高橋邦太郎「『蜻蛉集』考」


高橋邦太郎「『蜻蛉集』考」(共立女子大学 1966年)


 ジュディット・ゴーチェの『蜻蛉集』にいち早く注目した高橋邦太郎の論考です。前回読んだ吉川順子『詩のジャポニスム』でもたびたび言及されていました。「共立女子大学紀要(第十二輯)」のいわゆる抜き刷り。詩人随筆家の岩佐東一郎宛の署名つき、といっても殴り書きのようなものですが。

 内容の大半は『蜻蛉集』本体の紹介に当てられており、あとは西園寺公望のパリ生活についてが中心で、ジュディットと山本芳翠については簡単な紹介に留められています。『蜻蛉集』については、本の体裁に始まり、献辞、序文にあたる『古今集』「仮名序」の仏訳と原文、そして本文の詩篇については、ジュディット訳と下訳となった西園寺訳、さらには日本語の元歌を調べられる限りで併記しており、当時としてはもっとも詳しい紹介であったと思われます。

 『古今集』「仮名序」について、著者は、「抜粋であり、抄訳であるが・・・真髄は美事に捉えてあって、歌論の基礎となり、和歌の本質を伝える点にいたっては、まことに美事な抄略を提供したと感ぜざるをえない」(p92)と書いていますが、読んでみると、私のフランス語の力がついたのかどうか、古い日本の言葉よりも、フランス語訳で読んだ方が心にすとんと落ちたのが驚き。また、短歌も短い言葉の中に盛り込まれている要素が多いので、フランス語訳の方が平明に感じます。

 西園寺の下訳は、原歌を素直に順序を違えず訳していて、分かりやすく、なかなかのものです。ジュディットの訳したのより西園寺の訳したものの方が素直で読みやすい。なぜかと考えるに、ジュディットは音韻を揃えるために無理をしていることと、西園寺が日本人の分かりやすいフランス語で訳しているからかもしれません。例えば、千里の短歌「栽し時花まちどをにありし菊/うつろふ秋にあはんとや見し」は、ジュディット訳では、「En semant moi-même, Revant son cœur entr’ouvert, Cette fleur que j’aime, Qui fane le chrysanthème?」、西園寺訳は「Quand j’ai semé cette plante, attendant la fleur avec impatience, est-ce que je songeais à l’hiver qui fane les chrysanthèmes」となっています。

 短歌のいくつかで、ローマ字書きにしたものがありました。それを見ると子音や母音の配置がよく分かり、細かな音韻の工夫が凝らされていることがよく分かりました。例えば、蝉丸の有名な短歌「これやこの行くもかへるも別れては/知るも知らぬも逢阪の関」は、「Koré ya Kono/ Youkou mo Kaérou mo/ Wakarété Wa/ Shirou mo Shiranou mo/ O Ossaka no seki」とフランス式に表記されており、一行目二行目ではKとY、三行目ではW、四行目ではS、五行目ではOが、音の基調になっていることや、母音の動きがよく分かります。これを考えると、短歌をローマ字併記、少なくともひらがな併記にするようにすれば、音韻の変化がよく分かるのではないでしょうか。

 いくつかの訳には、元歌の意味から離れてしまっているのがありました。例えば、俊成女の歌の西園寺下訳は、原歌を訳しきれていないと感じられますし、敦忠のジュディット訳は少し曲解されているようだし、伊勢のジュディット訳も歌の原意から離れてしまっています。

 あらためて、『蜻蛉集』に収められた短歌の中で、私の好みに合ったものは次の歌。
春の夜のやみはあやなし梅の花/色こそ見えねかやはかくるゝ(凡河内躬恒

花の色は霞にこめて見せずとも/香をだにぬすめ春の山風(良岑宗貞)

人はいさ心もしらずふるさとは/花ぞ昔の香に匂ひける(紀貫之

ながらへば又このごろやしのばれん憂しと見し世ぞ今は恋しき(藤原清輔朝臣

ながめつるけふは昔になりぬとも軒場の梅はわれをわするな(式子内親王

さびしさに宿を立ち出で眺むれば/いづこも同じ秋の夕暮(良暹法師)

忘れなむと思ふさへこそ思ふこと/かなはぬ身にはかなはざりけれ(大弐良基)

冬ながら空より花の散り来るは/雲のあなたは春にやあるらん(清原深養父

花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり(入道前太政大臣、藤原公経)


 最後に、蛇足ですが、ゴンクールの日記に描かれた日本人像は、フランス人が日本人をどう見ていたかが分かって、一瞬愕然としてしまいます。「瞳は・・・興奮しているのか、下に、上に、左右に絶えず動いているので、彼の視線が熱に浮かされているような、奇怪なものに見える・・・贓物を抜いた兎のような細い体が、痩躯が、欧羅巴人のズボンと、フロックコートの中で宙に浮いている。ざっと動物に人間の着物を着せた、曲芸団の動物といった矮小さである」(p85)→これはジュディットが『蜻蛉集』を愛をこめて献呈している光妙寺三郎の姿を描いたものと思われるとのこと。

 家隆の「富士の根の煙もなほぞ立昇る/上なきものは思なりけり」という歌があって、いつ頃の話かと思って調べると、13世紀初頭ぐらいの人なので、その頃は富士山はまだ煙を吐いていたようです。

吉川順子『詩のジャポニスム』


吉川順子『詩のジャポニスム―ジュディット・ゴーチェの自然と人間』(京都大学出版会 2012年)


 引き続き、ジュディット・ゴーチェについての本を読みます。これも女性フランス文学者の著作。ジュディットの文壇デビューとなった書評、美術批評、音楽批評に始まり、中国詩翻訳集『白玉詩書』、彼女のオリジナル散文詩、短歌翻訳集『蜻蛉集』について書いています。訳詩部分を入れて480頁の大著で、当時の新聞雑誌記事、ジュディットの3巻に及ぶ日記、手紙、さらに厖大な小説作品を参照しながら書き進めています。

 本作の本領は、ジュディットの自然と人間との関係についての考え方を、デビュー時から『蜻蛉集』にいたるまで、一貫したものとして捉えているところ、そして彼女の自然に対する感性の生き生きとしたあり方を、美術批評・音楽批評の生命の躍動感に満ちた言葉への着目や、『白玉詩書』や『蜻蛉集』の鑑賞、創作過程の分析を通じて解き明かしている点にあると思います。

 そのジュディットの自然観については、次のような指摘がありました。
①ジュディットは、幼少の頃から天文学を学び、地球や宇宙に関心をもち、その姿をいきいきとした生命体のようにとらえていた。ボードレール訳のポーの『ユリイカ』の書評にあたっても、ポーの用いなかった「神の息吹の力」という息づかいを感じさせる言葉を選んだ。

②美術批評でも、自然にまつわる多様な比喩を駆使し、自然を擬人化する独自の視点を披露したし、ワーグナーの音楽批評においても、ドラマの展開や登場人物たちの感情を追う箇所ではなく、〈川〉、〈森〉、〈海〉、〈空〉という自然のさまざまな現象をゆたかに表現している箇所に着目して論評している。

③『白玉詩書』の全71の訳詩のうち8割近くでアナロジー(類似)を示す表現があり、物、人間、動物、植物、自然界の現象をお互いに結びつけている。その根底には、この世に存在するものすべてが同じような営みを行い、その一角に人間が身を置いているという見方がある。

④道(タオ)を重んじ、人為を廃する無為自然の考えに共鳴していたらしく、ジュディットオリジナルの散文詩においても、人間の自我を排し、宇宙の原理に身を委ねるという観念が変奏的に表現されている。

⑤『蜻蛉集』においても、冒頭の『古今集』「仮名序」自体、いかにも彼女が好みそうな自然の比喩を用いた表現であふれている。また人間の心情を自然界の生物・事物・現象になぞらえる「見立て」の技法や、自然の生命や自立性を強調する擬人法の表現が目につく。

