現代詩に関する三冊

    
渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書 2013年)
大岡信谷川俊太郎エナジー対話 詩の誕生』(エッソ・スタンダード石油株式会社広報部 1975年)
大岡信×谷川俊太郎『対談 現代詩入門』(中公文庫 1989年)


 分かりやすく面白そうだったので、ふと手に取った渡邊十絲子の本のついでに、二人の代表的詩人が自らの詩体験や、現代詩の辿ってきた道を振り返る対談シリーズを読んでみました。三冊とも本音で率直に語っているのに好感が持てました。

 渡邊の本は、体験に基づいて自分自身でよく感じ考えた結果を素直に書いていて、そういう意味ではオリジナルな感じがあります。前半の安東次男の「薄明について」を論じた部分までは、ひたすら共感できました。難しい詩に対して分かりにくいと一蹴するのではなく、分かりにくさにとどまって、それでも惹かれる自分の感性を信じて詩を鑑賞することの大切さを説いています。私の経験からしても、論理的な脈絡がつかめず訳が分からなくても惹かれる詩というのが最上の作品と感じられます。

 ただし、それは詩の話であって、評論や一般的な文章の場合、難解な文章は懲り懲りです。何度か書きましたが、私の学生時代には、詩の評論と言えば、何を書いているか本人も分かっているのかというような文章が横行していました。そのなかで、大岡信谷川俊太郎はいたって平明な論を展開し孤軍奮闘していたような印象があります。少し脱線しますが、社会現象としての流れを見てみますと、そういう難解をよしとする時代が、今度は70年代後半ぐらいから逆ぶれして、広告の時代という言葉に象徴されるように、単純でストレートで分かりやすさを至上とした表現が求められるようになり、勢い余って中身まで浅薄になってしまう現象が起こったように思います。現在は、その反動から、そういう単純さに飽き足らない人々が、また難しさを求めるようになってきたというように見受けます。

 この本でいちばん面白いと思ったのは、分かることと分からないことに関する画家の山口晃の逆説的な見方が紹介されていた部分です。日本画の画家たちが、西洋の透視図法(遠近法)を知って以来、「透視図法的に描けな」くなったとし、それを自転車に乗れるようになると「自転車に乗れない」能力を失ってしまうことで喩えていました。いったん分かってしまうと、分からないという境地を失ってしまう訳です。赤瀬川原平老人力に似ています。

 もうひとつ注目したいのが、明治維新以降西洋の事物や観念を和製漢語に訳して取り入れたために、類似の音声が増えて、文字の裏付けなしでは意味が捕捉できなくなってしまったという高島俊男の言葉を引用しながら、日本詩における漢字の特殊性を指摘しているところです。逆に、視覚に訴えたり、語呂合わせを利用するなど、その弱点を生かした詩が紹介されていました。

 引用されている詩は、やはり前半の部分の入沢康夫「『木の船』のための素描」、谷川俊太郎「沈黙の部屋」、黒田喜夫「毒虫飼育」はいずれもすばらしい。先も前半に共感したと書きましたが、はっきり言って、後半の二人の女性詩人のところでは、違和感を感じました。詩にもあまり共感できないし、書いている内容も心に響きませんでした。


 大岡信谷川俊太郎の二人の対談は、企画元は違っても連続したシリーズです。『詩の誕生』は、エッソ・スタンダード石油の広報誌「エナジー対話」の創刊号として企画されたもので、企業にもこうした企画を発案できる人材が居たのは驚きです。「30秒近くの沈黙」という説明が入ったり、同一の話者が「おれ」と言ったり「ぼく」と言うのを統一せずにそのまま拾っているなど、対談の臨場感を大切にしようという方針が窺えます。『現代詩入門』のほうは、中央公論社の「現代の詩人」というシリーズの月報の連載をまとめたもの。回を重ねるうちにこなれてきたのか、「現代詩入門」のほうが内容としては面白くなっているような気がします。

