入沢康夫の詩集四冊

      
入沢康夫詩集』(思潮社 1992年)
入沢康夫『声なき木鼠の唄』(青土社 1971年)  
入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(青土社 1978年)
入沢康夫『牛の首のある三十の情景』(書肆山田 1979年)


 異空間をテーマにした詩としては、「ランゲルハンス氏の島」の入沢康夫をはずすわけにはいきません。今回、手元にあった入沢康夫の詩集7冊にざっと目を通してみました。その中から、上記4冊の詩集に収録されていた異空間をテーマにした詩「ランゲルハンス氏の島」、「『マルピギー氏の館』のための素描」、「『木の船』のための素描」、「かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩」、「牛の首のある三十の情景」の5作品について書いてみたいと思います。『声なき木鼠の唄』に収められている「マルピギー氏・・・」と「木の船・・・」は『入沢康夫詩集』に入っていますので、実質は3冊の詩集ということになります。『声なき木鼠の唄』をわざわざ書いたのは、持っているのを誇示したいだけの話。

 不勉強で間違ってるかも知れませんが、おそらく、架空の空間を設定してそれを舞台に散文詩を展開させる試みを最初に行なったのは入沢康夫ということになるのではないでしょうか。岩成達也、多田智満子、井辻朱美、高柳誠など、いくつか思い浮かぶ作品は、すべて「ランゲルハンス氏の島」刊行(1962年)以降の作品です。                                          


 「ランゲルハンス氏の島」は、28篇の散文詩からなり、最初と最後の数篇を除いて、全体を貫くようなストーリー性はなく、各篇はそれぞれ独立した話になっていて、並び順は入れ替え可能です。カレイドスコープを見ているような感じで、全篇に語りの面白さがあり、読者のまっとうな素朴な読み、想像力の限界を裏切る奇想がちりばめられています。手品、イリュージョンを見ているような展開。ここで、思い当たったのは、詩人が奇想を実現するためには、架空都市という設定が実に便利ということです。

 例えば、
語り手が、ランゲルハンス氏の島で目覚めたとき、部屋のなかで少女が身うごきもできぬほどに括りつけられているが、それはなぜか(p48)。

その少女はランゲルハンス氏の令嬢で、鳥のドドを描いた絵を「お父さまの肖像」が逆さになってると言い張るが、ひっくり返してもやはりドドが逆さまになっただけの絵(p49)。

魚市場で冷凍の巨大な眼球が売られており、それは象の目玉であるが、やはり市場では魚として取扱うという(p50)。

配られたビラを持って帰って台所の壁に貼ると、ビラに書かれた器具が本物になる。亭主が気がついて買ってくるという話かと思えばそうでなく、ビラの絵がそのまま本物になるという(p52)。

絨毯屋の店主が絨毯の棒に化けているのを、「お前さん、また変な気をおこしたんじゃないだろうね」と、おかみさんに咎められると、たちまち頭のはげ上った店主の姿に戻り、こそこそと壁に立てかけられた絨毯の間にもぐりこんでしまう(p60)。

夏至の夜には広場は一面の泥深い沼に変る。その翌朝、窓の下には泥まみれの芙蓉の花が沢山落ちており、広場は完全に煉瓦で舗装された元の広場に戻っている。数日後の雨の日、そこを通りかかると、広場中央のブロンズの裸像に何万というかたつむりがびっしりと取りついている(p63)。→凄い情景ですね。

初版は200部で、落合茂という人の洒落た装画が付いているようです。ネットで調べるととても高値ですが、復刻版でもいいから安く手に入れたいものです。


 「『マルピギー氏の館』のための素描」(初出1967年)は、3~5行程度の短い散文詩29篇から構成されていますが、「ランゲルハンス氏の島」が島で起こったさまざまな別個のエピソードを連ねていたのに対し、外側から館について観察・憶測した内容を報告するような形で進行します。一貫して館が話題に取り上げられており、館自体が主人公と言ってもいいでしょう。奇想は相変わらず健在です。

 例えば、
館について、蛆、蚕、巨大ななめくじ、ついで蚕から大なめくじへとつながっている一本のパイプ、ビルの窓から地上へ垂らす人命救助袋のようなもの、と次々とイメージを展開したあげく、館は実在していると言い切り(p4~5)、

館の中では、奇妙な因果律が支配しているとして、壁が黒くなったり、翌朝再び白くなったり、ドアの上方につけられた獣帯記号や紋章も自由に変わったり、いや部屋は実は壁であり壁こそが部屋と言ってみたり(p8~10)、

入口から入るものは無限に入口から入口を入らねばならず、出口から出るものは無限に出口を出つづけなければならないとも(p14)。

そして、マルピギー氏に会おうと思ったら、中庭のプールのほとりで時を待たねばならない。きみがこれまでに殺して来たものの一列が目の前を過ぎ、その列の一ばんしんがりに、赤いはらわたをひきずって走る幻のような獣の一群が見え、次の瞬間に、それが水に映った館の影と二重うつしになって消えるのを認めたなら、マルピギー氏は、あの獣の一匹に身を借りて、きみの前に姿を現わしたのだ、と言う(p15)。