⑥人間の描き方は、無力で苦しみに満ちた孤独な姿として登場させ、人間はむしろ自然から教えられる存在として、強い自然に対する弱い人間という構図を保持している。
→読んでいてジュディットの感性が、初期ロマン派の素直で素朴な感性と通じるものがあるように思う一方、ロマン派の自然観との関係について言及がないのが物足らないと思っていたら、「西洋における自然観の変遷も、その背景としてより緻密に踏まえることが、今後の大きな課題としてある」(p333)という文章があって、本人も自覚していたようです。


 美術批評においては、次のような記述が印象的。
肖像画などよりも風景画に対する批評に熱心で、表現がみずみずしい空気感を醸し出している。視覚のみならず、朝の香りといった嗅覚的な要素もとらえようとしているし、一つの静止した絵から、作品の背景へと想像の羽が延ばされ、過ぎ去った冬という過去、これから始まる日といった未来にまで想像を広げている。

②ジュディットが高く評価する作品というのも、現実の正確な再現に縛られず、その背後に広がる世界、見えない部分までを想像させるようなものである。


 『白玉詩書』に関する話題では、
①ジュディットには、当時彼女に近い人々のあいだで流行していた散文詩への関心と、短いがそれでも完璧なペルシャ詩への興味があり、ともにフランス詩の規範を打ち砕く新しい可能性を感じていたと思われる。またぎこちない逐語訳からでも詩の本質が分かることから、詩は形式の権威に依存するものではないという確信を抱いていたようである。

②ジュディットの翻訳技法についてデトリの分析が紹介されていました。(一)原詩に内包された関係性や思考を明確に述べたことから文章が長くなっていること、(二)主語や等位・従位接続詞、副詞、成句、時制などを補ってヨーロッパ人の求める論理性をつけたこと、ときに想像によってそれを構築したこと、(三)形容詞や副詞を補ったことで感情表現の濃い訳詩になっていること、またそこにジュディットのロマン主義的感受性が影響していること、(四)原詩の背後にある文化的・歴史的意味合いを捉え得なかったために詩が広がりを失い単純になっていること。

③『白玉詩書』の目的はもともと、純粋な翻訳を行なうことにはなかった。というのは、最初3回雑誌に発表されたとき、最初の2回は、複数の詩に対して「〇〇の詩による中国的主題の変奏」としか題されておらず、しかも詩人名は〇〇の部分にまとめて記されているのみであったこと、また「冷たい雨」を「さみしい雨」として寂寥感を出したり、主人公を詩人に仕立てたりと、原詩の内容より、自らの方針を優先させているところに表われている。


 『蜻蛉集』については、次のような点。
①『蜻蛉集』で選ばれた歌は、八代集からが77首で全体の9割にのぼり、その半分弱が『古今集』の歌である。注意すべきは、『万葉集』の歌が完全に排除されている点。選歌には西園寺が大きくかかわっていたはずで、西園寺が明治初期の萬葉集尊重の風潮以前の幕末以前の伝統的和歌観をもっていたことを示している。

②『蜻蛉集』もやはり『白玉詩書』と同様、純粋な翻訳ではなく創作的翻訳とみるべきものである。ジュディットは、日本の歌集の伝統である春・夏・秋・冬などの「部立て」や複数の歌を関連づけて並べる「配列」などの流れの意識をまったく無視しており、日本の歌集をまねることが翻訳詩集の目的ではなかった。

③『蜻蛉集』の詩の特徴は、音節を五・七・五・七・七に合わせ、かつすべての詩で韻を踏ませているところにある。韻のためには、「桜の花々」が「ばら色の実り」に変更されるなど、原詩内容の多少の変更も躊躇しないという姿勢が見える。また挿絵の色調にあわせて、原詩にはない色彩を表わす語をつけ加えた例もある。

④またジュディットならではの表現として、感嘆詞の多さが目につくが、これは音節数を調整する道具として有効ということもあるが、感嘆符も多いことから考えると、彼女の性向を表わしている。また西園寺の下訳の単調さを避けるために、自然に語りかける形に変更したりしている。

⑤献辞は、『蜻蛉集』を手伝ったと思われる光妙寺三郎という日本人に捧げられていて、高橋邦太郎などはジュディットの三郎への愛を指摘しているが、その献辞で表明された愛の問いかけや不安が、88首目の最後の歌で、確信によって返答されているところに、閉じられた円環があるとしている。


 こういう学術書には珍しく、コラムが挿まれていて、いろんな知見を得ることができました。ひとつは、テオフィル・ゴーチェの『ミイラ物語』に着想を得て、エルネスト・ファヌリという作曲家が『交響的絵画』という作品を書いていること。CDまで出ているようなので手に入れたいと思います。もうひとつは、10代半ばのジュディットが「秘密を明かすガット弦」という小説のアイデアを父親に語っていて、自然の風にさらされた木や歌手の肉体から作ったヴァイオリンが感覚を備えて魂の音色を発するという、グリムの「歌う骨」に似たテーマの物語で、面白そうですが、実際には書かれなかったとのこと。

 『蜻蛉集』で、ジュディットのフランス語訳詩、西園寺の下訳、元になった日本語の短歌を比較して読んでいると、やはり日本語の短歌が引き締まっていて美しく、それに比してフランス語訳は間延びして感じられました。一方、仏訳を読んで初めて歌の意味を知る場合も多々ありました。

FREDERICK TRISTAN『LA GESTE SERPENTINE』(フレデリック・トリスタン『蛇状叙事詩』)


FREDERICK TRISTAN『Curieuse histoire de la GESTE SERPENTINE racontée par Jean-Arthur Sompayrac, accompagnée de notes et commentaires rédigés par le Professeur Adrien Salvat(ジャン=アルトゥール・ソンペイラックが語り、アドリアン・サルヴァ教授が解説と注釈を付けた蛇状叙事詩の奇妙な物語)』(différence 1978年)


 正式なタイトルはとんでもなく長い。本作は、トリスタンの比較的初期の作品ですが、私のこれまで読んだかぎりでは彼の最高作だと思います。舞台は、ヨーロッパはもちろん、中近東から中国と幅広く、『千夜一夜物語』やインドの説話集『カター・サリット・サーガラ』を思わせる枠物語の構造をしているのが特徴です。

 「LA GESTE SERPENTINE」という言葉をどう訳すか。最初は、マニエリスムの用語で、蛇状姿態(figura serpentinata)というのがあるのを知っていたので、それに引きずられて蛇状姿態と訳していましたが、念のため辞書を引いて見ると、Gesteには二つの意味があり、身ぶりは男性名詞で、女性名詞なら武勲詩だったことを知り、蛇状叙事詩と訳し直しました。

 トリスタン本人のものと思われる献呈署名入り。「友人のアントワーヌ・フェーヴルへ。この『いや、どこ?』の国への旅は、彼が道を知っている。著者より愛をこめて。トリスタン、78年9月19日」となっている。フェーヴルは、物語のアイデアの一つに関与しているらしく、この本の献辞の3人の中にも入っており、ウィキペディアで調べると、エゾテリスムの研究者で、クセジュの『エゾテリスム思想』を書いています。所持している『エゾテリスム思想』の「エゾテリックな芸術と文学」の項を見ると、エゾテリスムが顕著に現われている作品として、フランスの小説では、フレデリック・トリスタンの『名前のない男』と『バルタザール・コベルの艱難』が挙げられていました。お互いの友人に対する気遣いが窺えます。
 

 長編小説ですが、入れ子構造の挿話がたくさん入っていて、一種の短編小説集ともとれます。枠物語のメリットは何かと考えたら、場面展開が鮮やかで興味が持続し、物語が凝縮されることで、長編なのに短篇の味わいが連続するところにあるのでしょう。

