若松英輔の二冊

  
若松英輔『悲しみの秘義』(文春文庫 2023年)
若松英輔『生きる哲学』(文春新書 2016年)


 堀江敏幸の後は若松英輔を少し読んでみます。この二人は、文章の風合いも書いている内容も異なりますが、私のなかではなぜか同じグループのように感じています。二人とも、大学でフランス文学を学んでいて、しかもその大学が早稲田と慶応という仏文の伝統ある両校であること、生まれも近いこと(1964年と1968年)、片や岐阜、片や新潟と地方出身者であること、などがそう思ってしまう理由かもしれません。

 しかし読めばすぐ分かりますが、両者の違いは、堀江のほうがフランス文学の王道に近いところを歩んでいるのに対し、若松英輔はフランス文学からは距離を置いた文芸批評家であり、また実業家でもあり、宗教家でもあるというところです。若松英輔の書籍を読むのは今回が初めてですが、これまで教育テレビの「こころの時代」に出演してるのを見たり、「中央公論」のインタビュー記事を読んだりして、共感していました。

 『悲しみの秘義』が詩人でない人の詩を扱っているとするなら、『生きる哲学』は、哲学者でない人の哲学を扱っているといえるでしょう。この二冊は、とくに宗教家としての一面が濃厚に出ています。奥様を亡くした後に書かれたものなので、全体に死についての考察や死者への鎮魂の思いが感じられるのがその理由です。同じく妻を亡くした堀辰雄原民喜、上原專祿、C・S・ルイス、また妹を亡くした宮沢賢治柳宗悦、夫を亡くした須賀敦子が取り上げられ、師である井上洋治神父への追悼や、万葉集の挽歌、古今和歌集の哀傷歌に関する文章があり、それ以外にも、原爆の災禍、ハンセン病水俣病に直面した原民喜北条民雄石牟礼道子らについて語っています。

 いくつか両書に共通する考え方感じ方があるように思えましたので、私なりの考えを交えて、それを抽出してみます(いろんな人の引用がまじっていますが出典は略)。
①ひとつは、すべてはその人の心に内在しているという思想:知るべきことはすでに私たちの内に存在しており、何かが分かったというとき、それはその人の内に宿っていたものが明るみになるということである。他者の詩を読むことによって自己の内心の奥深く潜むものを知ることがあるが、そもそも初めから本能的に自分に近い言葉を他人の詩の中に見出そうとしているのである。これは、彫刻家が、石に像を刻むのではなく石にあらかじめ存在している像を彫り出そうとする姿勢と共通するものがある。

②外部からの声を聞くことで目覚めさせられるということ:外部の言葉であっても書き写すことによって自らの言葉へと変じていくことがある。また外部からの声に気づかずまたその意味が理解できずに沈黙にしか見えない場合もある。経験に意味が潜んでいたとしても、それが認識されるには時間の経過が必要だからである。犬笛の音が人間の耳には聞こえないように、現代人が容易に認識できない感情があったとしても不思議はない。美を感じとるには、その場の一回性が重要で、我々の内なる光と共鳴するタイミングが重要ということだろう。

③われわれが呼びかけるのではなく、われわれが呼びかけられるのだということ:人麻呂は歌人である前に祭司であり、語る人である前に何ものかが託そうとする言葉を聴く者だった。花は人の呼びかけに応えるのではなく人に呼びかけている。生きることは、世界を変えようと願うことではなく、世界からの語りかけに耳を傾けることである。また悲痛とは、しばらく立ち止まって時間によって癒されるがよい、という人生からの促しなのかもしれない。

④人生の実質というものを大切にしていること:人格というものは絶対的に個的なものであり、固有の意味を持っているものである。人は二つの道を同時に考えることができても、同時に歩むことはできない。またある仕事について知るということと、ある仕事を生きるということは大きく異なる。その仕事の労苦を身をもって感じている者だけが、そこに潜んでいる喜びを見出すことができるのだ。人間を上から眺めている人は、よく見えるかもしれないが、自分が同じ人間であることを忘れてしまっている。

⑤哲学は叡知を愛すること、宗教は求道であり、ともに動くもの生成するものとして捉えなければならないこと:ソクラテスの哲学は真理を言い当てることではなかった。それゆえ生涯を通じて何ら結論を言い残さなかった。情報過多の時代にあって情報に心を占領された者は結論のみを求め考えることを止めてしまっているが、考えるとは、情報の奥にあるものを見極めようとする営為である。宗教も、建物や教義、あるいは教団といった固定化されたものではなく、超越を求めるような働きを意味するものである。

 最後に、色、光、風、自然に関する美しい考察がありましたので、それを紹介しておきます。
『悲しみの秘義』では、

色は、象徴の手段として用いられただけではない。色にはもともと、魂を守護する働きがあると信じられた/p190

『生きる哲学』では、

眼を閉じ、耳を開いて傾聴してみるがよい。いともかすかな気息から荒々しい騒音にいたるまで・・・そこで語っているのは自然そのものである。自然はこのようにその存在、その力、その生命、その諸関係を啓示しているので、無限の可視的世界を拒まれている盲人も、聴覚の世界の中に無限の生命あるものを捉えることができるのである(ゲーテ『色彩論』)/p95

無色は自然界には存在しない。凝視すれば水にさえ色を見ることができる/p102

色とは、彼方の世界からの光が、この世界に顕現したものである(ゲーテ)/p103

緑・・・を植物から引き出し、糸に染め出すことはできない。緑だけでなく、肉眼で植物に見られる色は染め出すことが難しい。桜色は桜の花びらからではなく、花が咲く前の枝や樹皮から生まれる(志村ふくみ)/p107

黄色の染料の元になる植物は皆、燦々と太陽の光を浴びて育った植物である。志村は黄色を「光に最も近い」色だと書いている・・・「黄色の糸を藍甕につける。闇と光の混合である。そして輝くばかりの美しい緑を得るのである」(志村ふくみ『ちよう、はたり』)/p108

人は、常に今にしか生きることができない。やわらかな風は、どこまでも今を愛せと告げる。語るのは自然であり、聴くのが人間であるという公理を、風は幾度となく示そうとする/p121