ANDRÉ DHÔTEL『Les voyages fantastiques de JULIEN GRAINEBIS』(アンドレ・ドーテル『ジュリアン・グレヌビスの不思議な旅』)

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ANDRÉ DHÔTEL『Les voyages fantastiques de JULIEN GRAINEBIS』(PIERRE HORAY 1958年)

 アンドレ・ドーテルは、大学時代に三笠書房から出ていた『遥かなる旅路(LE PAYS OÛ L’ON N’ARRIVE JAMAIS)』を翻訳で読み好きになった作家です。それで15年ほど前に、南仏旅行の際に買った『Ce jour-là(その日)』という小説を読みましたが、夢想的な部分の少ない世俗的小説で、かつ読解力の未熟さからかよく分からないこともあり、面白くありませんでした。

 今回読んだこの物語は、『遥かなる旅路』を思い出させる(と言ってもその内容はすっかり忘れている)佳作で、不思議な力を持った少年が、戦争で離散した家族を求めて数々の冒険を繰り広げる話。4章からなり、1章ずつが独立して読める物語となっています。戦後10年ほどしての作品で、まだ戦争の傷痕の記憶が痛々しく残っている印象を受けました。

 全体に共通するのは身体にまつわる幻想がモチーフであること。最初の話では、主人公の身体が木のなかに入りこみ、足は大地に根を張り手は枝となって広がるというふうに木と同一化します。二話目では、ちょっとしたエピソードにしか過ぎませんが、主人公が鳥や猫に変身したと思わせる場面がありました。三話目では、主人公の影が本人から離れて動きまわるのが主軸となっており、最後の話では、村全体の住人たちの姿が突然見えなくなります。

 順番に印象に残ったところをご紹介しますと(ネタバレ注意)、
第一話では、何といっても木に凭れかかっているうちに、木と同一化する場面がありありと実感できて新鮮。木のなかにとどまったまま姉を探す旅に出るが、それは想像力、千里眼の旅の形をとる。まわりの樹々の話声が聞こえ、そして、姉の南洋の旅の光景やいまベルモン村に帰っている姿を幻視する。「木に閉じ込められるのと人間の身体に閉じ込められるのとどんな違いがあるのか?」(p35)という問いかけは面白い。

第二話は、叔母が留守の間にドイツ軍が攻めて来て、女中が機転を利かして財宝を埋めその場所を手紙に記した後死んだが、手紙を隠したと思われる気圧計が敵兵に持ち去られたので、それを探そうと、叔母と一緒に旅に出る話。不幸な人々を助けることによって失われた財宝が見つかるという信念のもとに、次々と人を助けながら旅をするが、艱難辛苦の末に、メーテルランクの『青い鳥』のような結末が。「僕たちが見て来たものはすべてある道を示してるんだ」(p92)という求道的で肯定的な考え方がすばらしい。彷徨小説はまた求道小説でもあったのだ。また途中紛れ込んだ村の二人の地主がやり取りする会話がとぼけていて味がある。

第三話は、兄を探す過程で、主人公の影が本人から離れていく。シャミッソーの『影を失った男』やエーヴェルスの『プラーグの大学生』に似ているが、この場合は、悪魔との契約で悲劇に陥るファウスト的な話ではなく、壁に映った影が本人の意思を代弁して活躍する話で、一種の超能力譚。相手の影に滑り込んで隠れたり相手の影を消したりして相手を操るという力を発揮するのが面白い。

第四話は、母を探す話。村人たちに魔法がかかり全員見えなくなるが、見えなかった姿が見え始める場面は、吸血鬼が粉々になって崩壊するのと逆パターンで新鮮な驚きがある。「ゆっくりと男が立ちあがる様子が見えて来た…まるで花がすくすく伸びて咲くように、杖をついた背の高い髭づらの男の姿が現われた」(p190)。

