河本英夫『哲学の練習問題』

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河本英夫『哲学の練習問題』(講談社学術文庫 2018年)

                                   

 日に日に頭もぼけてきたので、考える訓練でもしようかと手に取りました。昔から、大きな視野でものを言う大言壮語的な理論が好きでしたが、この本には大胆な着想、ドラスティックな思考が溢れていて、面白く読むことができました。知覚や思考のあり方の根底を探る本だと言えます。と分かったようなことを書いてますが、実は、科学的思考に慣れていないせいか、難しくて理解のおよばぬところもたくさんありました。頓珍漢なことを書くかもしれません。

 

 この本に一貫している考え方は、これまで哲学の中心を占めてきた真偽の判定に直結した知覚や思考を廃し、イメージを前面に押し出していることです。その場合のイメージも、現実の感覚の単なる残響ではなく、また現実とは別の世界を仮想するためのものでもなく、現実のなかで経験を新たに組織化するための道具として考えています。

 

 著者の言う「イメージ」が分かりやすくなる例をあげると、狭い通路を通り抜けようとするとき、顔や腹を擦らないように自然と身体の向きを斜め向けたりするのは、事前に自分の身体に関するイメージを持っているからであり、また自転車に乗ることや逆上がりすることが初めてできたとき、単なる知識でなく身体イメージが形成されるので、次に同じことをする際にスムースにできるというわけです。著者はこれを遂行的イメージと呼んでいます。

 

 ですので、問題を解いてみせたり、読者に何か知識を与えたりするのではなく、読者が自ら問うことにより経験として蓄積していくものを重要視し、イメージ療法的な、あるいは臨床哲学的な実践法を提示しています。いくつかの例をあげると次のようなものです。

①自分だけの語を持ち固有の活用法を見つけることを推奨している。例えば、トイレに行くことを「ハコする」と呼び、トイレから出ることを「ハコ出る」、トイレが満杯の場合は「ハコ詰まり」など。また、「光の裏側」や「重力の裏側」という言葉を発してみて、言葉の意味ではなく、指示するものがなにかを感じとるようにする。これは、言葉やイメージを手がかりに経験を動かしているのであり、それを知ろうとしているのではない。

②身体感覚と運動感を微細に感じとるようにする。例えば、握った右手を左手で覆ってみて、その際のゴツゴツした形状の感触や運動感、圧迫感、温かさなど感覚を詳細に書きとめる。さらに呼吸と組み合わせて、利き腕の手を開きながら息を吐く。吐けるだけ吐き終えると、今度は息を吸いながら手を閉じていく。そしてその状態をいつでも脳裏に再現できるようイメージとして蓄える。

③物語を題材にした思考の訓練を提案。浦島太郎の玉手箱、カフカの「掟」、シャミッソーの「影をなくした男」などを展開した例が示されている。「影をなくした男」では、影がなくなってしまう瞬間の場面設定をいろいろ変えてみる。プラットフォームにいて、逆方向に疾走する急行列車が通り抜けた後に、人々の足元から影がなくなってしまう。建物や電線には以前と同じように、くっきりとした黒い影があるのに。あるいは美人に見とれてるうちに、人と影が分離してしまい、影が美人について行ってしまうような場面を思い描いてみる。

④あるいは無限をイメージしてみる。大きさのない点と無限大が同じ一つのものの裏返された二つの見え姿だと考え、点と無限大は裏側ですべて地続きになっているとイメージしてみる。次元を超えた存在でイメージするのは困難だが。

⑤また生物の進化に関して仮想のトレーニングをしてみる。例えばヒトデのように前後がなく、回転運動を行なっているものが、イカのような前後の方向のあるものに変わるためには、どのような変化の段階が必要なのかを考えてみる。まずヒトデの口が飛び出て尻が背後に伸びる段階、ヒトデの5本足が進行方向に沿うような形になる段階、次に5本足の根元が二つに分かれて10本になる段階というように。

  他にもいろいろありましたが、難しくて分からないこともたくさんありました。

 

 身近な例えを持ち出せば、ゴルフでよく言われる「クラブは小鳥を包むように握れ」という、手に力が入り過ぎるのを諫める言葉も、こうしたエクササイズのひとつになるでしょうか。私も、入社直後の営業時代、気が弱いものでしたから、得意先の店先で、自分が注射針になったイメージで先方の身体に突きさして、どくどくと液体を注ぎ込むイメージを頭に描くと、自由にものが言えすらすらと商談が運んだことを思い出します。これもイメージ訓練の一つなんでしょう。

 

 ついでに書けば、私が若い頃から実践している眠れないときの処方箋をご紹介しましょう。

①まず、一晩眠らなくても大したことはないと考える。横たわるだけで寝ることの半分は達成するし、座禅では眠っているときよりも休まっているというではないかと。すると体がホッと楽になる。この楽になっているという感覚をゆったり味わう。

