:マラルメの著作二冊(散文を中心に)

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ステファヌ・マラルメ松室三郎訳『詩と散文』(筑摩書房 1989年)
ステファヌ・マラルメ岩田駿一訳『ヴィリエ・ド・リラダン』(東京森開社 1977年)

                                   
 マラルメについての本ばかり読んできましたが、マラルメ本人の作品に移ります。他にもマラルメについての評論はヴァレリーをはじめ、J・P・リシャール、ブランショ、ボンヌフォアや、日本では菅野明正、清水徹など、読まないといけないような本がたくさんありますが、所持しておらず、今から買うとなると高価なうえに、かつ買ったとしても大部で読むのに苦労しそうな本が多いので、テキトー読書家の私としては、まずは分かり易そうなマラルメ散文作品から。

 『詩と散文』は、マラルメがはじめて出版した作品集の翻訳で、初めの四分の一が詩、半分が散文詩や評論、残りの四分の一が訳者による「その純らかな爪が…」(「-yx」のソネ)の評釈で構成されています。今回は、詩についての感想は、「窓」、ソネの「その純らかな爪が…」と「パフォスの名の上に…」、「エロディアード」に感銘を受けたという程度に留めておきます。

 散文詩は明らかにボードレールの影響を受けていますが、その中で、「ラ・ペニュルティエーム」はマラルメらしい謎めいた魅力にあふれた一篇。『骰子一擲』を思わせるような、構文が飛び離れて印刷された箇所があったり、nul(虚無の)という語を中心として展開したり、弦楽器の弦の上を鳥の翼と棕櫚の葉が辷るという比喩的なイメージが実際の古楽器商のショーウィンドウの弦楽器と鳥の翼と棕櫚の葉と照応して終わるところなど。


「第一逍遥遊」がこの本の白眉で、マラルメの詩に対する考え方が正面から語られています。ロマン派的な詩からマラルメの時代の詩への移行を次のような点で捉えています。簡略にしすぎて間違っているかも知れません。
ユゴーの時代は、詩句という形があればそのまま文学となり、読み方に抑揚をつければ詩句となるというような無自覚な態度で、脚韻の愉楽を掬み尽して涸らし、味気ない単調さに帰着した。→これはまるで日本の明治期の七五調のようなものではないか。
ヴェルレーヌの流動的な態度で少しずつ変化が兆した。
③フランスの韻律学は、例えば「アレクサンドランの12音の半句に必ず区切りを置く」というのもその一つだが、最小限の努力をことさらにはっきりと法典風に知らせている。しかし耳は独力で、12音の間のすべての箇所に区切りの可能性を見出すことで、詩に享楽をもたらした。
④さらにアレクサンドランを十一音綴、あるいは十三音綴で歌うというアンリ・ド・レニエも出てきたし、アレクサンドランの枠内で、破格の詩句を追求したジュール・ラフォルグもいる。
⑤そしてまったく新しい自由詩が登場した。モレアス、カーン、ヴィエレ=グリファンなど。ここに初めて、正統性が高らかに奏で出される巨大なパイプオルガンと競いつつ、誰でも自身の個性ある奏法と聴覚とに依拠して、一つの楽器を奏でることができるようになった。


 巻末のソネの評釈については、訳者が初めて教壇に立った頃の講義録をもとにしたものらしく、若書きの印象がぬぐえません。初稿と第二稿を比較しながらの緻密な分析には、たしかに鋭いものが感じられますが、すべてを詩人の内面の葛藤や創作の苦労に結びつける擬人的な解釈をしているところは、詩に対する考え方がマラルメとは正反対と言えます。また専門的になり過ぎていて、例えばリトレの大辞典で語源を調べないと理解できないような詩の鑑賞というのが果して成り立つものなのかという疑問が湧いてきました。

 悪口ついでに言うと、このソネ自体の日本語訳は、どうしても柏倉康夫の平明かつ的を得た訳や、鈴木信太郎の格調に及ぶべくもありません。句跨りをした訳し方は明らかに失敗しています。ひとつの詩を追求し尽くそうという学者的な熱意は感じられましたが、詩人として詩を創造するのには失敗したという印象です。


 『ヴィリエ・ド・リラダン』は、マラルメが、親友リラダンの死後、ベルギーの各都市を回って、リラダンについて語った講演の記録ですが、持って回った文飾のある言い回しが目につきました。聴衆を前にした講演会の言葉のはずなのに修辞が凄いのは、マラルメだからか、フランス人全般がそうなのか、よく分かりません。しかしそれでも、訳者岩田氏は、「できるだけ具体的、感覚的な意味内容を浮かびあがらせようと」し、「その結果、強靭で暗示力に富むマラルメの文章が平板で脆弱なものになってしまった」(p105)と嘆いているのですから、唖然としてしまいました。


 訳者がそんな文飾に満ちたマラルメの文章の特徴を三点にまとめていましたので(p103)、紹介します。
①事物の中心的観念を端的に提示する性質をもつ名詞的表現への偏愛があり、そのため高度に抽象的な性格が見られること。
②文章から具体的状況を示す要素を徹底的に排除した結果生まれる簡潔性があり、動詞、人称代名詞、関係詞、接続詞など、文の各部分の関係を明示する語句が頻繁に省略される。
③チボーデが「一連の挿入と嵌めこみから成る」と指摘したように、複雑な重層的構造を持っている。


 正直、この講演の内容自体は私にはよく分かりませんでしたし、そのためもあってか取り立てて重要なものとは感じられませんでした。リラダン作品そのものの称揚と言うよりは、リラダンの創作態度というか生きざまを讃えたもので、かつ、講演の最後で、しきりにリラダンがベルギーに来たがっていたと、ベルギー人に好感を与えようという心づもりで述べているのは、マラルメらしくないと思いました。

 Ⅱ章で引用されていたリラダンの3篇の詩、とりわけ「告白」がとても魅力的だったのは、これは斎藤磯雄の訳がよいからなのでしょうか。原詩を少し参照してみたところ、原文は滑らかで平明な印象があるのに、日本語はごつごつして別の詩みたいになっています。この本のⅡ章全体が、先に紹介した『詩と散文』にも訳されていましたが、このリラダンの3つの詩が省略されているのはとんでもない間違いで、しかも注でもあとがきでも、そのことにまったく触れていないのは、訳者のモラルとしてどうでしょうか。とまた松室氏への悪口になってしまいました。


 少しの間ブログをお休みします。