 結末部分で、「これはまだジュリアン・グレヌビスの冒険のほんの始まりに過ぎなかった」という言葉がありましたが、続編があるに違いありません。


 話は脱線しますが、『Ce jour-là』をニースの新刊書店で買ったとき、こちらは何も言わないのに、店長らしき人がこの本(あるいは作家?)はとても面白いと喋りかけてきたのが印象に残っています。別のときパリのブラッサンス広場の古本市でも、Jean Louis Bouquet『Mondes noirs』を買おうとしたら、これは凄い小説だというようなことを言われたことを思い出します。日本の本屋でそんなことを言われた試しがありませんが、向うの本屋さんには伝道師の心を持った人が居るみたいです。

タイムトラベルテーマの短篇集2冊

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フィニイ、ヤング他/中村融編『時の娘』(創元SF文庫 2009年)
P・J・ファーマー他/伊藤典夫浅倉久志編『タイム・トラベラー―時間SFコレクション』(新潮文庫 1987年)


 フィニイのタイムトラベルものをずっと読んできましたが、次はタイムトラベルの短篇集二冊。『時の娘』には、フィニイの短篇も一つ入っています。『時の娘』は「時を超えた愛」がテーマの作品9篇、『タイム・トラベラー』は、時間SFの定番を避けて実験的な試みの作品13篇を集めたもので、『時の娘』のほうが刊行年が新しい割には穏やかな作品が多いように思います。

 面白かったのは、ウィリアム・M・リーの「チャリティのことづて」、ジャック・フィニイの「台詞指導」、ロバート・F・ヤングの「時が新しかったころ」、チャールズ・L・ハーネスの「時の娘」(以上『時の娘』)。ソムトウ・スチャリトクルの「しばし天の祝福より遠ざかり」、ロバート・シルヴァーバーグの「時間層の中の針」、フリッツ・ライバーの「若くならない男」、C・J・チェリイの「カッサンドラ」、デイヴィッド・レイクの「逆行する時間」、フィリップ・ホセ・ファーマーの「わが内なる廃墟の断章」(以上『タイム・トラベラー』)といったところでしょうか。

 いろんなタイムトラベルのパターンが見られます。いちばん多かったのは過去にさかのぼる話ですが、これもいろいろあって、束の間過去に紛れ込む「台詞指導」、現在の知識を持ったまま娘時代に戻る「かえりみれば」(ウィルマー・H・シラス)、過去に遡る際記憶を抹消される「時のいたみ」(バート・K・ファイラー)、タイムマシンが登場する「時が新しかったころ」と「出会いのとき巡りきて」(C・L・ムーア)(以上『時の娘」)。

 過去に遡って現在を修正することが日常茶飯事になった混乱を描いた「時間層の中の針」、過去を修正しても並行世界の分岐があるから現在には影響ないと無茶苦茶する「ミラーグラスのモーツァルト」(B・スターリング&L・シャイナー)、自分の生涯の30年ぐらいのあいだを順不同に生きる「ここがウィネトカなら君はジュディ」(F・M・バズビイ)(以上『タイム・トラベラー』)。

 もう一つ多かったのは時間が逆向きに進む話で、『時の娘』では、「むかしをいまに」(デーモン・ナイト)、『タイム・トラベラー』では、「若くならない男」、「逆行する時間」、「太古の殻にくるまれて」(R・A・ラファティ)、「わが内なる廃墟の断章」。例えば、「むかしをいまに」では、「唇にくわえた薄色のハバナ葉巻は、長さ1インチもの滑らかな灰の後ろからじわじわと伸び、やがてすっかり成長が終わると、彼はそこから炎をとりのぞいて、銀のナイフで蓋をかぶせ、大切に葉巻入れへしまいこむのだ」(p53)といった具合。しかし、喋り言葉の発音が逆回りにはなっていないのは一貫性がない。

 それと、時間がループする話も、「しばし天の祝福より遠ざかり」と「時間の罠」(チャールズ・L・ハーネス)の二つがありました(ともに『タイム・トラベラー』)。前者は高度な宇宙人から一日を何百万年繰り返すように仕掛けられる話で、詩には反復が技法としてよくあるが、散文ではなかなか見られないので面白い。後者は、30年後の自分が戻ってきてドツボにはまることが繰り返され、何とかそのループから逃れようとするが、戻ったときはすっかり忘れてしまっているという悲劇。