②次に、深い呼吸に入る。これも簡単で、吐いたときに息を30秒ほど止めると、次からは深呼吸できる。

③そして、体の力を抜く。いったん全身の力を抜いて、次に指先、細かく言うと、右手の人差し指の尖端から、指が金(石とか木でもいい)になっていくイメージを描く。それを左右すべての指先に広げる。腕まで上って来て腕全体が石になると、腕の重みが感じられてぽかぽかと温かくなってくる。このぽかぽかとした感覚をゆったりと味わう。次に足に移って、次は頭という風に全身に広げる。最後は、全身の重みを布団に委ねて沈み込む感じになる。

④全身の力が抜けたら、自分のからだが垂直になっているイメージを思い描く。例えば崖に貼りついて下を見降ろしているという感じ。次に逆さになったイメージ。次に横に。最後は魔法の絨毯に背中をくっつけてくるくる回りながら空を飛ぶイメージ。とこの頃にはだいたい眠りに入っている。

  卑近な例になり過ぎたようで、本題から大きくそれたかも分かりません。

原田武『共感覚の世界観』

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 原田武『共感覚の世界観―交流する感覚の冒険』(新曜社 2010年)

 

  4年ほど前に、当時四天王寺にあった一色文庫の100円均一で買った本。目次を見て面白そうだと思ったとおり、興味を刺激する内容でした。何より冒頭から引用される文学作品の文章が、どれも心に沁みるものばかり。例えば、最初に出てくる谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の日本家屋の薄暗い室内で羊羹を味わう次のような文章。「人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」(p1)。

 

 文学・芸術に関心のある人であれば必ず感覚の特性について一度は考えるものだと思いますが、この本は、五感の働きと、文学・芸術との関係を論じたもので、まさしくその興味に答えるものです。著者はフランス文学者ですが、音に色を感じたりする共感覚という精神分析的な分野にまで踏み込んで、探求しています。初めに提示される問題意識は、文学者が共感覚的な表現をする場合、その人が生来の共感覚者なのか、それとも比喩として使われたのか、というものですが、著者の最終意見と同じく、その区別にたいして意味があるようには思われません。

 

 私の場合の興味は、共感覚的表現が、文芸作品を豊かに美しくするというところにあります。共感覚的表現というのは喩の一種で、作品の膨らみを作るためのものという風に考えます。著者も同様のことを書いていましたが、喩の作用というのは、現実のものごとを直截に描かず曖昧にしたうえで、読者に想像力を働かせることを強要し、新しい現実感を出現させることにあります。共感覚的な五感をフルに使うことで喩の働きがより効果的になるということではないでしょうか。

 

 この本で議論されているのは、感覚の特性、五感と芸術各ジャンルとの関係、宗教における共感覚万物照応の思想、マクルーハン理論などに見られる五感と社会のあり方などですが、とくに感覚について、以下のような指摘が印象的でした。「⇒」以下は私見

①皮膚感覚に限っても、手で触ること以外に、圧覚、温覚、冷覚、痛覚などがあり、運動感覚、平衡感覚、内臓感覚など、五感だけでは捉えきれない感覚作用はいくつもあり得る。37種あるとする人もいる。

②なぜ共感覚が起こるか。例えば、通常は視覚情報を扱っている脳内部位や脳内経路に聴覚情報が漏れてしまうというような感覚漏洩説(ハリソン)がその一つの答え。

③五感の発達史を考えると、もともとアメーバのような単細胞動物には触覚しかなかったのが、対象の性質を知るための特異な感覚として味覚に分かれ(この二つが近感覚)、そのあと、次々と嗅覚、聴覚、視覚の遠感覚が生まれることになる。人類の段階になり、直立歩行で頭部が地面を離れたことから嗅覚の持つ意味が低下し、視覚刺激が優位を占めるようになる。

④古くは神の言葉を聴くことが信仰だというルターの言葉に表われているように、聴覚が感覚序列の首位にあったが、現在では、五感の代表といえばまず視覚であって、人間が取り入れる情報のほぼ80パーセントは眼によって得られるという。⇒この聴覚から視覚への転換は、印刷の普及が転機か?

⑤諸説に共通するのは、五感の基礎には触覚があるということで、共感覚の転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚」の順に進むとする人もいる。

⑥宗教に香が多用されるのは、匂いと魂の類似にその源があるとルクレティウスが言っているが、空気と一体となり見えないのに確固とした存在感を保つという匂いのあり方が神の存在の仕方に等しいのではないか。

アメリカの心理学者(ケヴィン・ダンら)の研究実験で、視覚的な明暗と音の高低が連合することが証明された。

⑧触覚が事物そのものを捉えるのに対して、視覚とは単にその名称にすぎない(バークリー)。マクルーハンも、映画を文字文化の側に立つ視覚的なメディアと位置づける一方、テレビはお茶の間に侵入して視聴者にまとわりついてくる触覚的な媒体だとしている。⇒触覚の重要性に気づかされた。EメールとLINEの区別が判じがたかったが、要はLINEは触覚的ということか。セールストークでも触覚的な言葉使いが成功の秘訣なんだろう。

 

 著者はたいへんな勉強家らしく、この本も多くの引用が織りなす作品と言えます。いくつか新しい知見を得ることができました。

ランボーの「母音」の発想は、独自の着想というわけではなく、1820年から1870年にかけて、ユゴー(「街路と森の歌」)やデンマークのゲオウ・ブランデスポルトガルフェリシアーノ・カスティーリョなどが試みていて、当時、母音に色をつけるのはヨーロッパ文学の常套句であったこと(エチアンブルによる)。

little、petitなど「小ささ(chiisai)」を表わす言葉と〔i〕の音の結合が万国共通であること(ダニエル・タメットによる)。⇒これは言葉の発音と意味との間にまったく関係がないという説への反証例として有効ではないか。