館は端の方から次第に腐っていくとか、このような館は亡び去るべきだと書き、今日もあこがれを石でたたく音が柱廊にこだましているという言葉で終わる(p16~17)。


 「『木の船』のための素描」(初出1969年)は、付記によると、補陀落渡海の舟や、古代史の舟葬の舟をイメージしたものらしいが、それを知らずに読めば、西洋の大型船だと思わせるような描写があります。この作品においても、詭弁的な非論理的な因果律が支配しています。次のとおり。
①乗組員はこの船の全景を知らず、細長い船室が上下左右前後に50~70連なっている。

②廊下がなく船員は船室のドアを通って移動する(金井美恵子『春の画の館』の構造に似ている)。

③なので船外の景色を見たものが居ない。

④これが船であるのも疑わしいが、波に揺れるような感じがあるのと、どこからか汐の香りがすることで、船員たちは船であると思っている。

⑤汐の香りは一つの船室から漏れており、節穴から中をのぞくと、内部に海があった。

⑥もし外部からこの船を見た場合は、「この船は一個の木箱に過ぎない・・・それが岩ばかりの国の果の、荒涼とした峡門を見おろす崖の上で、石の台座に据えられてかすかに腐臭を発している」(p24)という。


 「かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩」は、巡礼者兼建築家と言われる座亜謙什が陰の主役であり、座亜謙什の作った庭、絵図、「昨日見たときは階段のなかった家が、今日見直すと、階段はあって廊下がなくなってゐる」(p8)といった生きて動いている建物の群が出てきます。ひとつの架空空間を描く散文詩の系列からは若干外れますが、一種の異空間をテーマにしているという点で、「ランゲルハンス氏の島」からの散文詩の系譜上に位置するものと考えます。

 ただこの作品は、今回取り上げたほかの作品とは違って、詩法の実験といった意味が強いと思われ、詩の内容は簡単には把握できません(そもそも詩とはそういうものですが)。座亜謙什という謎の人物を追って旅する一行が呼びかける9の詩篇エスキスとして提示され、それが次々と第九のエスキスまで変奏されて行く構造になっていて、ひとつの詩よりも、詩集全体を考え構成した作品です。音楽で言えば、交響曲のようなものでしょうか。

 9篇×9エスキス=81篇となるはずですが、ひとつのエスキスの8番めが欠如しているのと、第二と第七のエスキスがないので、8篇×7エスキス=56篇が印刷されています。『声なき木鼠の唄』に収められている「声なき木鼠の唄の断片」と「声なき木鼠の唄の来歴」とで試みた詩法をさらに大掛かりにしたものとも言えます。


 「牛の首のある三十の情景」は、これまでの奇想を一段と磨き上げ、土着的で血縁的な雰囲気を醸成しながら怪奇なイメージを詩的文体に凝縮させた佳篇。私が読んだなかでは、入沢康夫の最高作ではないでしょうか。20年前に一度読んだときの読書ノートには、「はじめの数首の詩に圧倒されて思わず買ってしまった」と書いていました。

 「牛の首のある六つの情景」、「牛の首のある四つの情景」、「『牛の首のある八つの情景』のための八つの下図」、「牛の首のある三つの情景」、「牛の首のある二つの情景」、「牛の首のある七つの情景」の合計30の詩篇があり、そのうち最初の一篇の冒頭の「昨日の昼屠殺された牛どもの金色の首が」という具合に、直接牛の首が登場するのが17篇、「二本の角」とか「牛小舎」、「牛のように頸の太い」とか、比喩で触れられている詩篇が6篇、それ以外は牛の影らしき暗示が感じられる程度です。

 「太鼓のすり打ち」、「山羊が次々と咽喉を裂かれ」、「檻の中にゐるのは・・・私の娘だ」、「原色の羽毛で全身を飾った男」、「祭列の先頭には、張り子の牛の首が担がれ」、「牛の首をした精霊たち」など、どこか土着的共同体的な雰囲気が立ち込めている一方、「廃止された駅の建物」、「宿の廊下」、「階段を降り続けている」、「橋」、「病院めく建物」、「運河」、「舗装道路」、「都市の広場」、「塔」、「街の角々に立つ石の標柱」、「地下室」、「爆破された教団の跡地」など、どこかの近代的な町の部分部分が情景として出てきます。これはまさしく架空の町をテーマとした散文詩と言えるでしょう。


 他に、少し異空間を感じさせる散文詩としては、『入沢康夫詩集』に収録されていた「転生」(詩集『夏至の火』所収)、「お伽芝居」(詩集『季節についての試論』所収)を挙げることができます。異空間テーマにこだわらずに面白かった詩は「石」、「虫」(いずれも詩集『夏至の火』所収)がありました。