 未来に関係した話は、愛する女性を冷凍にして病気の治療法が確立している未来に送り込もうとする「遥かなる賭け」(チャールズ・シェフィールド)、廃墟を幻視するので狂人と思われているが実は未来を予知していた女性が主人公の「カッサンドラ」の2篇(ともに『タイム・トラベラー』)。

 変わったところでは、別の時代の二人が意思疎通する「チャリティのことづて」、母と娘とその子の3人がすべて同一人物という「時の娘」、3世代が同じ時空に混在するハチャメチャ小説「インキーに侘びる」(R・M・グリーン・ジュニア)(以上『時の娘』)。時間と空間を自由に選んで映像として見ることができる装置を開発して世の中が変になる「アイ・シー・ユー」(デーモン・ナイト)、架空の過去をみんなで努力して現在の空間のなかに作りあげる「バビロンの記憶」(イアン・ワトスン)(以上、『タイム・トラベラー』)。

 この二冊に共通して言えるのは、SFというジャンルを意識して書かれたため、科学的な説明をしようとして、物理や化学の用語が出てくる作品がいくつか見られたこと。そういう言葉や説明が出てくると、妙に胡散臭い印象を受けてしまいます。また、言葉が軽く、とげとげしく、不自然さが目立つものもありました。骨組みしかなく血肉がないと言えばいいでしょうか。私のように、物語のふくよかさや、物語をもう一つの別の現実としてそのなかに没入する楽しみを求めている者にとっては残念なことです。

ジャック・フィニイの2冊

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ジャック・フィニイ山田順子訳『夢の10セント銀貨』(ハヤカワ文庫 1990年)
ジャック・フィニイ福島正実訳『マリオンの壁』(角川書店 1975年)


 引き続きフィニイを2冊読んでみました。いずれもタイムトラベルを扱った長編ですが、『夢の10セント銀貨』は多元世界を行ったり来たりする話、『マリオンの壁』は過去からの来訪者がテーマです。この2冊はかなりテイストが異なっていて、どちらかというと後者の方が好き。


 『夢の10セント銀貨』は、気の利いたウィットに溢れた文章で楽しませてくれますが、スラップスティック的で、真摯さには欠ける印象。ハヤカワのファンタジーシリーズなので、ほんのりとした抒情的な世界を期待していましたが、少し当てが外れた感じです。

 ここからネタバレになりますが、内容に触れないと感想の書きようもないのでお許しを。
古銭の10セント銀貨を使って新聞スタンドで新聞を買うと、同じ日付ではあるがずっと前に廃刊になっている新聞を手にしており、あるはずのビルが消えていて、少しずつ何かが違う並行世界に入ってしまっているのに気づく。そこでは自分が以前別れた恋人と結婚していて、会社では部長になり、部長だった男が部下になっている、といった展開。

初めは恋人との関係も新鮮だったが飽きて来たうえに、元の妻が自分の旧知の男と結婚しそうになるのを見て、阻止しようとするがうまく行かず、また新しい10セント硬貨で新聞を買って慌てて元の世界に戻る。がそこはまた別の並行世界で、すでに妻とは離婚していて、妻には新しい婚約者(髪の色は違っているが前の並行世界の旧知の男だ)がいる。主人公は元妻への愛に目覚めて、何とか結婚を諦めさせようと画策する、という話です。

 話を面白くしようとして、状況設定にかなり無理をしたところがあり、また最後の方で、主人公が犬のぬいぐるみを着て、犬に成りすまして大金を奪おうとし、うまく行かずに、プールの中でぬいぐるみを着たまま乱闘するのは、まともには考えられないことで、著者はそれを承知のうえで、ドタバタの面白さを優先させたという印象があります。


 『マリオンの壁』は、過去から時空を超えて、自動車事故で死んだはずの女優が復活してくるという話で、タイムスリップ的要素はありますが、その女優は現在の女性に憑依するので、憑依された女性の二重人格小説としても読めます。

