:マラルメ作品二冊

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ステファヌ・マラルメ秋山澄夫訳『イジチュールまたはエルベノンの狂気』(思潮社 1976年)
ステファヌ・マラルメ長谷川四郎訳『マラルメ先生のマザー・グース』(晶文社 1977年)


 マラルメ詩集に続いて、マラルメ詩作品及び詩の解説本。両者はともにマラルメの死後発見されたというところが共通点で、『イジチュール』は死後27年経ってから、『マザー・グース』は死後66年経ってからの出版です。しかしこの二冊は同じ回で取り上げるのはどうかと思うぐらい、性格がかけ離れています。『イジチュール』はマラルメ自身が書いた散文作品で、『マザー・グース』はマラルメが自分が教えていた生徒のためにイギリスの童歌を解説したものです。当然前者はきわめて難解、後者はとても分かり易い。


 『イジチュールまたはエルベノンの狂気』は同じ訳本の二種類の版を所持していますので、写真を載せておきます。この作品は娘婿のエドモン・ボニオがマラルメの死後、箱にしまわれたノート類の中から発見し、ばらばらの草稿を整理して出版にこぎつけたということです。マラルメ自身はこの作品を時間の経緯を持った物語(コント)として構想していますが、一種の散文詩と見るのが妥当でしょう。

 翻訳でしか読んでませんが、内容はとても難しくて、とても私なんかの手に負えるものではありません。訳者自身も「かいもく見当もつきかねる」とか「その概念を説明することは至難というより、作者以外の者には不可能」とか「とにかく、むつかしい」(p78)と書き散らしています。が分からないなりにどの文章にもとても魅力があって、この作品がもし完成していたら、私にとってのマラルメの最高作になっていたという気がしますが、逆に草稿のままで謎めいたものになっているからこそ、魅力があるとも言えます。マラルメはそれをあらかじめ考えて、わざと草稿のまま据え置いていつか発見される日を期待していたのではないかとさえ思えてきます。

 ボニオも書いているように、後年の『骰子一擲』の偶然のテーマと接点があるようです。おぼろげに分かることは、主人公イジチュールはまだ子どもであること、真夜中を告げる時計の合図を皮切りに墓に行くという話のよう、いろんな抽象的な言辞が鏤められるうちに、部屋を出て階段を降りるあたりで、いつのまにかイジチュールは時間の圏外へと消え、代わりに影が登場する。どうやら先祖の一族がイジチュールを動かしているようだ。最後にイジチュールは蝋燭をひと吹きで消して先祖の屍灰の上に横たわる。といった感じですが、こんな筋書きにまとめても何の意味もないと思います。

 キーワードとしては、時計に象徴される「時間」、骰子投擲や蝋燭のひと吹きが表す「偶然」、偶然から生じる「無限」、その無限に対峙する「絶対」、空虚の中に像が消える「鏡」。登場するのはイジチュール以外に、「影」、「亡霊」。「夜」までもが人格化されたように描かれています。動きとしては、蝋燭を吹き消す、時計の振子が揺れる、骰子を投擲する。物としては墓、家具、羽目板。形状としては蜘蛛の巣、螺旋、裂け目、向かい合わせの壁、皺くちゃなもの。気配としては羽搏き、擦音、振り子の打音、心臓の鼓動。他にも純粋自我、純粋夜、純粋時間、イデ、狂気といった言葉が連なります。一見若書きとも見えますが、観念詩とでも呼べばいいのでしょうか。こうした書き方は、入沢康夫など日本の現代の散文詩埴谷雄高『死霊』などへ多大な影響を与えているという気がしました。

 意味がよく分からないなりに惹きつけられたフレーズを少し引用しておきます。

首尾一貫した眩暈のするような螺旋状にそれを己れに裏返すのは、まさに己れ自身であったかのように(p38)

己れにまみえんがために己が墓に積った幾世紀にもわたる己が舎利悉くを丹念にかきあつめた(p39)

二つの入口のいずれを択ぶべきか?永久に同値なる二つとも、我れの反射ではないのか?(p42)

門が実際に閉ざされたと同じく、おなじく門は今開(あ)かなければならぬ、わが夢が己れを釈明(ときあ)かすために(p43)

そして我れが再び鏡の奥に眼をひらいた時、我れは怕ろしい人物を見た、恐怖の化身が、すこしずつ鏡に残った感情と苦痛とを食べているのを(p48)

のしかかっていたその時間が、あふれて、過去に落ちた(p52)

影はもはや、重い睡眠からめざめたなにかしら夜のぬしのようなもののながびく羽搏きのごとく、永久に遁げ去るとおもわれる規則正しい鼓動以外になにひとつ耳にしなかった(p60)


 『マザーグース』は他の本で読んだことはありますが、このマラルメの解説を読むことで、とても生き生きと感じられました。長谷川四郎の訳しぶりが絶妙で面白いことも一役買っていると思います。例えば、「笛吹きのせがれトム/トムは豚かっぱらって/逃げてった/豚はくわれトムはぶたれ/わんわんわめいて/町あるいてった」という詩には、「トムってどういう人?笛吹の息子で、自分もまた笛吹きです。ところで今はべつの音楽を彼は鳴らしています。おききなさい、彼はわめいて町をながしている。どうしてだか、そのわけをきみは知りませんか。あのやんちゃぼうずと仲間たちが豚をかっぱらって村から逃げてったんだ。―へえ、くわれたのは豚、ぶたれたのはトムってわけか」という説明。

 本当にマラルメがこんな解説を書いたのでしょうか。解説部分もイギリスの何かの本を訳したのではないかと思って、ネットを探していたら、マラルメの日本語のウィキペディアでは書名すら出てこず、かろうじてフランス語のウィキペディアでタイトルだけ出ていました。この本自体あまり重要視されていないようです。元の詩から離れて想像力が飛躍しているところはマラルメらしいですが、上に引用したイジチュールの詩句の観念性とは別人が書いたかのように真逆です。