ボルノウ『気分の本質』

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O・F・ボルノウ藤縄千艸訳『気分の本質』(筑摩叢書 1973年)

 

 このところパソコンが壊れて暗い気分になっておりますが、それでこの本を取り上げたわけではなく、この本を読んだのはまだ壊れる前のことで、感覚やリズム、身体など哲学の周縁的な問題への一連の興味からです。著者は「日本語版へのまえがき」で、第二次世界大戦の重苦しい気分のなかで、幸福な気分について考えたことがこの本を書いたきっかけだと告白していますし、「あとがき解説」で梅原猛が、戦後ハイデッガーを研究し死の哲学の暗い洞窟のなかにいたとき、この本から射してくる一条の光に救われたと述懐していました。この本には前向きな明るい気分があるように思います。

 

 理性とか合理性への信頼が崩壊し、哲学が探求すべき「人間の固定的本質などというものは存在しない」という認識を背景に、生のより深い基盤を探ろうとする当時の哲学界のなかで、ボルノウは、ハイデッガーが不安を軸に展開した哲学を引き継ぎながら、新たに喜びや愛、信頼に価値を見出そうとしたということのようです。

 

 いかんせん、本を読みながら感想を記していた記録が全部消えてしまい、朦朧とした頭では半分も思い出せませんが、この本の前段では気分の分類と特徴を述べ、後半では、メスカリンで人工的に作り出された陶酔や、プルーストの至福感など、個別の例を解説していたように思います。もう一度ページを繰ってみると、おおよそ次のような指摘が目に留まりました。

 

①気分はもともと音楽的な心の状態を示すものであり、一定の対象を持たない、全体を包む色調である。気分を表現する言葉が「晴れ晴れと」とか「曇った」というような天候に関するものであることがそれを示している。人は常にある気分に支配されており、外部のものがいかに見えるかということはその気分によって条件づけられている。人は幸福な気分を自ら生み出すことはできず、得ようとすればするほど遠ざかっていく。また気分は突然襲ってくるもので、それに気づいたときはすでに内部に行きわたっている。気分には大きく分けて高揚した気分とふさいだ気分がある。

 

②昂揚した気分には、喜びや愉快と、満足・幸福・至福の二種類がある。昂揚した気分の時は他人に対して心を開く。幸福な人は愛することができるが、憎しみを持つことはできない。喜びや愉快は、真剣さの欠如とみなされることもあり、無思慮や放埓に至ると、抑制や理性的思慮を押しのけることとなる。

 

③ふさいだ気分には、無気力さ、絶望など、生命感情の弱まった状態の気分や、悲哀、諦め、運命への服従など、不満、不機嫌さの気分がある。真面目さはふさいだ気分の中に数えられる。悲哀、憂い、苦悩、精神的肉体的苦痛は人を孤独へ追いやり、不愉快にし、不信、憎しみ、嫉妬などの卑屈な気分を起こさせ、人を委縮させる。

 

④この二つの大きいグループ以外に、敬虔、荘重や壮麗の気分がある。また風景的表現で、夕方の気分、月光の気分、また朝の気分などがある。日中の明晰さは気分にとってあまり好都合ではない。人には自らの気分に浸って楽しむということがある。甘い感傷、淡い悲哀、憂鬱がそれである。祝祭は日常の味気ない灰色と対立する。

 

⑤ほかに、気分と同様な意味で使われる言葉に「機嫌」がある。人は良い機嫌になったり悪い機嫌になったりする。動揺によって態度が揺れ動く人間を「機嫌的」(日本語では「気分屋」?)と言う。また気分(機嫌)は損ねられるものである。気分づけられない状態に無色の退屈というものがある。

 

⑥人工的に昂揚した状態を作り出す実験があり、メスカリンによる陶酔の例では、出来事がばらばらに並列するというように時間の感覚が変容し、空間は双眼鏡で覗いているように拡大し、色は光度を増し、聴覚も感受性が著しく高められるということがある。

 

プルーストの時間体験の特色は、小さい目立たないきっかけから至福が突然に訪れるというところにあり、過去の体験が当時にはなかった完全性を持って現れるということにある。その至福感は永遠性の意識を持っているが、ただ過去へ戻ることを指示しているにすぎず、受動性の地平にとどまるという弱点がある。

 