 この小説の最大の特徴は、アメリカの古い映画に対する愛情が溢れているところで、これまでのフィニイの作品に現われていた古い時代の事物、例えば、骨董品や古切手、クラシックカー、初期の飛行機乗り、ヴォードヴィルショー、タイタニックなどに対する偏愛と同様、フィニイの古い映画へのオマージュであることです。昔の俳優、映画の名場面が事細かに続々と出てきます。そういう意味では、映画にあまり詳しくなく、ましてやサイレント時代の古い映画はほとんど知らない私の場合、この小説の持つ本来の面白みが心から味わえなかったのが残念。

 映画へのオマージュという点では、最後にフィルムが焼けて火事になり、貴重なフィルムがすべて焼失してしまうというあたり、やはり映画へのオマージュ作品である映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)によく似たところがあります。『マリオンの壁』の原作は1973年。原作をもとにした映画は1985年に封切られていますから十分考えられることではないでしょうか。

GÉRARD PRÉVOT『L’INVITÉE DE LORELEI』(ジェラール・プレヴォ『ローレライからの招待』)

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GÉRARD PRÉVOT『L’INVITÉE DE LORELEI』(FLEUVE NOIR 1999年)


 プレヴォの長篇3つ、短篇23、それに日記断片が収められている総ページ数635の大部の本。このうち短篇の19は『LE SPECTRE LARGE(大きい幽霊)』(2015年11月19日記事)で読んでいたので省略。それでも485ページはあったので、くたびれてしまいました。

 ジャン=バティスト・バロニアンがプレヴォとの出会いや編集作業について語った序文と、「Pas de fantômes sans fumée(煙のないところに幽霊はおらぬ)」に付された編集部の序文があり、ともに有益な情報が得られました。

 バロニアンの序文は、プレヴォとの出会いと晩年の作家との5年間の交流を語っており、20歳も年長の作家と旧知の友人のように打ち解け、冗談を言い合ったりしている様子が面白く、愛情のこもったものです。バロニアンは、Jacques Van Herp、Henri Verneの後を継いで、幻想小説の老舗として名高いマラブ社の編集主幹となり、ジャン・レイ賞を創設したのもバロニアンだったとのこと。

 また、「Pas de fantômes sans fumée」に付けられた序文は、1950年前後フランスでアメリカハードボイルド小説が大流行した様子を語っており、あまりの人気ぶりに、アメリカ小説からの翻訳と偽って、フランス人がアメリカ風のペンネームを使って、類似のハードボイルド小説を濫作したことが書かれていました。この「Pas de fantômes sans fumée」も、プレヴォがDiego Michigan名義で書いたものですが、そのディエゴ・ミシガン名義はいろんな作家がたらいまわし的に使って、全部で21作あるということです。

 長編3作のなかでは、「La Fouille(荷物検査)」がもっとも幻想小説風で、次に「L’Invitée de Lorelei」が半ばミステリー的。「Pas de fantômes sans fumée」は、「La Fouille」と同一人物が書いたとはとても思えないハチャメチャぶりです。

 「La Fouille」は、悪夢のような世界を彷徨する小説。プレヴォユダヤ人かどうかは知りませんが、第二次世界大戦で辛い目に遭ったのかと思わせるほど、強大な権力に監視され、迫害される様子が描かれています。途中で視点が変わったり、主人公のメタフィクション的な独白が挿入されるなど、プレヴォにすれば実験小説的な試みをしようとしたと思われますが、若干若書きの感があり読みにくい。評価は大きく割れるでしょうが、私はこの茫洋とした雰囲気が好きです。

 「Lorelei」は、大衆小説的な面白さがあり、文章はいたって平明、一読でだいたい理解できました。途中で、三人称から登場人物の一人称で語る文章になったり、別の登場人物の目線になったり、また三人称に戻ったりと、飽きさせない工夫がありました。前半は、謎が深まりスリルが増して、どんどん話に引き込まれましたが、途中から幽霊が現われるなど荒唐無稽な感じになり、また粗雑な展開になってしまいました。

