Jacques Abeille『Les jardins statuaires』(ジャック・アベイユ『彫像の地』)

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Jacques Abeille『Les jardins statuaires』(Attila 2010年)

                                   
 章もなにもなく、ひたすら文章が続く573ページの長編。これまで読んだフランス語の本で最長です。要約を作りながら毎日少しずつ読みましたが、2か月半ぐらいかかり、要約は400字詰原稿用紙にすると225枚分にもなってしまいました。フランス人でも読むのはたいへんだと思います。事細かに描写するいわゆるフランス風の饒舌体で、半分ぐらいに圧縮しても作品の質は保てるのではないでしょうか。

 シュネデールの『フランス幻想文学史』にもBaronianの『Panorama de la littérature fantastique(幻想文学展望)』にも紹介されてないので、どこでこの作家を知ったのかよく覚えていません。3年ほど前にパリのジベール・ジョゼフで買った古本。著者は、ウィキペディアによれば、カリブ海のフランス領地で育ち、ボルドーで文学生活を開始し、後期のシュルレアリスム運動に参加した人のようです。本作は、架空の地方を舞台にした「Le cycle des contrées(地方の循環?)」というシリーズの第一作ということです。

 細部が面白いので、要約すると面白さが伝わらないと思いますが、物語の枠組みは次のようなものです(ネタばれ注意)。
主人公は、旅人とだけ記され、彫像の地にふらりとやってくる。宿に泊まると、ガイドを名乗る男が現れ、町の見学に案内される。その地では、彫像の破片を地中に埋めて植物のように育て、住民らが剪定して、立派な像にして家に飾っている。主人公は宿を拠点に、ガイドとともにあちこちの町を見て歩くが、ひとつの彫像の年代記をみんなで書き足して一冊の本にする仕組みを知り、自分もこの彫像の地の記録を書こうと決意する。

ガイドからは、彫像を育てる過程での失敗作の処理や畸形の誕生について、また男女が結婚するまで隔離されたりするさまざまな風習、北方の草原の野蛮な放浪民にまつわる伝説などを聞かされ、次第に友人のようになる。一方、宿の主人からも最上階に取りつけられた望遠鏡で町のパノラマを見せられたりする。が宿の主人とガイドには何かの因縁があって敵対している。

もっぱら南の方ばかりに行っていたが、宿の主人から望遠鏡で北の方角の崩壊しかかった町を見せられ、単身北の町へ向かう。そこは管理不能になり彫像が爆発的に増殖している町だった。町に居残り続けている父娘と出会い、娘と恋仲になる。娘には兄が居たが父に勘当され町を出たと言い、婚約者がいたが結婚を断ったと言う。迎えに来ると約束し、放浪民の首領に会うためにさらに北に向かう。ある場所で放浪民の首領らしき男を目撃し、彼が落とした護符を拾う。北方への案内役を買って出た男に殺されかけるが、女騎士に助けられる。女騎士に媚薬を飲まされ愛し合う。

ついに放浪民たちに出会う。彼らは主人公の豪胆さに驚き、また首領の護符を持っていたので、首領のところへ連れて行く。首領から仲間になれと勧誘されるが断る。約束どおり崩壊の町へ戻り、地下迷宮をくぐる困難を乗り越えて娘を助け出し宿に帰る。と宿は娼婦宿に変貌していた。宿の主人に冒険を語るうち、宿の主人がどうやら娘の兄で、婚約者がガイドだと分かる。娼婦宿組合が娼婦の娘たちにも売春をさせようとする事件が起こり、少女らを救うには金属の小像が必要だと、北の果ての彫像処理場にある鍛冶場へ向かう。が原料となる金属が不足していた。金属を手に入れようと、ふたたび放浪民の首領のところへ行くが、首領は戦争を起こすため全部武器に鋳造し直したばかりだと笑い飛ばす。


 長々と読んだあげく結末が宙ぶらりんのような一種の徒労譚で、読み終わった私もどっと疲れました。全体的には、シュールレアリスム的な珍奇な想像力に溢れる一方、架空の世界の出来事なのでSFのような感じもあります。空想科学小説(SF)から科学を除いた空想小説と呼ぶべきでしょうか。壮大な想像世界を築き上げているという感じで、映画にすると、「レイダース」をさらに幻想彷徨譚風にアレンジしたようなもの凄い映画ができそうです。

 この作品の魅力のひとつは、白亜の彫像が植物のように育っていくという前提もさることながら、架空の土地の風景に想像を掻き立てられることにあると思います。出色なのは、火山のように石が絶えず爆発している「崩壊しかかった町」、そこに再び訪れると、すでに崩壊が極度に進んでいて、洞窟のなかの迷路を石灰の沼に足を取られたりしながら巡る場面。また廃墟の町がつぎつぎと登場しますが、何千もの彫像がまっすぐな道の両側とさらにその垂直方向にも立ち並び地平線まで広がる「見捨てられた彫像の地」、真中の大通り以外は巨大な迷路で、小径や袋小路、段差、小広場などがもつれ合う「白っぽい死の町」など幻想的です。