ボードレールの詩「照応」には、「森のような列柱」、「堂内の陰翳」など、聖堂を連想させるモチーフがふんだんに用いられている(シャルル・モーロンによる)。

 

 「万物照応の思想は、一面、事物のあいだの対立が解消され和解を遂げるような、個物が全体のなかに抱きしめられるような、おおらかさと励ましの効果を持つ」(p155)という著者の言葉も、新鮮でした。

アンスティチュフランセ関西のbouquinerie solidaire(古本出店)

  フランス語の先生から、京都のアンスティチュフランセ関西で、29日にマルシェがあり、その中で古本も売られるという情報を聞き、雨天中止に冷や冷やしながら、行ってみました。たしかに建物の入り口の一角に古本コーナーがありましたが、残念ながら量が少ない上に、新しい作家が多く、英米の仏訳などもかなり交じっていて、期待外れ。一冊だけ、Frédérick Tristanの『Les Égarés(迷った人々)』500円に触手が動きましたが、大部でとても読めそうにない感じがしたので、結局買いませんでした。

 

 近くの吉岡書店に寄って、下記を買い、はるばる京都まで行った記念としました

「仏文研究XL」(京都大学フランス語学フランス文学研究会、09年10月、300円)→宇多直久という人の「マックス・ミルネルとロマン主義文学史サタン篇」という論文が掲載されている。原書を持っているがとても読めそうにないので代わりに。

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 フランス書では、先月のはじめにbookfinder.comで検索して、三冊を発注、そのうち二冊が早々と到着。

J.M.A.Paroutaud『LA DESCENTE INFINIE』(on verra bien、16年3月、2543円)

Maurice Pons『Le passager de la nuit』(du Rocher、17年5月、836円)

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 他は、オークションで下記。

呉茂一『ぎりしあの詩人たち』(筑摩書房、昭和31年9月、500円)

松井好夫『大手拓次 人と作品』(上毛新聞社出版局、67年、800円)

ウィル・ワイルズ茂木健訳『時間のないホテル』(東京創元社、17年3月、819円)

谷川健一常世論―日本人の魂のゆくえ』(講談社学術文庫、89年10月、500円)

マリア・M・タタール鈴木晶訳『魔の眼に魅されて―メスメリズムと文学の研究』(国書刊行会、94年3月、1000円)

林三郎『人間巴里』(文藝春秋新社、昭和33年11月、50円)

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 オークションで、ネーモー・ウーティス『ギリシアの墓碑に寄せて』が落札できなかった腹いせに、アマゾン古本で下記を購入。

澤柳大五郎『アッティカの墓碑』(グラフ社、89年11月、769円)

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井本英一『夢の神話学』

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井本英一『夢の神話学』(法政大学出版局 1997年)

 

 これで井本英一を最後にしたいと思います。この本も読んでいて目がちらちら頭がくらくらしてきました。年のせいかとも思いますが、やはり、説明不足のまま話題が急に変わったり、例話が次から次へとめまぐるしく出てきて、そのスピードについていけないからで、頭が整理されないまま多量の情報が入ってくるせいでしょう。それに固有名詞が、中東、ユダヤなどでは意味不明のカタカナ、中国、日本では黒々と漢字で、やたらと多いのも原因。井本英一の執筆法は、いろんな本を読んで、そこからとにかく同じテーマに関する話題を集めるというやり方みたいで、本人なりに整理はしているつもりのようですが。『アンネナプキンの社会史』という本まで読んでいたのは驚き。

 

 と悪口を書きましたが、筋道たって読める章もありました。「臨死体験と文学」、「山の信仰」、「棄老説話の起源」、「死と救済」、「トーテムと始祖伝説」、「味噌買い橋をめぐって」などはエッセイ風で面白く読めました。比較的後期の著作なので、こなれてきたということなのか。

 

 神話や民話の本を読んでいて、いつも疑問に思うのは、いろんな地域に共通の話題が分布しているということを丹念に調べ、多くの例証をあげることに血道になっていることですが、地域を網羅するということにそれほど意味があるとは思えません。話としては面白いですが、むしろその話題のどこに伝播する力があったのか、あるいは人類共通の発想が生まれる元があったのかを論じる方が大事だと思います。また結論に至る過程にどう考えても飛躍があってその根拠が説明されないことが多く、もし勘で結論を導いているとすれば、読んでいる分には面白いですが、他の学問に比べて学術的とは言えない気がします。

 

 この本で主張されている断片的な考えをいくつか私なりにアレンジして羅列しておきます。

①古代の日本では箸と橋と梯子と柱は同系のことばで、神が降臨する場所であった。

②鼻輪、腕輪、首飾り、指輪に共通する「輪」には、信頼、従属の意味があったようだ。

③死者の霊魂が死の時点で女子の胎内に入るという思想は、世界的に広く見られる。孫が祖父母に似るという事実に対して、隔世遺伝という知識がなかったためで、例えば、長男夫婦が死んだ親の遺体のそばで夫婦関係をする習俗があるが、これは死んだ人の魂がもういちど人間の胎内に入るようにという願いを表わしたもの。