 語りの外枠としては、ソンペイラックが蛇状叙事詩の物語を収集した経緯が、7つの場面で語られます。まず、彼が考古学者としてカイロ滞在時に、エジプト在英国大使マークウェルに連れられて行った長老シラズィの語る話、次にプラハの酒場で知り合ったデンマーク船員の語る話、そしてソンペイラック自身がダマスで発見したある文書、大英博物館の階段で出会った老人からの話、第二次世界大戦で南京の収容所に入れられたとき同じ房の中国人が語る話、その後記憶喪失となりボストンの精神病院での回復期に思い出しながら書いた話、最後に故郷に戻り近所の子らと遊んでいるとき、子の一人が古い手帳を見つけたと渡してくれたなかに最後の物語が記されていたという仕掛けになっています。

 「蛇状叙事詩」として語られる本編の物語は、大きく二つの系統に分けられ、一つは、仕事に身の入らない職工のハッサンの冒険、もうひとつは職工の師匠アシュラフがハッサンを探し求めて遍歴する話です。その二つが並行して語られ、ハッサンは、いろんな挿話の中では、金細工師ガーネンという人物になったり、サミュエルの息子や、中世騎士フォルティンブラとなったりする一方、アシュラフも、教皇秘書ジャコポ・サンスィとなったり、別の挿話の魂を抜き取られた婚約者アル・ジャーリになったり、中国兵士チャンキァンになったりします。そしてときには、二つの系統が合流したり、また同じ系統の中でも以前の話に双六のように後戻りしたりしながら、錯綜して進み、最後にアシュラフのもとへハッサンが帰ってきて、アシュラフがハッサンに師匠の座を譲って死ぬという場面で終わります。メモしながら読まないと、頭が混乱してしまうほど込み入っています。

 全貌を順番に正しく伝えるのはとても難しいので、いくつかの挿話的物語の中で、印象的だった場面をご紹介します(ネタバレ注意)。
①織工のハッサンは、毎土曜に経糸、月曜に横糸を持ってきて、火曜日に織物を買い上げる3人の女に騙され、貰った金は砂と化し、部屋に毒茸が繁茂し家も崩壊してしまう。怒りが高じたハッサンが気絶して目覚めると、墓の中に居た。すると戸が開いて婦人部屋に案内される。そこで三姉妹から、お前はガーネンという金細工師だと言われ、ガーネンの冒険を聞かされる。複雑な話しで頭が混乱してきたので、酒宴にしようと、酒を呑んだ瞬間に、壁は崩れ粉々になり、その場所は、深い峡谷となって、谷底でハッサンはぐっすりと眠りこけた。

②金細工師ガーネンが皇子から恋人のスルタンの娘に送る指輪の作成を命じられるが、手に入れた二つの函は、一方は宝石の函だが金の台座ができるまでは開けてはならず、もう一方は金の函だが宝石が手に入るまでは開けてはならないとされた。困り果てたガーネンのところに、バドルールブドゥールという女がやってきて、「その二つの函には私の婚約者アル・ジャーリの抜き取られた魂が入っているから、この金と宝石の入った函と交換して」と言われ交換する。指輪を完成させ皇子が恋人の指にはめた途端、スルタンの娘は誰も目覚めさせることのできない眠りについてしまう。スルタンの命で、皇子は地下牢に閉じ込められ、金細工師を逮捕すべく捜索隊が結成される。

③アシュラフは、大天使ガブリエルから、「バグダッドへ行き、橋の横にある市場にカッシムという盲人がいるから、右手を彼の左肩に置いて合言葉を言え」と命じられ、そのとおりにすると、盲人は「何があっても手を離すな」と言った。市場を抜け、バクダッドを出て、断崖を越え、森の中を進み、剣士たちが練習している空き地で盲人の首が飛び、手足が切り落された。しかしアシュラフは盲人の肩に手を置いたまま進み続けた。森が火事となり、二人が森を抜けたときは二人とも炭になっていた。蛇が蠢く沼を渡り、洞窟の中の水盤の中に入り、馬鹿でかい魚に呑み込まれ、それでも魚の腹の中を歩き続け宮殿に入ると、老人が居て、「カッシムよく来た。試練によく耐えた」と迎えられ、また送り出される。魚の背中に上がったところ天界の釣り人に吊り上げられ、油で揚げられる。それでも肩から手を離さなかった。溝に投げ捨てられ、花に持ち上げられたところを蜜蜂に攫われ、蜂蜜を塗りたくられた。そこから歩いてバグダッドの市場に戻ると、ちょうど棚に物を並べる時間になっていた。二人は抱き合って別れた。

④ガーネンは、自分の指輪でスルタンの娘が眠りについてしまったことを知り、逮捕の危機を感じて砂漠に向って逃げ出す。バドルールブドゥールも二つの函を持って婚約者アル・ジャーリがさまよっている砂漠に向うが、アル・ジャーリはバッタを食べ過ぎたせいで大きなバッタと化していた。彼女が悲しんでいるところに、実はアシュラフが変身した黄色い犬が現われ、人間に戻るには人間を食べればよいと諭す。スルタンの命令でガーネンを追跡してきたフセインがそこに合流し、いきなりバッタを切り殺してしまった。それを見たバドルールブドゥールは、陶器の像のように粉々になって砕け散った。黄色い犬が残された函をこじあけると、犬はアル・ジャーリの姿となった。アル・ジャーリは、スルタンの所へ行き、「皇子を斬首してその血を椀に入れて持って来れば娘を目覚めさせることができる」と告げる。娘は無事目覚めるが、助けてくれた人が皇子でないので、結婚を拒否する。

⑤谷底で眠っていたガーネンは目覚めてから歩いて町に着いたが、そこは住人もおらず廃墟と化していた。すると老婆が現われ次のような話をした。お前はサミュエルの息子というプラハ生まれの巡回医療師で、ルドルフ2世という占星術の好きな国王に呼ばれたが、皇子のしゃっくりすら治せないというので牢に入れられた。牢名主から死者を蘇らせる法、金を作る法、鳥たちの言葉を知る法を教わった。それが英国の高名な錬金術師ジョン・ディーの知るところとなり、ローマ教皇に呼び寄せられることになる。サミュエルの子は、ルドルフと二人でローマに向けて出発するが、道中二人の服はぼろぼろとなり乞食と間違えられて、農民から袋叩きに遭う。二人は別れ、ルドルフは森をさ迷い、サミュエルの子は小屋の前で倒れる。

⑥その小屋にはアナンダという娼婦が住んでいて、二人は歓楽の後、小屋の前にやってきた馬に乗って、宝探しに出かける。馬とイスラエルの息子がやってくれば3つの王冠の財宝が見つかるという予言があったのだ。長い旅の後、海辺で馬が突然立ち止まる。そこには地下に続く階段があった。階段を降りると、そこはティンタジェル城で、アーサー王と円卓の騎士たちが、夜の女王ガルガントと戦うべく作戦を練っているところだった。サミュエルの子は口頭試問を受けて騎士の仲間入りを許されフォルティンブラと命名される。そしてガルガントと戦う命を受け、深夜に、一人馬に乗って出発する。指定された場所に着くと、小人が待っていて藁葺小屋に案内されるが、誰も居なかった。料理が用意されていたので飲み食いし、ベッドで寝て、気がつくと横に若い女が寝ていた。「ここで何をしている?」と聞くと、「あんたこそ人の家で何してるのよ」と言われる。フォルティンブラはもう眠れなくなって、また出発した。森の中で、兵士に捕まり、墓の中の死者と対面した形で縛り付けられる。助けに来たアシュラフに起こされたと思ったら、そこはまだ若い女が横に寝ているベッドの中、起き上がろうとすると、さらにまた場面が変わって、ティンタジェル城のベッドの中だった。夢を見ただけで、まだ出発していなかったのだ。

アーサー王は、フォルティンブラが出発したのを見送ったのにおかしな話だと、確かめるために3人の騎士を森へ差し向ける。そこでは剣の音は聞こえるが姿は見えなかった。別の時空間で戦いが行なわれているのだった。戦っていたのは、アシュラフと夜の女王ガルガントで、決着のつかない二人は、剣を捨て、謎かけの闘いをすることにする。立会人として、アシュラフは3人の騎士、ガルガントは三姉妹をたてた。答えを出さないまま次々と謎かけだけが続くという展開になり、アシュラフが「騙したな」と剣を抜くと、すでに遅く森は火の海と化した。3人の騎士は骸骨となり、アシュラフが気がつくと、バグダッドの壁の下で、子どもたちに囲まれて笑われていた。
 まだまだありますがこれくらいで。