 もうひとつの魅力は、彫像のさまざまな形が出てくることです。掌に乗せるとキノコよりも軽く、落とすとガラスの鈴のような音を立てて割れるという彫像の芽、初め騎馬姿だったのが骨壺にしなだれかかった女性に自ら変化する彫像、初めは2メートルの高さが次に20センチぐらいになり何か月か後には小指ぐらいになってしまう小さな彫像、頭と腕がないが歩き始めたという背の高い黒い彫像、成長とともに根が消え軽くなって空に舞い上がり雲のようになる彫像、さらにそれが高く上がると壊れて粉が雨のように降りそそぐという。また地面の表面に浮彫を描くだけでそこから蝶々が飛び立っていく彫像、など。

 また彫像の育成のあり方にいろんな物語を付与しているのも面白い。彫像のあちこちに耳や鼻が生えてくるので裁断するとそこが皮膚病のようになって広がって行き他の彫像にもうつる、それを防ぐには濡れタオルで拭かないといけないとか、彫像は祖先の誰かに似るが、もし生きている人に似ると、その人は彫像の成長とともに衰弱して、最後は死んでしまうというエピソード、また彫像の石と樹は互いに勢力争いをしていて、植物は彫像の芽の成長を抑える一方、石は樹の根の成長を歪めてよじれさせるといった設定など。

 あと細かなところでは、途中で謎めいた暗号が散りばめられているのも魅力。ひとつは首領の落とした護符であり、また宿の主人とガイドの間の理由のわからぬ敵意、最たるものは、女騎士との出会いの直後、風呂場のモザイクにその事件と類似した絵柄があったりするなど、興味が刺激されます。他に珍妙な想像力としては、彫像につけられた名前がレーモン・ルーセル風で、『瓶の蓋のような雲』とか『髭のネクタイ』とか『新婚のベッドのパラソルの陰』というのがありました。

 ウィキペディアにはアベイユに近しい作家として、ネルヴァルを筆頭に、、ジョージ・デュ・モーリアジュリアン・グラックジャン・レイ、イエンゼン、パスカル、マイリンク、ブッツァーティトールキンなどの名前が挙がっていましたが、マルセル・ブリヨンに似たところもあるように思います。

古希を前に、古本の買い方を考える

 今年もあっという間に過ぎてしまい、いよいよ来年は古希を迎えることになりました。いつまでもだらだらと古本を買い続けるのもいかがなものかと、反省しつつも病気は治りません。せめて探求書中心に絞って、無駄なく、少々高くても買うというかたちに変えなければ、と決意を新たにしているところです。

 と言いながらも、店頭100円均一にどうしても目が行ってしまうのが、長年の習性恐るべしというところでしょうか。尼崎での飲み会の途中、天神橋筋の天牛書店にて、下記。
Pierre Louÿs平井啓之/梅比良節子編注『LES CHANSONS DE BILITIS』(白水社、91年3月、100円)→学生向けの教科書。注釈が貴重。

松浦寿輝『不可能』(講談社、11年6月、450円)

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 また別の日、三宮で小学校時代の同級生との飲み会ついでに、元町まで足を延ばしました。「元町みなと古書店」というのが新しくできていましたが、そこでは買えず。近くの「神戸古書倶楽部」にて下記二冊。
ベルナアル・フアイ飯島正譯『現代のフランス文學』(厚生閣書店、昭和5年2月、1000円)→19世紀末から20世紀初頭の動向がよく分かる。
Mircia Eliade『Le serpent』(Christian Bourgois、90年10月、500円)→『エリアーデ幻想小説全集』に翻訳が入っているようだが、高すぎて買えないし。
 三宮駅前にも新しい古書店ができていました。その名も「三宮駅古書店」。
佛和対訳仏蘭西映画名作選『巴里祭 商船テナシチー』(平原社、昭和27年10月、300円)

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 日本の古本屋では、街の草書店の出品で、
岩崎昇一詩集『藍染の家』(ふらんす堂、11年5月、1100円)→同著者の『無みする獣』という詩集が衝撃的だったので。

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 あとは、すべてヤフーオークション
「三田文學 貮月號」(籾山書店、大正4年2月、200円)→アドルフ・レッテが象徴主義運動について書いた「落穂」(岡野かをる訳)が出ていたので。
『共同研究 デカダンス』(共立女子大学文學藝術研究所、93年3月、500円)→鹿島茂武藤剛史らが執筆。
フェルプス大津栄一郎訳『氷結の国』(筑摩書房、昭和45年4月、800円)→古書仲間が熱心に薦めてくれたので。
『中山省三郎七篇』(エディトリアルデザイン研究所、00年7月、500円)
和田徹三『形而上詩論素稿』(沖積舎、89年6月、330円)
『香山雅代詩集』(土曜美術出版販売、11年3月、100円)

