の信仰である易は道教や仏教に独占されていた。朱子はこれを儒教に取り戻すために朱子学を作ったということ。また日本では、儒学儒教が江戸時代に盛大になったため仏僧や国学者とのあいだで論争が起こっていること。ついでに、面白い話があったので紹介しておくと、『列子』の「仲尼篇」に、孔子が西の方に聖人が居て、世は乱れず信を集めているが、その人は仏陀と言うと書いてあるという。しかし時代が合わない可能性が高く、『列子』は偽書だという説もあるそうだ。


『史伝開眼』は、『異国思想の伝来』に比べると読みにくい。見たことのないような漢字が多く出てくるせいもありましたが、細かい話が多く、原資料に近いものが羅列されているのが原因かも。テーマについても、水運などあまり興味の湧かない話だったせいもあります。

①この本でも相撲の話題。インドにも相撲のようなものがあった。ブッダが若いころ、父の浄飯王の弟の白飯王と提婆達多摩那大臣とが角力をしたことが『法華経』にあるそうだ。中国では、神話時代に蚩尤という頭に角が生え赤い霧の息を吐く男がいて後に黄帝となる軒轅と闘ったという故事にちなみ、秦の時代に、頭に角形を着けた蚩尤役と軒轅役の二人が頭を突き合わせる遊戯、角抵戯が生まれた。これが後の角力(すもう)になったようだ。女相撲についても記述が多く、三国の呉の宮廷にはすでにあったこと。モンゴルの王族にアイゾンルクという女力士がいて、相撲で負けたら嫁になると言って、つぎつぎに男たちを投げ倒したこと。日本では雄略天皇の時代に、采女を呼び集めて褌だけにして女相撲をさせたこと。江戸時代には芝神明社、名古屋柳薬師、大坂難波新地などで女相撲の興行があったこと。

②川についてはかなりのページが割かれていた。黄河はその名のとおり黄色いが、たまに澄むこともあり、赤くなることも黒くなることもあること。黄河が氾濫を繰り返し毎年大量の土砂を運び地形を変えていくのに対し、長江は昔とほとんど変わらぬおとなしい川であること。歴代皇帝は、運河を造ったり、灌漑をしたり、また城を攻め落とすのに川の水を溢れさせたりしていること。運河は、秦の始皇帝の作った靈渠にはじまり、隋の煬帝黄河と長江を結ぶ運河を作り、洛陽を東都として建設し、富商数万家を移住させたりしたこと。また同時に北に伸びる運河も作ったことなど。広い中国なので、河の利用が重要な決め手になったのだと思う。

③中国では、父や帝の名前を憚って、その名前と同じ字を避ける避諱(ひき)の風習が見られ、唐の時代には帝が李姓で同じ音だったため鯉(り)を釣ってもすぐ川に戻さないといけないとか、清朝では康熙帝玄曄と重複しないようにすべての玄の字を元に置き換えたりなど、エスカレートして害を及ぼしている。避諱の方法としては実名の字画の最終の一画を省略したり(缺画)、文中にその字を空白にするなどもあった。日本でも影響を受け、源の義経は三位中将良経と同名であったために義行と改めさせられたり、姓名だけでなく郡名にまで及んだり、例えば「世仁」という名前を憚って「世人」と書いて「よのひと」また「よびと」と濁らせるなど読み方を変える方法(偏諱)もあったが、総じて中国よりゆるやかで、そのうち天皇の名前や年号をわざと使うことにまでなった。また日本がかつて邪馬台国と名づけられたのは、文字を知らない匈奴に対して悪い文字をわざとつけるのと同様、不正、悪、邪ま、偽りを意味する耶の字をつけられたということであり、耶魔堆(悪魔のうずたかい土塊)という文字さえあったというから、喜んでばかりはいられない。

Jean Lorrain『Venise』(ジャン・ロラン『ヴェニス』)

f:id:ikoma-san-jin:20210415202147j:plain:w150                                        
Jean Lorrain『Venise』(La Bibliothèque 1997年)


