:山村嘉己『象徴主義は死なず』


                                   
山村嘉己『象徴主義は死なず―フランス象徴主義詩史概説』(青山社 1995年)

                                   
 山村嘉己氏はフランス象徴主義が専門のようで、著書も三冊ばかり所持していますが、いずれもその分野に関するもの。今回初めて読みました。この本は学生向きに書かれた通史による概観で、書き方が分かりやすくかつポイントを押さえているという印象。

 また引用されている詩はその詩人の特質が表われている代表的な詩を選んであり、美しい詩が多く、ほとんどが著者自らの訳だがこなれていて読みやすい。また原詩を巻末に掲載するなど詩への深い愛情が感じられます。

 この本を読んで、好みの詩人というのがはっきりしてきたように思います。ネルヴァル、ボードレールヴェルレーヌランボーマラルメ、レニエ、ロダンバックらにますます惹かれる一方、ラフォルグやコルビエール、ヴィエレ=グリファン、フランシス・ジャムには興味が湧きませんでした。


 新たな発見もありました。ランボーの「詩人は見者でなければならない」という意味は、何か特別な眼力を持つ人間になるという風に受け取っていましたが、感覚の放埓を経なければ普遍的な人間になれないという彼の思考を吐露したものだという解釈があり、パリ・コミューンの労働者の闘いを見て創造的労働者になろうとしたことを表わしているらしいのです。そう考えると、詩を捨てる後半の人生が詩人としての人生の延長上にあったということになります。「曙が来れば、燃えるような忍耐で武装してぼくたちは輝く街へと入って行こう」という『地獄の季節』のフレーズはそういう意味だったのか。

 中高生時代さかんにランボーを暗唱しては、得意になっていたものですが、よく分からないまま言葉に酔っていたようです。母親の束縛から逃れ自我を発散させようとしていたランボーの言葉の激しさに、無意識のうちに、同じ年頃として共鳴していたに違いありません。また当時よく分からないままに『イリュミナション』の不思議な世界にも惹かれていましたが、この本で、自由詩の先駆であり、視点の移動という技法で新しい詩を創出していたことが説明されていました。


 いくつか貴重な指摘もありました。ひとつは、この時代の音楽、絵画、詩に共通する傾向です。音楽では、ドビュッシーたちが、ロマン派と異なり楽想を全体として表現するよりも、音の一つ一つを独立的にとり扱って、音のつながりの美しさを追求したこと。絵画では、印象派らが、自然を単に再現するのではなく、色彩やタッチによって自然を創出しようとしたこと。詩では、マラルメたちが、語の本来の色合いから詩語を解き放ち、他の語と互いに映し合おうとしたこと。これはジャンル間のお互いの影響と考えるよりは、当時の表現意識の変化の表われだとしています(p117)。

 もうひとつは、印象派絵画と象徴主義絵画を比較した議論で、印象派の努力が「色調の移りゆく様相を把握することに向けられ、神話世界の亡霊、教訓、寓意、象徴は追放されていた」(H・ペール)一方で、ラファエル前派やモロー、シャヴァンヌ、ルドンらは詩の象徴派に通うものを持っていたという指摘(p119)。それを読んで、印象派絵画は技法において、象徴主義絵画はテーマにおいて、象徴派とつながっていたと感じました。


 原詩を読んで、マラルメ「己に関する寓意詩」では、二種類の脚韻のみを交互に反復する様がよく分かり、しかもその脚韻自体も意味づけされていることを知り、G・カーン「祭りのホール」のすばらしく技巧的なフレーズに驚き、スチュアート・メリルの詩集『音階』の「夜曲」では頭韻の面白さに目を見張りました。レニエの「夜曲」「港がある…」も響きがとても音楽的で美しい。