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吉岡実の詩集二冊

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吉岡実詩集』(思潮社 1968年)
『新選吉岡実詩集』(思潮社 1978年)

 引き続いてイロジスムの詩、これも学生時分に心酔していた吉岡実です。シュルレアリスム詩と言えばいいのでしょうか、その手の難しさがあります。初期の詩について本人も北園克衛が格好いいと思って真似をしたというようなことを告白していますし(『新選吉岡実詩集』p106)、『紡錘形』や『静かな家』の幾篇かは自動記述で書かれているのではと思えるものがあります。また「美しい旅」(『僧侶』所収)などは安西冬衛の影響がある気がしますし、『神秘的な時代の詩』の幾篇かには鈴木志郎康に似ているようなところも感じました。

 気に入った詩のタイトルを以下に。
◎過去(『静物』)、紡錘形Ⅰ(『紡錘形』)、突堤にて(未完詩篇)〈以上『吉岡実詩集』〉、回復(『僧侶』)〈『新選吉岡実詩集』〉

静物1,2,4、挽歌、犬の肖像(『静物』)、告白、苦力、聖家族、喪服、死児(『僧侶』)、馬・春の絵、桃(『静かな家』)、サーカス(「拾遺詩篇」)〈以上『吉岡実詩集』〉、或る世界、樹(『静物』)、喜劇、冬の絵、美しい旅(『僧侶』)、首長族の病気(『紡錘形』)、サフラン摘み、聖あんま語彙篇、舵手の書(『サフラン摘み』)〈以上『新選吉岡実詩集』〉


 学生の頃の評価を見ても、「静物」、「僧侶」などに〇がついています。しかし、学生の頃あれほど熱中していたのに、歳を取ると欠点が目につくようになりました。今回読み進めていて、『紡錘形』ごろから卑近な表現が混じるようになりまず失望し、さらに『静かな家』から『神秘的な時代の詩』になってくると、作品に対する信頼が崩れて続けて読む気も失せるほどで、『サフラン摘み』冒頭の「サフラン摘み」まできて、ようやくホッとしたぐらいです。学生の頃きちんと読めていたのか疑問に思ってしまいます。

 難解な詩のなかでも、いいと思う詩と読んでいてつまらない詩があるが、どうして違うのか、何が違うのか、受ける側の感覚で考えてみると、次のようなことではないでしょうか。
①つまらない詩は、焦点が定まらず拡散した印象を受けて、詩句に集中できないのに対し、面白いと思う詩は、張り詰めていて、何かに収束した凝縮したものが感じられる。物理用語を使えば、エントロピーとネゲントロピーということになるか。

②何が面白い詩を張り詰めたものにしているか、ひとつは作品全体を通して通奏低音のようにつなげるものがあるように思う。ストーリー性がなくバラバラのように見えても、何か関連する語が飛び飛びにあってつないでいるとか、謎を追うかたちになるので支離滅裂な展開であっても興味をつなげているとか、また無意識の領域で実は通底器のようにつながっているなどが考えられます。吉岡本人が、「わたしの作詩法?」で「能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」(『吉岡実詩集』/p102)と書いているのもそのことを指していると思います。これは脳科学用語で言えば、シナプスか。

③つまり面白い作品とは一個の生命体となっているということではないだろうか。このつなげているものが何なのかについては、個々の作品に即してもう少し考えてみる必要がある。


 それは別として、吉岡実の詩の特徴を考えると、まず目につくのが家族を表す言葉が頻出していることです。父、母、兄、姉、夫、妻、妻子、両親と家族を直接示す言葉の他に、異父弟、族長、家系という少し広がった言葉、さらには人の属性を示す老人、老婆、少年、少女、花嫁、赤ん坊などがあり、胎児、次には死児にまで至ります。この「死児」を詩語として見つけたのが吉岡実の功績のひとつでしょう。これは吉岡実のもう一つの大きな詩語である「卵」と関係があるのかもしれません。ほかに属性としての職業を示す言葉、運転手、理髪師、床屋、女中、医者、船長、パン職人、マダム、下宿の女主人、老給仕、兵士、老裁縫師、判事、舵手などが出てきますが、どこか芝居の台本のような印象を受けます。

 もう一つの特徴として、詩の語り手がいて、一人称が圧倒的に多いことです。二冊の詩集を通して、「わたし」22、「ぼく」18、「わし」1、「わたしたち」5、「われわれ」6、「われら」1、「ぼくら」3、「ぼくたち」2、合わせて58篇(125篇中)ありました。上記の「家族」の頻出を考え合わせると、どうやら吉岡実は自身にまつわることに囚われていて、生い立ちや家族に対して思いが強いことが分かります。ところが一方で、とくに『液体』など初期の詩には、一人称を排した造型的な冷ややかな作品があり、本人も「『僧侶』や『静物』は、日本のウェットな風土や近代性に反発して書いたものです」(『吉岡実詩集』p138)と言っているように、土着的なものや家族などから離れていたいという願望も垣間見えることから考えると、家族や粘着的なものに対するアンビバレントな感情があるように思えます。