 日記断片のなかで印象深かったのは、幻想小説が散文ジャンルのなかでは詩と同一の位置を占めると喝破した部分、文章を書くにはふたつの眼以外の眼をもって見なければならないと説く部分。

 では、恒例により、各篇の紹介を(ネタバレ注意)。  
〇L’Invitée de Lorelei
代々伝わる魔術と儀式を守り続けている一族。次々と美女を誑かしてはデンマークの誰も寄りつかない砂漠の館に連れ込んで、湖に捧げていた。新しい生贄として連れて来られた女性はいったん救出され、一族の頭も焼け死に館も燃えるが、魔力の力は強く、女性も、女性の失踪を追求しようとした友人の男も、彼に協力した女性も、犯人を捕らえようとした元警察官も、次々に葬られ、最後は一族の孫が登場して魔術の伝統が高らかに復活する。荒涼とした北方の風光のうちに展開する希望も何もない陰々滅滅な話。

〇La Fouille
どこへ行くかも分からない列車に延々と乗りつづけ、地の果ての国境の荷物検査で、4人の男から尋問を受け、殺人事件の犯人に仕立て上げられそうになる。他の乗客たちは仮面を被っていて自分の顔は鏡で見ると別人になっている。ようやく生まれ故郷と思われるアルグという町で下ろされ、友人の家に招かれたりするが、カジノに入ったところで、また4人の男に取り囲まれ、結局銃殺される。その後アルグの町は崩壊し海の中に没していく。列車というのがあの世へ行く列車で、アルグの町は黄泉の国を暗示しているのではないだろうか。物語は、列車の乗客である男の視点、アルグの町の税関吏である男の視点、ふたたび列車からアルグの駅に降り立った男の視点、そして最後に年代記作者の視点と移りかわる。

Pas de fantômes sans fumée
両親がなく富豪の祖父に育てられた女性を恋人に持つ主人公のルポライター。恋人の祖父が亡くなり二人で葬儀に出向くが、遺産は20年ほど音沙汰のなかった従兄弟が全部相続することになった。恋人はその従兄弟がまるで別人みたいになっていると言う。調べようとした矢先に恋人が連れ去られてしまう。従兄弟は収容所で死んでいて別人が成りすまし、その男が属する武器密輸団の謀略であったことが分かり、主人公は記者仲間や警察の協力のもと、一味を追い詰めていく。ロンドン、イギリスの地方、ブリュッセル、ベルギーの片田舎、パリを行ったり来たりしながら、物語は目まぐるしく展開する。タイトルは犯人たちがオリジナルの煙草を製造していて、幽霊屋敷と恐れられている場所に密輸の武器を隠していたところから来ている。

 以下は短篇。
〇La Taverne des Etangs(池畔亭)
生活から逃げ出したいと思い始めた50歳の男に突然不幸が山をなして襲って来る。息子が戦死し、妻は男と逃げ、会社は首になり、大家からは出て行けと。池畔亭という宿で、何か起こりそうな予感を抱きながらも身を落ち着けていると、20年ぶりの旧友とばったり出会う。彼の家に一泊することになったが、深夜その娘がやってきて、娘の部屋に連れて行かれる。そこには女が男を殺す場面が描かれた絵がたくさんあり、男の顔は全部自分の顔だった。振り返ると…。彼の運命は定められていたのだった。

Le Dé noir de Nora(ノラの黒い指ぬき)
多くの男を虜にしたあと次々と死へと導くノラ。ノラの恋人だった友人から、死の間際、彼女への復讐を依頼され、黒い指ぬきに注意するよう言われた。その私もノラに恋し、順番で、指ぬきの魔力で死に至らしめられる。幽霊となった私は、再びノラの館に戻るが…。

〇La Louve de la rue Vaneau(ヴァヌー通りの雌狼)
飲み屋で知り合った友人の12歳の甥がパリへきて、3人で幸せな時間を過ごしていた。家の近所で子どもの失踪事件が頻発し、親元へ帰そうとした前の晩、わずかな隙にその子も行方不明になってしまう。推理を働かした主人公がある場所に踏み込むと、狼の顔をした裸女が…。袋を担いだ鳥屋の姿が不気味。パリの通りの名前がたくさん出て来て楽しい。