④ノアなどの洪水は、出産のとき母胎から流出する羊水を象徴したもので、流出後、羊膜の中から新しい生命が誕生する。その場合、胎児を包む羊膜は、ノアの方舟にあたるもの。

⑤民話の鬼には、赤鬼と黒鬼がよく出てくるが、これは腐敗しはじめた死体の色を表わしている。

⑥女人禁制の霊山の意味は、自然は女であるから、男だけが母胎である山に回帰できるという考え方。

⑦鳥居は古くは笠木に鳥が止まっていたので、インディアンのトーテム・ポールと同類。

⑧「鬼は外、福は内」と同じような呪文は各地に見られる。イランでは年末最後の水曜の前夜、「僕の黄色は君のもの、君の赤色は僕のもの」、清代の中国では12月24日に「阿呆を売りましょう」と唱える。これは、季節の境目に行なわれたお祓い。

⑨睡眠中に人間の魂が小動物の姿になって肉体から出て行き、その魂の体験が眠っている人の夢として現れるという信仰が全世界に広く見られる。

⑩古くは、鳥居の左右の柱のまん中の祭壇に立てられた木が神であった。後の神社形式では、神の位置が後退し、神殿が建設された。(→何となく逆のような気がするが)。

 

 神話的なイメージもいくつか列挙しておきます。

双子山には、蠍人間が門番として門を守っていた・・・双子山には、古くは二つの洞穴があったと考えられる。一つは死者があの世に入ってゆく洞穴で、一つは産道と同じように、死者があの世から再生して出てくる洞穴であった(p57、『ギルガメシュ叙事詩』)。

ヒズル(船頭)が・・・生命の水の水源に着いたとき、食糧としてたずさえていた干し魚を水中に投ずると、魚は生命をとり戻して泳ぎ去った(p63、エチオピア語版『アレクサンダー伝説』)。

二人の漁師が深山に分け入り、神仙境にたどりついた。二人の美女にかしずかれたが、別れぎわに腕嚢をくれた。開けてはいけないといわれていたのを、家人が男の外出中に開くと、中から青い鳥が飛び立つ・・・男は動かなくなり、蝉の抜け殻のようになった(p107、陶淵明『捜神後記』)。

モンゴル皇帝の宮殿に、外国の皇帝が、二種類の、人に見分けのつかないものをもってきた。一つはラバのような動物で、人の姿を見ると、体が膨れてますます大きくなる動物であった(p152、モンゴル・オルドス地方の民話)。

嫁が姑を憎んで、夫に姑を山に捨てさせる・・・鬼の子が現われ、偶然の頓智で婆は小槌を手に入れる。婆は小槌で地面をたたき、町をつくって女殿様になる(p169、『大和物語』)。

若い方の男が見ていると、寝た男の鼻の穴から一匹の虻が飛び出し、佐渡島の方へ飛んでゆき、やがて戻ってきて寝ている男の鼻の中へ入っていった(p280、関敬吾『日本昔話』より「夢を買うた男」)。

 

 いくつか不勉強で知らない語源的なことを教えられました。

ギリシア語のネモス、ラテン語ネムスという語は、聖なる林を意味する・・・サンスクリット語のナマス(敬礼きょうらい)に対応する。南無阿弥陀仏の南無は、ナマスの主格ナモーの音訳である(p132)。

遊という字は古くは斿と書かれ、旅と同じく、旗をもって出行することを示す語であった。族の字によって知られるように、その旗は氏族の標識(p202)。

アマゾンとは「乳(マゾス)のない(ア)」という意味で(p296)、アマゾン川上流に入り、川を下ったスペインの征服者たちは、途中、インディオの女子軍に襲撃された。そのために、アマゾン川という名をつけた(p300)。

 

 次からしばらくは、論理的な叙述をしてそうな本を読んで行きたいと思います。

Jean Richepin『Les morts bizarres』(ジャン・リシュパン『風変わりな死』)

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Jean Richepin『Les morts bizarres』(Arbre vengeur 2009年)

                                   

 リシュパンはこれまで『CONTES DE LA DÉCADENCE ROMAINE(羅馬頽唐譚)』(2017年9月29日記事参照)を読んだだけです。『Les morts bizarres』は、バロニアンがリシュパンの中でも高く評価している作品なので読んでみました。12篇が収められていますが、題名どおり変わった死に方をした人の話を集めています。

 

 溺死ではなく牡蠣の毒で死ぬ遭難者、盗みに入った先で死んだ泥棒、女子トイレで自殺した妄想男、監獄の中で寝藁を食べて自殺した徒刑囚、臆病な友の自殺幇助者となる話、自らを解剖して死んだ医学生、両親の復讐を果たして死んでいく子ども、理論どおりの傑作を一作残そうと執着しながら高齢で死んでいく文学理論家、形而上学の妄想に憑かれ「絶対」を見つけるために開発した器械で死ぬ哲学者、オリジナルな生き方を求め最後にギロチンの切られ方も工夫して死んでいく独創家、善意の行動がすべて運命に裏切られ最後に死刑になり墓碑銘も間違えられる不幸な男。一作だけ死なずに狂人となった話がありました。