 話の流れや会話がまったく同じという場面が、2カ所ありました。ひとつは、ハッサンが墓の中から広い部屋に引き入れられて三姉妹と会話する場面(p23)と、アシュラフが骨の散らばっている薄暗い所から大広間に案内されてと三姉妹と会話する場面(p83)が文章もまったく同じ。もうひとつは、ハッサンが、三姉妹のさし出した酒杯を一気飲みした途端、谷底に眠りこけていたという場面(p45)と、ルドルフが三姉妹から饗応を受け、酒杯を一気に飲んだ途端、壁が粉々になって、石ころだらけの峡谷となり、深い眠りに落ちていたという場面(p162)。

 アシュラフとハッサンが入れ替わる趣向もありました。アシュラフが、大天使から弱っているルドルフを助けよと命じられ、サミュエルの息子すなわちハッサンとなって行き、ルドルフと一緒に旅をするくだり(p106~111)と、アシュラフが、ハッサンの馬と鎧を借りて夜の女王と戦い、謎かけ合戦を行うくだり(p122~124)。

 そうした荒唐無稽な何でもありの世界が繰り広げられています。全体をとおして、一種のお伽噺で、動物がしゃべったり、人が動物に変身したり、また死者が飲食しながら喋ったり、カッシムとアシュラフがずんずん歩いていく話など、とんでもなく壮大なほら話です。でもそれが無性に面白い。

 迷宮や錯綜への嗜好を示唆するような言葉が何度も出てきました。

鏡、障害物、ヴェール、迷路が必要。それが巧妙であればあるほど、私たちは真実に近づけるのだ。真実は単純ゆえ、それを見ると眼が焼けてしまう(p85)。

今頃そのアシュラフはあんたの夢の中に三重に閉じ込められて、もう一生抜け出せないわ(p119)。

わしは皇帝を否定して以来、結び目、策略、迷路、錯綜が好きになったんだよ(p141)。

時間と空間を渡り歩いた気分だ。何か誰かを探そうとしたんだが、それが何で誰かが分からないままだったんだ。それでも我々の想像力や記憶のなかの迷路を手探りで彷徨ったんだよ(p147)。

 神秘主義的な言説も目につきました。

理解というのは、中心のある円のようなもので、よく考えれば、よく見えてくるんだ。輪のなかへ一つずつ入って中心に近づいて行くように(p31)。

降りることは登ること、登ることは降りること、右へ歩む者は左へ行き、左へ歩む者は右へ行く、同じように、進む者は後ずさり、後ずさる者は進むのだ。動かない者は旅し、旅する者は動かない(p79)。

「この世界は空箱の中に空箱が入る入れ子状態になってるのよ。お前はその一つを開けただけさ。どの箱にも隠れようがないのさ・・・」。「そうじゃない。この世界は互いに嵌め込まれた球なんだ。いちばん大きな球の表面はいちばん小さな球の中心と同じなんだ」(p93)。

私、君、彼、我々、貴方ら、彼らは、ただ一人が変化したものなんですか。昨日、今日、明日も同じ時、空間も、すべて我々が見分けているものは、錯覚とでも。区別があるように見えて実はないんですね(p136)。

 上記のような神秘主義的な言説が至る所に出てくることや、物語の基本になっているのが、誰かを探して次々と試練を受けながら旅をするという構造になっていることから、どうやらこの物語は、イニシエーションの過程を表わしたものらしいということに気がつきました。ウィキペディアによるとフレデリック・トリスタンは、フランスのフリーメイスンリーと深い関わりがあったようです。

 最後に、アドリアン・サルヴァによる解説と注釈がついていますが、このアドリアン・サルヴァというのは、前回読んだトリスタンの小説『Le fils de Babelバベルの息子』に出てくる精神病院長と同じ名前。注釈は、トリスタンがその部分を書くときに参照した伝説や人物に関する研究や書物に関するものが多い。ですが、このもっともらしい注釈が嘘かほんとかよく分かりません。例えば、(50)の注釈は、ソンペイラックがボストンの精神病院に入院しているときに見た有名な芝居からの引用となっていますが、その有名な芝居というJ・W・Faltinの『Who’s who』をネットで調べてみてもどこにも見当たりませんでした。嘘とすればよく作りこまれているのに感心します。

 解説でさらに、嘘かほんとか、この物語の核心部分に触れるような補足を二つつけています。
①そのひとつは、ソンペイラックが収集した以外の蛇状叙事詩の歴史的な俯瞰。蛇状叙事詩のいちばん古い文献は、シンプリシウスが編集したエピクテトスの『エンキリディオン』の解説(1528年)で、そこでは3人の女の蛇的運命の餌食になって、二人の男が互いに探し合い、遍歴の果てに聖性に到達するという話だという。次に、フランソワ・ペローの『マスコンの反悪魔』(1656年)では、3人の老婆がジェスト(叙事詩)の道で、聖人や狂人を苦しめるという話になっている。アラブでは、3つの顔をもつ女が人々のアイデンティティを消失させて、自分の思いどおりに変化させ、一人の僧とその弟子が世界中をさ迷う話がある。この蛇状叙事詩は、ペルシアの物語だという者もあれば、アラブでも、ユダヤでもなく、中国かヒンドゥの物語だという者もいる。また、表面に蛇状叙事詩の3人の女、裏面に弟子を探す織工の師匠の姿が彫られた木彫も見つかっている。物語の源を、イスラムシーア派、さらには『アヴェスタ』に求める者もいる。フレデリック・トリスタンは『Journal d’un Autre他者の日記』(1975年)で、「この蛇状叙事詩は、神話的なものであり、今日では判断できない象徴的な機能をもつものである」と書いている(→さりげなく本当の著者が姿を見せるのが面白いところ)。A・ド・クランセは、「蛇状叙事詩の中心的意味は、砕け散った鏡ということである。場所はどこであれ、人物は誰であれ、一つの物語、一つの場所にすぎない。それは無名で、どの場所・時間にも属していない内面的なものだ」という。

②もうひとつは、蛇状叙事詩と類似した物語「バルラームとヨサファトの伝説」(→これは本当に存在している)との比較。バルラームとヨサファトの伝説は、ダマスコの聖ヨハネの作品に出てくるが、これこそ世界中に伝播している伝説で、元はサンスクリット語で書かれた釈迦牟尼の生涯が元になっている。それがパフラビー語に訳され、次いでアラビア語グルジア語、ギリシア語に訳され、名前も変遷に連れ変わり、ボディサトヴァがブダサフ、ジュダサフ、そしてヨサファトとなった。バルラームは仏教の一派であるヒンドゥーの聖者ビラハールからきた。この仏教の物語は姿形を変えながら世界中に広まった。イスラム暦3世紀(9世紀)、インド、中国を旅した商人は、ジュダサフという名の織工仲間を探すバラダムの冒険譚を聞いたと記している。987年のある書物には、ジュダサフという弟子を探す賢人が、最後に自分自身の中に彼を見つけたという話が書かれている。その弟子は自分自身の影にすぎないと悟ったのだ。

③そしてこう結論づける。このバルラームとヨサファトの伝説と蛇状叙事詩の交叉点にわれわれは居る。両者とも、秘教的な構造を隠し持っている。バルラームの話は改宗の物語で、父王によって宮殿に閉じ込められている皇子ヨサファトに、僧のバルラームが三蔵経の伝説を教えることで、彼を解放する話となっている。結局、蛇状叙事詩は、地理上の出来事か内面での出来事かは別にして、旅路の果てに、アシュラフ(バルラーム)が、ハッサン(ヨサファト)を改宗させるという話である。