 今回は、90ページほどの薄っぺらい本ですが、やたらとイタリア語やヴェニスの建物の固有名詞が出てくるので読みにくい。1905年に「絵入り雑誌」に寄稿したヴェニスについてのエッセイと、1898年から1904年にかけて、母親や友人宛てにヴェニスから送った手紙が11通収録されています。いずれもヴェニスを褒めたたえた文章が連なっています。

 ヴェニスの風光の美しさ、とくに黄昏の景観、そのなかを滑りゆくゴンドラ、歴史の積み重なった都市の栄光とその悲哀、運河と小路でピラネージの迷路のように入り組んだ町並み、教会や宮殿の建物の壮麗さ、それが沈み行き崩れ落ちつつある廃墟の美、美術館や教会の絵画の素晴らしさ、男は敏捷で女性は窶れたように美しいヴェニス人、それらが詩の引用をまじえた美文調で綴られています。

 ヴェニスを愛した文人・芸術家として、エッセイのなかでは、モーリス・バレス、バイロン、ミュッセ、ワーグナー、ズーデルマン、ダヌンツィオ、手紙ではユーグ・ルベルの名前が挙がっていました。ヴェニスと言えば、われわれの思い浮かべるのはトーマス・マンとかアンリ・ド・レニエですが、彼らはロランより時代が後になるわけです。とくにレニエは、ロランが目をかけて文壇に紹介した師弟関係とも言うべき作家です(だと思う)。

 ロランは1898年に初めてヴェニスへ行き、その後1901年、04年とヴェニスに滞在しているようです。レニエは、年表(Régnier『ESCALES EN MÉDITERRANÉE』の附録)を見ると1899年から1907年にかけて6回ヴェニスに滞在しています。ほぼロランと同時期にヴェニスを体験している様子ですが、有名な『ヴェニス素描』の出版は1906年と少し後になりますし、ヴェニスでの生活を綴った『L'Altana ou la vie vénitienne』も1928年の出版です。

 このロランの『Venise』を、『ヴェニス素描』でのレニエの散文詩と比較してみると、具体的な説明と描写があり、筋道だっていて、ヴェニスのレポートといった感じ。ゴンドラレースで町が湧く様子、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が来訪したときの歓迎ぶり、絵画や彫刻の事細かな感想、建物の崩壊の報告も詳しく、離島の紹介も忘れていません。また大勢の観光客が押し寄せるのを苦々しく眺め、運河を埋めて道にし、アスファルトにするという近代的計画を痛罵しています。が一貫しているのは、そこに世紀末的な退廃の味が沁み込んでいることです。

 古きヴェニスへの憧れを切々と綴っていますが、それは単に16世紀から18世紀にかけての古い時代を懐かしんでいるというだけではなく、ローマ時代から培われ、ルネサンスで花開いたイタリア文化、フランスの先陣としてのイタリアへの憧れがその背後にあるのではないでしょうか。とくにヴェニス派の画家たちへの傾倒がありありとうかがえます。グアルディという知らない画家の名前があったのでネットで調べてみると、「サン・マルコ湾」など奇想画を描いている人だと分かりました。また一人好きな画家が増えました。

 手紙の宛先の友人というのは、オクターヴ・ユザンヌ(3通)、ギュスターヴ・コキヨ(1通)、「友へ」としか書かれてないもの(3通)でした。ユザンヌはボードレール論などで知られる愛書家で、ロランが初期代表作『ブーグロン氏』を書くきっかけとなったオランダ旅行を案内し、ロランに旅の楽しさを教えたということです。コキヨという人は知りませんでしたが、美術評論家のようです。手紙には、幼友達やマラルメなど付き合いのあった文人たちが次々と亡くなっていくのを嘆いていますが、それがまたヴェニスの崩壊と響きあっているような気がします。                                           

 『Venise』でこれほどヴェニスの熱い思いを語っているのに、ジャン・ロランの存在がマイナーなせいか、ヴェニスについて言及している多数の文人名を網羅した平川祐弘『藝術にあらわれたヴェネチア』にも、ヴェニスに魅了された文学者を紹介した鳥越輝昭『ヴェネツィア詩文繚乱』にも、ジャン・ロランの名が記されていないのは、とても残念です。