 

 全体の印象は、短篇というよりは日本で言うコントに近いものという気がしました。観念小説的なモダンさがあり、ウィットはありますが、あまり文学的香気といったものは感じられませんでした。中で印象深かったのは、「Le chef-d’œuvre du crime(犯罪の傑作)」、「Le disséqué(解剖された男)」、「Bonjour, monsieur!(皆さん、こんにちは)」、「Constant Guinard(コンスタン・ギニャール)」の4篇。やはり奇人変人が登場する作品が面白い。序文で、François Rivièreが、「リシュパンの作品には、レクイエムの響きのような黒いユーモアがあり、慄かされる」と書いているとおり、奇人の強い思い込みが悲惨さ、残酷さにつながり、それが滑稽感を沸き起こしています。

 

 リシュパン自身が監獄を経験していて、本作の中にも、監獄が出てくる話がたくさんありました。ブルジョア社会を嫌悪していたようで、貴族的な社会ではなく、貧乏人など庶民の生活が多く描かれています。「L’assassin nu(裸の殺人者)」など、俗語を多用している作品は当時新鮮だったに違いなく、また話の運びも簡潔で、ハードボイルドを思わせるところもありました。「Un empereur(皇帝)」は、『Contes de la décadence romaine』にテーマも近い短篇です。

 

 では、恒例により、各篇を簡単に紹介しておきます。それぞれの作品を捧げている当時の文学者の名前を見るのも面白い。

Juin, juillet, août(6月、7月、8月)―コクラン・カデに捧ぐ

毎日昔習った言葉どおりに生活し、かつ自分のことしか考えない小心な男の乗った船が沈没した。幸い救命具を持っていたので、すがってくる人を跳ねのけながら、二日間漂流する。岩に打ち上げられて牡蠣で命をつなぎ、ようやく発見されるが、強烈な腹痛で瀕死となる。医者が死に至る毒と診断するなか、男は「6月は牡蠣を食べるな」という言葉を思い出して泣き崩れる。

 

L’assassin nu(裸の殺人者)―レオン・クラデルに

出獄した男が、仕事もなく放浪した末に、故郷に戻り、むかし小僧として仕えていた家に盗みに入ろうとする。監獄で仲間から聞いた「裸で、一人で」という必勝法を取り入れ、慎重に事を運びうまく大金を奪取するが、逃げようとしたとき予想外のことが起こって自滅する。

 

Un empereur(皇帝)―アブドル・アジの思い出に

公衆トイレに入ってきた女性がなかなか出てこないので、ドアを蹴破ったところ、若い男が死んでいた。置手紙があり、「自分には頽唐期羅馬の皇帝という妄想があり、ヘリオガバルスのように死んでいきます」と書かれていた。

 

La paille humide des cachots(牢獄の湿った藁)―テオドール・ド・バンヴィル

30年の刑で監獄に入った男。10年過ぎて、無為が恥ずかしくなり、最後に乾いた藁の上で寝ることを夢見て、毎日陽が射す半時間の間に一本ずつ乾かすことにした。あと少しになったとき、水差しをこぼして全部湿らせてしまった。絶望した囚人は思い切った行動に出る。

 

Un lâche(臆病者)―バルベー・ドールヴィイ

犯罪者の父と無軌道な母との私生児で、無職で他人の好意にすがってぶらぶらしている臆病な男。がいい奴で私のただ一人の友だ。そんな彼から殺してくれと頼まれた。「このままだと犯罪者になってしまうし、好きな女性がいるがたとえ彼女に愛されたとしても悪い血を残すだけで、自殺しようと思うが、臆病で自殺できないから助けてくれ」と言うのだ。

 

〇Le disséqué(解剖された男)―ギュスターヴ・フローベール

コミューンのさなか、食堂で常連の学生と懇意になる。彼は優秀な医学生で詩も書き、意気投合するが、「解剖して思考が物質的現象であることを発見したい」と言う。銃声のなか、学生が瀕死の状態で上の階から落ちてきた。見ると胸の皮がべろりと捲れている。「自分で解剖した」と言う。そこへ負傷し運び込まれた戦士が「革命の一大事に自殺とは無駄死にだ」とののしるので、「科学に身を捧げた」と弁護する。と一人が言った。「どいつもこいつも馬鹿ばかり」。思考の現象は電気のようなものと学生に語らせているのは当時としては慧眼だろう。

 

◎Le chef-d’œuvre du crime(犯罪の傑作)―アドリエン・ジュヴィニーに

天才だと信じているが売れない三文作家の主人公が、ある偶然から二人を殺し、無実の人に濡れぎぬを着せる完璧な手口を弄した。10年後、誰かに吹聴したい思いを押さえきれず、顛末を克明に描いて作品にしたところ、絶賛の嵐を受ける。が誰も本当とは信じないので、真実だと触れ回り、事件担当の判事のところまで押しかけて、あげくに精神病院に入れられる。治癒のお墨付きを受けて退院したとき、殺人を犯してないと信じる本当の狂人になっていた。

