:高田博厚の二冊

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高田博厚『パリの巷で―フランス三十年』(講談社 1960年)
高田博厚『フランスから』(みすず書房 1950年)


 この人もタイトルのとおり、フランスに30年も暮した人。初めて読みますが、名前は宇佐見英治らの雑誌「同時代」でよく見かけていました。本業は彫刻家らしいんですが、作品も見たことがありません。

 内容は、これまで読んできた「フランスもの」のなかではいちばん難しく、正直言って『フランスから』の「ゲーテとフランス」の章など、私のようなふわふわの頭では書いてあることが頭に入ってこないところも多々ありました。難しい文章を書く人特有の現象ですが、ひとりよがりで説明抜きの断定が多く、ていねいな思索があるというよりは勢いのある冗舌で韜晦しているという印象があります。

 昔の人間の悪しきタイプにありがちな、頑固で理屈っぽく、自己陶酔的で、文学的な気取りに彩られた文章です。権威主義的で、人名とか文学賞に対してありがたがる節があり、他人を批判ばかりしているのが目につきます。また金がないと言って病気の恋人から貰ったお金を別の女性に得意げに渡したり(『フランスから』p31)、前衛絵画を目指しながら病死した青年に対してまるで前衛絵画の天罰が当ったような書き方をしているのは(同p254)、この人は大丈夫かなと思ってしまいます。また西洋を崇拝するあまり、日本の美徳と言いたいところを痛罵しているのには(『パリの巷で』p99)反感を感じてしまいます。

 と悪いことばかり書きましたが、実際の行動においては、パリで苦労している貧乏留学生を助けるなど、なかなか面倒見のいい人のようですし、何よりもフランスの自然や風景、パリの街並みへの愛着は人一倍。また文学に対しても共感できる部分は多く、ドイツ・ロマン派や象徴主義に対する理解は頷けるし、ヴァレリープルーストを語る文章にはいろいろと教えられました。詩の引用も的確だし、訳もすばらしい。

 文章のトーンは、『フランスから』の「地中海にて」「復活祭の日に」「ある詩人へ」あたりが良質な部分だと思います。手紙文や紀行文の形なので、脈絡だって理路整然と何かを追求していくという評論的な文章ではなく、感性に訴える叙述ではありますが。「同時代」同人たちに共通する抒情性のようなものが感じられ、清水茂のフランスものを連想させられました。  

 この二冊を比較すると、『パリの巷で』は大衆向きの新書なので、「パリ案内」「パリ散歩」「パリ風景」「パリの季節」「パリ人情」など、旅行者向きあるいはパリ入門篇のような感じもあるなかに、ところどころ西洋と東洋の比較や、戦前戦後の比較などの論述が混じる構成。『フランスから』は真正面から自分の文学的素養を満開させたという感じで、抒情的な語りの部分と、やたらに理屈っぽい部分が混在しています。


 印象深かった部分を本人の文章でご紹介しておきます。
戦前は邦人もパリで貧乏ができた・・・生活の中に食いこんでゆくことができた。いまは貧乏もできない。金が無くなったら死ぬか帰るだけである(p172)・・・戦前の在巴邦人は人生そのもののように雑多不可解であった(p173)・・・ある上野音楽学校作曲家を出た青年は、半年ほどパリにいて、最後には私がつれていって、セイヌ河岸につないである救世軍無料宿泊所に収容してもらった。かれがパリで作曲したものは「念仏行進曲」と「飢餓行進曲」の二つだけだった(p175)・・・戦後の在巴邦人はどうか?これは一語でつきる。全部が計算されており合理的であり、それを踏み越えることはできない(p176)

フランス人は・・・手を拡げて外国人を迎える。ただ私たちの方が入って行けないのである。気楽に話し合える、このなんでもないことが実は非常に重大なのだが、日本人でそれができる相手は、結局カフェやバーに出入りする街の女が主だということになる・・・日本人がパリに立ち入れる一つの方法は感覚を通してだけであろう。それなら黙ってパリの街を散歩すればよいのである。パリの空気とその香を呼吸すればよい(p183)

王権力に宗教性神秘性を持たせなかったフランス人の意識・・・権力の絶対性を認めず、王の神格化を許さなかったキリスト教精神が大いに影響しているのだが、パリ市民が王を自分と同位の人間視したところに、貴族階級間のアンシクロペディストの自由思想や大革命の泉があった(p188)
以上『パリの巷で』


「美が既に在るものだ、というのもそれだね」「すばらしいことなのだ、ね。美が僕達以前にあるから、詩と夢を生む…」(p24)

ドイツ・ロマンティケルはフランス・ロマンティストよりもサンボリストに遥かに近いものがあり・・・ドイツ・ロマンティケルが内面の世界に入るにつれ益々「観念的」になる時に、フランスのサンボリスト達は益々「感覚的」に展開して行った(p105)

日本で戦争に加担したのが悪く、フランスでレジスタンとして戦ったのは宜い、というような簡単な対比ではないようです。ある意識の程度に於いては、日本で戦争を謳ったことと、フランスでレジスタンであった事は同位である(p123)

ロマンティスム・・・その「詩心」に於ける「無限」や「神秘」の要求と同時に、生活感覚に於いては「民衆」や「通俗」に接触した。此の動きの特質は「熱情」を本源としてあらゆるものが再び「新しく」採り上げられたことにある(p153)・・・それまで全く無視されていたゴティック芸術への讃美となり・・・遂には「国家主義」の土台となった。之は当時の「熱情」の氾濫状態を示す(p154)・・・ロマンティズムは純粋感情なるものを第一としたから、感性のあらゆる対照を採り上げて綜合するかのように見えたが、実際では寧ろ漠然としたものに止る運命を持っていた(p155)

小説の連続性が・・・結末に私達を引いて行き、また私達にそれを願わせなければならないということ・・・一つ一つには何の意味もない作品中の指定されたものが一つの全体を為してくると、人生そのものの生き生きとした興味と効果を生むことである(p211)・・・ここでは小説は正に夢に接近している。小説も夢も共に持っている次のような不思議な性質で定義できる。―それから遠ざかるもの一切がそれに属する(p212)(ヴァレリーからの引用)
以上『フランスから』より

 ちと引用が長すぎましたかな。