⑧それに比べて、ニーチェにおける「偉大なる真昼」の体験は、新しい生がはじまる決定的な転回点である。時間性を超越することは、存在すること一般の重荷的性格を超越することでもある。このような幸福の瞬間だけが創造的な性格を持っている。

 

⑨昂揚した気分は展開を行なって生の豊かさを形成し、ふさいだ気分は批判的作用をもって吟味を行ない、形態の固定性というものを形づくる。理想は、昂揚した気分とふさいだ気分の交互使用によって、それぞれの持つ長所を統一しバランスを取るということではないか。

 

 気分というものは、自分のなかに生まれるものである一方、外部からやってくる抗しがたいものという面もあります。普段は自らの気分は気にしていませんが、いったん意識すると、気づくことでその気分が加速されるという性質があるように思います。つい気分に捕らわれてしまいがちで、気分の切り替えが自由自在にできるのが理想ですが、なかなかそう簡単にはできないところが情けない。

 

 この本はあくまでも個人の内面に起こる気分を問題にしていますが、社会的な気分というものも考えてみると面白いかもわかりません。どうやって形成されていくのか。経済やメディアの影響、政治の意思決定との関係。一筋縄では行かなさそうです。

下鴨神社の納涼古本まつりほか

 4日ほど前パソコンが急に開けなくなり、古本購入メモをせっかく作っていたのに、取り出せなくなってしまいました。急遽新しいパソコンを買って、古本仲間から、すでに送っていた古本報告のメールを送り返してもらい、なんとか今回の記事に間に合わせることができました。ほかの読書ノートのデータも全部消えてしまったので、データ復旧を依頼しているところです。そんなこともあり、少しの間ブログをお休みすることになりそうです。

 

 まずは、下鴨神社古本市の報告から。「納涼古本まつり」とは名ばかりの酷暑のなか、初日に行ってまいりました。10時ちょっと前に到着、赤尾照文堂の均一台の前で開店を待つ。ここでは、3冊500円の台から

ヴァレリー全集6 詩について』(筑摩書房、73年9月、167円)

ヴァレリー全集7 マラルメ論叢』(筑摩書房、73年10月、167円)

ダニエル・アラス宮下志朗訳『なにも見ていない―名画をめぐる六つの冒険』(白水社、02年10月、166円)

500円均一台から

石原吉郎句集―附俳句評論』(深夜叢書社、74年2月、500円)

竹内勝太郎『西歐藝術風物記』(芸艸堂、昭和10年9月、500円)

を買いました。この間僅か15分程度、午前の部はその後まったく収穫なし。

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 午後の部は暑さでへたって考える気力も湧かず亡霊のようにテントからテントをさ迷いました。下記の2冊のみ。

チャールズ・ラム木村艸太訳『愛と罪(ロザマンド・グレイ)』(櫻井書店、昭和23年1月、300円)

マイヤー=フェルスター丸山匠訳『アルト=ハイデルベルク』(岩波文庫、80年2月、100円)

早々に引き上げ、帰宅後脱水症状かぐったりとしてしまいました。来年からは年寄りは下鴨は考えものです。

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 今週水曜日、会社OB麻雀会へ行く途中に阪神百貨店の横を通ったら、「阪神夏の古書ノ市」というポスターが目に留まりました。そう言えばお盆のころにいつもやっていたと思い出したときはすでに遅く、麻雀会の開始が近づいていたので、うしろ髪を引かれつつ先を急ぎました。ところが不思議なもので、私の組のメンバーの一人が途中で気分が悪くなり中止解散となってしまい、それで阪神百貨店へ行くことができました。午後3時近くで、すでにハイエナに食い尽くされた後の気配がありましたが、下記2冊を購入。

「風信 第2号 シャルル・メリヨン特集」(風信の会、89年6月、1000円)

高山宏『痙攣する地獄』(作品社、95年4月、1200円)

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オークションでは、下記5冊。

マリオ・プラーツ若桑みどり他訳『官能の庭―マニエリスム・エンブレム・バロック』(ありな書房、92年2月、2000円)

張競『夢想と身体の人間博物誌―綺想と現実の東洋』(青土社、14年8月、610円)

亀井俊介『日本近代詩の成立』(南雲堂、16年11月、810円)

ルフレッド・ドゥ・ヴィニー平岡昇譯『詩人の運命―ステルロ』(青木書店、昭和14年1月、200円)

アレクサンドル・デュマ榊原晃三訳『王妃マルゴ 上・下』(河出文庫、94年10月、二冊300円)