 どちらかというと、谷川俊太郎が実作者としての経験を中心に語っているのに対し、大岡信は日本の詩歌史の学識も踏まえた発言が目につきました。

 『詩の誕生』は、三部に分かれ、一部では、はじめにそれぞれの成長の過程での詩体験を語り合い、そこから脱線して、美術や音楽など言葉以外のジャンルでの詩情について、さらには子どもの書く詩、古代において詩が誕生する契機、詩人という存在の位置づけ、散文のなかの詩など多岐にわたる話題に触れています。二部では、詩の書き方について、自動記述から始まり、音韻の考え方、朗読などについて、三部では、大岡信の関心事である多数の場で作る詩と一人で作る詩について、上代の歌合、近世の俳諧、近代の出版、同人誌などの事例を検証しながら語り合っています。

 なかで印象的だったのは、
①それぞれが詩についての感覚を語ったところで、言葉を並べていくとその言葉が一つの世界のミニチュアを形づくる面白さがあり、また自分の頭蓋に収まっている能力を超えたものを感じたり感じたいと思う瞬間に詩が立ち現れてくるという谷川、有限なものが消えて無限なものがそこを埋めているように思える詩に感動するという大岡、両者に共通するものがあるように思えます。

②詩の発生に関する話題で、「うた」は、自分の気持を真直ぐに表現するという意味が元にあるという説明。→これは感情のほとばしりが歌になったという説の裏付けになると思う。

③「春という言葉の生まれる以前に感じていた春があるわけだよな」という大岡の発言。

④「ことばあそびうた」を辞書を使ったりしながら作ったことに触れ、自己表現を離れる作り方だが、もともと西欧の詩では韻というかたちで部分的にそういうことをやってきたのだし、反対に、誰でも詩が書ける方法として推薦できるという谷川の言葉。また現代詩は七五調を避けようとしたために、イメージに比べて聴覚的な要素がずいぶん貧しくなってしまったとも。

⑤昔の宮廷歌人とか芭蕉とかは、それぞれが細分化された詩の世界を持っていたが、現代では、ジャーナリズムが発達したせいで、つねに日本中の人に自分たちの詩を認めさせようという罠に、詩人たちが陥っているという谷川の指摘。


 『現代詩入門』では、1960年以降の詩がどういう状況に置かれて来たかに始まり、各人のこれまで読んで来た詩の紹介、詩誌の投稿欄に寄せられた若い人の詩についての感想、日本語の音韻性、最後に、詩劇、詩画展、連詩など現代詩のさまざまな試みなどを語り合っています。

 いくつかの気になった指摘としては、
①1960年代から詩が多くの人に読まれるようになった。以前は同人誌に拠ってグループを形成しながら詩作をしていたことから個人へと分散したこと、またかつては詩人になったような人が、映画、劇、広告コピー、デザインなどへ拡散していく傾向も生じたこと。

②それぞれ自分が影響を受けた詩人として、大岡は、菱山修三、中村真一郎訳のシュペルヴィエル、谷川は、和泉克雄という人を挙げていたこと。

③日本の詩の伝統にあった行間を読むというようなものがずいぶん壊れてきていて、饒舌体で長く書くようになったというのが若い人の詩の特徴という谷川の感想と、それに関連して、話し言葉だけで書かれる詩には、謎的な要素が希薄になり、どうしても言葉を転がしていく面白味みたいなものが主になってくるという大岡の指摘。

④どの時代においても、若い人が詩作のお手本にするような詩が存在していて、鋳型に自分を入れることで詩を作ることができるが、みんな同じような没個性的な詩になってしまう。大正時代だと、北原白秋が選んでいた童謡という大岡の言葉。

中原中也三好達治宮沢賢治の詩に、日本語のリズムがないかというと決してそんなことはなくて、七五的なきっちりしたものではなくても、ある日本語独特のリズムというより、「調べ」というようなものがあるという谷川の指摘。

 合唱にして歌われると、詞っていうのはほとんど聞き取れないという谷川の正直な告白を聞いて、私もずっとそうで、私だけかと思っていたので、胸をなでおろしました。