 詩の技法で、いくつか気づいたことを書いておきます。
①面白い技法では、とくに初期の詩において、作品の終わり方、最後の1、2行のフレーズが印象的で、作品がきりっと引き締まった感じがすること。例えば『吉岡実詩集』から、「ときに/大きくかたむく」(p10「静物1」)、「最初はかげを/次に卵を呼び入れる(p11「静物2」)、「そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす」(p21「過去」)、「ここでこの事実は他の人に告げられる」(p22「告白」)などの終わり方。

②『紡錘形』や『静かな家』から『神秘的な時代の詩』には、「?」や「!」を使った行が多く見られる。がこれは成功しているとは思えない。

③『サフラン摘み』の「聖あんま語彙篇」あたりから、書物や発言の引用を交える技法が目立ってくる。これは面白いと思う。だんだん理屈っぽくなってくるが、逆に理路整然として来て読みやすくなった。

④イロジスムの詩として見た場合、無駄な説明が多いように思う。「秋のくだもの/りんごや梨やぶどうの類」(「静物1」)などは説明に過ぎる。


 最後に、面白いと思ったフレーズと短歌を引用しておきます。まず詩のなかのフレーズ。
その男はくもの巣のいとにひっぱられて 地に伏してゆく陰惨な形態をとる(「単純」『吉岡実詩集』p26)

次々に白髪の死児が生まれ出る(「死児」『吉岡実詩集』p39)

その夜の窓をのぞく鳥はどれも 死んだ妻の髪のかたちをするので射ち落す(「喜劇」『新選吉岡実詩集』p12)

赤ん坊は力つきそこから先は老人が這う(「衣鉢」『新選吉岡実詩集』p21)


 次に、歌集『魚籃』より。
夜の蛾のめぐる燈りのひとところめくりし札はスペードの女王

白孔雀しづかにねむる砂の上バナナの皮の乾きたる午後

手紙かく少女の睫毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり

黒猫のかげひきよぎる宵の町犯人は手錠をはめられてゆく(以上『吉岡実詩集』p84~86)

谷川雁『大地の商人』

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谷川雁『大地の商人』(母音社 1954年)

                                   
 イロジスム(非論理性)の観点から詩を読んでいます。前回取り上げた石原吉郎と同様、若き日情熱を燃やした谷川雁の詩を再読してみました。この本は最近、と言っても今から10年ほど前に買ったものです。昔読んでいた現代詩文庫の『谷川雁詩集』がどこかにある筈だといくら探してもでてきませんでした。ひょっとして処分してしまったのかもしれません。

 というのは、あれほど昔は熱中していたのに、いま読んでみると、憑き物が落ちたように色褪せてしまっているからです。谷川雁の詩はやはりあの時代の雰囲気と離しては考えられません。戦後の労働運動や学生運動など一連の社会運動の熱気はすさまじくて、若くしてあの時代に遭遇した人間なら、与する与しないは別に、避けては通れないものでした。

 谷川雁の作品の特徴のひとつは、そうした当時の社会運動につながる共産主義へのシンパシーが深く刻まれていることで、毛沢東北朝鮮も出てくるのは時代を感じさせますが、革命や社会運動を思わせる具体的な言葉がちりばめられ、また感情的には、決意表明や命令口調、断言など、パセティックな雰囲気が溢れているのが大きな魅力になっています。

 前者の例は、「くすんだ赤旗をひろげて行った/息子はもうおまえを抱かないのだから」(「母」)、「かれの背になだれているもの/死刑場の雪の美しさ」(「毛沢東」)、「警察の鞭で熟れはじめた桃の頬」(「丸太の天国」)、「おれたちの革命は七月か十二月か」(「革命」)、「あゝ未来の国家 それだけのこと」(「人間A」)、「割れもせぬ革命の手形をしのばせ・・・五時を指す尾行者の影にかこまれて」(「破産の月に」)。後者には、「鐘が一つ鳴ったら おれたちは降りてゆこう」(「革命」)、「東へ旅立つ人々よ/にくしみを夜明けの庭に植えて/立ちたまえ」(「異邦の朝」)、「おれたちの地区はますます青く/西の空は赤い」(「おれたちの青い地区」)といったものがあります。

 特徴のもうひとつは、詩句の意味がよく理解できないことです。比喩が多用され、その比喩に何か特別な意味が与えられているように感じ何となく分かるような気もしますが、結局は詩の全体の意味は明確には理解できません。しかし石原吉郎のときと同様、それが魅力につながっています。ひょっとして私の読みが足りないだけかもしれませんし、高木敏次のように完全な意味不明の世界にまでは行っていませんが、イロジスムの詩と言えるのではないでしょうか。