永井元章『逃亡用迷路』と小林茂『幽界より』

  
永井元章『逃亡用迷路』(ふらんす堂 1995年)
小林茂『幽界より』(書肆山田 2006年)


 今はもう元気もなくなりつつありますが、以前は、古本屋や古本市で、名前を知らない著者の場合でも、タイトルに気を惹かれれば手に取って適当なページを読んでみて、少し面白そうなら買うことにしていました。今回は、そうして買った本のなかで、異界がテーマになってそうな詩集を選んで読んでみました。両作とも、面白く読みましたが、とくに『逃亡用迷路』が出色。


 『逃亡用迷路』は、奇想に溢れた不思議なテイストの詩集。前回読んだ寺山修司の『棺桶島を記述する試み』と似ているところもありますが、それよりも詩的でファンタジックな美しさがあるように思います。

 冒頭、いきなり警察官に追われて、列車に飛び乗る場面から始まります。どうやら私は殺人を犯したらしいのです。ところが次の節になると、一転、部屋で老紳士からお伽噺のような不思議な湖の話を聞く場面となり、次に本が本を生むという図書館に移るあたりから、奇想を軸とした架空の町譚であることが判明します。著者の巧みな所は、各節が独立した奇譚でありながら、各節のなかのある部分が別の節に登場するなど、ストーリーとしての脈絡も何とか維持しているところです。

 例えば、架空の町で、逃亡生活に疲れて入院している私が、医者や居ないはずの看護婦とやり取りするのがいくつかの節に描かれる一方、湖の魚、白鳥、図書館、レストランの太った男、捜査を担当している老紳士、湖の絵を描く少年、中華料理店、日出観察人と日没観察人夫婦などが、複数の節にまたがって登場して、それぞれ別々の挿話を形成しています。2節目で老紳士が語った湖の喋る魚が、別の節で白鳥に食べられ、さらに別の節でその白鳥を私が食べるという具合に。また図書館だけ例にとっても、3節目で話題となった図書館に、別の節で太った料理人の身体を脱ぎ捨てるようにして出てきた女が行ったり、また別の節では、病院が消失した跡から図書館の本が多数発見されたり、さらに別の節で、老紳士が図書館司書から捜査の進展具合を訊ねられたりと、つながっていきます。

 「『ざまあみろ』と言ったつもりだったのだが、実際に口から出た言葉は『ではお元気で。いってきます』というものだった」(p3)とか、「『何をするんだ』と叫ぼうとしたのだが、口からは『にゃあお』という言葉しか出てこなかった」(p15)という類似のシチュエーション、図書館で規則を破ると姿を本に変えられてしまい誰かに読んでもらわない限り元には戻れない(p9)とか、男が中年女の心臓を一突きにすると床には死体ではなく空になったビニール製のビンが転がり底にわずかに青い液体が残っていた(p13)とか、中華料理店の回転テーブルの上であぐらをかきながら物理学の実験を繰り返す博士が洗面器に大量の数字を吐いたり(p49)など奇想のオンパレード。「老紳士は高らかなホルンの音色のいびきをかき始めた」(p7)は、寺山修司の「彼は大きなサキソフォーンのような嚏を一つした」(『棺桶島を記述する試み』p15)という表現とよく似ていました。

 この本は、また牛尾篤という人の挿絵が味を添えています。八木忠栄と安原顯の推薦文が栞として付いていて、安原顯が城侑の詩に似ていると書いていたので、城侑という人の詩をぜひ読んでみたいと思っています。


 『幽界より』は、斬新ないろいろなタイプの詩の形が試みられているのはいいのですが、それぞれがばらばらの印象があり、詩集としてのまとまりに欠けるのが疵。全体としては、茫洋とした雰囲気があるような気がします。なかでは、暗闇を支配している夢に狙われていると感じて、夢を処刑するが、その死体が夢なのかやはりぼくなのか、暗闇の中では分別できない、いやもしかするとぼくという存在自体が夢なのかもと煩悶し、ゆらゆらと揺れ動く「暗闇の中から」が傑作。

 次いで、出自のよく分からない冥という人物が消息を絶ったあと不思議な珠を残したことを語る「幽界異聞」、さらには、こころのなかからたえずしたたりおちたましいのおくのだれもしらないまっくらやみにつみかさなりゆくという「しずく」、一本の綱のはしに何千年もぶら下がっている「そらの男」、つらい労働に明け暮れる男たちが一日だけ訪れるのを許されその後の心のふるさとになるという「桃源郷」、からだをそっとぬけだしたたましいがもどるべきからだをみうしなう「たましいはよるおとずれる」、うらしまろうじんのまくらのあなからひとすじのしろいけむりがたちのぼっていく「ゆめのまくら」といったところでしょうか。