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Jean Lorrain『VILLA MAURESQUE』(ジャン・ロラン『ムーア風別荘』)

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Jean Lorrain『VILLA MAURESQUE』(LIVRE MODERNE 1942年)

 

 向うの古本屋でよく見かけた「LE LIVRE MODERNE ILLUSTRÉ」というシリーズの一冊。MICHEL CIRYという人の挿絵がついていました。

 

 ジョルジュ・ノルマンディの序文によると、ジャン・ロランの2作目の小説作品で、1886年に、最初は『Très russe(超ロシア的)』というタイトルで出版され、1914年の再版の際もその題名が使われたが、もとは『VILLA MAURESQUE』というタイトルが付けられていたそうです。「Très russe」は女主人公リヴィティノフ夫人の性格を表わすものとして、「Villa mauresque」はこの物語で主要な役割を果たす建物を指す言葉として、どちらもこの小説にふさわしいタイトルだと思います。同じくロシア貴族の家系を描いた1902年の『ノロンソフ家の人びと』を思わせるような雰囲気はありますが、『ノロンソフ』ほどのグロテスクさはなく、健全な印象がありました。

 

 本作品の魅力は、ノルマンディ地方の海岸の風光美を背景に、芸術家や貴族が訪れる避暑地の夏がありありと描かれているところで、読んでいる間、生駒にいるはずの私もその一員となって、海辺で泳いだり、居酒屋で飲んだり、アヴァンチュールを楽しんだりの気分になりました。主人公の詩人モーリア(ジャン・ロランがモデル)の友人の画家ジャック・アレルが語り手となり、「Villa mauresque」に避暑にきたロシア貴族のリヴィティノフ夫人に対するモーリアと小説家のボーフリラン(モーパッサンがモデル)との恋のつばぜり合いが中心となっています。以下があらすじです。

 

 2年前に、モーリアはフィレンツェで初めて彼女と出会い、その美貌と知性に恋い焦がれて、愛を告白するが冷たくあしらわれた。ところが彼女が旅立つ前日急に呼び出されて一夜を共にする。その後何度手紙を書いてもなしのつぶてだったが、その夏急に、「ノルマンディ沿岸の町イポルのムーア風別荘に滞在している」という連絡が来たところからこの物語は始まる。彼女のまわりには多数の男性の存在が見え隠れしている。正式の結婚は3回で、いずれも財産家と結婚しているが、二人の夫は怪死している。それ以外にも彼女のせいで亡くなった男もいて、多数の金持ちの老人をパトロンにして、豪奢な生活を送っていた。

  モーリアは海辺や森で彼女とデートを重ね、別荘に入りびたりとなるが身体は許してくれず、モーリアはじりじりしている。そんなところへ小説家のボーフリランが博学と甘言で彼女に取り入り割って入ってきた。ある日、こっそり伺うと、夫人が帰ろうとするボーフリランに鍵を渡し微笑むのが見えた。今晩、逢引きするつもりだなと嫉妬して、夫人が夕食を誘うのも断り、夜また不意を襲おうといったん近くの居酒屋へ行くとそこにボーフリランがいた。どうやらここで時間稼ぎをしているらしい。モーリアは語り手アレルのところへ憤激をぶちまけに来て、帰りがけに「ボーフリランの野郎を殺す」と言って去る。棚を見ると銃がなくなっていた。

  深夜、別荘にモーリアが忍び込み、夫人と言い合いをしているところに、案の定ボーフリランがやってくる。夫人はモーリアの銃を奪いボーフリランを招き入れ二人で消える。モーリアが愕然としていると後ろから夫人が現われ、ボーフリランは女中が目当てで忍びこんで来たと明かす。半信半疑のモーリアは夫人に誘われるままに、森を散歩し廃墟の塔の中で愛を交える。明け方、二人で手をつなぎ詩を朗唱しながら森を歩いていると、ボーフリランが満足げに戻ってくるのと出くわすが、なぜか夫人は姿を隠そうとする。どうやらボーフリランを騙して夫人と瓜二つの女中を替え玉にしたらしい。「夫が帰って来る前の日に、二人の争いを見たくなかったから」と言う。不実な愛をなじり激高するモーリアに対して、「後悔してるの?今回の情事は秘密にしてね。私はこのひとときのことは一生忘れないわ。青春の思い出よ」と別れの言葉を告げる。

 

