CATULLE MENDÈS『ZO’HAR』(カチュール・マンデス『ゾハール』)


CATULLE MENDÈS『ZO’HAR―ROMAN CONTEMPORAIN』(G.CHARPENTIER 1886年


 文学史や評論などで、よく名前を目にするカチュール・マンデスを読んでみました。4年ほど前に、神田の田村書店で購入したもの。そう言えばコロナのせいで、神田にもずっと行けてません。マンデスの翻訳はルートヴィヒ二世をモデルにしたらしい『童貞王』(国書刊行会)というのが出ていて持ってますが、未読。

 副題にROMAN CONTEMPORAIN(現代小説)とあります。「ゾハール」だけでは、宗教書か歴史小説か分からないからつけたと思われますが、内容は、たしかに19世紀末の風俗を描いた小説で、舞台も、スペインバスク地方ノルウェイフィヨルドなどが出てきて観光的な要素もあります。背信、堕落や不道徳をテーマにし、悪魔崇拝的な用語を使っていますが、中身は通俗小説。文章も一種の饒舌体で、古典の素養や文学的言い回しは頻出しますが、彫琢されたという感じではありません。

 「下劣」とか「不浄」、「恥辱」とか、その手の汚い語彙がふんだんに出て来て、変な単語ばかり覚えてしまうので困ります。目についたところでは、turpitude, ignominie, vilenie, abject, malpropre, hideux, souillure, infâme, impureté, exécrable, abomination, bafouéなど。

 ゾハールというのは、この作品によると、旧約聖書に登場するバアル神の皇子の名前であると同時に、近親相姦が大っぴらに行われていた町の名で、男色の町ソドムや獣姦の町ゴモラ、レスビアンの町ゼボイム、屍姦の町アデマとともに神に罰された背徳の場所という設定です。また最初の部分で、主人公が近親相姦を讃える「ゾハール」という歌劇に見入る場面があり、そこで演じられる魔宴が、物語の最後のほうで妄想として繰り返される仕掛けになっています。

 粗筋を書いてしまうと、ネタバレ度が強い小説ですが、以下簡単に。
ある貴族の私生児である主人公は、田舎で敬虔な信仰のもとに育てられ、隣家の探検好きで厳格な友人とアフリカへ何度か旅するなどしたあと今はパリで生活している。一方、貴族の正式な妻の娘は母親が死んで修道院に入っていた。その二人が田舎で初めて出会った。が、次の日、主人公は慌ててパリに戻り、愛人を作って放蕩生活に身を委ねる。様子がおかしいのを心配した友人が訪ね、主人公が観劇に行ったという劇場を覗くと、近親相姦をテーマにしたオペラに主人公が見入っているのを見つけた。問い詰めると、妹への愛を告白したので、フランスから離れよと忠告する。

娘は修道院に戻ると、こちらも院長に信仰を捨てると宣言、修道院を飛び出した。が、ある男に求婚され、拒否することもなく結婚式を迎えることとなった。スペインの海辺の町まで逃れていた主人公は、新聞で妹が結婚するという記事を読み煩悶する。が、その日、不意に妹が訪ねてきた。兄の居所が分かったから結婚式から逃げて来たという。主人公は喜ぶと同時に、堕落への危険を感じてその夜は別のホテルへ逃げる。

貴族の亡き妻の悪友が、何とか財産を自分の息子に継がせようと、亡き妻の姉という触れ込みで暗躍していたが、賭博船の上から主人公と貴族の娘がテラスに座っているのを見つける。その娘に遺産が行かないよう策略を講じ、娘は貴族の子ではなく亡き妻の愛人の子だと、主人公に証拠の手紙を見せる。意に反して主人公は大喜びした。妹から愛を告白されていっそう煩悶していたのだ。

潔白を確信した主人公は堂々と愛するようになり、ノルウェイのハダンゲル・フィヨルドの岬の上の館に住み、教会で正式な結婚式を挙げた。ところが、ある日、ベルゲンでばったり昔の愛人に出会い、娘はやはり妹で、あの手紙は女が書いた偽筆と告げられる。絶望の淵に突き落とされた主人公は、妹が自分の子を宿したことを知って崖から身を投げ、妹も葬儀の後、兄の棺の中に入って死ぬ。

数年後、北極の冒険をめざしていた友人が偶然その墓を見つけるが、碑銘に「兄と妹が愛し合った」と堂々と書いているのに怒りを感じ、骸骨3体を崖から足で蹴落とす。

 胎児も骸骨になっていて、小さく鶏の骨に似ていると描写されているのは凄まじいイメージですが、主人公が妄想のなかで、近親相姦の腹から怪物が続々と生まれるのを想像する場面は、ボスやブリューゲルの絵を見ているようです。「地獄で見るような頭や足のない生き物など不具で変形して、膿だらけの気持ちの悪い生き物・・・悪魔の宴のように、蛙人間、蜘蛛人間、蛇を絡みつかせたハイエナや狼の子、跳びはねる青い尻をした猿、後脚で立っている羊の乳母」(p301)。

 推測するに、19世紀ではまだキリスト教の道徳が人々に重圧のようにのしかかっていたので、そこから逃れようとして、悪魔崇拝や堕落が一種の流行のようになったかと思われます。今日のフランスでは、約半数が宗教離れになり、日曜のミサに行く人も5%にも満たなくなっていると言いますから、今さら悪魔とか言ってもピンとこないでしょう。

 この小説では、典型的な性格の人物がいろいろと登場します。まず主人公は信仰の篤いひ弱な貴族の末裔、父親の貴族は元将軍で放蕩三昧の自分勝手な男、主人公の友人はリーダーシップのある厳格な冒険家、主人公の妹にして妻は美人で情熱的で大胆、貴族の亡き妻は贅沢好きな高級娼婦、その悪友はやり手婆で策略家で賭け事が好き、その息子は悪に染まっているが大罪までは犯さない根はまともな青年、主人公の愛人は半分売春婦の歌姫で奔放。それ以外にも、脇役として、友人の母親で兄妹の近親相姦を知ってショックで死んでしまう田舎の世話焼き女、子どもか老婆か見分けがつかず精神も未熟で教理ばかり考え世間知らずな修道院長、病人か聖人か分からないほどの老人で歳とともに寛容になっているノルウェーの教会の司祭。

 例外はありますが大雑把に分けると、信仰心が篤かったり厳格だったりで真面目な男たちと、放埓で自由に振舞う女たちということができると思います。この物語が悲劇の様相を帯びるのは、男が理念や信仰に忠実で、女が感情に忠実という擦れ違いにあるような気がします。