 力が入りすぎて長くなってしまいました。反省。

門田眞知子『クローデルと中国詩の世界』


門田眞知子『クローデルと中国詩の世界―ジュディット・ゴーチェの「玉書」などとの比較』(多賀出版 1998年)


 再びフランス詩の話題に戻ります。前回の本『磨く松園、視る松篁、誘う淳之』との共通点は、著者が女性のフランス文学者という点と、東西文化交流の視点をもっているところです。今回は詩の世界でのフランスと中国間の交流になります。この本を買ったのは、ジュディット・ゴーチェがフランス文壇にデビューするきっかけとなった『玉書Le Livre de Jade』 について書かれていたからですが、もともとは、ジュディットと西園寺公望が協力して出版した日本の短歌訳詩集『蜻蛉集』について知り、次に、私の愛読しているジャン・ロランが18歳のころに、海水浴に来ていた28歳のジュディットと知り合って失恋した一件があり、彼女に興味がありました。

 大きく4章に分かれ、まず第1章で、中国の詩がヨーロッパに受容されるようになるまでの歴史を概観し、第2章では、ジュディットが『玉書』を出版することになった経緯と、『玉書』の内容について語り、第3章では、中国人で、中国詩史をフランス語で書いた曾仲鳴という人物と、彼の訳書『唐人絶句百首Cent quatrains des Thang』を紹介し、第4章では、クローデルが中国の詩に興味を抱くようになった背景と、その中国詩訳をジュディット、曾仲鳴のそれぞれの訳詩と比較して論じています。

 ジュディット・ゴーチェについては、この本が出るまでは、高橋邦太郎のような翻訳家・エッセイストや高階秀爾のような美術史学者が取り上げたぐらいで、日本のフランス文学界では、珍しいテーマだったようです。曾仲鳴のフランス語訳詩集『唐人絶句百首』を図書館で探し出し、それにもとづいて、曾仲鳴の人物像を紹介するなど、先駆的研究者としての意気込みが伝わってきます。訳詩がどの中国の原詩に当たるかや、版による相違、ジュディット、曾仲鳴、クローデルのフランス語訳詩、さらにはイギリス人の英語訳詩との比較など、学者ならではの考証のたいへんさが窺えました。

 考証の部分は私には少々煩雑で身が入りませんでしたが、個別の詩の説明の部分は興味深く読め、フランス語訳が原文で掲載されているので、そのフランス語の味わいが身に沁みて感じられました。中国詩の縹渺たる風景、深々とした夜の風景など、フランス語になっても味わいが損なわれることはなく、むしろ平明で伝わりやすい。元になった漢詩が並列して置かれている詩もいくつかあり、漢詩よりもフランス語の詩の方がよく理解できることに驚きました。いかに漢文の勉強がおろそかになっていたかということです。


 私の印象深かった部分を紹介しておきます。中国詩のヨーロッパでの受容の歴史については、次のようなところ。
①そもそも中国文化のヨーロッパへの紹介は、16世紀、イタリア人宣教師マテオ・リッチに始まるとされ、また、ほぼ同じころ、スペイン人宣教師のメンドーサの著した『シナ大王国記』が、中国学への起爆剤になった。フランスでは、18世紀の啓蒙主義時代において、『百科全書』の中に中国の文物について多くの項目が入り、その影響からか中国の科挙の制度を模してフランスの教育制度が作られ、それが今日のバカロレアに繋がっているということらしい。パリ東洋語学校(INALCO)の創設も1795年まで遡る。

②パリの中国学は、文学よりも哲学、とくに老子道教中心の学問が主流であって、中国詩についても、ヨーロッパでは長らく、中国詩の精華と言われる唐詩よりも、儒教の経典の一つとされる『詩経』が関心の的であった。

③今日では夢の研究の方が有名になった中国学者サン=ドゥニによる『唐詩Poésies l’époque des Thang』と、ジュディット・ゴーチェの『玉書』が、ヨーロッパやアメリカの各国語に訳され、唐詩が広まるきっかけとなった。その影響で、各国で中国詩の翻訳が試みられたが、それらは、いずれも印象的詩訳の域を出ないものであった。


 ジュディット・ゴーチェの『玉書』については、詩が平明でとても分かりやすいのが印象的でした。
①ジュディットの翻訳は、原詩の重要なフレーズを抜粋して、あとは自分なりの感興に従って、原詩にはない部分を付け加え自由に創作したものだが、詩自体に良質な味わいがあり、漢詩のもつ無時間性から離れて、時間の流れを取り入れたり、西洋的な情感や論理を取り入れて、西洋人に親しみやすいものにしている。

②とくに私が感銘を受けたのは、李白の「宴陶家亭子」と「登単父陶少府半月臺」を混ぜ合わせて作ったと推測される「陶器のあずま舎Le Pavillon de porcelaine」という詩で、誤訳を含みながらも、小さな湖の真ん中の玉の橋を渡ったところにある陶製の東屋で友人らが酒を酌み交わしている場面と、それが湖に逆さに映った情景を歌っていて味わいがある。この詩には芥川龍之介も興味を抱いたらしく、自由訳と称して訳しているとのこと(引用がありました)。また、このフランス語訳詩をハンス・ベトケがドイツ語に訳したものをもとにして、マーラーが『大地の歌』の第三楽章を作曲した。


 曾仲鳴の『唐人絶句百首』については、次のような記述があり、また感想を持ちました。
①曾仲鳴は、1901年に生まれ、10代でフランスに渡り、パリの大学で法学を学んだあと、リヨン大学で博士号を取り、中国に戻って広東大学のフランス語教授となった人物で、1939年、若くして蒋介石の一派に暗殺されたという。→自国の詩をフランスに紹介しようという曾仲鳴の意気込みと試みには敬意を表します。大正昭和初期の日本の仏文学者で誰がそのような気概をもって臨んだでしょうか。

②私の読む限りでは、曾仲鳴とクローデルの訳詩の比較において、曾仲鳴のものが原詩に忠実かつ味わい深いものとなっている。クローデル訳で「La Nuit bleue(原詩は劉長卿「送霊澈」)」、「Le Visage ridé(劉商「哭蕭掄」)、「La Rivière gelée(柳宗元「江雪」)」、「Le Son de la cloche(李嘉祐「遠寺鐘」)」、いずれも曾仲鳴訳のほうが良い。クローデルは余計な要素を加えて訳し過ぎていたり、原詩から離れすぎていたり、あまり評価はできません。曾仲鳴訳の「Retour dans mon pays(賀知章「回郷偶書」)」は心に沁みます。


 クローデルの中国詩については、
クローデルは、延べ15年以上の中国滞在によって、老子哲学の有と無の二元的思想に影響を受けて、原因から結果を導く三段論法という西洋的な観念を捨て去り、メタフォールを新しい論理として打ち立てた。メタフォールとは「二つの異なる事物の結合された同時の存在からのみ生ずる状態」であって、相手があって生ずるものであるという点で、クローデルは、有と無の脈絡の中にあると考えている。

②その老子的空無の考え方は、クローデルがパリで親しんだマラルメの「紙の空白」の考えと呼応するものであり、
クローデルは、西洋の伝統的な発想とまったく異なった東洋文化を取り入れた新しい試みを行っている。例えば、『百扇帖』はローマ文字の外形の意味化と視覚化を探る点でマラルメ風の試みであったし、同じ時期の夏の中禅寺湖畔での『西洋表意文字』なる試みもその一つである。

クローデル老子哲学では成功したが、中国詩の分野では、やや不成功に終わったと考えられる。その理由は、長い滞在にも拘わらず、中国語に習熟することがなかったことである。


 次は、ジュディット・ゴーチェについての本を取り上げます。今読んでいますが、なかなか面白い。

柏木加代子『磨く松園、視る松篁、誘う淳之』


柏木加代子『磨く松園、視る松篁、誘う淳之―上村三代の画業、京都画壇・京都芸大とともに』(大垣書店 2025年)