 リヴィティノフ夫人は、男の真剣な心を弄ぶfemme fatale(宿命の女)、la belle dame sans merci(冷酷な美女)の類でしょう。作中でも、ところどころにリヴィティノフ夫人の恋愛哲学をうかがわせるセリフが出てきました。「最初の思い出を永遠に残したいのよ。私は愛した人と二度は身体を任せないの」、「幸せって幻影なのよ」、「男たちは、愛する人の過去には嫉妬するけど未来にはしないのよね。逆に女からすると、愛されたことのない男は気持ち悪いわ。私たち女性は、知り合ってからは他の女に目もくれずにていくれる男性を夢見るのよ」など。

 

 どうやらある程度実話にもとづいて書かれたようで、この小説が出版されてから、モーパッサンとは子どものころから一緒に遊んだ仲だったのに、絶交状態となってしまったようです。ムーア風別荘もまだ残っていて、「モーパッサンはここに住んで多くの作品を書いた」と間違った標示板が貼られているとのこと。モーリアとリヴィティノフ夫人が愛を交えたという廃墟の塔もあるということです。機会があればぜひ行ってみたいものです。

 

 単なる避暑地での上流階級の恋愛を描いた詩的な物語というのではなく、推理小説的なトリックがあったり、機知に富んだ挿話があるなど、いろんな味付けがなされているのがこの本の面白いところです。ロシアの伯爵夫人に愛を告白する詩をかつて捧げた詩人がいまや年老いて盲目になっていたが、やはり年老いて醜くなり寡婦となっていた伯爵夫人がその詩人と結婚して世話しているという挿話がありました。どこかで読んだ気がして、探してみたら、同じロランの『Le vice errant(さまよえる悪徳)』のなかの短篇「La Maison du bonheur(幸福の家)」に同じ話が出ていました。また、モーリアの書斎の描写は、「水族館か海中の洞窟のような雰囲気」、「幻想癖と珍奇癖」、「暗緑の夕暮のような大広間」という言葉に見られるように、「さかしま」のデ・ゼッサントの部屋のような幻惑的雰囲気に満ちていました。

        

 些末な話ですが、ボーフリランが画家のアレルに煙草を進めるとき、「あなたは画家だから恥ずかしい習慣になじんでるでしょ」という言い方をしていました。この時代すでに喫煙に後ろ暗いところがあったということと、画家がそうした風潮に抵抗していたことが分かります。

古東哲明『瞬間を生きる哲学』

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古東哲明『瞬間を生きる哲学―〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書 2011年)

 

 知らない人でしたが、同世代で、テーマも面白そうだし、文章が分かりやすかったので購入。文章のやさしさはどこかで読んだことがあるなと思っていたら、内容、書き方ともに森本哲郎によく似ています。最近読んだ河本英夫もそうでしたが、最近の哲学者は理論を説明するだけでなく、問題に対する具体的な処方も同時に書くのが流行のようです。この本では、多忙な日常を生きるなか、瞬間を得る8つの技法が紹介されていました。

 

 論旨はおおざっぱに以下のとおりです。現代に生きる人は、「いま」を生きることをせず、将来のために学業や仕事に克己努力するというように、なにかの「タメに生きる習慣」があたりまえになっている。とくに資本主義経済システムは、世俗化した禁欲精神が基本にあり、今ここに沸き上がる歓喜をガマンし、未来の利得や成果をあてにし将来の幸福に備える備蓄思想である。この近代特有の「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」が現代の生活を慌ただしくしている。また遠くの世界とつながるラジオや電話、さらにはテレビジョンの登場が、いま・ここでない二重性のなかに生きる生のスタイルを形作ってきた。

 

 「速度」が重要になっている現代では遅刻はもってのほかとされるが、近代以前の社会は時間にルーズであった。いいかえれば、効率的で時間厳守的な人生より、もっと重要なことがあるという人生観を持っていた。日本人は時間を守り勤勉だと言われるが、そうした態度も、昭和に入る頃にかろうじて本格化したものであり、小学校の修身の教科書などで、何も知らない子どもたちの脳味噌に摺り込まれたものである。

 

 プルーストが、「現実というものの表面にはすぐに習慣と理知の氷が張ってしまうので、けっして生の現実を見ることがない」と考え、過去を過去として思い出す通常の「意志的想起」ではなく、かつて「生きられた瞬間」であった過去をそのまま現在に蘇らす「非意志的想起」という技法を編み出し、小説作品においてその実践を試み「真の生」を取り戻そうとした、という例を紹介し、現在をしっかり経験する機会としては、芸術作品に接することだとして、俳句を例にとり説明する。最後にインドで悟りを開いたような少女との会話を紹介しているが、この最後のインドの少女との会話がいかにも創作らしく、そのあたりが森本哲郎と似ているところです。

