:フランス詩の注釈書2冊

///


窪田般彌『ミラボー橋の下をセーヌが流れ―フランス詩への招待』(白水社 1996年)
堀口大學『註と解 仏蘭西現代詩の讀み方』(第一書房 1932年)

                                   
 窪田般彌を読むのはこれが最後。ここからフランス詩についての本を続けて読んでみようと思います。二冊とも、原詩と注釈と翻訳を併載したもの。


 このところフランス詩を読んでいて感じるのは、よく言われることですが、翻訳と原詩とではまったく世界が違うということです。学生の頃、ランボーだ、ボードレールだ、やれボンヌフォアだグラックだと言って騒いでいたのは、あれは何だったのか。翻訳者の日本詩を読んでいた訳です。フランス詩の音感の優しさ嫋やかさ滑らかさに比べて、日本の詩の何とごつごつしていることか。翻訳詩ではかろうじて意味の輪郭を辿れるのが精いっぱいではないでしょうか。いちばんいいのは、翻訳を読みながら原詩を読むことだと思います。ということでこの二冊は最適。


 『註と解 仏蘭西現代詩の讀み方』のほうは、かなり恣意的に20世紀を中心とした10人の作品を取り上げたもの。現代詩と言っても昭和初期の出版なので、ヴァレリーコクトーアポリネールヴェルレーヌなどです。あとブレーズ・サンドラールやギー・シャルル・クロは名前は聞いたことがありますが、後の4人は知らない人。

 さすが堀口と言うべきか、エロティックな詩が多い。ヴァレリーでは、艶めかしい姿で眠る女性をテーマにした「眠る女」や、情交を死と生の回帰で捉える「假死女」、夜忍んでくる女を歌った「足音」、コクトーでは、書くのも憚られる「黒奴美人・・・」。

 堀口大學の詩に対する姿勢が「序」で書かれています。詩作品の持つ分かりにくさというものは、だらだらとした説明を省くという読者にとっては不親切な詩の技法から生じていることで、うまく詩の合鍵を見つけることができれば作者の意図した表現に辿りつけるものという前提を述べ、直感で詩を読むという人がいるが、作品の一つ一つの言葉がとても大切で、詩の言葉そのものを探ることによって、その合鍵を見つけ出すことが大切だと力説しています。そして自ら註釈のなかでそれを実践し、丁寧に一つ一つの言葉が何を語ろうとしているか、合鍵にあたるものを読者に指し示そうとしているように思います。

 印象深かった詩は、上記のヴァレリー「眠る女」を筆頭に、「失われた美酒」「足音」、コクトー「朝のマルセエユ」「一人ならず…」「黒奴美人…」「眠っている顏に…」、アポリネール「ミラボオ橋」、ヴェルレーヌ「傀儡」。


 『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』のほうは、主としてロマン派から現代にいたる代表的な28人の詩人を取り上げていて、原詩と注釈と翻訳に加えて、詩人と作品についての解説文も収められ、巻末にはフランス詩の技法の概説もついています。

 堀口大學に比べると、詩の言葉の註釈の分量が少ないことから分かるように、作品そのものに迫るというより、詩人の生涯を踏まえ、その時代背景や詩が生れたエピソード、その詩の一般的評価などを紹介していて、読み物的になっています。

 とくに印象深かった作品は、ネルヴァル「幻想」、ボードレール「秋の歌」、ビシューヌ「夢のあと」、ヴェルレーヌ「NEVERMORE」「秋の歌」「町に雨が降るように」、レニエ「オードレット」、アポリネールミラボー橋」「クロチルド」、コクトー「海の底の春」。

 その次に続くのが、ヴァルモール「わたしの部屋」、ラマルチーヌ「蝶」、ミュッセ「シャンソン」「フォルチュニオの歌」、ランボー「感覚」「谷間に眠る男」「母音」、モレアス「スタンス」、ローランサン「鎮静剤」、デスノス「最後の詩篇」、ミショー「海」といったところでしょうか。時代が現代に近づくにつれて、面白くなくなってくるような気がします。

 巻末の「フランス詩法の概要」は、コンパクトに音綴と脚韻の代表的な形をまとめていて、以前鈴木信太郎の『フランス詩法』上下巻を四苦八苦して読んだのに、今はまったくと言っていいほど忘れ去っているので、ありがたかった。