Le Balustre ostendais(オステンドの手すり)
オステンドの海に面した宿に住み着いていた幽霊。その宿にバカンスにやって来た若い女性に幽霊が恋をした。秋になって彼女が出て行くと知った最後の夜にはベッドで添い寝し、出発の日も妨害工作をするが虚しく、彼女は列車に乗って去って行った。嘆息する幽霊。が、実は彼女もミュンヘンの墓から出てきた幽霊だったのだ。フレデリック・トリスタンが、若いころダニエル・サレラというペンネームで詩を書いていたことを知った。

年末報告―たにまち月いち古書即売会ほか

 年末に近くなると、なぜか本が買いたくなってきます。歳も考えて辛抱しようとするんですが、なかなか思うようにはいきません。

 先週、たにまち月いち古書即売会の初日の日に、たまたま甲子園で呑み会があったので、途中下車して立ち寄りました。下記4冊を購入。
前澤政雄『歌はれた蟲』(嵩山房、大正12年4月、500円)→虫が出てくる俳句が紹介されている。虫の数は60ほどもある。
イタロ・カルヴィーノ脇功訳『冬の夜ひとりの旅人が』(松籟社、81年12月、1000円)→以上2冊、矢野書房
西池冬扇『「非情」の俳句―俳句表出論における「イメージ」と「意味」』(ウエップ、16年10月、200円)→著者についてはまったく知らないが、名句の評釈があったので。出品者は覚えておらず。
柳田國男『なぞとことわざ』(講談社学術文庫、昭和51年12月、150円)→W買い。杉本梁江堂
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 オークションでは。
西條八十詩集『美しき喪失』(神谷書店、昭和4年8月、1100円)→第三詩集。なかなかしっかりした装幀。澤令花という人。
後藤信幸訳『シュペルヴィエル詩集 帆船のように』(国文社、昭和60年7月、310円)→初期の詩集。訳が優しい。
江島康子『世紀末のキリスト』(国書刊行会、02年11月、770円)→ロマン主義から世紀末デカダンにかけての文学に現われたキリスト像について書かれている。ユゴー、サンド、エルンスト・エロ、レオン・ブロワユイスマンスヴェルレーヌなど。
魯迅/増田渉訳『鑄劍』(ゆまにて、昭和50年3月、312円)
灣の会編『「灣」詩集―和田徹三追悼』(沖積舎、平成11年12月、240円)→星野徹、鈴木漠、田中清光らが追悼文を寄せている。
ジャック・フィニイ山田順子訳『夢の10セント銀貨』(ハヤカワ文庫、90年11月、220円)→昔持っていたが見当たらないので。
犬飼公之『影の古代』(桜楓社、平成3年10月、838円)→「影」を軸に古代日本文学を論じている。
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 アマゾン古書の部では、大部の本ばかり。
蔵持不三也/永澤峻/松枝到編『神話・象徴・イメージ』(原書房、03年3月、524円)→前田耕作の同僚、教え子ら13名の論文集。本が歪んでるとのことで割引してもらった。
大和岩雄『神々の考古学』(大和書房、98年2月、1173円)→古代に関するテーマを網羅している。
玉井暲/新野緑共編『〈異界〉を創造する―英米文学におけるジャンルの変奏』(英宝社、06年11月、389円)
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 今日はこれから、古本仲間の忘年会を兼ねて、今年最後の古本市に行ってきます。結果はまた来年1月の報告をお楽しみに。 

フィニイ『時の旅人』

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ジャック・フィニイ浅倉久志訳『時の旅人』(角川書店 1996年)


 『ふりだしに戻る』の続編ということなので、続けて読みました。この本も文庫にすれば上下二冊になるほどの分量で、読みごたえがありました。続編と言っても、『ふりだしに戻る』から25年もの時を距てて刊行されたもので、その年にフィニイが亡くなったので、遺作となったということです。

