森於菟と上林暁の随筆集

  
森於菟(池内紀解説)『耄碌寸前』(みすず書房 2011年)
上林暁/山本善行編『文と本と旅と―上林暁精選随筆集』(中公文庫 2022年)


 この二人は、森於菟が1890年生まれ、上林暁が1902年で、年も少し離れていますし、仕事の畑もまったく違って、何の関係もありません。ただ入院中の気楽な読み物ということで、たまたま手に取ったものです。この後読んだ篠田一士松浦寿輝の才気煥発風で尖った文章に比べると、ともに脱力系の純朴で穏やかな筆致が共通していると言えるでしょうか。


 森於菟はご存じのとおり、森鴎外の長男で、解剖学がご専門の医学の先生。なので、この本の半分ぐらいは、「なきがら陳情」「死体置場への招待」「解剖随筆抄」など、死体の話や、解剖などの話、あとは「観潮楼始末記」「鴎外の健康と死」の父森鴎外の思い出の2篇と、「耄碌寸前」「抽籤」などの身辺雑記・回想となっています。森鴎外に関するものは、真面目な筆致ですが、それ以外は、軽妙でとぼけた味わいがあります。

 とりわけ、「耄碌寸前」は抜群に面白い。「私は自分でも自分が耄碌しかかっていることがよくわかる」(p2)と書き出し、「これからの私は家族の者にめいわくをかけないように、自分の排泄機能をとりしまるのがせい一杯であるらしい」(p3)とか、「若くして才気煥発だった人が顔をそむけたくなるような老醜をさらすのは同情に価するが、そこは私は気が楽である」(p4)と自虐的な感想を洩らし、最後に「あまりにも意識化され、輪郭の明らかすぎる人生は死を迎えるにふさわしくない・・・人は完全なる暗闇に入る前に薄明の中に身をおく必要があるのだ」(p5)と一種悟りの境地に入っていきます。

 「観潮楼始末記」は、鴎外が多くの文人らと交わった家にまつわる思い出で、当事者ならではの報告。蔵書の虫干しに、森鴎外が指揮を執り、書生も含め一家総出で、一、二週間かけて行った様子や、日露戦役から凱旋した鴎外が、「右の肩をそびやかしながらロスケロスケと大声を出していた」(p41)という意外な一面が描かれ、鴎外の死後、家を人に貸した結果、暴力団が住みつくようになって警察沙汰になり、別の人に貸したら、その人が酒精を瓶詰めする作業をしていて、家を全焼させてしまうという顛末が語られています。

 アダムとイヴの絵に臍が描かれているが、アダムとイヴには親はおらず、臍のあるべきはずはない、という指摘は、医者ならではの発想で、これまで見過ごしていました。


 上林暁は、私小説の作家。東京帝国大学の英文科を卒業し、改造社の編集者を経て作家になった人。この本は、タイトルにある、文、本、旅の話題に、酒、人を加え、それぞれのテーマ別に、随筆を編集したもの。実は、私は上林暁の小説も随筆もこれまで読んだことがなく、山本善行の「関西赤貧古本道」や、山本善行岡崎武志の対談「新・文學入門」で推奨されていたのが頭に残っていたので、買ったもの。本書は、その山本善行編となっていて、氏の思いが詰まった一冊となっています。

 一読して、上林暁という人が、きわめて正直で真面目な人だということが分かりました。自分の至らなさを素直に反省し、自分より優れている人には純朴なまでに敬服し、謙虚な姿勢で自らの特性を分析しています。具体的には、デビュー作に対して、「まだ作家として肝の据わっていなかった私は、これを純然たる私小説に仕上げることが出来なかったのだ。私は臆病で、勇気がなかったので、何もかもぶちまけることが出来なかったのだ」(p12)と告白したり、「私は雑誌記者としては腰が重く、交渉も下手で、冴えたプランもなく、わずかに広告文を書くことに所を得ているくらいなものであった」(p16)とか、「私は中学時代に、自然主義系統の『文章世界』という雑誌を愛読したため、その影響を受けて、自然主義風な古臭い文章を早く身につけた」(p60)といった具合。

 その真面目で小心なところにどことなくユーモアさえ漂っています。例えば、作品のなかに妹や娘らのことを赤裸々に綴っているため、彼女らには作品を読ませないことにしているし、彼女らも作品には目に触れたくなさそうにしていたが、作品がラジオで朗読されることになった。いつも隣家ではラジオを大きな音でかけているので、困り果てたあげく、放送時間にラジオをつけないでくれと頼みに行ったりします。

 全体としては、自分の体験を振り返って、それを些か情緒的に綴った身辺記です。そこに普遍的な問題を見つけたり、社会的な問題提起をするとかはありません。本人も「思考力、批判力の貧しさを嘆いている」と、自ら認めているように、物事を論理的に問い詰めるという点では弱いような気がします。

 中央線沿線の文士の集まりは有名ですが、青柳瑞穂の家で行なわれていた阿佐ヶ谷会を中心に、酒呑みの交流の様子が面白く紹介されていました。井伏鱒二は、夜通し飲みかつ語って、始発の電車まで飲むことも度々だったが、酒を飲むテンポが遅かったとか、いちばんの酒豪は青柳瑞穂のようで、ビールから始め次に日本酒、最後にウィスキーと三段階に分かれ、入院した時もベッドの下にウィスキーを忍ばせたといい、河盛好蔵辰野隆、外村繁は酔うとよく歌ったと書かれていました。酒宴に紛れ込むことができたらさぞ楽しいでしょうね。