 小林茂というのは、もしかして、『フランス幻想文学傑作選3』で、ロニー兄の「吸血美女」を翻訳している人ではないでしょうか。

Rachilde『LA FEMME AUX MAINS D’IVOIRE』(ラシルド『象牙の手をした女』)


Rachilde『LA FEMME AUX MAINS D’IVOIRE』(J.FERENCZI ET FILS 1937年)


 原著は1929年刊ですが、「LE LIVRE MODERNE ILLUSTRÉ」というシリーズでの再刊本。このシリーズは、数冊所持していますが、少し幅広の判型で表紙のデザインも統一され、版画の挿画があって洒落ています。この本では、19ある各章の題字部分や、それ以外にもところどころにCLAUDE RENÉ-MARTINという人の木版画が挿まれていて、読書が豊かになったような気がしました。これと似たようなシリーズに、黄色い表紙の「LE LIVRE DE DEMAIN」というのがあり、やはり木版画があしらわれています。ともにフランスの古書店でよく見かけます。
    
 ラシルドは、翻訳の『ヴィーナス氏』が有名ですが、まだ読んでおらず、ジャン・ロランの親友だったということぐらいしか知りません。ラシルドは今回初めての読書になるはずです。本作は、インドが舞台となっていて、エキゾチシズムが全盛の時代の作品。若干大衆小説的な雰囲気があります。ハーレクイーンロマンスというジャンルは、読んだことはありませんが、それに近いものがあるような気がします。しかし文体は、ロニー兄とは一転して、回りくどい表現が目立って、読みにくくなりました。


 内容はおおよそ下記のような感じ(ネタバレあり注意)。
気絶していた主人公アッサンが意識を取り戻すと、外人テントのなかで、白人の男女、黒人ポーターなどが死んでいた。アッサンは男の死体から財布、女性からは手首を切り落としてダイヤモンドの腕輪を盗る。彼はインド砂漠の盗賊だった。その場から逃亡するが、飢渇に苦しみ、岩場の水の滴る場所で、番をしている盲の豹と洞窟の修行者と出会う。

修行者はかつてはインドのある地方の王だったが、イギリス人統治者に騙されて財産を剥奪され、砂漠の洞窟で暮らしていた。アッサンは修行者を師と仰ぎ、教えを乞い、師もアッサンに信頼を寄せる。が師は、アッサンに街へ出ていろんな経験をした方がいいと諭す。アッサンは師のために洞窟に水場への出入口を作ってから、街の寺院に隣接する小屋に住む。

一方、インドを統治する総督は、洪水後の疫病と飢饉の到来を恐れていた。なぜかいつも喪服に身を包んでいる総督夫人は、インド人の衛生観念の欠如を嘆くばかりの夫に、祭を催して罹災者のための寄付を募ることを提案する。祭の主役シヴァ神をどうするかと考えていた夫人は寺を訪れたとき、上半身裸のアッサンを見て、主役に抜擢することを決める。アッサンも喪に服していて、愛する師が洪水で死んだと告げる。

祭は盛大に行われ、シヴァ神に扮したアッサンが象に乗って練り歩き、民衆は歓呼の声で迎え、募金も百万集まり大成功だった。総督は、アッサンに褒美をつかわそうと言った。アッサンはその場では答えなかったが、その夜、総督夫人の部屋に忍び入り、あなたを褒美としていただくと言う。夫人は抵抗するが内心嬉しい。

その日から、夫人はアッサンの小屋に足しげく通うようになり、総督も異変に薄々気づく。ある日、アッサンに対して、夫人は、妹がいたが、冒険家の男に恋して一緒に旅していたとき、テントの中で暴漢に襲われて殺され、手首を切られて腕輪を盗られたという話をする。アッサンは黙って、小屋の隠しのなかからダイヤモンドの腕輪を取り出して見せる。

夫人は血相を変えて、総督の執務室へ駆け込み、直ちにアッサンを捕まえるように言うが、夫は醜聞に広がることを恐れ、夫人にアッサンと一緒にこの世から消えてしまえと言う。やはりアッサンを愛していた夫人は、アッサンの元に戻り、二人で死のうと砂漠に向かって車を走らせる。水の滴る岩場へ行くと、豹が居て、師も洞窟で生き永らえていた。アッサンが作ってくれた出入口のおかげで命拾いをしたと言う。師は、総督の真意は目の前から消えろということだから、死ぬのでなく二人でヨーロッパへ逃げなさいと諭し、旅費を与える。
 めでたしめでたしで終わりますが、師は、ここからが本当の試練だと、最後に呟きます。


 面白かったのは、ひとつは、総督はイギリス人で、総督の秘書官やまわりを取り巻く上流階級の人たちもみんなイギリス人ですが、総督夫人だけはフランス女性で、アッサンが夫人を見染めたのも、彼女が統治側のイギリス女ではないというのが理由になっています。また総督夫人が「イギリス人の考えそうなことだわ」と馬鹿にしたような物言いをするところがあって、フランスの読者をかなり意識していることが分かります。

