ヴェルレエヌ鈴木信太郎譯『呪はれた詩人達』(創元社 1951年)
象徴主義シリーズ。いよいよ大御所の本を取り出してみました。当然学生時分に読んでるはずの本ですが、買ったのもつい10年ぐらい前の話。「呪われた詩人達」として、ランボー、マラルメ、ヴェルレーヌ、コルビエール、「今日の人物」として、ランボー、ヴェルレーヌ、ルコント・ド・リールを取りあげています。(原著では他にヴァルモールが収録されているとのこと)。「呪われた」という意味は、社会の評価とのあいだに齟齬があるといったニュアンスでしょうか、もちろんこの本には象徴主義という視点はまったくありません。
この本の最大の特徴は、19世紀半ばから後半にかけてのフランスの詩人たちを、同時代に生きた大物詩人が語っているというところにあります。例えば、ランボーについての文章のなかで、これを書いた時にはまだランボーの詩がわずかしか世の中に出ていず、ヴェルレーヌが記憶を頼りに、読者にランボーの詩のすばらしさを訴え、ランボーの散逸した詩篇を持っている人に、みんな持ち寄るように呼びかけるという一節があり、その時代に生きているような生々しさが感じられます。
そのわずかの詩が世間に出たいきさつも語られていて、ランボーは自分の詩を出版することなどまったく望んでいず、彼にもちかけても断られるのがおちだったので、ヴェルレーヌがランボーの知らない間にこっそりと雑誌に掲載されるよう計らったというのです。ランボーがいかに世の中の標準から逸脱した人物だったかが分かります。ランボーの詩も久しく読んでませんでしたが、あらためて読んでみると、チンピラ少年風の剃刀のような印象が以前よりも濃厚に感じられました。
同時代ならではの臨場感あふれるレポートは、次のルコント・ド・リールの様子を描写した文章にも表れています。「声はやや高調子だが、議論が真剣になるや否や重々しく変化する。ただ皮肉が混じる時だけ、天鵞絨の毛のような柔らかな語調が戻って来るが、それは諷刺を一層辛辣にするのみである」(p213)。
もうひとつ面白いのは、自分に一章を割いて論じているところです。さすがにヴェルレーヌとは書けなかったのか、Paul VerlaineのアナグラムのPauvre Lelian(ポーヴル・レリアン)という名前に変えています。そして自らの少年時代を語っている文章は次のようなものですが、自虐的ななかにも若い頃を愛おしむ気持ちが感じられて好ましいものがあります。「その中学で半ズボンの尻をすり切らせながら少年青年時代を送ったのであった。・・・今日の女給サーヴィス付きのカフェにそっくりな、当時の朦朧酒場で麦酒を煽ったことなどで、益々輪をかけてくだらぬ人間に成り下った」(p117)。
以前、加藤美雄の『フランス象徴詩研究』を読んだときにもすこし興味を持ちましたが、コルビエールの詩に衝撃的な印象を受けました。ヴェルレーヌがこの本で取り上げたことで、評価が高まったというのもうなずけます。紹介の仕方も面白く、「押韻家としても又詩学者としても、完全無欠なところが彼にはまるでない。と言うのは、固苦しくて煩さい点がないのである。大詩人達にあっては、彼の如く、誰一人として完全無欠でないのである」(p136)と、シェークスピアやゲーテの名前をあげながら擁護しています。引用されている詩はいずれも激した印象で、「墓碑銘」(p149)という詩は反語の塊のような詩だし、ヴェルレーヌが「悪魔に憑りつかれた小曲」と表現している「時刻」(p151)は、どこかアロジウス・ベルトランとの共通性を感じさせる不気味さに満ちています。
評論として見れば、分析的な記述や解釈がほとんどなく、もっぱら逸話の披露に終始していますが、引用がやたらと多く作品への惚れ込みようが伝わってくるところは、実作者ならではと言えるでしょう。
いくつか面白いエピソードを紹介しておきます。
ランボーの容姿を描いた文章。「人としては丈が高く、岩畳で、殆ど力士の如くであった」(p11)写真で見る印象とは違います。
マラルメの初期の頃の評判。「マラルメの立派な詩句を嘲笑するのが流行し・・・最も著名な最も有力な人々の中でも、莫迦者共はこの人物を気狂い扱いにした」(p69)。今とえらい違い。
ヴェルレーヌの幼い頃の事件。「煮立ったお湯の一杯に入っていたデュベロア(湯たんぽ)の中に右手を突込んで火傷を起し『呪われた詩人達』の著者を左利きにしてしまった」(p198)。野口英世みたいなことだったんですね。
解説本や評論集ばかりあふれて、こういう資料的な貴重な本をいま手にすることができないのは、なんだかおかしな気もします。