 

 一元論的思考になっていて、見る角度や持ち出される例はあれこれ変わりますが、結局同じことばかり書かれているので冗長な印象があります。この瞬間を生きることを忘れて非現実的な観念に振り回されてあくせくしている現代人や、そうした構造を作り上げている現代社会は間違っているというのが主張のようですが、では、その問題をどうすれば解決できるかということに関しては、個人レベルでの芸術鑑賞や瞬間を生きる技法の実践を薦めているだけで、社会に対しては何の提言もありません。われわれが学生の頃は、ヒッピー運動というのがあって、人間らしい真の生活を目指して、社会から隔絶してコミュニティを作ろうとする人たちがいましたが、失敗に帰しました。社会全体としてはもう後戻りができない所まで来ているということでしょう。

 

 貴重な現在を未来に投資するなと言っても、70歳の老人と5歳の幼児ではまったく立場が異なります。幼児に対して現在にだけ留まれというのは酷で、未来に対する教育というものが必要でしょうし、逆に老人は放っておいても現在のその時々にしか生きられないものです。また競争に駆られてあくせくした現代人と一言で言っても、学問の研鑽や激しいビジネスの最先端にいる人たちは、切磋琢磨しながら生の燃焼を瞬間的に感じているのではないでしょうか。そもそも「あくせくした現代人」といった設問自体、ニーチェがどこかで書いていたように、生を喪失したところから発せられているのです。

 

 本人も、最後に、「四六時中、瞬間を生き、真の生に見開かれている必要なんかない」(p252)と書いているので、自覚していると分かりましたが、たまに美しい瞬間が訪れるから輝くのではないでしょうか。真の生に溢れた瞬間ばかり連続したのでは疲れてしまって、逆に習慣的で惰性的な日常にゆったりと浸りたいと思うのではないでしょうか。また著者自身が一人で瞬間を楽しみたいという気持ちは分かりますが、それを他人に説教するのはどうかという気がします。

 

 最後に本書で紹介されている瞬間を生きる技法をいくつか引用しておきます。

①1分間何もせずに瞬間を味わうこと、眼前の光景、あるいは物音に集中すること

②自分の体をつねること。痛みの感覚は瞬間の感覚である。

③瞬間に身投げするかのように沈むにまかせる。すなわち意志的主体を放棄するということ。すると自然に浮き上がってくる。

④超スロー歩行。右足を7秒ほどかけて15センチほどの高さまであげ、同じ秒数で降ろす。左足も同様。二歩目はさらに倍のスロー歩行。三歩目はさらに遅くし、次に方向転換してまた三歩かけて戻る。

⑤三度の深呼吸をする。1回の呼吸は20秒。ゆっくりと吸い、気がかりや欲念のすべてを吐き出す。息を引き取る最後の呼吸だと思うこと。

リズムに関する本二冊

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ルートヴィヒ・クラーゲス杉浦実訳『リズムの本質』(みすず書房 1977年)

山崎正和『リズムの哲学ノート』(中央公論新社 2018年)

 

 以前から気になっていたリズムの本を読んでみました。クラーゲスの本は、学生時代に話題になった本で、当時友人がクラーゲスの名を連呼していたのを覚えています。山崎正和の本はクラーゲスについての章もあり、彼の著作から刺激を受け思考を発展させて成り立ったものと思います。山崎正和の著作は、『このアメリカ』『おんりい・いえすたでい‘60s』『柔らかい個人主義の誕生』『演技する精神』『文化開国への挑戦』など、ひと頃よく読みましたが、最近のものは読んでませんでした。高齢になり、重篤の病のただなかにあってもなお考え続けるその精神の強靭さには感心してしまいます。

 

 両者ともに共通するのは、西洋哲学の主流であった精神と物質の二元論に支配的である硬直した機械論的な見方を廃し、世界を流動し変化するものとして捉え、生命の脈動的なありかたに着目しているところです。異なる点を言えば、クラーゲスはリズム­=生命に特化して考えているのに対し、山崎正和の方は、身体論の成果などを取り入れ、科学研究などにも言及する視野の広いものになっていると感じました。