 もうひとつは、インド人のアッサンとイギリス人の総督秘書官が対照的に描かれていることです。アッサンは、僧侶と10歳の売春婦のあいだに生まれた最下層のカースト出身で、赤銅色のがっしりした身体に、髪は黒光りし、眼はアクアマリン色に輝き、大胆な態度はアルセーヌ・ルパンを思わせるところがあるのに対し、夫人に思いを寄せどうやら一度は密通したこともあるらしい秘書官は、金髪長身の学歴の高い人物で、詩集を出していて、シェークスピア気取りといった人物です。「剛健な東洋人」対「ひ弱な西洋人」の対比が見てとれるように思います。

 何度も同じようなことを書きますが、フランス人が書いたインドの物語を日本人の私が読むという何とも屈折した感じが心地よい。

寺山修司『棺桶島を記述する試み』と金井美恵子『春の画の館』

  
寺山修司『棺桶島を記述する試み』(サンリオ出版 1973年)
金井美恵子『春の画の館』(講談社文庫 1979年)


 異界と奇想をテーマとした散文詩ということでまとめてみました。両作はテイストはまったく異なります。好悪で言えば、『棺桶島』が圧倒的に面白く、『春の画の館』は私の好みではありません。


 寺山修司の詩は、私が詩を読み始めたころに、大勢の戦後詩人を含めたアンソロジーで一度接して、諧謔に奇妙な味を感じたものの、他の詩人のストレートな抒情性や重々しいトーンのほうに気を奪われて、あまり評価できないまま、その後、敬遠気味にしておりました。演劇分野でも、唐十郎状況劇場はよく見に行きましたが、寺山修司天井桟敷へは行ったことがありませんでした。

 今回、『棺桶島を記述する試み』を読んで、「わたしに似た人」や「生れた年」など、昔読んだ詩に近いものを感じるとともに、ナンセンスと奇想に溢れ、諧謔ぶりが思う存分発揮されているのに感心しました。論理的であろうとするところに、詭弁的なおかしみが湧いてくる感じです。歳とともに私の感性が変わったのかも知れません。

 ロビンソン・クルーソーの物語を下敷きに、都会のなかで真似をしようとした男が繰り広げる冒険譚ですが、物語の展開が好き放題やりたい放題で、人間が失踪したばかりの街へ行ってみたり、「ありとあらゆる語」を話す男と「なんにでもなる語」を話す男の会話があったり、すべてを消すという怪物ゴムゴムが来るというので逃げ出したり、ピアニストはただ一人しか要らないというような唯一無二の絶対が支配する島で相対同盟の一員として政府と闘ったり、という具合。

 そんなストーリーの合間合間に、「ぼくは人に、夢から醒めろと忠告したものだが、きみにはむしろ、現実から醒めろと言ってやりたいよ」(p15)とか、「誰も、他人の目で涙を流すことは出来ない」(p17)、「さて、どのへんから夢で、どのへんから現実なのかは、彼にもたしかではなかった」(p28)、「旦那。あんたの場合には『ありとあらゆる女』と『なんにでもなる女』とどっちを抱きたいですかね?」(p38)とか、「お客さんはよく、二階の部屋空いてる?・・・とかお訊ねになりますが、各階に二部屋以上あると返答に困ってしまうのです」(p61)、「『何だ、お前は?』すると声が返ってきた。『おれは、お前だぞ』」(p84)といったような奇怪なフレーズが添えられます。

 各章のはじめに、中世版画風の挿絵がついているのが妙味を添えています。装丁者は榎本了壱


 『春の画の館』は、初出は1973年刊。入沢康夫の『ランゲルスハンス氏の島』(1962年)、多田智満子『鏡の町あるいは眼の森』(1968年)、入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)など、架空の場を描いた詩の影響を受けていると思われます。全体は散文で物語風で、ところどころに口調のいい唄が挟まれますが、それが成功しているとは言えません。印象としては、『ソドムの百二十日』などサドの作品を思わせ、金子國義の絵を見ているような感じ。全体としてあまり好感は持てませんでした。

 理念的な館が舞台。庭が物置と化して部屋から部屋へと渡り歩くしか移動できない館で、主は姿を見せず、館の庭にある12の小屋に「女中」と呼ばれる女性が住み、館には少年少女が住んでいるという設定。館は実は巨大な売春宿で、やたらと人が簡単に死んだり、人を傷つけたり、血の匂いがしています。性的な記述は多いですが、ねちねちとした感じはなく、抽象的で断言的でさっぱりしているところがサドに似ています。後半から、館の主が何者かをめぐる考察が繰り広げられますが、結局、主が不可視であり、それ故不死であることが、この館が不合理なままを永続できるという言葉で終わります。