 

Le chassepot du petit Jésus(幼いイエスの銃)―ジェルマン・ヌーヴォーに

普仏戦争時、両親を目の前で銃殺された子どもが、助けにきたフランス軍についてくる。たっての願いの銃をクリスマスプレゼントとしてもらった子どもが、胸に銃弾を受け瀕死になりながら、両親を殺したプロシア軍の士官を撃つ話。お涙ちょうだい譚だが後味が悪い。

 

Bonjour, monsieur!(皆さん、こんにちは)―アンドレ・ジルに

時代にはその時代にふさわしい表現があるはずだと理論が先行するへぼ作家が、現代生活を活写しようと一篇の詩を書いた。友人たちが絶賛するなか一人が「そのテーマなら私はドラマにする」の一言で、詩を破棄し劇作にとりかかる。5年後完成すると、今度は「内面描写は小説の方が向いている」の言葉で、燃やしてしまう。そしてようやく60歳になってついに27巻の巨編が完成した。が今度は長すぎると、どんどん巻数を減らし、最後に100ページの中篇にした時すでに80歳になっていた。それでも長いと圧縮し続け、92歳の死の床で、ただ一人残った友人に、ついに搾りに搾った傑作を見つけたと告白し、友人が口もとに耳を近づけると、「皆さん、こんにちは」と言って死んだ。ブラック・ユーモア的滑稽譚。

 

La machine à métaphysique(形而上学の器械)―ポール・ブールジェに

古今東西の書物を読み耽り形而上学に取りつかれた男が、「絶対」に辿り着くには直観が必要で、そのためには苦痛を持続させて光を見ないといけないと妄想し、15年間、それを実現させる器械を作り上げる。それは歯医者の器械のように歯にドリルで穴を開けるようになっており、いったんスイッチを入れると自分では止められないものだった。召使が見に行くと、男は苦痛に苛まれて死んでいた。前段の高邁な理論と後半の卑近な器械との落差が大きく、滑稽譚としてしか読めない。一種のマッドドクターもの。

 

Deshoulières(デズリエール)―ラウル・ポンションへ

芸術、文学、科学を極めた男が、何事も独創的でなければと突拍子もないことをすることにし、毎日外見を替えたりしていたが、単なる変人ではないことを証明しようと、愛人を殺して防腐処理をして留め置き、完璧な犯罪だったが自ら名乗りを上げる。裁判も弁護士の雄弁で無罪になりかけたとき、自ら犯罪を告発して、希望どおり死刑を勝ち取る。処刑の段になっても、普通のギロチンの死に方では面白くないと、頭が輪切りになるように首をずらす。奇人変人譚。

 

〇Constant Guinard(コンスタン・ギニャール)―モールス・ブショルへ

不幸な星のもとに生まれた男。試験の日には病気になり、バカロレアではカンニングした相手が通って、本人は落とされた。初めて勤めた初日、職場が火事になり、金庫を持って逃げ出そうとして逮捕され、監獄で反乱が起きたとき、看守を助けようとして誤って暴動の手に押しやり死なせた。送還された重罪監獄を脱獄し、善行を施そうと尽くすがことごとく運命に裏切られる。孤児の女の子を引き取って育てたが愛を告白され父親と思っていると答えて自殺され、知り合いの犯罪を未然に防ごうと仲間に加わって、彼だけが逮捕された。裁判で満場一致で死刑となる。彼の善意を信じた友人の一人が墓碑銘を作らせたが、原稿の字が歪んでいたので墓屋が間違えて、「善意の男(bien)」とすべきところを「品性下劣の男(rien)」としてしまった。

井本英一『習俗の始原をたずねて』

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井本英一『習俗の始原をたずねて』(法政大学出版局 1992年)

 

 井本英一の本は相変わらず重複の多い話ばかりですが、慣れてきたのか、読み物として面白い章節もありました。例えば、「あべこべの世界」などは、澁澤龍彦種村季弘が書いてもおかしくないような味わいが感じられましたし、「初物の話」は目新しい話題が多かったように思います。いくつかまとまったテーマが目に留まりましたので、ご紹介します。

 

①偶数と奇数について、古代人はいろんな考えを持っていたようで、ひとつは、奇数を偶数よりも重要視する見方。奇数は二等分できずいつも余りが出るが、これこそ生成の芽であるとする。月でいえば三日月や上弦月には生成の芽があるが、満月は完成したあとの衰えしかない(p17)。また古代ローマの霊魂の祭りが必ず奇数の日で行われたように、死者の世界との交渉や死者の再生には奇数が必要と考えられたらしい(p19)。一方で、贈答や婚姻は円満であるべきなので偶数を尊ぶということもあった(p18)。

 

②はっきりとは書かれていないように思うが、五穀の初穂など初物を神に返すという風習があり、それが神から与えられる十分の一を捧げるという習慣となり、十分の一税のもととなったようである。なぜ初物かというと、初物は危険なエネルギーを持っているからである。花嫁の初夜権も花嫁の処女性のもつ危険性を除去するのが本来の意味という(p40)。また金銭は初穂以上に危険なエネルギーを持つと思われたので、新銭からそれを除去する手続きが必要とされ、経済の発達とともに、五穀からそれを買える金銭へと移行していった(p44)。

