若松英輔『神秘の夜の旅』


若松英輔『神秘の夜の旅』(トランスビュー 2011年)


 タイトルに惹かれて買いましたが、内容は、越知保夫という50歳で亡くなった文芸批評家についての評論。若松英輔が書いた二冊目の本です(一冊目は、井筒俊彦について書いた本)。前回読んだ二冊に比べると、文章が硬いような気がしますが、若書きのせいか、力が入りすぎているせいか、それとも引用されている越知保夫や、吉満義彦、井筒俊彦の文章がみんな生硬で、それらに引っ張られているせいでしょうか。彼らよりは、まだ若松の文章のほうが、幼いころからキリスト教の説教に親しんでいるせいか、少し柔らかいと思いますが。内容も少し難しくて、よく分からないところもありました。

 ひとこと印象を言えば、越知保夫というあまり世間に知られていない批評家を顕彰しようという意欲が感じられすぎて、自然さが失われているように思いました。例えば、西洋中世の吟遊詩人が歌った愛は、古今集の雅に通じると最初に言ったのは越知だとか、越知は小林秀雄が将来宣長論を書くのを見通していたとか、中村光夫が「祈りの喪失」を論及していると指摘した人は越知の前には居なかったとか。

 この本には、若い日にある知的な探求を開始した人によく起こる現象がみられます。ある人物を探求しようとして、その人物にまつわるいろんなことが次から次へと関連づけられて、視野が広がって行くというあり方です。著者も、文中で、「越知を論究しようと書き進めると、越知以外の人物が、いっそう何かを強く訴えかけてくる衝迫を拭うことができない」(p92)と告白しています。また、「越知は、『小林秀雄論』で単に小林秀雄を論じているのではない。小林に随伴されつつ辿りついた場所の『風景』を、明示しようとつとめている。また、その道行きで、交差した人々を含む『風景』を活写しようとした」(p93)とも書いていますが、これは、若松英輔自身が越知に対してしていることではないでしょうか。

 いくつか私なりに気付いた論点を書いておきます。
①中世では、自然は超自然によって意味づけられていたが、近代になると、そうした超自然とは切り離された自然を新たに発見することになった。近代とは祈りが失われゆく時代とも言えるが、祈りに対立するものが技術とすれば、祈りの喪失とは技術化ということになるが、はたしてそれだけで近代といえるか。
→最後の部分がよく分からない。

②生者間の交流を意味するコミュニケーションとは別に、死者との交わりも意味するコミュニオンという言葉がある。亡くなった人なら今、どう感じ、何を思っているかに思いを馳せることが重要で、死者たちの声に耳を澄まさなければならない。「死者たちはあなたの内部で生きようとしており、自分たちの欲したものをあなたの生命が豊かに展開することを欲している」(アラン)
→言わんとすることは分かるような気もするが、突き詰めるとやはりよく分からない。

③昼は現象の世界だが、夜は実在の世界である。中世の歌人にとって、月を眺めることは、単に美しい天体に見入ることではなく、実在に触れることであった。「地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、何か言いしれぬ魅惑がある」(井筒俊彦)のである。

④哲学者が考え、分析し、謎を解決しようとするのに対して、詩人は逆の歩みを取る。彼は謎を愛し、それをいっそう生々と現前せしめようと願うのである(越知保夫)。

⑤人間、動物、植物、鉱物それぞれは、一つの霊魂から生まれている。それぞれが表象しているのは、一つの霊魂の部分であるが、しかし、無限者である一つの霊魂の内にあることで、不可分的に存在しているのである。もしこの考え方に従うなら、私たちは、「花が存在する」ではなく「存在が花する」と言わなくてはならない。

⑥我々はいちいち自分の認識を疑うわけには行かない。でないと、日常生活が送れなくなってしまう。しかし、我々は、他人と同じものを見聞きしているつもりでいるが、現実は、人それぞれ別の世界を認識している。あたかも我々には共通感覚があるように思っているが、文化が違えば星座の読みも違い、色、音、香の意味も異なる。
→この後、「主体的に働いているのは人間の意識ではなく、逆にものの側ではないか」というようなことを書いています。実は、この最後の展開は上記⑤にもかかわる重要な部分だと思いますが、よく理解できないでいます。