:MAURICE MAGRE『LE MYSTÈRE DU TIGRE』(モーリス・マーグル『虎奇縁』)


                                   
MAURICE MAGRE『LE MYSTÈRE DU TIGRE』(ALBIN MICHEL 1927年)

                                   
 このブログにときどきコメントを頂いているティグル・モリオンさんのお勧めで、読んでみました。邦題もモリオンさんのをそのままいただきました。というのは「虎の神秘」や「虎の秘密」では少し違うようだし、この小説の仏教的色合いから「奇縁」というのがふさわしいように思ったからです。

 一言でいうとシンガポール、ジャワ島が舞台の不思議な小説。冒頭のシンガポールの阿片窟の雰囲気はまさにクロード・ファレールの世界。なかなか面白い出だしです。その阿片窟で見たトカゲを撫ぜる謎めいた男や白人の娘が物語の興味をつなぎ、実際に後の物語と結びついていきます。

 文章も易しく、見たこともない動植物の単語が少々出てくる程度で、比較的速く読めました。主人公は、オランダ人の剝製師の父とポルトガル人の母のもとシンガポールに生まれた鞭を操る猛獣使いという設定、反知性的な乱暴な性格で、前半は活劇風に展開します。母親を蛙に睨み殺され、父がコブラに噛まれて死んだことから動物たちに憎しみを抱いていて、庭の動物園で飼っている様々な動物をいろんな方法で虐待します。珍種稀種の動物たちの姿や虐待法の奇怪な想像力が面白い。

 虎との因縁は、阿片窟に虎の鼻づらのノッカーがついているところから始まります。藍畑経営者から村人たちが苦しめられている猛虎を捕まえてほしいと依頼され、森に虎の罠を設置しますが、実際に虎を目の前にして、あまりの巨大さ、鼻づらの獰猛さに手が震えて銃を撃つことができません。そのうち虎に憑かれ自らも虎に変身する思いを抱くようになり、恋心を抱くようになった経営者の娘(阿片窟で見かけた白人の娘)に森のなかで襲いかかったりします。この部分は、デュマの熊男やメリメのロキスも含めた狼男小説の系譜に位置づけられるように思います。が別に考えれば、主人公が自分で虎になったと感じただけで荒唐無稽なリアルな描写はまったくないので、一種の心の内奥を描いた小説としても読めるでしょう。そこには少し前に流行したブールジェの心理小説の影響があると思います。

 主人公の魔手から逃れた娘は森のなかで失踪してしまいますが、主人公は娘が虎に食われてしまったと思い、ますます虎への憎悪が掻き立てられ、ようやく罠で捕まえた虎とともにシンガポールの自宅へ戻った後、虎の片目を潰してしまいます。その後、象を殺した時その象が主人公を下敷きにしないように鼻で安全な場所へ置いてくれた自己犠牲の精神を見たり、動物への虐待を心配したかつての父の友人が仏教の教えを説いたりなどの挿話を経て、主人公に良心との葛藤が目ざめます。その葛藤は、帽子を盗んだと主人公が告発したラマ僧の男(トカゲを撫ぜていた男)との裁判で自らの偽証に煩悶するなど、いろんな場面で描かれていきます。

 前半は動物たちを虐める残酷な描写が延々と続くので辟易していましたが、途中で「人間の驕りから動物たちを守り給え」と神に懇願する場面が出てきたので救われる思いがしました。残酷な性癖の人間を描きながら、激しく後悔するという人間の二面性を併せて書いているところが、この小説のひとつの眼目だと思います。

 そして、ある夜明けに、阿片窟から帰る途中、ロヒロヒ鳥が日の出を祝って鳴いているのを聞いて、自分の心の中に日が昇るイメージが顕われ、鳥が心のなかで鳴いていることを感じる宗教的神秘体験をします。ここから物語は一変。それまで檻に閉じ込めていた動物たちを森のそばで開放し、自らも森のなかへ入り、かつて隠者が暮らしていた小屋に住み、朝夕念仏(六字大明呪)を唱えるようになります。

 誰かが小屋の前に雌豚の頭をした女神像(チベット密教のヴァジュラ・ヴァーラーヒー、金剛亥母)を置いたり、毎朝粥を届けてくれるようになりました。それが自分が告発し牢獄にぶち込んだラマ僧の男(トカゲを撫ぜていた男)ということが分かり、主人公は神に赦されたように感激します。そしてある日、あの虎が小屋の前に現われました。主人公は食べられることを覚悟で小屋の戸を開きます。

 最後に、行方不明になっている主人公を探す命を受けた考古学者の手紙が引用され、森で失踪した娘は実は森のなかにあるラマ僧院へ入った後、かつて召使に偽装して経営者の家に入りこんでいたジャワ皇帝末裔の男と結婚して平和に暮らしていることが判明、また主人公が虎と仲良く寝ていたり、虎を犬のように連れて散歩しているのを森の奥で目撃したという村人の証言が報告されて物語は終わります。

 最後に動物との和解が果たされたようですが、ここには、動物の生命を愛おしく思い、動物を神の位置において崇めるような仏教的な思想が根底にあり、動物たちとともに生きる姿は釈迦の涅槃図を思わせるところがあります。ただ、仏教的世界観を讃えた物語の割には、仏教もヒンドゥー教マニ教もラマ法典も一緒くたにして書かれているのは、西洋からは細かい違いが見えないということでしょうか。

 森のなかの隠者を描いているという点で、以前読んだANDRÉ DE RICHAUDの『LA NUIT AVEUGLANTE(目眩む夜)』とテイストが似ているように思いました。ヨーロッパ人の森に対する思いがこの本にも読みとれるように思います。

 1920年代は、パリに外国人が溢れた時代で、日本ではその種のテーマの本ばかり目立ちますが、一方フランス人の間にも異国情緒が異様に機運が高まった時代で、ファレールをはじめ、クローデルセガレン、サンドラルス、マッコルラン、モーランなど異国小説が盛んに書かれていました。この小説もその中のひとつ。この時代はコスモポリタンの時代で、異国への旅行がたやすくなってきたことや、19世紀後半から盛んに開かれた万博が一役を買っているに違いありません。