 

 『リズムの本質』は、冒頭でいきなり、リズムと拍子は異なるものと切りだし縷々説明が続くので狐につままれたようになり、同じようなものなのになぜそんなにこだわるのかと思いながら読んで行って、その違いが分かるようになった頃、ようやくこの本の目指すところが氷解しました。哲学書であり、難しい単語や言い回しも出てきますが、訳者がとても親切で、分かりやすく補いながら訳しており、事項訳注と人名訳注もあって懇切丁寧。また巻末の解説が、この本の骨子を要を得て簡潔に書いていて、本文で挫折した人はここだけ読めば大筋が理解ができると思います。

 

 いくつか曲解をまじえて要点を記しますと、

①人間が体験する現象の世界は、同じ事物にたいしても、5歳の幼児と70歳の老人は異なる風に受容し、また同一の人間であっても「おなじ川に二度入ることはできない」(ヘラクレイトス)ということを考えると、転変する無常の世界である。一方、事物の世界は無時間的、固着的である。

②同じ調子でハンマーを叩く音を聞くとき、客観的には存在しない二音に分節した強弱の周期的交替音を聞きとってしまう。リズムは現象の世界に属するもので無意識的な生命現象であり、拍子は意識の働きによる規則現象である。

③時間の持続を感じとることができるのは、各瞬間ごとの変化の類似性を把握できるからである。持続は分節があってはじめて持続と感じられる。

④生命は熟睡、麻酔、失神のあいだも活動している。一方、覚醒とは単に意識的なものではなく、覚醒のあいだも肉体感情の波打つ下を、無意識的な霊的直観(睡眠的なもの)が絶えず流れ続けており、覚醒と睡眠の時間的交替は生命のリズムの交替に根ざしてるだけの話だ。リズムの体験が意識下でなされる場合、緊張が解かれ睡眠状態に陥ることは皆が経験するところだ。

⑤時間的な現象は同時に空間的である。たとえば、笛の音を、音強、音高、音長、音色、音量で記述するだけでは不十分で、どこから聞こえてくるものかを書きとめなければならない。

⑥天と地、昼と夜、夏と冬、生長と衰弱、拘束と放逐など、自然や人間世界の周期的運動は両極の力関係から生ずるリズム的脈動であり、機械的な均等な分割のありかたとは異なっている。

⑦障害あるいは欠乏によって生命事象が高められるという事実があるように、リズムは拍子の抵抗に遇って屈折することで、顕著な働きを持つようになる。

 

 まとめていて、自分でもよく理解できてないことが分かりましたが、全般的に言えるのは、単調で機械的なものに対する反発がありありとうかがえるところで、メトロノームどおりに正確に演奏された音楽は機械的であるが、名指揮者は旋律が張りつめリズムに乗った演奏をすると書いたり、中世の石の建築は石の継ぎ目の多様性により壁面に生命を与えていると書くなど、職人芸的な流動性や多様性をリズム的なものとして重んじています。「もっとも完全な規則現象である機械の運動はリズムを否定する」とも書いていて、「リズム>拍子」のリズム一元論と言えるでしょう。

 

 『リズムの哲学ノート』も、なかなか難しくてすべて理解したとは言えませんが、著者の眼目は、文中で何度も書いているように、ギリシャ哲学以来の文明と自然、精神と物質、主体と客体などの二項対立を絶対視する偏見を克服しようとするところにあり、「あとがき」でも次のように書いています。「善といえば悪、光といえば闇、神といえば悪魔というように、一元論は必ずその反対物を呼び起こすのである。私はこのジレンマを解決するには、最初から内に反対物を含みこみ、反対物によって活力を強められるような現象を発見し、これを森羅万象の根源に置くほかはないと漠然と考えていた。そしてそういう現象がたぶんリズムだろうということも」(p253)

 

 身体と記憶、アスペクト、鹿おどし構造、ゲシュタルトの地と図、暗黙知などいくつかのキーワードがあり、それに沿って論点をまとめてみます。

①リズムと身体の関係について、リズムを感受するのは脳ではなく身体の全体であり、人が「波のリズムを感じる」と言うとき、真相は波のリズムがすでに波を離れ、身体そのもののリズムとなって拍動しているということである。また同じように、記憶は脳の産物ではなく、筋肉を含めた全身の作用である。泳ぐことも自転車に乗ることも身体で覚える他はない能力であり、練習とは身体から意識の関与を排除し、リズムの支配に委ねるための行動だと言える。

