ボードレール論3つ

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ピエール・エマニュエル山村嘉己訳『ボードレール』(ヨルダン社 1973年)
ピエール・ジャン・ジューヴ道躰章弘訳「ボードレールの墓」(『ボードレールの墓』せりか書房 1976年)
フーゴー・フリードリヒ飛鷹節訳「ボードレール」(『近代詩の構造』人文書院 1970年)


 海外の文人によるボードレール論の続き。エマニュエルとジャン・ジューヴはフランスのカトリック詩人、フリードリヒはドイツの批評家。エマニュエルは単行本、ジャン・ジューヴとフリードリヒはそれぞれ単一章でボードレールを論じています。「ボードレールの墓」は再読で、以前の感想で「こちらの頭が脳軟化症状態になっていることもあり、書いてあることがなかなか頭に入ってきません・・・もう少し読者のことを考えて文章を綴って欲しいものです」(2015年6月24日記事参照)と書きましたが、これはまだましなほうで、エマニュエルの文章はさらに混沌としていました。


 エマニュエルの文章が頭に入ってこない理由。私の理解力はさておき、①キリスト教の原罪や贖罪がテーマになっていて、東洋人の私にはぴんと来ない。②ボードレールの作品から離れて、著者の頭の中の世界を記述している。③叙述に説明が足りない。著者が自明のこととして語っていることが理解できていないので、先に進めない。④冗舌すぎて整理ができていない。⑤訳が悪い。といったものが考えられます。いったん著者や訳者に不信感を抱いてしまうと、馬鹿らしくなって、気持ちをこめて読もうという気がなくなり、ますます悪循環に陥ってしまいます。不幸な読書といわざるをえません。
 
 エマニュエルは一貫して神の問題から考えています。おぼろげに理解できたことは、次のような点です。
①キーワードとしては、神、悪魔、転落、追憶、両義性、相反、弁証法などがあり、二つの極に引き裂かれるという観点からボードレールを見ている。母から見捨てられたという経験で全能の神から追放された転落のイメージが生じたこと。そこで全生涯にわたり、神への帰還と追放の深化という矛盾した二つの方向に努力することとなる。女性に関しても、天上的なものと地獄の二つの極端なタイプを求めた。女性は再生の道具であると同時に転落の深淵として現れ、詩人はその崇拝者であるとともに囚われ人だったのだ。

②悪魔、転落、深淵の側からの記述は次のようなもの。ボードレールは腐屍や性を歌ったが、悪魔の訪れにともなう腐敗は、物質からエッセンスをひき出し死につながるという意味で深淵のテーマであり、また性的な悦びは下降する悦びであり転落と挫折の精神に満ちている。転落と追憶は相互に関係していて、ボードレールは眠りを求めたり、「この世の外なら何処へでも」とあの世への憧れを書いたりしたが、死を愛することは無限の郷愁の中に生きることであり、転落の鋭い意識と相伴っているものだ。

③神の描き方も両義的で、例えば、「もっとも売春的な存在、それは神である」、「転落したのは他ならぬ神、別の言葉で言えば、創造は神の転落ではないだろうか」というボードレール自身の言葉や、「悪魔は変装をうけいれざるをえなかった神」というジャン・ジューヴの言葉を引用したり、罪と贖罪を同じものの表裏と見なしたりしている。
がこの辺りの議論は私には理解できないものでした。この本では嫌気がさすぐらい神がけばけばしく我を主張しているように感じました。日本人からすると、神というのはもっと厳かで、どこにいますか分からないぐらい存在の希薄な神秘的なものだと思うのですが。


 「ボードレールの墓」のキーワードは、苦悩、仮面、罪、売春などで、苦悩に焦点を当てているあたりは、エマニュエルの論に影響を与えているのではと思います。詩人らしく格調高くやや激した文章ですが少し分かりにくい。
① ボードレールの生涯の結節点として、『悪の華』の有罪判決に重きを置いている。そこから絶えざる苦悩の責苦が始まったとする。

ボードレールは、冒瀆的言辞、イロニー、戦慄のヴィジョンなど、魔的なるもの以外では、自ら崇拝するものを敬虔な態度で表現することができなかった。悪魔という仮面をつけて初めてキリスト教の血脈に連なる詩人たり得たのである。

③夢から生まれた散文詩は多く、また残された草案のリストには、夢が何よりもまして重要であることがはっきり表れている。もしもボードレールがこの異様な草案を作品として仕上げていたら、彼のシュルナチュラリスムはシュルレアリスムを予告するものになったのではないか。

ボードレールは後代の詩人の源泉となった。彼が創り出した深淵な修辞学には、マラルメ的統辞法が萌芽の状態で存在しているし、ランボーからは「第一の見者であり、真の神」と評された。


 この三つの論考のなかでは、フリードリヒのものが叙述に筋道が通っていて、いちばん分かりやすい。本のタイトルにもなっている「近代性」がキーワードで、前代のロマン主義からの断絶に焦点を当てています。
ボードレールの特色のひとつは批判的知性であり、後代の詩人たちがそれにもっとも影響を受けた。個人の存在に強く結びついた感傷や心情の陶酔に流されず、空想力を駆使して、非人格的な詩的構築を行なった。『悪の華』初版本は、100篇の詩を5群に分けて構成するというものであった。

②従来の月並みな美を拒否し、異様感をかきたてる香辛料を含ませようとした。そのひとつが大都会の汚物である。グロテスクなもののなかに理想主義と悪魔主義の衝突を認め、現実にはけっして起こりえない不条理の恐るべき論理を生み出す夢を讃美した。

ボードレールの詩の語彙は二つの対立する群に分類することができる。ひとつは闇、深淵、不安、荒廃、砂漠、監獄、冷たさ、黒い、腐ったなどの語群、他方には、昂揚、紺碧、天空、理想、光、純粋などの語。ボードレールは結びつかぬ両者を結合させる撞着語法を頻繁に用いた。その代表が「悪の華」という表現である。

ヴェルギリウス以来の詩作の伝統においては、響きは内容に重みをつけるためのものであったが、ロマン主義以降、とくにポーにおいて響きそのものを追求するようになった。気分→音韻→語彙→語群→主題という流れである。その背後には、言葉は人間が作ったものではなく、宇宙の根源である全一者に由来するという神秘主義思想があり、言葉を発することによって根源者との魔術的な触れあいを惹きおこそうとした。→これは西洋の言霊信仰と言えるのではないか。

ボードレールの創造的能力として挙げられるのは夢と空想力の二つである。夢は魔術的操作によって非現実を創り出すものであり、空想力は自由な精神が現実を離れて奔放に運動する能力で、グロテスクとアラベスク模様を生み出す。意味から解きはなたれたアラベスクの曲線模様という概念は、純粋な音調と運動の連なりである詩の言葉という概念に繋がってゆく。

 数学という概念を文学論に持ち込んだり、内容より音韻を重視したり、グロテスクなものとアラベスク模様を接近させたりした先駆者としてポーやボードレールの名を挙げていますが、さらにその先駆者として必ずノヴァーリスの名を書きとめているのがドイツ人ならではの特徴でしょうか。