 この作品も、挿画が一味添えています。これは、お姉さんの金井久美子作品。

百万遍の秋の古本まつりほか

 報告が遅くなりましたが、百万遍の秋の古本まつりは、二日目の10月30日(日)に行ってきました。食あたりで体調が悪いなか、古本仲間との約束もあり無理して出かけましたが、精神が集中できず、茫然と古本テントのあいだをさ迷うのみとなりました。以下購入品。
 紫陽書院の200円均一(3冊500円)で、
米窪太刀雄『マドロスの悲哀』(中興館書店、大正5年10月、200円)→初めて見たが、神戸海員協会に属する船乗りの作者が小説風に綴った見聞集のようだ。幽霊船の海洋奇譚も入っている。

 竹岡書店の3冊500円(1冊でも2冊でも500円)で下記2冊。あと1冊が買えず。
清水憲男『ドン・キホーテの世紀―スペイン黄金時代を読む』(岩波書店、97年5月、250円)
小田晋『日本の狂気誌』(思索社、昭和55年3月、250円)
  
 暮靄書房というあまりなじみのないお店で、
小松和彦『異界と日本人―絵物語の想像力』(角川選書、平成15年、500円)

 キクオ書店の3冊500円で、
久米博『夢の解釈学』(北斗出版、82年3月、184円)
川俣晃自『美しい国』(彌生書房、78年5月、183円)
川俣晃自『シャルロッテ・フォン・エステルハイム』(彌生書房、80年5月、183円)→以上2冊は連作の西欧留学小説。
    

 リアル古本屋では、
 近鉄阪神沿線を渡り歩く呑み会で阪神香櫨園駅へ行くのに、難波で途中下車して、久しぶりに天地書房へ寄りました。以前、入って右手にあった均一本コーナーがなくなってたので寂しい。下記1冊のみ。
山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書、19年12月、165円)

 これまた昔の職場OBの呑み会で梅田へ出たついでに、阪急古書の町へ久しぶりに寄りました。梅田のビル街はすっかり姿が変わっていたが、店の顔触れはそんなに変わってませんでした。梁山泊で、下記2冊を購入。
梅原猛/吉本隆明『日本の原像』(中公文庫、94年8月、260円)
栗原成郎『ロシア異界幻想』(岩波新書、02年2月、330円)

 その他はオークションでの購入。
三木露風『夏姫』(霞城館、昭和54年6月、790円)→処女詩歌集の復刻版。付録、家森長治郎『「夏姫」について』
Bernard Delvaille『La Poèsie Symboliste―Anthologie』(Seghers、80年4月、500円)→430頁もあってフランス象徴詩人を網羅している。
川口久雄『西域の虎―平安朝比較文学論集』(吉川弘文館、昭和49年4月、1067円)→「『源氏物語』における中国伝奇小説の影」、「『本朝神仙伝』と神仙文学の流れ」、「エル・エスコリァル訪書紀行」など面白そう。
クロード・ロワ水谷清訳『暁の暗闇』(舷燈社、02年11月、800円)
『アンソロジー坂井信夫』(土曜美術出版販売、00年9月、220円)
坂井信夫詩集『分身』(矢立出版、85年7月、475円)
坂井信夫『悪霊のための習作』(漉林書房、89年12月、475円)
坂井信夫初期詩篇『夜』(白地社、84年5月、760円)
小湖津完爾『塵芥集―一夜の詠(茂原才欠 短歌大矢數)』(思潮社、21年10月、500円)→沓掛良彦のふざけまわった狂歌集、彼の知友のいろんな学者、文人が歌われている。
野島正興『百済観音半身像を見た』(晃洋書房、98年10月、250円)→奈良日仏協会でお知り合いの方の本。
由良君美『読書狂言綺語抄』(沖積舎、昭和62年5月、1099円)→なぜか持ってなかった。
                  
 ちと買い過ぎましたか。

高橋優子の三冊

    
高橋優子『冥界(ハデス)の泉』(沖積舎 1997年)
高橋優子『薄緑色幻想』(思潮社 2003年)
高橋優子『薔薇の合図(シーニュ)―Signe de la rose』(天使舎 2003年)


 高橋優子はまったく知らない人でしたが、オークションで、『薔薇の合図(シーニュ)』が出品されていて、頁の写真を見て、文章が魅力的に思えて入札したのが始まり。それから読みもしないまま、次々と同じ出品者から落札しました。今回、まとめて読んでみて、やはり文章に独特の味わいを感じました。『冥界の泉』と『薄緑色幻想』は散文詩、『薔薇の合図』(「薔薇の合図」と「犠の羊」の二篇)は小説に分類できると思いますが、三作とも文章のあり方はまったく同じで、区別がつかないほど。