②同じ対象が観点によって違って見えるのが事物であり、対象ごとに唯一の観点しか許さないのが観念である。記憶は当初は受動的で、事物の複雑なアスペクト(多様な側面)のすべてを保とうとするが、次第に事物の素描化を進め、その素描化が極致に達し、アスペクトの数が一つにまで減じたとき、それが観念と呼ばれる。観念とは人が意識によって完全に操作できるようにした対象である。事物が事物らしい生々しさを帯びるのは、それが観念に区切られているからであり、観念もまた、区切るべき事物があって初めて成立しうる存在である。この相互依存性こそ二組の対立がそれぞれリズムの関係にあることを物語っている。

③リズムが生まれるにはまず運動の流動を堰き止める抵抗体が必要となる。このリズムの構造を体現しているのが日本庭園にある鹿おどしである。歩行を例に考えると、身体の行動にとっての空間は、疲れをもたらす源であり抵抗体である。一歩の適切な歩幅は、力の流動に「ため」を与え、それによって力を増幅するという意味で、鹿おどしに喩えられる。

ゲシュタルトの考えから、活力と疲労という例を見ると、畑を耕す人間にとっては最初は土や鋤が「図」であり、身体は行動の「地」となって陰に隠れているが、体が疲れると「図」は完全に身体に移る。が休息によって活力が回復すると、また「図」と「地」は交替する。ここには明らかにリズム構造があり、ゲシュタルトはリズム現象の一種と考えることができる。

暗黙知とは、個人の身についた知恵と技芸であり、科学研究を考えた場合、研究にヴィジョンを与えてそれを研究者に確信させる力は、暗黙知のなかからしか生まれてこない。一方、科学は、小さく分割された領域での因果関係の解明という分節知によって推し進められてきた。つまり、科学は暗黙知と分節知の相互促進的な協働、両者間のリズム構造であったともいえる。実は、この一見非論理的な見かけを持つ暗黙知も、それを深く究明すれば、内部には複雑な論理構造が畳み込まれていることが分かるのである。

 

 末尾に、ほぼ結論として次のようなことが書かれていました。「自然現象であれ文化現象であれ、そのなかでみずからが『運ばれて』いることを鋭く感知し、リズムに乗せられていることを自覚することが重要である。これは常識的には人が謙虚になるということだが、哲学的にはリズムの顕現が認識されるということである。人が『運ばれ』て生きている事実を自覚するには、藝術とスポーツに親しむことが格好の方途である」と。私は、芸術やスポーツよりは、麻雀がいちばんいいと思いますが。

プレイヤード版のボードレールとヴェルレーヌを買う

 今月は、フランス書は下記の三冊。ユベール・アダは先月フランスの古本屋に発注していたもの。ボードレールヴェルレーヌのプレイヤード版は、昔から手元にと思いつつ高くて買えなかったのが、オークションで少し安く出ていたので買ったもの。読むはずはないが、積年の恨みを果たしました。

HUBERT HADDAD『Un rêve de glace』(ZULMA、06年1月、1864円)→バロニアンの本では代表作として名前が挙がっていた。

Baudelaire『Œuvres complètes』(GALLIMARD、71年7月、3100円)

Verlaine『Œuvres poétiques complètes』(GALLIMARD、68年3月、2700円) 

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 店頭では、恒例の会社OB麻雀会の途上、堺筋本町の槇尾書店にて。

トーマス・パヴェル江口修訳『ペルシャの鏡』(工作舎、93年3月、756円)→幻想哲学小説だの、ルーマニアボルヘスだのの惹句に誘われて。

高階絵里加『異界の海―芳翠・清輝・天心における西洋』(三好企画、00年12月、1080円)→19世紀末日仏交流の一断面の詳細が記されている。

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オークションでは、長谷川郁夫の大作が収穫か。これも読みそうにありませんが。

長谷川郁夫『堀口大學―詩は一生の長い道』(河出書房新社、09年11月、1600円)

柳宗玄監修/写真『フランス古寺巡礼』(岩波写真文庫、55年11月、216円)

植朗子『「ドイツ伝説集」のコスモロジー―配列・エレメント・モティーフ』(鳥影社、13年6月、400円)

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 アマゾンで下記。妙な味わいの詩を書く人。生駒山麓在住らしいので何かの縁で。

『貞久秀紀詩集』(思潮社、15年4月、1143円)