 先日、奈良日仏協会の奈良の古寺を巡る催しに、著者の柏木加代子さんが参加されていて、このご著書を紹介いただいたので、読んでみました。日本近代の絵画について疎かったので、明治の美術教育のあり方、日本画壇、とくに京都画壇の動きを知ることができ、また上村松園、松篁、淳之という三代の画人の生い立ちが、柏木さんがお勤めだった京都市立芸術大学の沿革と併せて語られていて、興味深く読むことができました。

 上村三代の業績や、それぞれの絵画との向き合い方を紹介しながら、当時の日本の伝統絵画が西洋の絵画と出会い、その衝撃から真のリアリティは何かと模索する姿が活写されています。著者がフランス文学者であることもあり、フランスの作家の美に対する考え方と比較したり、日仏の文化交流の視点もあり、単なる画家の評伝ではなく、面白く読めました。


 明治以降の日本の美術教育や、画壇の動きについては、次のような記述がありました。
①日本初の西洋美術教育機関である工部美術学校が1876年に設立されたが、パリ国立美術学校が女子の入学を認めたよりも21年も先んじて、6人の女性が入学を許されていたこと。→これは意外でした。

②京都では、1880年京都府画学校が創設され、江戸時代からの京都画壇の流派の継承と研究、後進育成の中心的役割を果たしたこと、それが現在の京都市立芸術学校に繋がっていること。

③江戸時代中期以降、中国の南画が盛んに学ばれるようになっており、1896年東京で日本南画会が設立されたが、翌年には、すぐに京都で日本南画協会が創立されたという。さらに1921年には、京都において日本南画院として全国の南画家が結集された。→この頃は、東京と京都が互いに競い合い切磋琢磨していた様子がうかがえます。


 パリ万博への日本画の出展など、日本画家とフランスとの交流については、
①パリに渡った最初の日本画家とされるのが、渡辺省亭で、第3回パリ万博で銅牌を受賞し、また京都の日本画家として最初に渡仏した久保田米僊は、第4回パリ万博で金賞を受賞している。しかし両万博を通じて、日本画の出展はわずかで、しかも工芸品の図案としての日本画であった。1900年の第五回パリ万博では、日本画の真髄を知らしめようと、東京・京都在住の日本画家97名の作品134点が出展された。

②京都画壇とフランス美術界が急速に接近したのは、京都市立絵画専門学校教員の中井宗太郎が1922年2月から1923年8月まで、教諭仲間の菊池契月、入江波光、吹田草牧らを同道して渡欧したのがきっかけ。彼らはフランスでルドンの作品を買い集めていたといい、京都画壇ではルドンが高く評価されていたことが分かる。


 当時の日本画家たちの西洋画との出会いは相当衝撃だったようですが、ちょうど印象派とか、象徴主義の時代らしく、それを日本画の技法と照らし合わせて、上手に取り入れていった様子がうかがえました。
①1889年に初めてフランスを訪れた久保田米僊が、最初に滞在したリヨンで、展覧会を見たときの様子を次のように報告している。「極めて煤色を用ゆるを以て近く之を見れど其何の形状を寫すものなるを辨せず然れども少しく歩を退けて之を見るときは暗淡の間に歴々として其物象を指すべく頗る韻致あるを覺ゆ」(p30)→この文章を読むと印象派の絵のように思われるが、著者は、ルドンの可能性があるとしている。

②淳之は、象徴空間の理解を、東洋的な余白のリアリティとして捉えているようで、次のような体験を書いている。「あけがたの水辺で、朝靄の中に静かに佇んでいる鳥がほのかに見え・・・それは水面もはっきり見えない、モヤモヤとしたいわば物理的に不可視の世界だが、これが象徴空間を理解するきっかけになったように思う」(p142)。


 また論述を進めていくなかで、いくつか美術論や美学に関する言及がありました。
象徴主義的な絵画を推し進めていたルドンは、花鳥風月を写真や映像のように視て描くということに執着した印象派を批判し、魂の神秘や幻視の世界を表現したとし、ルドンの描いた花々は、日本古来の花の図案などを彷彿させるとしている。

②詩人や画家が提示した美しさというものに教えられたことによって、実際にものを見たときに初めて美が感じられるようになるというワイルドの芸術論、絵画というものが、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、ある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であるというモーリス・ドニの絵画論、絵画が、視覚以外の聴覚、臭覚、味覚、触覚と触れあう境界、写真や映画との境界をもち、絵画の内部に自足することを許さないという「絵画の臨界」に関する稲賀繁美の理論。


 上村三代については、次のように三人の特徴を表現していました。永遠に自己を「磨く」ことに一生涯をかけ、近代美人画の新しい境地を開拓した「磨く松園」、長く教員として指導に当たりながら、ひたすら鳥を「観」察し自然を凝視した「視る松篁」、大学の指導的立場に身を置きながら自然界に身を委ね、破天荒に観るものを美の世界に「誘う淳之」。その淳之に言わせると、祖母である松園は「お花遊び」、父である松篁は「小鳥遊び」をしながら、削れるものは極限まで削り取った「美」の世界を生涯にわたって開拓したと言います。

 松園については、次のような記述がありました。
①松園が絵を学んでいた明治20年代には、歴史画、風俗画が流行していた。松園美人画の髪型には、梅棹忠夫が「歴史を可視像化する業績」と評価する江馬務の緻密な風俗研究が反映されているという。

②松園の出世作とされるのが「四季美人図」で、これは1890年の第三回内国勧業博覧会に出品され英国皇子コンノート殿下の買い上げとなった。そして1900年のパリ万博では、庶民の日常生活を描いた風俗画「母子」が銅牌を受賞した。

 松篁については、
①絵画専門学校に入学して間もないころに、指導教官の入江波光に絵を見せたところ、「あんた、こんな概念的なものの見方をしていて、どうするんです」と言われ、ショックを受け、それがずっと気になっていたが、3年後に、椿を集中的に写生しているときに、リアリティの手がかりをつかむことができ、自信が生まれたという。

②松篁の語録としては、次のような言葉が印象に残る。
ア)対象を深く見つめることによって得る美しさ、生命感というものがいちばん大事で、表現上リアリズムの形態をとるかどうかはまた別の問題。
イ)「怖さ」が霊的な威厳のようなものに変わってきたら、すぐれた美しさになるだろう。
ウ)春草の「落葉」とか大観の「柿紅葉」などには、近頃の絵にない、大らかさのようなものがある。芸術は香りがなければいけない。

③1947年、45歳のとき、松篁は「創造美術」を同志13人で旗揚げ、1951年には、小磯良平ら洋画家が結成した「新制作派協会」と合流して、「新制作協会日本画部」と改称、さらに1974年には新しい環境と純粋性を求めて新制作協会を離脱して「創画会」を創設という具合に、政府主導の既存の美術団体に反旗を翻し、在野団体としての活動を展開した。

 淳之については、
①自ら鳥を飼い、世界各地を旅して、鳥の観察を続けた人らしく、花鳥画は、花や鳥に己の心を託し得てこそ表現の媒体となってくれると、観察画でも博物画でもない独自の境地を語っている。

②背景をグレー一色でまとめるという独自の手法を編み出し、春夏秋冬に応じて微妙なグレーの色の変化をつけることにより、描かれた花で季節を表わすというより、空間全体で、季節の香りや温度、風の動きを表現した。


 これらの知識を携え、また松伯美術館に行って、ゆっくり絵を眺めてみたいと思いました。

稲垣直樹『ヴィクトル・ユゴーと降霊術』


稲垣直樹『ヴィクトル・ユゴーと降霊術』(水声社 1993年)


 前回読んだ安齋千秋『フランス・ロマン主義とエゾテリスム』のなかの「ユゴーのエゾテリスト的稟質―ジャージー島での心霊術体験」という章が面白かったので、架蔵していた関連本を読んでみました。19世紀に大流行した降霊術がどのようなものであったか、ユゴーの降霊術体験の実態、ユゴーの死生観や思想、日本における降霊術のあり方や土井晩翠におけるユゴーの影響など、さまざまなことについて知見を得ることができました。