 例えば、この詩集の冒頭の「商人」をみると、「おれは大地の商人になろう/きのこを売ろう あくまでにがい茶を/色のひとつ足らぬ虹を//夕暮れにむずがゆくなる草を/わびしいたてがみを ひずめの青を/蜘蛛の巣を…」という詩句で始まります。どうやら詩人は大地の商人になることを決意していて、これら畳みかけるように列挙したもの「そいつらをみんなで//狂った麦を買おう/古びておゝきな共和国をひとつ」というふうに物々交換をしようとしていることがおぼろげに分かります。どうやら大地の商人とは詩人のことで、身辺のつまらぬもの或いはありもせぬ夢のようなもので、共和国という幻想を買おうとしていると言っているかのようです。しかし「それがおれの不幸の全部」なので、「つめたい時間を荷作りしろ/ひかりは桝にいれるのだ」とどこかへ旅立とうとしています。そしておそらく天上の人となった詩人は、最後の詩句「なんとまあ下界いちめんの贋金は/この真昼にも錆びやすいことだ」で、資本主義下の現実の商人の世界の偽善と虚偽と策謀を笑っていると思われます。的外れな解釈かもしれませんが、この詩を読むとき、無意識にせよそういった雰囲気が感じられるのです。

 いま読んで懐かしく思うのは、やはり「東京へゆくな」、次に「商人」「革命」「異邦の朝」「人間A」「おれたちの青い地区」です。最後に学生の頃愛唱していた「東京へゆくな」の前半部分を引用して終わります。

ふるさとの惡霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

二階武宏の木口木版画

  先日、地元のケーブルテレビを見ていたら、私好みの木口木版画の紹介があったので、覗いてきました。これは、「学園前アートフェスタ2019」という催しの一つとして展示されていたものです。この催しは、奈良の学園前駅周辺の自治連合会と学校(帝塚山学園)、美術館(大和文華館、中野美術館)、企業(淺沼組)が集まって主催となり、多くの地元企業商店が協賛して行われているもので、今年で5年目だそうです。若手芸術家を応援するというのが目的で、1週間の間、12か所の会場に20名の作家の作品が展示されているとのことでした。

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 私は時間がなかったので、浅沼記念館だけしか見ませんでしたが、あとでパンフレットを見ると、面白そうな作品もたくさん出展されていたようで、コンサートなど関連イベントもあり、地域の文化活動として意義あることなので、来年は少し時間を取って回ってみようかと思ったりしています。で、お目当ての二階武宏の木口木版画ですが、11点ほどの版画とその彫りの入った版木が展示されていました。

 

 私は版画も好きで、若い頃に銅版画教室にも通ったことがありますが、木口木版画は銅版画に近いテイストがあるので、とくに好んでいます。18世紀にイギリスで誕生した技法で、主に書物の挿絵として印刷に便利ということから重宝されたもののようで、後にフランスにも伝わりました。有名なところでは、ウィリアム・ブレイク、バーン=ジョーンズも作っていますし、それにギュスターヴ・ドレの大量の挿絵があります。私は、神話的世界を画いたエドワード・カルバートや『トリルビー』というゴシック小説も書いているジョージ・デュ・モーリアの作品が好きです。

 

 日本では、先日買った『日本の木口木版画―明治から今日まで』(板橋区立美術館発行)によると、明治10年ごろから新聞に活用され、合田清という人がフランスから帰って一時隆盛を極めたようですが、明治30年代になると印刷技術の発展で廃れていったとのことです。その後長谷川潔の一部の作品(堀口大學譯詩集『月下の一群』など)に見られる程度となりましたが、戦後日和崎尊夫が復活させ、その影響下で柄澤齊らが出てきたということです。このカタログで言えば、日和崎尊夫、柄澤齊小林敬生、栗田政裕の作品に惹かれました。

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 二階武宏の作風は、このカタログのなかでは小林敬生、三塩英春のテイストに近いものがありますが、現代の幻想的イラストに通じるようなところがあり、淵源を辿れば、デユーラー、ピラネージまで行かなくとも、マックス・エルンストやウィーン幻想派のエルンスト・フックス、あるいはフランス幻想派のディマジオ、『エイリアン』のH・R・ギーガーなどとの類縁関係が感じられます。雲か海がうねり、樹々の細い枝が絡み合うような模様を背景に、奇怪な人造的な人物や大貌、また解体された馬の模型のようなものが中心に座し、全体としてはSF的な架空世界が描かれています。単色の暗い絵柄のなかに光が出現するように見えるのはいったいどんな技法でしょうか。

 

 係員の人に写真を撮っていいかと尋ねると、どうぞどうぞご自由に、できればSNSで宣伝していただけたら、とお勧めいただいたので、蛍光灯が映りこんでしまった下手な写真ですが、何点かアップしておきます。タイトルは控えてこなかったので、現物だけご覧ください。

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石原吉郎の三冊

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「現代詩読本 石原吉郎」(思潮社 1978年)
石原吉郎詩集』(思潮社 1969年)
『新選石原吉郎詩集』(思潮社 1979年)