 登場人物も共通ですが、前作ではあまり目立たない存在だった人物が、重要な役割をしたり意外な再登場の仕方をします。前作の最後の場面でも、伏線がかなり前のページに仕掛けられていて、どこだったかと慌てて探したりしましたが、今回も、前作での記述が伏線となって、いろんな展開がなされています。何か書いてあったような気がしても忘れてしまっているので、確かめるのに時間がかかりました。続けて読んでいてもこれだから、25年も間を置いて読めば、伏線などはきれいさっぱり分からないことでしょう。

 (ここから少しネタバレ)前作の最後で、過去に戻ってダジンガー博士の両親を結婚させずにし、博士をこの世に生まれさせないようにして、タイムトラベルで歴史を改変することを無事阻止することができました。これでめでたしだったのですが、続編では、あっさりとそれが未来から送り込まれた人物によって妨害されてしまいます。せっかく落着した物語が前作タイトルどおりに、ふりだしに戻ってしまうのです。そこで主人公がすぐ諦めてしまうのは、両親に子どもを産ませないチャンスは他にもまだいくらでもあるはずなのに、不思議なことです。

 本作では、歴史の改変には手を出さないと固く誓っていた主人公が、これも不思議なことに、息子が第一次世界大戦で死ぬことを知った途端に、第一次世界大戦を起こさせないようにするというのが、ストーリーの主軸となります。で、その舞台が、1912年のニューヨークと1911年のアイルランドに設定されています。

 この作品でも、前作と同様、1910年代初頭についての細かな情報が網羅されています。エピソードとして、当時の気球遊覧や水上飛行機の話となって実在していた美人女性飛行士が登場したり、当時アメリカ全土で2000ぐらいの小屋があったというヴォードヴィルショーの世界や、タイタニック号の造船所や処女航海の様子などが描かれています。最後のエピソードはストーリーに不可欠のものですが、それ以外は詳細は不要なものでやや脱線の印象があります。フィニイが自分の愛好する世界を披露したかったということでしょうか。ハリエット・クィンビーという女性飛行士のことをネットで調べると、たしかに美人で、その後遊覧中に事故で死んだことを知って暗澹としました。

 ヴォードヴィルショーに出演している12歳の自分の父親を見つめるくだりは、この物語の後半の頂点ともなる部分で感動的ですが、そのとき、自分の息子も同じ時代に生きていて30歳ぐらいのはずです。父親と息子がもし出会う場面があれば、爺さんが孫よりも若いという妙ちきりんな現象が付け加わることになったでしょう。

 本作が前作と決定的に違っているところは、過去の世に降り立った時の臨場感、息遣い、シズル感が失われていることです。時代を飛び越えて移動する場面が何度も出てくること、しかも主人公一人だけでなく、いろんな人間が自由に行き来するようになっているので、新鮮味が薄らいでしまったのは残念です。これは連作ものにつきまとう陥穽なのかもしれません。

 掲載されている1910年代のニューヨークの写真を見て、道を歩いている人々がまだ盛装をしているのに驚きました。現代の人々がいかにだらけた格好をしているかが分かります。この時代、家の外は峻厳たる公の空間とみなされていて一種の緊張感があったのだと思います。今は公の空間と自分の家の中との区別がなくなったということでしょう。だから電車の中でお化粧をする女性も出てきたわけです。 

ジャック・フィニイ『ふりだしに戻る』

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ジャック・フィニイ福島正実訳『ふりだしに戻る(上)・(下)』(角川文庫 1991年)


 時間旅行をテーマにしたフィニイの長編を読んでみました。あとがきで訳者も書いているように、『ゲイルズバーグの春を愛す』などの短篇のテイストがあり、それを目いっぱい拡大し読者を堪能させようとこの作品を書いたと思われます。久しぶりに巻を措く能わずの境地に引き込まれました。