 まず降霊術がユゴー家にやってきた経緯については、次のような記述がありました。
①降霊術は古代世界から連綿と続いているものだが、19世紀の流行のきっかけは、1848年に、アメリカ、ニューヨーク州の片田舎に引っ越してきたフォックス一家の二人の姉妹が死者の霊を呼び出したということから始まった。爆発的な流行になったのは、二人がアメリカ全土を回って興行したのに加え、霊界からの通信をモールス信号を使ってやり取りする形になったのが大きな理由である。これにより、降霊術は、ある種の客観性を備えると同時に、技術的に容易になり、いつでも、どこでも、誰でも行えるようになった。

アメリカの流行がフランスに飛び火しパリでも大流行した。ちょうどユゴーナポレオン三世の暴政に異を唱えたことに端を発して、ジャージー島に亡命していたとき、パリ社交界の華のジラルダン夫人が訪ねてきて降霊術を持ち込んだ。それをきっかけにユゴーは、1853年9月から55年10月に至るまで、約2年間降霊術の実験に没頭することになる。

 ユゴーの行なった降霊術の具体的な仕組みを説明すると、次のようなことらしい。
ダイニングルームの四角いテーブルの上に小さい丸テーブルを置き、2、3人がテーブルにつき、離れたところに記録係や傍聴者が座る。テーブルがカタコトと音を立てるその数をアルファベットに置き換えるが、1回ならa、2回がb、3回がcという具合にして文字に置き直し記録。イエスかノーか尋ねるときは、1回がイエス、2回がノーである。

 ユゴーが降霊術で、実際に呼び出した霊は、過去の歴史的人物はもちろん、現在生きている人物、さらに動物、驚くべきことに抽象的な概念、例えば、劇、墓の闇、死、文明、輪廻などまで呼び出しています。人物の名前を列挙すれば、文学者としては、ダンテ、シェークスピアラシーヌモリエールシャトーブリアンら、音楽家では、モーツァルト、哲学者では、ソクラテスプラトンアリストテレスディドロ、ルソーら。政治家では、ロベスピエール、ナポレオン、ナポレオン三世、宗教家では、イエス=キリスト、マホメット、ルター、聖書の登場人物は、カイン、アベルモーセ、ユダ。

 不思議なことに、ただ単に霊が現われて何かを喋るだけでなく、テーブルが絵を描いたり、作曲したり、詩作したりします。これはテーブルの脚に鉛筆を括りつけたり、テーブルに鍵盤を弾かせたりするそうですが、ほんとにそんなことができるのか、信じられません。例えば、シェークスピアが新作を披露したり、モーツァルトが作曲し、モリエールが詩作をしたりする。そして、劇の霊が書きとらせた戯曲が、ユゴー自作の詩ととても似ていることに、ユゴー自身が驚き、ユゴーは盗作を疑われないように、しばらく降霊術の場に姿を見せなくなったと言います。

 そしてある日、劇の霊から、例えばヒキ蛙にあって不幸を、アザミにあって絶望をというように、動物たちや花々や石たちの命を問題にするような詩を作れと勧告されます。半年後、ユゴーがその命令を受けて完成させた詩が、ユゴーの哲学詩の最高傑作と言われる「闇の口の語ったこと」ということです。

 呼び出した霊が語ったことや、ユゴーの作品を通して、伝わってくるユゴーの死生観、思想といったものは次のとおりです。
①人間以外の被造物にも魂があるというアミニズム的な考えがあること。魂を宿しているのは薔薇だけではなく、鉄にも、青銅にもあり、刑罰用の首枷や拷問具も魂をもち苦しんでいる。ジャンヌ・ダルクに同情するなら、火あぶりにした火刑台にも同情するべきだ、と。そして人間、動物、植物、鉱物という存在の序列を考え、生前の行ないの良し悪しによって、魂が序列のなかで上昇したり、下降したりする輪廻転生を考えている。

②死後の世界について、ユゴーはかなり気になっていたと見えて、いろいろな霊に質問しているが、「闇の墓」の答えは、「死者たちの肩越しに、永遠なることどもを生者の目が解読することはない」、つまり生きている者には死後の世界は分からないとそっけない。また、「死」の答えは、死後の生は、自我が身内の死者たちの自我と溶けあって一体となると、神秘主義的な内容である。

ユゴーが、ナポレオンの霊に、50年後のヨーロッパがどうなっているか尋ねたところ、ヨーロッパ全体が一つの共和政となると答えており、「文明」の霊も、将来ヨーロッパ合衆国が確立していると予言しているが、ユゴー自身も、それに先立つ1849年のパリの国際平和会議の開会の辞で、ヨーロッパの統合を主張している。また文明の霊とのやり取りのなかで、婦人と子どもの権利を守ること、宗教と聖職者を分けて考えることなど、自分の考えが正しいかどうかを問い、「そのとおり」との答えを得ている。

 しかし、不思議なことは、霊の語る思想が、ユゴーが従来から抱いている思想と酷似していること、また語り口が、ユゴーの散文や詩に見られる対句表現や並列表現そのままなことである。著者は、降霊術の語るあの世は、いやになるほど、この世とよく似ていて、人間は所詮この世からの類推でしかあの世を思い描けなのかと嘆いています。


 最後に日本での降霊術のあり方と、降霊術が土井晩翠に与えた影響について記述がありました。
①日本では、降霊術の世界的流行を受けて、明治20年(1887)ごろから、コックリさんが大流行し、井上円了が世の迷妄を払拭するために科学的研究に打ち込んだ。少し時を置いて、東京帝国大学助教授の福来友吉が本格的な心霊実験に取り組み、日本的な「念写」の実験をしたり、英文学者の浅野和三郎心霊主義を日本神道と結びつけて自論を展開し、二人ともロンドンで行われた第3回スピリチュアリスト国際会議で成果を発表した。

土井晩翠は、英語だけでなく、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語にも堪能で、ユゴーの作品もフランス語で読んでいる。晩翠の「天地有情」の万物には心があるという言葉も、「闇の口の語ったこと」の重要なテーマとなるアニミズムとつながっており、『晩鐘』所載の詩には、ユゴーの影響が感じられる。また実際に、ユゴーと同じく、降霊術の実験をしたノートの記録が残っており、蔵書には高橋五郎『心霊万能論』など当時の心霊術に関する著作が多数含まれていたという。

 巻末の参考文献には、洋書を含めたくさんの書名が並んでいますが、ユゴーの降霊術についてかなり言及していた安齋千秋の本が挙げられていないのは、出版年もこの本より先なのに、不思議です。やはり近代文藝社の出版なので、目につかなかったのでしょうか。

安齋千秋『フランス・ロマン主義とエゾテリスム』


安齋千秋『フランス・ロマン主義とエゾテリスム』(近代文藝社 1996年)


 前回読んだカトーイ『オルフィスムと予言の詩』の訳者の書いた本で、テーマに繋がりがありそうなので読みました。『オルフィスムと予言の詩』で取り上げられた7人の詩人のうち、重複していたのはロマン主義時代のユゴーとネルヴァルの2人、それ以外に、象徴主義メーテルランク、現代作家で、私は象徴主義の系譜上にあるとみているJ・グラックについて、章立てされていました。さらにそれ以外に、アレクサンドル1世の提唱になる神聖同盟の宗教的背景、フリーメイソン(この本では、フリーメイスンリー)の分派活動について、書かれていました。

 著者はいろんな参考文献を使用していますが、全体をとおしてもっとも重要だと思われるのは、A・ヴィアットの『ロマン主義の隠れた源泉』で、フランス文学とエゾテリスムをつなぐ研究の嚆矢となったもののようです。

 個々のテーマに入る前に、まず全体をとおして、エゾテリスムとは何か、エゾテリスムが流行した時代背景、エゾテリスムが求めようとしたものは何かなどについて触れている部分を紹介しますと。
①エゾテリスムというのは、理性論的進歩の思想とは対極に立つもので、原初の世界というのは、神から直接の真智を授けられていた黄金時代であり、その知識の一部が秘義という形をとって一部の人々の間に受け継がれ、密かに今日まで伝えられているとする考え方である。