 その特徴を考えてみますと、
①内面世界の描写に終始していること。沼とか森とか野原、湖、鏡など、背景は出てくるが、いずれも抽象的で神話的。ほとんどが一人称で、私の目線で語られている。『冥界の泉』では10篇中8篇、『薄緑色幻想』では10篇中10篇、『薔薇の合図』では、「薔薇の合図」全体と「犠の羊」16章中10章が一人称。

②一人称の主体は明らかに女性であり、全体的に感情、情愛に満ちた女性的な優美さのある文章が連綿と続いて行くあたりは、平安朝女流文学を思わせるところもある。

③一人称で描かれるが、「あなた」や「あのひと」、「あの方」といった他者への呼びかけが頻繁に行われ、考え方によっては、二人称的文体とも言える。

④ここが重要なところだが、「あなた」の性が不確かなところがある。どうやら一部の「あなた」は男性のように見えるが、大半は女性と考えられる。つまり女性同士の愛情、あるいは性愛と言っていいほどのエロスが溢れている。精神分析の対象になりそうな文章が連綿と続く。

⑤「あなた」の姿を遠くから認めたり、近くに並んで立っていたり、寄り添って歩いたりという身体感覚の表現が目につく。また指や掌が象徴的に扱われ、掌を差し伸べたり掌を取ったり指を絡ませたりという場面が多い。

⑥全体的な印象で言えば、少女小説を文学的に高めたという感じか。ハンス・ベルメールバルテュス少女ムシェットといった言葉が効果的に引用されたり、ギリシア神話にもとづく作品があったりする。


 『冥界の泉』は、この3作中、もっとも不思議なイメージに富み、全体が統一された感のある作品。10篇の散文詩で構成されていて、一つ一つが独立していますが、関連があるようです。ある詩篇では、どうやら、私は冥界の沼沢地の縁を彷徨っているかと思えば、また別の詩篇では、今度は、「あなた」が冥界に居て、お互いの指を探りながら、過去の追憶を語ったり、現在の幻影が入り混じったりして、靄の中に居るような朦朧とした世界が綴られます。

 具体的に何が書かれているか、よく理解できないのですが、読んでいて気持ちのいい文章です。読めば読むほど混迷を深めて行きますが、味わいも増してきます。物語と呼ぶにはあまりに茫洋としていて分かりにくく、詩としか呼びようがない作品。跋を書いている高橋英夫も解説に困っている様子です。

 「波の音は、何処の海辺も同じ響きがするものなのだろうか」(p43)、「この灰白色の底に横たわって、人はどんな夢を紡いでいるのか。けれども、彼女こそ自らの夢のただなかに浮かぶ道をひたすらに歩みながら、この世の外を彷徨っているのかもしれないと思えてきた」(p77)とか、「落ちながら夢のなかで、死とはもうひとつの世界に生れ落ちることであったかと」(p78)といったいくつかのフレーズが印象的でした。


 『薄緑色幻想』は、最後の2篇だけ少し毛色の変わった内容になっていますが、前の8篇は『冥界の泉』と同様の雰囲気を持った作品群。背景は、少し街を思わせる風に具体的になっています。矢川澄子による跋がついていますが、どうやらこの跋は『冥界の泉』用に書かれたもののようで、そのときは採用されなかったようです。


 『薔薇の合図』が小説であるという根拠は、登場人物が固有名詞で語られているところと、具体的なストーリーらしきものがあるからです。小説と言っても、文章の繊細さは変わらず、散文詩的です。この作品も、ほとんど女性たちばかりが登場して、情愛の世界が繰り広げられます。要約してみたところで本文の魅力は伝わりませんが、物語としてはおよそ次のような枠組みです。

「薔薇の合図」:歳の離れた夫と結婚した私は、夫の妹に対して夫以上に心を動かされている。もしかして妹がいたから結婚したのかも知れないと思うほど。夫は優しい眼差しを投げかけながら、ときに手荒に二の腕の内側に十字型の傷をつけたりする。妹は私に何か合図を送り続けていた。何か秘密があるように思えた。ある日、美術展で、一緒に「海に身を投げるサフォー」の絵を見ていると、背後に誰か居るような気配がするとともに、妹は、兄の先妻を思い出したと言う。「先妻の方はどうして死んだのかしら」と尋ねた途端、妹は気を失う。先妻に嫉妬を感じながら介抱しようとして、上腕の内側に自分と同じ十字の傷がついていることを発見する。

「犠の羊」:私は、父の居ない美しい母娘の娘の塔子に、強く惹かれている。塔子はひそかに思っていた少女が遠くへ去ったあと、心に激しい痛みを感じるようになっていた。母親の育った湖沼地帯の写真を見て、行ったことがないのに、記憶があると言う。私は、ある女性彰子から、母娘と別の女性有維子と4人で、有維子の生地である掘割のある町へ旅したときのことを聞かされる。塔子はそこで、母以外の2人の女性に愛情を感じるとともに、母が有維子と口移しで柘榴を食べる姿を見て、母親は自分よりも有維子に愛情を抱いていると見抜くのだった。その後、母と有維子が頻繁に会うなかで、塔子は母の愛を繋ぎ止めようとしていた。母親は苦しみにどんどんと窶れて行った。

