ピエール・マルチノ木内孝訳『高踏派と象徴主義』(審美社 1969年)
ロマン主義も象徴主義も大好きですが、その間にある高踏派というのがよく分かっておりませんでした。この本は、ロマン主義から象徴主義が終わるまでのフランス詩壇の動きが整理されつつ詳述されていたので、系統だって理解できたように思います。(おそらく誤解だらけのうえにすぐ忘れると思いますが)
私なりに要約してみますと、ロマン主義には初期の「内面派」(ラマルチーヌら)とその後現われた「描写派」(ユゴー、ゴーチェら)の二つの流派があり、その中の多くが政治的傾向を次第に強め、また芸術に効用を求める一派(古典派の生まれ変わりなど)が新しく台頭してきたので、それらに対抗するために、「描写派」を母体として「芸術のための芸術」グループ(ゴーチェら)が生まれます。
その頃実証主義が全盛となり、文献学的研究の発展とともに古代が着目され、ギリシアやインドの美が称揚されてきます。これが「高踏派」(ルコント・ド・リールら)の美学の中心になります。高踏派は感傷的告白的なロマンチスムを嫌うという点で一致していたのでした。
一方、ボードレールという古代よりも近代に目覚めた詩人が登場し、その憂愁や不幸の独自の美学の影響下に、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメが登場してきます。不思議なことに高踏派は彼らをも取り込んで『現代高踏派詩集』を発行します。
ヴェルレーヌ、マラルメが『現代高踏派詩集』から離別し高踏派が解体した後、群小詩人がさまざまな雑誌に依拠して活動します。彼らは当初「デカダン派」(ジュール・ラフォルグら)としてヴェルレーヌを範と仰ぎました(「デカダン」という言葉自体ヴェルレーヌの詩から持って来たらしい)。ラフォルグの死後、「象徴派」(アンリ・ド・レニエら)としての性格を強めていきますが、彼らはヴェルレーヌよりもマラルメを師と仰ぎました。
これまで象徴主義というとマラルメを思い浮かべておりましたが、どうやら象徴主義という言葉自体マラルメは語っていず、彼の主たる活動の後にモレアスが命名(1886年)したもののようです。
そして、かつては象徴派の一員だったアドルフ・レッテがマラルメを批判した(1894年)あたりから象徴主義は風解し、またさまざまな主義の乱立に陥ってしまいます。その中で再び社会的な効用を求めるグループ(ナチュラリスム、ユマニスムなど)が台頭してきたのでした。
ぐだぐだと下手な要約を書くのはよして、著者みずからに語ってもらいましょう。
ロマン主義、高踏派、象徴主義は、多くの紆余曲折があるにもかかわらず、実際は、絶えず拡大される芸術上の一大野心を実現するための同一の詩的伝統であり、同じ努力の連続である/p14
描写派・・・詩は絵画のような描写能力を持つべきだとされ、また楽器のように諧調音を奏でるべきだとされたのである/p19
かなり激しい表現をもって、芸術とは何の役にも立たないものだ、ということを主張している。彼(ゴーチェ)はそこで攻撃しているようにみえるが、実際は防戦していたのである/p23
美しいフォルムは美しいイデーである。なぜなら、何ものをも表現しないフォルムというようなものは存在しないからだ(ゴーチェ)/p31
イマージュを創造すること、「次々に続く隠喩」をつくってゆくこと、ここにゴーチェはたいへんな誇りを見出していた/p35
1850年頃の若い詩人たちは・・・若い頃から浸っていた知的雰囲気にほとんど抵抗を感ずることなく影響されていたのだ・・・かれらの大部分は実証主義の最盛期にその精神に感染したのであった。実証主義精神は、歴史研究、批評方法、小説、哲学、政治理論など、精神のあらゆる領域を侵していた/p45
ルコント・ド・リールの理解しているギリシア精神は、この温和な空や明るい太陽が産み出したものである。それは、正しい、穏やかな、人間的な、中庸をえた、理性と美を愛する、娯楽に熱は入れず、貞潔をよろこぶ、そういう精神である・・・異教こそ彼にとって美と知恵の宗教としてあらわれる・・・キリスト教は、醜と無知の宗教にほかならない/p69
芸術至上主義と高踏派は、まっしぐらにギリシアの古代へ向った。ところが、ボードレールの作品のなかには「ギリシア的」美に関心を示す詩句は非常にまれにしかない/p110
ボードレールの美学は・・・形象や観念を人に崇拝されるような美しい像に彫り上げようとかいう努力をすべて軽蔑する。逆に、彼の美学は人間の魂の奥底を動かすことを勧める/p123
この青年詩人(ヴェルレーヌ)は、豪華で「大がかりな」ボードレール的テーマを、小さい、素朴な、繊細優美な、陰気くさいテーマに転換した/p134
白紙の上に並んだ黒い字の列は「無限なるものを固定させるくすんだレースの襞」である(マラルメ)/p150
言葉は、人々に背を向けているオーケストラの指揮者の身振り以外のものでは決してない(マラルメ)/p151
デカダンは、象徴主義者たちがやがて軽蔑するところの自然主義に少しも敵意をもたない。自然主義者たちもまた、現代社会の退廃を信じ、それをありのままに描くことを好んだ/p171
若干の光景はたえず繰返され、すべての詩人の使用するところとなった。・・・たとえば、人けなき廃園…滅びた都市…靄…雪景色…つぶやく泉…枯葉に覆われた水鏡…あけぼのと暮れがた…月あかり/p194
象徴主義なるものは、「芸術のための芸術」がほとんど絶対的な形のもとに現われたものだった/p248
この本を読んで、新たに読みたいと思った詩人や作品としては、ユゴー『東方詩集』、ゴーチェ『アルベルチュス』『死の喜劇』、テオドール・ド・バンヴィル、ルイ・メナール『或る神秘主義的異教徒の夢想』、レオン・ディエルクス、アンリ・カザリス『幻影』、モーリス・ロリナ『神経症』、エフライム・ミカエル、ギュスターヴ・カーン『絵本』、ヴィエレ・グリファン、ジャン・モレアス『メリュジーヌ』、アンリ・ド・レニエ『エピソード』『古代・ロマネスク詩集』『夢のごとく』『鄙びた素敵な遊び』『粘土のメダル』『水の都』『翼のあるサンダル』『時の鏡』、アルベール・サマン『王女の園』、ヴェラーラン『夕べ』、メーテルランク『温室』。