②その特徴の一つは、秘義の性格にあり、秘義とは、語ることを禁ぜられたものであるだけではなく、言葉で語ることそのものが困難なものなのである。そして、エゾテリスムにおいては、言葉で伝えられた教義自体が重要ではなく、真智を伝えられるに価する者になったという自覚、生まれ変わりの自覚が肝心なのである。

ロマン主義が興隆しつつあった18世紀末から19世紀初頭は、啓蒙の時代から引き継いだ理性論的不信仰が支配したかに見える時代であったが、エゾテリスムが一方で盛んになった。その理由は、信仰の時代においては、既成教会が人々を教会の枠内に教導することによって、彼らの神秘的衝動を抑え込む形になっていたものが、その枠が外れて噴き出したということである。

④エゾテリスムの宗教的直観は、文学・芸術の分野に置き換えてみれば、ロマン主義の詩的直観に通じるものである。それはまた社会的には、フリーメイスンリーの大流行という形になって現われた。


 そのフリーメイスンリーの活動の歴史と、フリーメイスンリーにとって大きな分岐点となったヴィルヘルムスバート総会については、次のようなことが書かれていて、私のこれまで知らなかったことが多く、勉強になりました。
①イエスエッセネ派の人々に、神に関する深い知識と、至高存在と結ばれるための方法を教え、その中の七人がシリアの洞窟に隠れ棲み、秘密の知識を伝えた。その流れを汲むのが、「聖堂騎士団」の内部の組織「聖堂聖職者参事会」であった。

フリーメイスンリーは、もとは石工または建築職人の同業組合だった。それが近代的な形に変貌を遂げたのは、17世紀初頭から18世紀初頭にかけてイングランド系およびスコットランドフリーメイスンリーの登場からである。スコットランド系は、実はスコットランドではなくてフランスで発祥したものであり、「友愛」と「理性論的自然神教」をプログラムとするイギリス系に対して、オカルト的な性格をもつものであった。スコットランド系の分派として、ドイツには「厳格会」ができ、彼らは「聖堂騎士団」の再興をめざした。(他にも多数の分派が紹介されていたが、あまりに細分化され数多いので省略)。

③18世紀末から19世紀初頭にかけてのヨーロッパ・キリスト教界の一部では、既存の新旧教団各派の枠を超えて原初のキリスト教に復帰しようとする合一運動が盛んであった。彼らにとっては、フリーメイスンリーが宗派を超えて一つの場に集まれる格好の場となっていた。

フリーメイスンリーの各会派の指導者は、自派の教義に関してはオカルト的伝説を捏造しながら、他の会派には真の秘義の一部が伝えられているのではないかという疑心暗鬼に駆られた。そうしたことから、分派が集結する総会が1782年にヴィルヘルムスバートにおいて開催された。その総会は、ドイツ啓蒙派、バヴァリア啓明派など非オカルト的理性論者グループと、エゾテリックなグループとの対決の場ともなった。

 フリーメイスンリー内で、似たような教義をもつ集団が細かく分派活動をしながら、影響しあい反発しあうというこの話を読んでいて、かつての全共闘運動に見られたような集団の力学を感じさせられました。


 その他、個々の作家については次のような指摘がありました。まずネルヴァルについては、
①ネルヴァルは、狂気の発作に起因する幻覚、睡眠時の夢、神秘家たちの幻視の三つは、互いに同質であり、それらはすべて、神秘世界の啓示であるとみていた。また、彼は、「人間の精神は未だかつて真実でないものを想像したことはない」という信念、つまり想像したものには真実があるという信念を抱いていた。

②『東方旅行記』を書くきっかけとなったのは、ジュール・ジャナンが、ネルヴァルの精神病の発作に驚いて一種の追悼文を新聞に発表したことで、文学的生命を絶たれたと思ったネルヴァルが、病から立ち直ったことを世間にも自分にも納得させるために取り組んだもの。

③『東方旅行記』の作品の主要なモチーフの一つは、人類の原初の宗教体験が、東洋では未だに生き生きした形で存在していることを期待し、それを確認することであったが、結局、彼は体験からはあまり得ることがなく、発想の源を読書に求めた。

 ネルヴァルが自分の主治医だった精神科のブランシュ医師に宛てて書いた手紙を読むと、先日読んだフレデリック・トリスタン『バベルの息子』の狂人の手記と雰囲気がよく似ているので驚きました。


 次にユゴーについては、
ユゴーは、島に亡命しているあいだの2年間、心霊術に没頭し、その影響のもとに、『静観』や『サタンの終焉・神』などに含まれる数多くの詩を書いている。→面白そうなので読んでみたい。

②この心霊術とは、1847年にアメリカで生まれた「もの言うテーブル」あるいは「回転テーブル」と呼ばれる迷信的現象の流行で、動物磁気催眠術の流行の跡を継ぐものとして、ヨーロッパをも席巻した。面白いのは、ユゴー家のテーブルを通じて語られるあらゆる種類の霊の言葉は、韻文で語られる場合も散文で語られる場合も、その文体も思想も、常にユゴー自身のそれと実によく似ていたことである。

 ユゴーのこの時期のことについて詳しく書いた『ヴィクトル・ユゴーと降霊術』という本を持っているので、次に読むつもりです。


 メーテルランクについては、
メーテルランクの『青い鳥』は、「幸福は私たちの手もとにある。遠くに探すのはやめよう」という教訓的寓意劇として世間に流通しているが、「青い鳥」が「幸福」を意味することを明示したり暗示している箇所は一つもなく、しかも劇の結末において、青い鳥は子どもたちの手から逃げてどこかに飛び去ってしまう。しかもメーテルランク以前にも青い鳥を幸福と結びつける通念は存在していない。

②この作品を先入観なく綿密に読んでみれば、青い鳥は、「人間の眼には隠されている真理」、「森羅万象を律している秘められた原理」の寓意ということが分かる。すなわち『青い鳥』という童話劇は、秘義加入の寓意劇というエゾテリックな作品なのである。


 最後に、J・グラックについては、『アルゴルの城』一作品について詳細な解説を行っています。物語の構造を見事に解析していますが、短くまとめようとしても難しく、おおよその感じは次のようなものです。
①『アルゴルの城』の二人の主要人物、アルベールとエルミニアンは、友情以上の絆で結ばれており、前者が「明」、後者は闇と結びつく分身的存在として描かれている。さらにもう一人の女性の登場人物ハイデこそが「光」である。この作品は、光と影のドラマであり、光と影の対比、戯れのなかで物語を進行させている。

②エルミニアンがハイデを凌辱し、失踪後に、瀕死の重傷を負って城に帰還する。アルベールが、小川の辺で水鏡を見ていると、水底からエルミニアンがやって来るように見えた。これは、象徴としての死の世界からの出現であり、イニシエイションを表わしている。エルミニアンは、アルベールのイニシエイションの先達であり、エルミニアンに教唆されたかのように、アルベールもハイデを凌辱する。

③ハイデが自殺した後、残されたアルベールとエルミニアンだったが、物語の最後のパラグラフは、ことさらに主語に人名を明示することを避けつつ、どちらがどちらを刺したか明らかにしないままに、一方の死による両者の合一の成就が示されて、物語が集結している。

 J・グラックは、高校から大学にかけて翻訳でよく読みました。『アルゴールの城』も青柳瑞穂訳で読んでいますが、結末のところに、「!!」という書き込みがありました。よほど衝撃を受けたようです。


 やはり翻訳ではなく日本語で書かれた本は、とても読みやすい。高齢で頭も働かなくなってきているので、これからは翻訳本は極力避けるようにしたい、というのが切実な思いです。また、この本の成り立ちについて感想を述べれば、私の理解では、近代文藝社というのは、自費出版専門の出版社だと思いますが、どうしてこれだけの本を普通の出版社で出すことができなかったのか、と残念に思います。