『翻訳の日本語』


川村二郎/池内紀『日本語の世界15 翻訳の日本語』(中央公論社 1981年)


 ひと頃、明治・大正期の海外翻訳ものが好きになって、森鴎外黒岩涙香、森田思軒の翻訳翻案小説、上田敏日夏耿之介永井荷風らの訳詩集を読み、勢い余って、翻訳論に関する本もいつか読むだろうと買い集めておりました。今回はしばらく積読にしていたそれらの本を読んでいきたいと思います。まずは、比較的新しく、概説的と思われるこの書物を選んでみました。

 川村二郎と池内紀の二人が書いていて、二人ともドイツ文学が専門なので偏りがあるようにも思いますが、それはともかく、川村二郎が「あとがき」で、「前半と後半で著者が交替しているのは、田楽祭りの翁ともどき、能と狂言の関係にでも見立ててもらえばよいかと思う」(p363)と書いているように、二人の執筆者の取り組み方、文章の調子がまるで違っていました。

 どちらかというと、川村二郎が優等生然としていて、指摘は的を得ていますが、公平に見ようとしてか、鴎外をも下に見るような態度は嫌味ですし、上田敏竹友藻風をこき下ろす一派にも理解を示しているのは、私の好みに合いません。逆に、池内紀は、具体例を多く引用し、機知に溢れた文章ですが、論理的ではなく、実作者の勘のようなもので語っているのと、翻訳論というより、小説論、あるいはさらに細かく「ヴェニスの商人」論といったところもあるのが不満。


 川村二郎の執筆部分で、いくつか賛同できたり、知見を得たりしたのは、
①複合文において、接続詞や関係代名詞があっても原文の順序どおりに訳すことを主張する論者に対して、単一文の内部での語順に関しては主語述語の順を、例えば「I love you」を「われ愛す汝を」というふうに、原文どおりに訳さないことの中途半端を指摘しているところ。

島崎藤村土井晩翠までは、七五(五七)のリズムが守られていたが、薄田泣菫蒲原有明になると、もちろん七五もあるが、八六とか、八七、七四、五五など、さまざまな音律を考案し、いろいろ組み合わせて、かなり複雑なリズムを作りだすのに成功しており、上田敏などでは、とくに注意しなければその音律が何かなどと思いつかせぬほど、すんなりとこちらの耳に流れ込んでくると書いているところ。

山本健吉が、上田敏の訳に対して、あまりにも日本の古語、雅語、廃語を使って、余計な情趣の中に原詩をまぶしてしまったとして、「不実の美女」だと非難していること。萩原朔太郎もみだりに古語を用いるのを批判したが、それに対して、佐藤春夫が、「古心を得たら古語を語りませう」と擁護したことなど。

上田敏の系譜として、竹友藻風矢野峰人、山宮允、山内義雄、森亮、さらに門下とはいえないが、永井荷風蒲原有明が挙げられていた。彼らに対して、「この系列に対する評価は、訳者の楽しみを読者もまた楽しみとすることができるか否かによって定まる」という風に、本心は好きなのかもしれないのに、客観的に見た風を装っているのが気にくわない。

⑤鴎外の翻訳の心得が、いちばん的を得ているように思えた。それは、「作者が此場合に此意味を日本語で言ふとしたら、どう言ふだらうかと思って見て、その時心に浮び口に上った儘を書くに過ぎない」というもの。


 池内紀の執筆部分については、
①最初のページの一文。「わずか一つの単語にしても・・・その一語のもつ意味や連想力は言葉の総体といったものと関係しており、他のいかなる言語でも再生産できない」(p178)で、基本的な事実を再確認し、翻訳の不可能性を暗示しているのが印象的。

平田禿木訳の『ディヴィッド・コパフィールド』を取りあげ、「ディケンズのようなユーモアをもった作家の調子を巧みにとらえたばかりではなく、独特の文章美とともに、こころよい、剴切なリズムを達成してはいないだろうか」(p199)と評していて、翻訳における全体的な調子の重要性を指摘しているところ。

③翻訳者を、おとなしい子と、お利巧な子と、腕白な子の三つのタイプに分け、「おとなしい子のタイプは国語辞典の言葉だろう・・・お利巧な子のタイプは文法学者の言葉だろうか・・・腕白タイプにとって、言葉はいつも生きた肉体としてあるだろう」(p321)と書いて、どうやら腕白のタイプをよしとしているところ。

④腕白タイプの一例として、矢野目源一の訳を紹介し、その魅力を讃えている。引き続いて、日夏耿之介の訳詩に言及し、偏倚であるが蠱惑的とし、日夏の次のような言葉を引用している。「すべての訳詩は、それが翻訳者自身の創作であり翻案である限りにおいて価値を持ってる」(p334)、「自分にとって翻訳は『作詩休止期における、創作的嗜感を感興とする』ものにすぎない」(p338)。

 どちらかというと、池内紀への共感のほうが大きかったように思います。次のような言葉も私にはぴったりきます。「ひまつぶしのたのしみ・・・この世に、いったい、ひまつぶし以上に美しい時間のつぶし方があるだろうか」(p226)


 これから翻訳についての本を読むにあたって、自分なりに翻訳について、いくつか考えてみました。
①単語や慣用句の意味の取り違えによる誤訳はよろしくない。

②言語の理解もさることながら、その国の自然のあり方や社会の風習を熟知していることが重要。

③翻訳が成り立つと考えるのは、ところが変わっても、人は同じという思いがあるからだろう。

④原文に忠実に訳そうとする人も、結局は、自分の言葉に導かれているに違いない。

⑤自分の言葉というのは、その人の生活や読書体験から得た語彙で、語彙の豊富な人は、表現も深く繊細にできるのだろう。語彙とともに育まれる感性も重要だと思う。

⑥結局、翻訳によっては、原文の輪郭を7~8割程度伝えられるだけと思っていた方がよい。

 一連の本を読み終えて、また新たな考えが付け加わったり、変更になったりするのを楽しみにしていきたいと思います。