 その魅力をもたらしているいくつかの特徴がありました。
①文章の喚起力の力強さ。とくに時空を超えて新しい世界に一歩足を踏み入れたときの、息遣いが感じられるほどの現実感が凄い。1882年のニューヨークへ3回(とくに最初と2回目)移動した主人公が見た世界と、逆に1882年の女性が現代へ入りこんだときの驚きの世界。普通の小説空間ではこんなにリアルには感じられないが、どうしてだろう。フィニイが本当に描きたかったのはこのシズル感ではないか。

②レニエの過去への偏愛と異なるのは、レニエの場合は、過去の栄華が古び凋落していく姿を愛するのに対して、フィニイの場合は、過去の生き生きとした現実感を求めているところ。古書に対する感覚を例に取れば、レニエが愛でるのは一般の古書愛好家と同様に古色を帯びた古書だが、フィニイの主人公は、出版された当時の新刊のきれいな古書に驚嘆するのである。

③物語を本当らしくみせるために、ニューヨークの当時の姿を図書館などで克明に調べており、ホテルや劇場、公園、郵便局などの地図上の正確な位置はもとより、建物の看板や中に入っている事務所、当時の人物や事件を再現し、新聞記事なども織り交ぜながら報告している。

④その一環として、小説の中に、写真やスケッチを挿入しているのは、実験小説的な面白い試み。単なる奇抜さを装っているのではなく、物語のなかでの必然性があり不自然さは感じさせないようになっている。逆に写真を見つけてからそれを物語のストーリーの中へ反映させたということだろう。

⑤タイムトラベルものは、器械の中に入って移動するというイメージがあったが、この作品では、過去の事物に取り巻かれる環境を作り、しゃべり方や当時の話題など行く先の時代の疑似体験を積み重ね、時代を全身で感じる想像力を訓練したうえで、最終的に自己催眠をかけてその時代に居ると信じることで移動するところが面白い。


 時間旅行や歴史に関するフィニイの考え方がところどころ表明されていました。
①われわれはふつう、過去は過ぎ去ったもの、未来はまだ起こってないもので、現在のみが実在すると思っているが、過去は実在する。1894年の夏はいまでも存在するのだ。今年やってくる夏とまったく同じように存在する(上巻p87、104)。

②過去から伝わってきたものは、博物館の展示に代表されるように古びているということが特徴で、遺物と感じさせるが、実際は生きていた人間がそれを使っていてピカピカしたもののはずだ(上巻p132)。

③過去への干渉は未来に影響を及ぼすので、タイムトラベルものでは禁止事項としてあげられている。未来の人間が簡単に過去を修正することには反対だが、しかし、現在においても、ある決断をするということは未来に対して大きく影響を及ぼすことであり、人間はすべて一生のあらゆる瞬間において、そういう選択をしてきたのである(下巻p96)。


 私の理解の足りなさからか、変な感じを受けたり、綻びと思えるような箇所がいくつかありました。小説なので細かな詮索はナンセンスだと思いますが、小説本来の面白さを損なうことはないと思うので、書いてみます。
①何年かの間であればまだ分かるが、どうしてある決められた正確な日時の過去に戻ることができるのか。また現在において過去の当時の姿がそのまま残っている場所が過去へ通じる道となるということだが、場所は同じと言っても、実は微妙に古びていて、同じではないのだ。

②物語の最後の方になって、突然、プロジェクトリーダーたちが豹変するのが不自然。どうしてそれまで慎重に事を運んでいて、好意的な描かれ方をしていたのに、急に悪人のようになってしまうのか。

③どうして自己催眠などの訓練もまともに受けていない1882年の女性ジュリアが、しかも発作的に、事前に考えられた場所でもない所からやすやすと過去に戻れたのかも不自然。

④未来が過去に及ぼす影響のところで、ウィルスのことがまったく考慮されていないのに驚く。コロナ禍で地理的な検疫が必要なことがより鮮明になったが、それ以上に時間的な検疫が重要だと思う。その時代になかったウィルスを持ち込んで感染症の大流行を招くことになる。


 二つのビルがまたたく間に火災で崩れ落ちる場面は、9.11のワールドトレードセンター崩壊の縮小版を思わせるところがありました。