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『ギュスターヴ・モロー展』カタログ

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喜多崎親ほか『ギュスターヴ・モロー展―サロメと宿命の女たち』カタログ(パナソニック留美術館、あべのハルカス美術館ほか 2019年)                                  

 

 奈良日仏協会で美術クラブ鑑賞会があったので、その準備としてカタログを読みました。昨年の『プーシキン美術館展』のときも、このブログでカタログを取りあげていますが(9月26日記事参照)、両方の経験から言えることは、美術展はカタログを先に読んでから見た方がいいということです。

 

 なぜかというと、展覧会では、つい説明ばかりを読んでしまって作品をあまり注視しなくなり、説明書きを見ている時間の方が長くなりがちです。それに説明の字が小さいので読むのに難儀してしまいます。これが事前にカタログを読み込んで行けば、説明をパスして絵をじっくり見ることができるのです。さらに事前に展覧会の趣旨や画家の全体像が理解できているので作品を見る目も変わってくるし、また好きな絵を密かに選定しているので、実物を見るのが楽しみになってくるのです。どの絵を時間をかけて見ればいいかあらかじめ段取りができるということです。

 

 マイナスがあるとすれば、初めて絵を見る驚きがなくなることでしょうか。観光地に出かけるのに、ガイドブックに書いてあることを確認しながら歩いているだけという笑い話がありますが、それに近いものがあるように思います。展覧会の場合はすでに絵が選ばれた後なので、また少し違うような気もしますがよく分かりません。もう一つは忙しい人の場合、カタログを買うためにだけ会場に行くのは、なかなか大変だということです。暇人ならではのことかも分かりません。

 

 それはさておき、ギュスターヴ・モローは昔から好きな画家の一人です。今回あらためて、感心したのは、やはり絵の上を覆う細い銀色の線描の美しさで、このカタログによると、ウィルマンの『フランスのモニュメント』という本からグロテスク文様、フランツ・マルコー編『比較彫刻美術館アルバム』からロマネスク教会を飾る動物や怪物の柱頭彫刻を模写し、熱心に練習していたことがよく分かります。「踊るサロメ」(この展覧会には出品されていない)で、線描が人物の身体や柱などの枠をはみ出して広がっていくのは、解説の喜多崎親によれば、サロメの神秘的な性格を比喩的に表わすものとしていますが、さらに言えばモローがこの装飾的図柄に淫していたからに違いありません。

 

 そうした模写や練習のデッサンの展示を見ていると、モローの事前の準備の周到さは並々ならぬもので、神話の想像上の一場面を描くのに、人物のポーズをさまざまなモデルに依頼して描いており、また同じテーマでいくつもの違う場面を下絵として描いているのに、驚きました。

 

 もう一つ印象的だったのは、モローの東洋趣味で、神話を題材にするということ自体に異国情緒への嗜好がうかがえます。古代ローマという一種の東方を描くのにも、さまざまな東洋の装飾を混淆させ、どの時代、どの地域と特定できないような世界を描いているという喜多崎親の指摘にも共感しました。とくに衣装や冠、宝飾などに注目してみると、そうした味わいが増します。

 

 モローは幼い頃父親から西洋古典の手ほどきを受け、ギリシアローマ神話や、旧約の世界に親しんだこともあり、後年の文学的な性向が育まれたもののようです。私の好きな世紀末作家ジャン・ロランとの交友もあり(書簡集が出版されている)、ロランの詩集にモローが挿絵を描いたり、ロランがモローに詩を捧げたりしています。当時の文学的流行にも敏感だったに違いありません。フランス詩の歴史のなかで、うろ覚えですが、高踏派の前後に、ギリシア神話や旧約などの古代世界やインド・オリエントを舞台とした詩が流行した時期があったというので、モローはそうした動きの影響を受けていたのかもしれません。

 

 サロメの舞は、福音書の時代には触れられていないが、19世紀半ば頃からアルメと呼ばれるエジプトの踊り子の舞と同一視されるようになったという指摘がありましたが、意外と新しいことだったのを知りました。同時代のランボーの詩句に「アルメであるか、あの女」というのがあったのを思い出します。意味がよく分からないまま頭にこびりついていましたが、踊り子のことだったんですね。アルメの出し物が「蜜蜂の踊り」というもので、衣服の中に蜂が入ったという設定で演じられる一種のストリップティーズとありましたが、一度見てみたいものです。