:現代詩年鑑2013

                                   
現代詩手帖12月 現代詩年鑑2013」(思潮社 2012年)

                                   
 この「現代詩年鑑」は、2009年以来、2010年、2011年と読み継いでいたのに、2012年は読まずじまい。2013年は近所の図書館で借りて遅ればせながら読むことができました。年に一回ぐらいは現代詩の世界で何が起こっていて、何が話題になっているか知っておくのも、詩文を愛する者としては必要ではないかと。(ちなみに2009、2010の年鑑については2010年1月14日の日記、2011年鑑については2010年12月24日の日記参照)

 2013年なのに、東北大震災に関する文章が多いのに驚きました。この調子だと、2012年の年鑑はほとんど震災に費やされていたにちがいありません。それらの文章のなかでは、引用されていた「3・11以降、夥しい量の言説が生み出されてきた。・・・これらの言説は、3・11という悪夢に匹敵する深さをもっていただろうか(p136)」という大澤真幸の言葉はうなずけるものでした。しかしそれらの言葉がまちがっているというのではありません。震災は、人々に語らざるを得ないというプレッシャーを与える巨大な存在で、そのエネルギーのもとに多くの言辞が生み出されたわけです。

 新しい詩人たちの作品などいろんな情報を得ることができましたが、なかでも「現代詩手帖6月号」で嵯峨信之の特集をしていたことは不覚にも知りませんでした。

 印象に残った評論、書評は、高橋睦郎「詩歌の国の住人として」、北川透「2012年、吉本隆明の死」、神山睦美「『信』の言葉」のベテラン勢の評論が読みやすさと、視野の広さ、内容の深さで群を抜いていました。高橋睦郎の「詩歌の国の住人に最もふさわしくないのが名誉と権力(p78)」という言葉と、神山睦美がヴァレリーの二十年にわたる沈黙について書いていた「表現することが、他人から認められたいという欲望と切り離すことのできないものであるということを、ヴァレリーは知っていた(p99)」という言葉はどこかで接しているような気もします。

 他、阿部嘉昭の「詩と空間について」は「哲学詩」と呼ぶべきジャンルの詩について語りはじめていたので期待しましたが、後半は普通の時評になってしまって期待外れ。河野聡子の「まとめ」が詩誌の月評についての即物的な分析や、毎月テーマを決めて月評に臨んだというそのテーマがなかなか面白く感心しました。最後に詩作は趣味や余技でいいのかという著者の呻吟が洩らされていましたが、これも神山睦美論文にあった「ヴァレリーが批判したパスカルの真面目さの欺瞞」の問題とつながっていると思います。
                                   
 後半の、代表詩選のなかで印象深かった作品名を列挙しておきます。
辺見庸「海を泳ぐ蒼い牛」、粒来哲蔵「妄執」、吉田文憲「呼びかけるもの」、粕谷栄市「西片町」、石田瑞穂「まどろみの島(抄)」

○白井知子「九歳の鎖骨」、長田弘「秘密の木」、原満三寿「水の穴」、江夏名枝「断想」、瀬崎祐「祝祭」、高橋睦郎「風景」、各務章「声」、谷川俊太郎「龍を見る」、新井豊美「時のこども」、高橋冨美子「子盗り」、白井明大「すがた」、平林敏彦「あの日から」、川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」、北川透「魚人以後」、倉橋健一「終章」、柿沼徹「川べりへ」、河邉由紀恵「あま水」、城戸朱里「(それらは、自らが何かであることを・・・)」、境節「歩く」、日和聡子「旅唄」、堀内みちこ「夜の魔術師」、依田冬派「もうひとつの青」、高岡修「凧」、荻悦子「黒種子草」、阿部日奈子「球根譚」、川上明日夫「秋、旅するプール」、浜田優「不帰行」