 日本の現代詩の続き。イロジスムの観点から、高木敏次や貞久秀紀の先達である詩人たちを読んでいきたいと思います。まずは石原吉郎から。学生の頃惹かれた詩を今になって読み直して、自分なりに整理しようというのは何か感慨を覚えます。と言っても学生時分に読んだのは現代詩文庫の一冊『石原吉郎詩集』だけでしたが。それでも詩のフレーズは今も頭に焼き付いています。

 今回読んでみて、いくつか気がついたことを書いてみます。
石原吉郎の基盤にあるのは聖書。ひとつは精神的な背景で、石原吉郎は倫理の人であるということ。もうひとつは表現法で、対句の使い方、断定や命令口調は聖書からの影響ではないか。

石原吉郎は、シベリアの悪夢のような体験から、今で言うPTSDを長く引きずっていた人ではないだろうか。ついに逃げ切れずに自死同然の最期を遂げたのでは。

③現代詩読本の特集や詩集の作品論などで共通して指摘されているのは、詩句の難解さであり、またそれにもかかわらず(というかそれゆえにと言うべきか)魅力を放っているということ。面白いエピソードとして、清水昶が「ある行・・・石原さん、これどういう意味なの?って聞いたら、俺にもわからない」と言ったことが紹介されていた(「現代詩読本」p36)。

④「詩作にあたって何に最も心をくだくか」という質問に対して、石原氏が即座に「リズムである」と答えたように(『石原吉郎詩集』p144)、石原の詩の魅力は短い一行がつながっていくリズムにあると思う。これは本人も書いているが(「現代詩読本」p241)、散歩しながらメモを取らずに頭のなかだけで詩を作るということと関係していると思う。

⑤晩年の詩の変質もみんなが指摘していることで、「死」という言葉を直接書くなどストレートな表現や、トートロジー的な表現が出てくること。また侍や和服の女性の居住まいなど日本的美学に傾斜したという点。この日本的美学は石原の詩の全般に見られる簡潔さと関連していると思う。すでに「埋葬式」、「対座」、「北冥」、「像を移す」など、石原の中期の詩にもその萌芽が現れている。

 この三冊を読んだ限りで、石原吉郎の詩で気に入ったものを羅列すると、まず◎は「位置」「納得」「事実」「Gethsemane」「葬式列車」「耳鳴りのうた」「アリフは町へ行ってこい」(以上『サンチョ・パンサの帰郷』)、「ひとつの傷へ向けて」「泣いてわたる橋」(『いちまいの上衣のうた』)、「残り火」「泣きたいやつ」(以上「未完詩篇」)、「ドア」(『斧の思想』)。

 次に位する〇は、「馬と暴動」「夜がやって来る」「さびしいと いま」「足ばかりの神様」「伝説」(以上『サンチョ・パンサの帰郷』)、「ひとりの銃手」「霧のなかの犬」「決着」「鍋」「対座」「寝がえり」「橋をわたるフランソワ」「馬に乗る男の地平線」「霰」「死んだ男へ」「点燭」(以上『いちまいの上衣のうた』)、「像を移す」(「未完詩篇」)、「石」「くさめ」(初期未完詩篇、「くさめ」は現代詩読本所収)、「見る」「皿」「足あと」「背後」「銃声」「方向」(以上『斧の思想』)、「非礼」「うなじ・もの」「右側の葬列」「墓」「帽子のための鎮魂歌」「片側」「測錘(おもり)」「蝙蝠のはなし」(以上『水準原点』)、「義務」(『禮節』)、「痛み」(『北條』)、「足利」「亀裂」「風景」(以上『足利』)、「前提」「なぎさ」(以上『満月をしも』)。

 「現代詩読本 石原吉郎」は、石原吉郎の死後に編まれた特集号で、代表詩50選、石原本人のエッセイ、新たに組まれた対談や書き起こし評論、大勢の詩人が寄せた追悼の言葉や詩、それに石原についての過去の代表的論考からなっています。冒頭の鮎川信夫谷川俊太郎清水昶の鼎談、石原の生の言葉を伝えて貴重な大野新、石原吉郎がデビューしたころの思い出を語った谷川俊太郎、『墓』という一作品の解読を試みた大岡信、収容所など戦争体験を語った大岡昇平石原吉郎の対談が出色。ほかに、郷原宏、月村敏行、佐々木幹郎北村太郎の文章が心に残りました。菅谷規矩雄や芹沢俊介など、誤解に基づくのか、あるいは石原の体験に対する感受性を欠いているのか、死者を貶めるような無神経な評論には違和感を感じました。

