:マラルメ詩集(渡辺守章訳)


                                  
渡辺守章訳『マラルメ詩集』(岩波文庫 2014年)


 岩波文庫マラルメ詩集は鈴木信太郎というのが学生の頃からの定番でしたが、ついに世代交代しました。新刊書店にあまり行かなくなったので、ついぞ知らぬままに過ごしていました。時々は岩波文庫棚を見ていたはずですが見た記憶がありません。今回も、この本を探しに新刊書店を何軒か回りましたが、どこにもありませんでした。購入はアマゾンの古本で。

 この訳書の特徴は、まず最新の成果を取り入れた克明な注解で、これまでの注釈をしのぐ最高のものだと思います。膨大な量に驚いてしまいました。とくに詩の技法の解説が充実しており、マラルメが詩王と呼ばれ崇められた理由が分かったように思いました。次に、「半獣神」と「エロディアード」の詩篇群をマラルメ作品の中核を担うものと位置づけて、その異本を網羅しているところにあります。また口語訳を採用していて、鈴木信太郎に較べると分かり易いし、そうした訳し方は「不遇の魔」や「道化懲戒」など、俗な口調の詩に真価が発揮されているように思いました。

 ただ、少し気になる点を書けば、注解についてはかなり専門的な印象があり、とくに韻の説明やフランス語のフレーズを引用しながらの解説は、フランス語が読めることが前提になったもので、一般の読者は戸惑うに違いありません。ここまで注解するのであれば、はじめから原詩も載せておくべきだと思います。それで分量が多くなりすぎるのであれば注解をカットするか、主要な詩だけを掲載したほうがよかったでしょう。あるいは文庫ではなく専門書として刊行すべきだったかもしれません。

 訳し方については、例えば「乙女は 鏡の底に 果てなんとして 裸形、揺らめき/ 散る と見る間に、縁の内なる忘却に 繋ぎ留まった/ 煌めきの やがて鮮やかに 極北の 七重奏」というように、数音ずつに空白を設ける訳し方は、私には各語句のつながりが分断されて意味が曖昧になっているように見えました。新たな詩形を模索する姿勢は歓迎ですが、こうした文体上の工夫が一般の詩壇にどう評価されたかが気になります。昔は上田敏を筆頭に日夏耿之介鈴木信太郎などの翻訳詩の文体が、当時の詩人たちに大きな影響を与えたものですが。


 注解のなかで感心し、参考になったたことは、
①「蒼穹」の創作時に、マラルメが劇的な要素と、清澄かつ静謐な詩の観念を調和させることに苦労していた(p261)という記述があり、マラルメのなかでは詩と劇との葛藤というのが一つのテーマになっていたことが分かる。
②「エロディアード」にサロメという言葉は出てこないが内実は「サロメ」を歌っている。先行例として、テオドール・ド・バンヴィルの「エロディアード」(『姫君たち』所収)というソネや(p279)、エロディアードが洗礼者ヨハネの首を毬のように蹴り上げつつ疾走する姿で歌われているハイネの「アッタ・トロル 夏の夜の夢」(p281)があること。
③訳者は、「エロディアード―舞台」において、「逆髪(さかがみ)」のテーマ系と「氷=冷却」のテーマ系がエロディアードの身体の紋章的表象として使われていること(p283)、エロディアードの「鉱物性・冷却性・閉鎖性」と対照的な「獅子」が配されていること(p284)、「エロディアード―古序曲」において、「白鳥の目=ダイヤモンド=星」が主導動機の一つであること(p292)、「半獣神の午後」においては水中に沈もうとする髪の毛と宝石の見事な類比があること(p315)、後期のソネでは「落日の悲劇的光景」が重要なトポスとなっていること(p381)を指摘していて、テーマ系とか、主導動機、トポスという視点で詩を捉えている。訳者はまたフランス学者の注釈過多に対して「以上は全てレフェラン・レヴェル(現実の照合物)の詮索であって、詩句そのもののテクスト内関係から引き出されたものではない」として、詩句を構成する語彙を、その記号作用のレヴェルで読むことの重要性を主張しており(p400)、詩そのものと向き合うことの大切さを、きちんと押さえている。
マラルメの後期の主要な詩の技法として、意味を宙吊りにしたまま先へ繋いでいく手法―例えば、語句のレヴェルでは、“Victorieusement fui(勝ち誇って 遁れたり)”に見られるように、“-ment”で終わる長い副詞を先に置くことで劇的な効果をあげる手法、詩行のレヴェルでは、「序曲Ⅰ」冒頭の「もしも(Si)」が14行目の最後に繰り返される「もしも」に繋がり、そこまでの14行の間は意味が宙吊りにされていること(p485)―を指摘している。この技法を詩全体のレヴェルで駆使したのが『骰子一擲』だろう。活字の大きさの種別と空白により遠い所の詩句を結びつけながら立体的に作品を作りあげている。


 注解のなかではまた、いくつか原詩の音韻に関する指摘があり、勉強になりました。
①「おお、鏡よ!」の原文は“Ô Miroir”で、“Ô”が「水」の“eau”と同音で「水鏡」を連想させ、さらには「楕円形の鏡」の絵文字にもなっている(p285)。
②「無気力にavec atonie/お前の皮肉とともにcomme ton ironie」というように、一つ前の母音も同じ踏み方をするのを、「バンヴィル風脚韻」という(p289)。
③「続誦」では、同じ脚韻が二音節の詩句(sais-tu/vêtuなど)が9か所、三音節のもの(la science/patienceなど)が4か所、さらには四音節(de visions/devissionsなど)が2か所あり、脚韻の遊戯が見られる(p338)。
④「〔処女にして生気あふれ…〕」のソネ」では、母音〔i〕の執拗な繰り返しが見られること(p373)。
⑤「〔浄らかなその爪は…〕」に、「打ち捨てられたる 骨董Aboli bibelot」というallitération(音節冒頭の同一子音の繰り返し)の効果的な例がある(p384)。
⑥「頌」において第一聯と第二聯の脚韻同士が、意味的にも照応するように仕組まれている(p424)。
⑦「レース編みのカーテンの…」はマラルメ詩篇のなかでも最も流麗なものと言われるが、流音の〔l〕が25も使われている(p441)。


 上記以外に、この訳本で新たに仕入れた知識は、
①「回転扉」という概念がよく出てきたが、どうやら流れを屈折させながら次の流れに繋いでいく結節点の働きをする部分を言っているらしいこと。
マラルメは春と夏には詩作の力が衰え、冬には異様な豊穣さを示したこと(p251)。
マラルメの詩の創作法が窺える事実として、『エロディアードの婚姻』の手稿に脚韻だけが決定されていて後は白紙という詩句がしばしばあること。マラルメは脚韻の選択から順に創作を進めていたらしい(p388)。
ヴェルレーヌよりマラルメのほうが歳上であったこと(p406)。
⑤1872年、マラルメが30歳のとき、シャルルヴィルから出て来て間もないアルチュール・ランボーに会っていること(p506)。どんな会話をしたんでしょうか。
⑥愛人のメリー・ローラン宛の手紙と妻宛の手紙を入れ違えて投函して事件となったこと(p515)。大変だったでしょうね。
⑦19世紀末から20世紀初頭にかけての文芸出版には、イタリック体の流行のようなものがあったこと(p542)。


 一つ気になったのは、「序曲Ⅲ」で語句の間に幾つかの「空白」が残されている(p488)とありましたが、これは言葉が見つからず未完となっているのか、それとも意図的なものでしょうか?