:MAURICE MAGRE『LUCIFER』(モーリス・マーグル『ルシファー』)

MAURICE MAGRE『LUCIFER』(ALBIN MICHEL 1929年)

                                   
 生田耕作旧蔵書の一冊。モーリス・マーグルを読むのは初めてです。ネットで見た略歴や本のタイトルなどから、エキセントリックな強面の神秘主義者で近寄りがたく難しそうに見えた割には、文章は短く単語も平易でかなり読みやすいという印象でした。ただ物語の構造が単純でなく、思い出が何の前触れもなく出てきたり、時間がさかのぼって語られるところがあったりと、叙述が一筋でないので分かりにくい所もありましたが。 

 物語がいったん終わった後に、著者の覚書というのがあり、この物語はすべて旧知のJ.N.という人が著者に語ったことだと書いてありました。そうなると気になって、これまでの物語の中に著者自身がJ.N.によって語られていなかったか読み返したりしました。出て来なかったようです。

 内容はたしかに神秘主義的な要素が色濃く、悪魔を崇拝する個性的な人たちが続々と登場します。中年の主人公が思いをよせるEvelineの父Aigulfがまず神秘主義に傾倒している人物で、Evelineも次第にその考えに染まって行きます。そのまわりには、中近東の修道院を経巡って異端の修業をしたKotzubue、悪魔学の学識豊かなAlthon、スェーデンボルグ信者の女Hélèneなどが集まっています。

 また若き日の主人公を悪魔との契約に巻き込んだLévyや、仏教に帰依し喜捨を施し魔術崇拝を軽蔑しているJacques、夫が浮気相手に生ませ引き取った娘Laurence(Evelineの妹)にカトリックの厳しいしつけをするAigulf夫人、悪魔祓いの神父Théodore、矯正修道院にいる元売春婦で愚直な「首の長いMarie」など、宗教に絡んだ極端な人物が出てきます。

 その他にも、変わった人物として、貧乏人にしか関心を示さないLaurenceや、酔いどれが高じて絵を描けなくなった画家Drevetなど。そうしたエキセントリックな人物が絡み合って物語が展開して行きます。

 魔術師Simonが埋めた呪符を発掘しようという儀式や、乱交パーティのような気配の悪魔崇拝儀式、その反対に、庭の東屋で行われる厳粛な悪魔祓いや、児童合唱隊が先導する教会の葬列も出てきました。悪魔との契約によって脅える主人公のまわりに、家具がガタガタ鳴ったり、「鏡は曇ってそれが人の形になるので、スカーフで隠していたら今度はそのスカーフが人の形になったり(p222)」、本棚の本が勝手に落ちて怖い挿絵のページが開いたり、教会の司教の彫像が猿に変じたりとか、次々怪異現象が起こります。

 ストーリーについては詳述しませんが(面倒くさいので)、そうした異様な人物や怪奇な場面がありながら、全体としての描き方自体は、きわめて通俗小説的で神秘主義的なところはありません。またどうやらおぼろげに推察できる著者の主張も、神も悪魔もともに実は同じもので、その両者とも人自身の中に存在し、代わる代わる出没するが時には同時に現われることもあるというようなあまり新味の感じられない見解のようです。

 物語としていちばん魅力のあったのは、モーリス・ポンスの『ビール醸造組合館』のように(2012年4月24日記事参照)、自らの行動や妄想が知らぬ間に絵に描かれていて、それを展覧会で見て驚く場面。主人公が一緒に駆け落ちをしたLaurenceが酔いどれ画家Drevetに描かせたものだったということが後で分かります。そしてLaurenceの生みの親(Aigulfの浮気相手)が、主人公の若い頃の愛人だったという運命悲劇的な展開もあって、そうした部分はとても面白く読みました。

 深夜こっそり家を抜け出したLaurenceの後を主人公がタクシーで追いかけて辿り着いた先がブランシュ広場で、今年6月に行ったばかりだったので、読んでいてリアル感があり、懐かしく思い出されました。

 日本人の貧しい飴屋が出てきましたが、器用な手つきで飴をこねているという描写から考えると、水飴を練っていたか、綿菓子を回していたのか。またmensonge doré(金色の嘘)という言葉が出てきましたが、日本では真っ赤な嘘と言うのに、向こうでは金色なんでしょうか。