 やはり具体的な事実について書かれた論評が読みやすくまた面白い。また本音を包み隠さず吐露した談話や文章には共感できました。二つの詩集に掲載されたものを含め、石原本人のエッセイがもっとも迫力、説得力があり、散文家としても優れた資質があることが分かります。「肉親へあてた手紙」を読むと、シベリアでの地獄のような体験を何とか乗り越えてきた石原にとって絶望がもっとも深くなったのが日本へ帰ってきてからだったということがよく分かり、それが詩を書かざるを得ないという原動力になったのだと感じました。

 二つの詩集を読んで、詩の技巧としていくつか目につきました。
①対句の多様。例えば、「鼻のような耳/手のような足」(「位置」)、「老人は嗚咽し/少年は放尿する」(「納得」)、「酒が盛られるにせよ/血が盛られるにせよ」、「ひとつの釘へは/みずからを懸け/ひとつの釘へは/最後の時刻を懸け」(「Gethsemane」)などいくらでも出てくる。対句がいくつも続くとマンネリ、安易さに陥るので、使い方に細心の注意が必要だが、「ひとりの銃手」の畳みかけるような反復と対句は例外的にクレッシェンドしていく迫力がある。

②対句の一種であるが、左・右に関する表現があちこちに出てくる。その変形として、二つの間の中間、真ん中、前や後という表現も目に付く。例えば、「その右でも おそらく/そのひだりでもない」(「位置」)、「われらのうちを/二頭の馬がはしるとき/二頭の間隙を/一頭の馬がはしる」(「馬と暴動」)、「ただ いつも右側は真昼で/左側は真夜中のふしぎな国を」(「葬式列車」)、「右手をまわしても/左手をまわしても」(「五月のわかれ」)。これもいくらでも出てくる。「馬と暴動」の表現は、石原が書いているシベリアでの捕虜の三列での行進の話で、隊列の両端にいると転んだ時に脱走と間違われて銃殺されるので、みんな左右の列を避けて真ん中に入りたがるということとの関連があるような気がする。

③逆から見る視座。貞久秀紀の詩にもあったが、主体と客体を転倒して逆から見ることで不思議な世界が現出する。例えば、「もはやおれを防ぐものはなく/おれが防ぐものが/あるばかりだ」(「絶壁より」)、「彼が貨幣を支払ったか/貨幣が彼を支払ったか」(「貨幣」)、「そのとき測錘(おもり)は決意するそのとき測錘は逆さまに彼らの吊り手を吊るであろう」(「測錘」)、「とむらったつもりの/他界の水ぎわで/拝みうちにとむらわれる」(「礼節」)。

④肉体的な言葉の多用。そこに抽象語が寄り添って奇妙な感覚が生じる。例を引くのが難しいが、「しずかな肩には/声だけがならぶのでない/声よりも近く/敵がならぶのだ」(「位置」)、「うずくまるにせよ/立ち去るにせよ/ひげだらけの弁明は/そこで終るのだ」(「納得」)、「われらのうちを/ふたつの空洞がはしるとき/ふたつの間隙を/さらにひとつの空洞がはしる」(「馬と暴動」)、「たとえば背へ向けてか/信頼を背後へのこし/陰謀のように打った寝がえりを」(「寝がえり」)。

 石原吉郎の詩のいちばんの特徴は、やはり断言、命令口調でしょう。これによって力強く男性的な印象が生まれ、切迫した感じすら受けます。月村敏行が指摘しているように(「現代詩読本」p196)、「ので」や「だから」という「行為を因果の連鎖に結びつける言葉」が断固として排除されているのが特徴です。本人も、「私を支配するものは事実であって、思想ではない。私はただ事実によって立っているにすぎない」(「現代詩読本」p192)と書いていますが、これは石原が苛酷なシベリアでの生活を通じて獲得した貴重なものの捉え方で、シベリア体験の核心が封じこまれているものなのです。

 俳句や短歌にも心惹かれるものがありました。短いので引用しておきます。
今生(こんじょう)の水面を垂りて相逢はず藤は他界を逆向きて立つ/p81

懐手蹼(みずかき)ありといってみよ/p132(以上「現代詩読本」)

廻転木馬のひだり眼夕日をひとめぐり/p93

大寒のふぐりを垂りてののしりぬ/p94

石膏のごとくあらずばこの地上になんぢの位置はつひにあらざる/p95

夕まぐれゆふまぐれして身じろがぬものの気配を背にはもたぬや/p95

鍔鳴りのありてや刀(とう)は鞘に入(い)る鍔鳴りなくばすべり入るのみ/p95(以上『新選石原吉郎詩集』)

 今回読み直してみて、ますます石原吉郎の詩の魅力に惹きつけられました。もしシベリア体験というものがなかったとしても、石原吉郎は詩人になっていて、かつ戦後史の重要な位置を占めたという気が今はしています。

