:柏倉康夫『マラルメ探し』


柏倉康夫『マラルメ探し』(青土社 1992年)

                                   
 柏倉康夫の三冊目。三冊のなかでは、いちばんマラルメ詩の秘密に接近しているように思えました。とくに、マラルメの詩のあり方の基礎を作った若き日の詩作について、詳細に語られていました。詩のテクストの異同を比較しているあたりは若干専門的で、微細な考証にはまり込んでいる感もありましたが。

 マラルメの成長期に、文学の世界に導いてくれたのは、中学時代の先生デ・ゼサールであり、また心の底から信頼を寄せた生涯の友で頻繁に手紙のやりとりをしているアンリ・カザルスの存在は大きかったようですが、マラルメの詩の形成にいちばん大きく影響したのは、結局、サンス高等中学時代の4歳年上のルフェビュールという生徒のようです。彼からボードレールとポーの二人の詩人のことを知ったみたいで、ボードレールからは言葉遣い、ポーからは詩作の原理を学んだことが、マラルメの詩風を決定したと思います。 

 マラルメの詩のあり方の出発点となった一つが、音楽に対する理解の仕方で、彼の芸術に対する理論や後の詩の表記法につながっているように思います。マラルメは、音楽の大きな特徴は音譜で書かれていることで、そのために一般大衆が簡単に理解するのを阻む専門性(楽器の習練という壁も)があるのに対して、詩は誰でもが日常に用いる言葉を使っている点が大きく異なると考え、詩に象形文字や祈禱書の留め金のような神秘的な要素を求めるようになり、人の理解を阻む晦渋な詩作に向って行ったと著者は書いています。また音楽における沈黙を詩の中では空白として表現しようとしたり、楽譜的な体裁を追求するところから、最後の詩篇『骰子一擲』のページ構成法が導かれたということのようです(p26〜28、p262)。

 またマラルメの成長を追っていくと、ポーと同じように、ロマン主義的な性向から、象徴主義に移って行ったことが分かります。「彼方への憧れ」を抱いていた少年詩人が、ボードレールの影響を受けて、グロテスクなもの、病的で不吉な特徴、奇妙で気味の悪いものへの嗜好という後期ロマン主義的な傾向に移り、最後にポーの厳密な構成を持った詩に傾斜して行きます(p62〜63)。20歳の時に書いた「不遇の魔」はかなりボードレール的な表現が目立ちますが、25年後に詩集に採録した時、ボードレール的な言葉遣いが払拭され、約半分の言葉が変更されたと言います(p172)。

 マラルメの詩作の秘密に触れるような箇所もいくつかありました。ひとつはポーの「鐘」から学んだ畳韻法(同一または類似の韻を繰り返し使う方法)で、「青空」では、〈r〉音の多用と、〈m〉音の繰り返し、暗い色調を帯びた鼻母音〈ã〉の頻出が見られるというところ(p125)。また画家がキャンバスに点々と絵具をおいて絵を描きはじめるように、白紙の上に先ず単語をあちこちと書きつけ、そこから詩の創作をはじめることがあったと言います(p258)。

 最後に、マラルメの「書物」の構想について解説がありました。『骰子一擲』のページ構成をさらに飛躍させたもので、単語を書きつけてからひとつの詩を創作したのと同じように、ひとかたまりの詩句をカードにして、それをもとに書物を作るという発想だったと言います。詩句が印刷されたカードがバラバラの紙片としてあって、自由に順番を変えることができるというものです。独創的なのは、作者が一人ではないというところで、日本の連歌シュールレアリスムの集団詩作「優雅なる死体」を思わせます。親密な人の集まる講読会で朗読するのが最終的な形だったようです。が外枠の概念がかなり固まっている割には、どんなテーマを内容とするかがまだ決まっていないというのは、我々もよく陥りがちなことです。マラルメは「書物」に関する書き付けをすべて破棄するように命じていたのに、誰かが勝手に発表したのが間違いだったと思います。

 著者は、マラルメの一次資料を求めて、パリの80件ほどの古本屋を丹念に回ったことが書かれていますが、NHKの駐在員として、「仕事の暇をぬすんで」と書いてあったのが、実に羨ましく思えました。