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高田博厚『思い出と人々』(みすず書房 1959年)
高田博厚『分水嶺』(岩波書店 1975年)
前に読んだのに続いて高田博厚の二冊。『思い出と人々』は日本に帰国後、それまで新聞や雑誌にフランスから寄稿していた文章をまとめて出したもの。フランスで出会った作家や芸術家についての寸評です。『分水嶺』は晩年に書いた回想録。
悪いことは書きたくありませんが、前回同様、あまり感心しませんでした。時代の風潮というものが大きく関わっているので、個人的な問題ではないと思いますが、女性関係の放縦さを恥ずかしそうにでなく堂々と英雄的に語る語り口、カンヌ映画祭で審査員を務めて自分が根回しして日本に賞がまわるようにしたと言わんばかりの書きぶり(『分水嶺』p361)、日本人会に勤めていた椎名其二を評して「つまらぬ社交機関の書記を務めていた」と書くなど勤労者に対する蔑視(同p70)は聞くに耐えません。
「薩摩治郎八・・・とか、親譲りの資産家を美術保護者あつかいして」(同p235)と書いていましたが、実際に薩摩治郎八は資金を提供して芸術を擁護する活動をした人ですし、親譲りということが非難されるのであれば、高田博厚も親の株を売って知り合いの出版を援助したりしている(同p210)ことは反省しないのでしょうか。他にも「私はイタリア・オペラを『音楽』として好まないから」(同p62)とか、「『バロックのミケランジェロ』と言われているベルリーニの作・・・けっ飛ばしたくなった」(同p89)とか乱暴な書きぶりが目につきました。
こういう書き方は時代の特徴とも言え、小林秀雄や青山二郎、加藤周一などにもあったような気がします。物事を理由も明示せず断定的に決めつけるのがプロの評論だというような意識だと思いますが、今の時代では探求的懐疑的な方法で物事を見て、そのプロセスを分かりやすく説明するのが主流です。これは目線を賢者の高みに置くか、素人の目線で考えるかの違いでしょう。
たまたま片山敏彦からロマン・ロランを紹介されたことがきっかけで、フランスの知識階級に迎えられ、いもづる式にいろんな高名な作家芸術家と交わることになっただけの話で、本人にフランスの知識階級に何かを付与するほどの特別なものがあったわけではありません。日本人という理由だけで歓迎する「日本愛好家」とは一切絶縁して人間対人間で交わったというふうに書いていますが(『思い出と人々』p34)、先方が日本人であると意識しているのは明白なのに、それに気づかないのはどうでしょうか。
結局、この人には日本語もフランス語も会話においては優れた能力があり、人を動かす力を持っていたのは確かなようで、それが「モンパルナスの親分」という仇名をつけられたり(『分水嶺』p95)、占領下の外人記者団の副会長にまつりあげられたり(同p257)したことにつながっているのでしょう。弁が立つので、おそらくまわりの人間からは尊敬されていたに違いありません。
この本でも、いろんな人物が登場し思いがけない素顔を見せてくれるので貴重です。フランス人では、ロマン・ロラン、ジイド、アラン、デュアメル、コクトー、オネゲル、日本人では、萩原朔太郎、小林秀雄、三木清、渡辺一夫、生島遼一、桑原武夫、森有正、矢内原伊作、三島由紀夫、谷友幸、大沢章、永瀬義郎など。一例として、生島遼一がフランスに来る途中船の火災に遭遇し、その出来事をフランス語で何度も喋っているうちにその話だけやたらと流暢になったという逸話(同p132)など。
また、第二次大戦と占領期のフランスの動向について、かなり克明に書いてあり、知らないことも多く勉強になりました。「ダンフェル・ロシュローの地下鉄防空壕には若いきれいな女子が沢山いると評判になり、警報が鳴りだすと、そこまで十分も二十分もかけて、走って行く奴があった」(同p249)という話など、戦争中であっても、どこかのんびりした雰囲気が残っていたことを窺わせます。
ほかに印象に残ったのは、ダ・ヴィンチやミケランジェロによって培われた美についての厳しい見解を述べる著者に対して、ロマン・ロランが「優美(グラース)もまた好いものだよ」(同p44)と言い、その言葉に触発されるようにして、ロダンの優美な側面や、マイヨルとデスピオの作品の美を発見するくだり。次のように書いています。「文学的あるいは劇的説述がない。なんにも説明しないで、ただ素直に『在る』・・・『在ることの安らかさ』を持っている作品。ここで私は、フランスの『優美(グラース)』のもう一つの意味に当面したような気がした」(同p47)。