ドン・ジョヴァンニとゲルンスハイムのヴァイオリン協奏曲

 しばらくぶりで音楽の話題。今年の後半は、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」とゲルンスハイムのヴァイオリン協奏曲にはまっておりました。ドン・ジョヴァンニは8月末に予定していたドイツ旅行で、ベルリンでドイッチュ・オーパーの公演を見ることにしていたので、それがきっかけです。勘所が分かっていると、長大なオペラ公演も楽しめるのではないかと、CDを何回か聴き、ときにはイタリア語・日本語の対訳の台本(音楽之友社、オペラ対訳ライブラリー)で意味をたどりました。すると不思議なもので、何度か聴いているうちに、いくつかのアリアや重唱がつぎつぎと頭にこびりついてきたので、今度はそれを抜粋して(全79曲中21曲)1枚のCDを作成し、それをまた何度も聴きました。

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 CDは話題のテオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナによるもので、冒頭の序曲から強弱のメリハリが著しく、第5景のエルヴィーラのアリアでも弦のリズムの刻み方が打楽器的なくらい明瞭、第13景のドンナ・アンナのアリアの叫ぶような歌い方、第15景のドン・ジョヴァンニの早口言葉のようなアリアなど、目覚ましい印象があり、第1幕の最後や第2幕の石像が登場する場面など、もの凄い迫力で劇的な盛り上がりを見せています。また緩やかな部分では、第1幕14景のドン・オッターヴィオのアリア、第2幕第3景のドン・ジョヴァンニのカンツォネッタ、ともにセレナード風の甘美な恋歌でとても気に入りました。

 

 ベルリンでの公演は、若手を中心とした新演出とやらで、値段も日本円換算で一人3000円という格安の設定となっておりました。20年ぐらい前に、この劇場で「トロヴァトーレ」を見たとき、ヒットラーの映像が背景に映し出されて唖然としたことがありますが、案の定、冒頭、背広姿の男たちがゴルフクラブを持って登場するなど、度肝を抜かれました。しかし、ドン・ジョヴァンニ、レポレッロの二人の熱演がとても好感が持て、第一幕の最後では、サーカスのような場面もあり楽しめました。帰ってからもCDを聴くたびに、劇場の光景がよみがえってきて感激を新たにしました。ドイッチュ・オーパーの外観と休憩中の飲食コーナーの様子の写真をアップしておきます。

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 ゲルンスハイムは1839年生まれのドイツの作曲家。いつも参照している三省堂の『クラシック音楽作品名辞典』(2001年)に名前も載っていないところを見ると、最近評価の出てきた作曲家でしょうか。ひとことで言えば、ビーダーマイヤーの雰囲気を持った音楽で、こじんまりと美しく愛玩したくなるような楽曲です。この時代の他の曲、例えば、ワーグナーブルックナーマーラーなど後期ロマン派音楽に見られるデモーニッシュな情念や、重苦しい雰囲気、執拗さはなく、軽やかですが、かと言って、フランス音楽の華麗さ、洒落たセンス、悪く言えば気障な曲想ともまた違います。フランス音楽と比べてしまうと、どうしても田舎者の感じはぬぐえませんが、明るく牧歌的なところがあります。誠実で、目立とうとすることなく穏やかな雰囲気は、メンデルスゾーンブルッフに近いかもしれません。

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 CDの解説を読むと、実際に13歳の頃に、ライプツィッヒでメンデルスゾーンの弟子に教育を受けているようです。ついでに書くと、ゲルンスハイムはいろんな作曲家と知り合っていて、リスト、アントン・ルビンシュタイン、ロッシーニワーグナーブラームス、フンパーディング、サラサーテなど。他にも会ったとは明確に書いていませんが、ベルリンで音楽監督に就任する際、ゲルンスハイムを後任に推挙したのがブルッフで、ヨアヒム、ビューローも推挙に加わったということです。またマーラーとも手紙でやり取りしたりと書いてありました。この時代のヨーロッパの音楽家同士がいかに交流が盛んだったかということが分かります。

 

 このCDにはヴァイオリン協奏曲の第1番、第2番と、幻想小曲が収められています。幻想小曲は単楽章のヴァイオリン協奏曲と言えるもので、第1番より前に書かれています。私の好きな曲は、第1番の第1楽章、第2楽章と、幻想小曲です。第1番第1楽章の冒頭は、金管木管群がティンパニーの音に導かれるように牧歌的な旋律を奏ではじめ、次第に弦楽も加わってクレッシェンドしていく雰囲気が、高いところから広大な風景を眺望しているかのような気にさせられます。第2楽章はゆったりとして悲しみと寂しさの溢れる美しい曲。幻想小曲は緩徐楽章を取りだしてきたようで1番の2楽章と似た寂しい曲です。独奏ヴァイオリンの繰り返すパッセージが何とも言えません。行ったことはありませんが、何か北欧の暗く寂しい風景が広がってくるような曲です。美しい旋律が部分的に際立つというよりも連綿と続いて、曲が鳴り止まないでほしいと思うほど、その中に浸ると気持ち良さが広がります。ゲルンスハイムのほかの曲も聴きたいと思い、チェロ協奏曲とチェロ・ソナタピアノ五重奏曲を注文しました。