堀江敏幸『回送電車』(中公文庫 2008年)
堀江敏幸『一階でも二階でもない夜―回送電車Ⅱ』(中公文庫 2009年)
堀江敏幸は、この「回送電車」をシリーズ化していて、現在Ⅵまで出版されているようです。『回送電車』の冒頭に、「回送電車主義宣言」というのがあり、その趣旨を次のように説明しています。回送電車というのは、踏切で待っている通行人をあざ笑うかのように通り過ぎてますますイライラを募らせる存在で、特急でも各停でもなく役立たずな一方で業務上必要という中途半端で居候的な性格があり、これは自分の評論や小説、エッセイを横断する散文の性格に近いもので好感を持っていると。これは一種の偏屈の美学と言ってもいいものではないでしょうか。
偏屈の美学は、テーマとして取り上げるものに表われています。臍麺麭の捩ぢれたのであったり(「贅沢について」)、他の動物との類似を否定することでしか自己を表現できない四不像という動物(「引用について」)、季節に関係のない里程標としての誕生日(「誕生日について」)、上でも下でもないどっちつかずの踊り場(「梗概について」)、あまり見向きもされないトラクター(「三行広告について」)、鶉でも鶏でもないちゃぼ(「さびしさについて」)、二輪にリヤカーをつけたものでもなく四輪の安定感も拒否する三輪自動車(「引っ越しについて」)。
偏屈の美学へのこだわりはあくまでも心構えのようなものであって、実際には、雑誌や新聞へその都度寄稿した随筆を集めたものですから、いろんなタイプのものが混在しています。それを何か私にはよく分からない基準に従って両冊とも4章に分類して掲載しています。かろうじて推測できるのは、『回送電車』の場合は、4章に分かれたうちの「Ⅰ」が上記の回送電車の趣旨に見合ったエッセイをまとめたもので、「Ⅳ」は身辺の小物について書かれていて題名がカタカナ語でほぼ統一されているということかもしれません。『一階でも二階でもない夜』では、「Ⅱ」が作家についてのエッセイ、「Ⅳ」が身辺雑記といった分類でしょうか。
基本は、生活や読書を通じて体験したことをもとに綴っていますが、それを私のほうで無理やり仕分けすると、フランス文学者らしくフランスの文学芸術に触れたもの、さらに広げて海外や国内の文学に触れたもの、小学校から中学校にかけての読書体験、フランス滞在中の生活に題材をとったもの、国内の地域に関するもの、道具や食べ物などの消費財やスポーツに関するものなど、種々雑多です。
近松秋江、和田芳恵、山口哲夫、神西清、山川方夫、吉江喬松、八木義徳など、日本のマイナー作家をよく読んでいて教えられることが多いこと。また、身辺雑記で面白いのは時代の風潮が味わえることで、Eメールが登場したばかりの頃の懐かしい話題がちらほらとあったりします。こうした話題の豊富さや、二人の会話体で綴られた「あの彼らの声が…」のように才気走った筆遣いは、随筆の名手と言われた辰野隆の現代版といったところでしょうか。
全体的な印象としては、魂に触れるような切実な文章と、身辺雑記を洒落た感覚で味付けした軽い読み物とが、混在しているように思われます。私の感覚が古いのかもしれませんが、身辺雑記のなかの消費財に関するものは、ひと頃の都会派雑誌が称揚したような物質文化に汚染されている気がしてあまり歓迎できません。
なかで私がとくに惹かれたのは、『一階でも二階でもない夜』に含まれたエッセイで、フランシス・ジャムがアルベール・サマンの死を悼む詩を取りあげた「此処に井戸水と葡萄酒があるよ」、須賀敦子、宇佐見英治のそれぞれの文章へのオマージュとともに、束の間の交流を語る「断ち切られた夢」と「存在の明るみに向かって」。いずれも私の好きな文人に関わるエッセイです。他に早稲田の古本街の思い出を語った「古書店は騾馬に乗って」、ハードボイルドな味わいのある「順送りにもたせて生かしときたい火」、初期の作品『郊外へ』に連なる「跨線橋のある駅舎」。