 ある日、母親は私のところへ来て、弟が湖に身を投げた話をして帰って行く。それから間もなく、私は母親が亡くなったことを知る。塔子は有維子のもとに引き取られ、塔子も少しずつ馴染んできたころ、突然有維子から「あなたのいちばん会いたい人よ」と父親を紹介される。これまで女性ばかりのあいだで育ってきたので、塔子は男性に怯えを感じたが、三人で暮らし始める。ようやく父に慣れてきたころ、父が亡き母のことを「神さえも眼を背ける女だった」と言うのを聞いて愕然とし、有維子に対し、父と別れるようすがりついて懇願した。しばらくして塔子は姿を消し、父親も居なくなった。私は湖沼地帯に思いを馳せながら塔子の名を呼ぶ。

上田周二の詩集二冊

  
上田周二『死霊の憂鬱』(沖積舎 2000年)
上田周二『彷徨』(沖積舎 2009年)


 前回、学生の頃に矢島輝夫に衝撃を受けたと書きましたが、上田周二も、『闇の扉』を学生時代に読んで、同様の衝撃を受けたことを覚えています。今回は、タイトルに惹かれて買い溜めていた詩集を読んでみることにしました。異界が垣間見られるかと期待して。が、一読後の印象は、それが良いか悪いかは別として、詩としての凝縮度や詩語が欠如していて、日常語が剥き出しになっている感じを受けました。


 『死霊の憂鬱』は、やや散文詩的、物語風で、町をさ迷っていろんな男や女の生態を目撃する死霊が、この世の悲惨、人間の悲しい性を語るといった体裁の詩が16篇と、それを挟むように、プロローグ、エピローグとして、ごきぶりに変身した自分を自虐的に歌った詩が2篇収められています。

 ひとつの特徴は、分身や変身が多く語られていることです。例を挙げると、褐色に爛れて痙攣する顔と、白皙秀麗な顔の二つの怪異の顔を持つ紳士が登場したり(「酔客のひとり」)、口からよだれを垂らしている自分の顔を見たり(「ホームレス」)、老人から小肥りの丸髷結った中年の女が分離したり(「自画像」)、狼の顔をした男が出て来たり(「追放者」)、前世の自分と出会ったり(「老人彷徨」)、猪の顔をしたファロス男と緋鯉に化けた少女が対決したり(「変身譚」)、空の雲が髑髏の相に変わって行ったり(「妄想」)など。

 なかでは、病院から抜け出した男の後をつけて行くと、男の腹が膨らみ始め、山のなかの寺に入ると、僧侶たちの読経のなかで、男の腹から鬼のような化け物が現われ、読経の金色の靄の中に消えて行ったという「昇天」が秀逸。ほかに、初老の紳士の背中に黒い河が写し出されそこに真紅の可憐な花が一本背筋を伸ばしていたという「酔客のひとり」、背後に古びた町並みの影を抱えた老人が、中年女、老婆、青年、禿頭の男と次々に変身していく「自画像」、〈あの湖水の底にわたしの骨はまだ眠ってますの〉と看護婦が呟く「妄想」が面白い。


 『彷徨』は、『死霊の憂鬱』に比べると、各行の独立性が強くなっていて、より詩のかたちに近くなっているように思います。電車のなかや地下広場の雑踏、街歩き、踏切、駅裏の小路、店舗、ぎゃらりー、公園のベンチ、人の行列、古書店、陸橋、荒野の道、美術館など、ある特定の場所が、舞台もしくは端緒となって、それぞれの詩が展開しています。Ⅰ部13篇とⅡ部3篇に分かれていますが、その仕分けがよく分かりません。Ⅰ部の方が町中の感じが強いということでしょうか。私はⅡ部の方が好きです。

 なかでは、古書店だと思って入ったところが洞窟の中のようで、奥から出ると墓地だったという「秘密」、ビルとビルのあいだを繋ぐ空中通路を歩いていて誰にも会わないことに気づき、どこへ行こうとしているかと自らに問う「陸橋」、かつて見憶えのある道を歩いていて、昔のアパートの前で昔の仲間が写真を撮っていたが私だけが居らず、声を掛けようとして行き暮れている自分を発見する「荒野の道」、美術館を出たところで、浮浪者のような老人から待っていたと声を掛けられ、幼い頃一日だけ一緒に銀杏の実を拾った思い出を語りだす「老人の夢」、靄のなかで小母さんに出会い、何も言わないまま手を引かれてついて行くが、何度か手がスポッと抜けるうちに叔母さんが諦めて靄の中に消える「夢一つ」が、『闇の扉』の上田周二らしくて佳作。