 

③この世とあの世のあべこべについていろんな事例が引かれていて、この世とあの世は、地面を境として鏡の映像のように、上下左右が逆さまになっていると多くの民族は考えていたらしい(p80)。イザナギの黄泉国訪問、イシュタルの冥界降りなど、古代から中世にかけての異郷訪問譚では、冥界へ降りていく前半と戻ってくる後半とが裏返しの構造を持っていることや(p82)、アルタイ系諸民族が死者の世界は左右が逆と考え、死者の服は生者の右ではなく左でボタンを留め、刀は死者の右側の帯のところにつけるというようにしたこと(p92)など。

 

④多くの文化では、祭司や信者が裸になるのは神に近づくためとされていて、裸にして人を打つのは懲罰のためではなく、権威を授けるためということがあった(p116)。打つことには、打たれる者から力を引き出す場合と、その中に魂や力を鎮め込めてしまうという二つの場合があり(p141)、ものを打つと、そのものが持っている不思議な力が出て、打つ人の身体につくという。不思議な力の代わりに、食物や宝物が出る場合もある(p142)。さじで食器を叩くと祖先霊が出て来る信仰が、日本では食器を箸で叩くことに対するタブーに変化したのだろう(p137)。

 

⑤悠久の昔には、死者の魂はいつも生者の世界に留まっていたと考えられていたようで(p150)、家の床下に埋葬するのは人類共通の習俗であったらしい。死者と生者が同じ家で生活するという考えがあったと思われるし、人間は彼が生まれた場所で死に、そこに埋葬されるべきであるという考えもあったようだ(p168)。沖縄では長らく家の背や軒下に埋葬する習慣が残っていた(p167)。日本では古くから幼児の埋葬は、家の入口の敷居の下にするという伝統があった。それは、もう一度、死んだ子どもの魂がここを出入りする母親の胎内に入って、生まれ変わるようにという願いからだったろう(p169)。

 

⑥至福の島や箱庭など天国のイメージを小さなものの中に表現する事例として、イスラム教のモスクや聖者廟の中庭中央に配された沐浴用の池と、周囲の樹木とそれに憩う小鳥が人工の楽園を思わせること(p270)、イスラム教でもキリスト教でも古くから楽園に眠りたいという希望があり、いずれもモスクや教会の庭内に墓があること(p271)、また極東では、海に浮かぶ至福者の島を箱庭として表現していて、ハノイでは水槽の中に岩を置き、その上に植物を植えたヌイ・ノン・ボという箱庭があることや、中国では漢代に、水盤の中に博山炉を立て、文人たちが香を焚いてそれを愛でたこと、蓬莱・方丈・瀛(えい)州は至福の島で壺の形で表象されたこと(p277)などが紹介されていた。蘇我馬子が「庭に小さい池を掘り、池の中に小さい島を築いた」ことは『境界・祭祀空間』にも出ていた。

 

最後に、変身譚に関連した面白い話があったので、書いておきます。

ある武士が苦行中に夢でお告げがあり、そのとおりに、朝、頭を剃り手に棒をもって門のところに隠れ、やってきた雲水僧をめった打ちにすると、僧は黄金がいっぱい詰まった水瓶となった。床屋がこれを見て、同じようにやって来た僧をめった打ちにしたところ、僧は死んで、床屋は殺人の罪で役人に打たれて死んでしまった(インドの説話集『ヒトーパデーシャ』)(p142)。

ある王女が家来と恋をして結婚したいと言うが、父王は許さないので二人は馬に乗って逃げる。王が追ってくるが、馬は土地、馬具は畑に、王女はレタス、家来は農夫に変身する。さらに父に追わると今度は、馬は礼拝堂に、馬具は聖壇に、王女は聖女像に、家来は聖器係僧に変身する。最後にはめでたく結婚(ポルトガルの民話「白花姫」)(p244)。

井本英一『境界・祭祀空間』

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井本英一『境界・祭祀空間』(平河出版社 1994年)

 

 読んでいるうちに頭がくらくらしてきました。というのは、いちおう項目別に整理されているにもかかわらず、同じ話があちこちに出てきて、迷宮に入りこんだような気になってしまうからです。そのうえに、その話の半分以上が、著者のこれまでの本のどこかで読んだことのある、というかそう思えるものなので一層です。しかし、いかんせん頭の中にきちんと覚えていないので、それがどこかと問われれば答えようもありません。著者の本をずらりと並べて、全体を整理して項目・テーマ別に並べ直したら、すっきりするものができるでしょうが、そんな力もありません。それで一度頭を白紙にして、もし古代人になってみて聖なる場所をどこかに特定しようとするならどうするかと、考えてみました。

 

 まず考えつくのは、尋常ではない場所。巨岩だとか、滝とか、大きな穴、陸続きの島、聳える山、大地から一つだけ盛り上がった丘。神の力が働いているとしか思えないような自然の不思議さが実感できるところです。次に、身近なところでは、囲われた場所。自然な形では、湖や池の中の島が最適。普通の場所なら、その場所の周囲を堀や垣で囲むことになります。それがさらに簡略化されれば、四隅や入口に柱を立てる、あるいは段を作って高くするというふうに。境界が重要になるのは、そうした聖別された空間と日常的な空間を隔てるものだからでしょう。

 

 地形的な場所ではなく、人生の段階で考えれば、誕生と死の場所。とくに死後の世界につながる墓。あるいは日々の生活で聖なるものを考えると、日常から離れて、清新な気持ちにさせるもの。風呂に入る、酒を飲む、服を変える、爪を切る、散髪する、特別なものを食べるとかが思い浮かびます。再生を感じる場面としては、二日酔いとか、賭けですってんてんになり呆然となった状態で、再生するためにはその前に仮死状態のようなものが必要というわけです。

 

 と、本から離れて、テキトーなことを書いてみました。重複ばかりとは言っても、いくつかの新しい指摘も目に留まりました(単に忘れているだけかもしれない)。概略を記します。

大嘗祭では、天皇が衾という布団のようなものに覆われて仮死状態を演じる儀式がある。この衾が中国の王権移行の際には先王の死骸を覆っていたものを用いていたことから分かるように、大嘗祭は再生の儀式であり、衾の原形は羊膜であった。また、古代イランでは王権を手に入れる場合裸になったが、大嘗祭では着衣のまま入水する。

伊勢神宮神嘗祭の翌日、天武天皇が有力者を召してサイコロ戯をさせたというのは、大地母神デメテルが冥界でランプシニスト王とサイコロ戯をしたのと同じで、境界を通過する際の模擬闘争を意味している。古代中国でも冬至には博打を解禁していた。祭日に博打、勝負ごとをするのは再生の境界における闘争儀礼の名残りである。

③境界につくられる石塚や土饅頭は一種の三角表象であり、服喪の家で三本の棒を斜めに組んで戸口に立てる左義長といわれるものは一種のピラミッドと考えられる。また四角い紙の対角線の方向に忌の字を書き、角が上にくるようにして、入口に貼ったり、あるいは死者の額に三角の紙をあてがうのも三角表象。これらは祭壇の観念から発達したものである。

④仏像の頭に釘を打ち込むことは、許すべからざる行為とみなされるが、古くは、仏像の聖性をつなぎとめるための行為であった。神殿の壁にも釘がよく打ち込まれているのはそこが境界であるからであり、仏像に釘を打つのと同じ意味がある。

⑤古代には、敵を破るのにしばしば詐術にたよったが、詐術はたんなるぺてんではなく、知恵や精神の優位を表わすものであった。

 

 神話的あるいは珍妙なイメージとしては次のようなものがありました(文章は少し変えています)。

17世紀のイスファハンでは、貧しい人々が自らを埋葬する習慣があった。口まで地中に身を入れ、残りの頭の部分を特別に作った土器で覆う。彼らは一日中、このままの姿で過ごす(p19)。

中国の富豪の息子が美女を探しに行く。ある寺の仏の乳房をもち上げると、穴があいた。穴に入ると、立派な城があった。息子は歓待された。ふと帰郷したくなった。地上からさらわれてきていた伎女が、鋤で東のかきに穴を開け、息子をおし出した。そこは長安の東の場所であった(p197)。

中国の長者の子の指から四方に光を放った。長者の家が傾き、その子燈指は乞食となり狂って、屍骸を背負って王宮に入ろうとするが、追い返される。家に帰ると、屍骸が黄金の頭と手足になり、大金持となる。阿闍世王がこれを取ろうとすると、死人の頭・手足となる(p224)。

英雄ヨロの敵のラマ僧が、ヨロの目を刺すために、自分の外魂であるスズメバチを送った。ヨロはハチを手に掴み、手を閉じたり開いたりする。とラマ僧は、失神したり意識を回復したりした(p227)。

冥界の女王はイナンナ(イシュタルのアッカド版)を死体に変えて釘に掛ける。イナンナの父は娘を呼び戻すために二人を冥界へ送る。二人は、冥界の女王から釘に掛かった死体をもらい、生命の食物と生命の水を与えると、イオンナはよみがえった(p280)。

 

 目からうろこの発見がありました。浦島伝説の玉手箱に入っていたものは実は浦島自身の魂で、それで玉手箱を開けたとき魂どおりの老人になったということです。それに関連して、死体の首に掛ける頭陀袋は、現在は故人が日常愛用した小物や渡船用のビタ銭などを入れますが、本来は魂を入れる袋だったということです(p248,250)。

 

 ひとつ得意になったことは、著者が「仏画にはヘソから蓮花が生え出るものがある。どのような典拠があるのか知らない」(p320)と書いていますが、これは先日読んだ吉田敦彦『天地創造神話の謎』(大和書房)の「ヒンズー教神話」の項目に書いてありました。『マチヤ・プラーナ』という経典からで、次のようなくだりです。「世界が創造されるべき時がくると、この大洋に浮かび眠っているヴィシュヌの臍から、蓮が芽を出し、やがて黄金色に光り輝く一輪の花を咲かせる・・・この蓮の花が大地となり、また万物を生み出す大地女神の女陰ともなって、ヴィシュヌの内にある世界が、現実のものとして創造されるのである」(p35)。