谷川雁『大地の商人』

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谷川雁『大地の商人』(母音社 1954年)

                                   
 イロジスム(非論理性)の観点から詩を読んでいます。前回取り上げた石原吉郎と同様、若き日情熱を燃やした谷川雁の詩を再読してみました。この本は最近、と言っても今から10年ほど前に買ったものです。昔読んでいた現代詩文庫の『谷川雁詩集』がどこかにある筈だといくら探してもでてきませんでした。ひょっとして処分してしまったのかもしれません。

 というのは、あれほど昔は熱中していたのに、いま読んでみると、憑き物が落ちたように色褪せてしまっているからです。谷川雁の詩はやはりあの時代の雰囲気と離しては考えられません。戦後の労働運動や学生運動など一連の社会運動の熱気はすさまじくて、若くしてあの時代に遭遇した人間なら、与する与しないは別に、避けては通れないものでした。

 谷川雁の作品の特徴のひとつは、そうした当時の社会運動につながる共産主義へのシンパシーが深く刻まれていることで、毛沢東北朝鮮も出てくるのは時代を感じさせますが、革命や社会運動を思わせる具体的な言葉がちりばめられ、また感情的には、決意表明や命令口調、断言など、パセティックな雰囲気が溢れているのが大きな魅力になっています。

 前者の例は、「くすんだ赤旗をひろげて行った/息子はもうおまえを抱かないのだから」(「母」)、「かれの背になだれているもの/死刑場の雪の美しさ」(「毛沢東」)、「警察の鞭で熟れはじめた桃の頬」(「丸太の天国」)、「おれたちの革命は七月か十二月か」(「革命」)、「あゝ未来の国家 それだけのこと」(「人間A」)、「割れもせぬ革命の手形をしのばせ・・・五時を指す尾行者の影にかこまれて」(「破産の月に」)。後者には、「鐘が一つ鳴ったら おれたちは降りてゆこう」(「革命」)、「東へ旅立つ人々よ/にくしみを夜明けの庭に植えて/立ちたまえ」(「異邦の朝」)、「おれたちの地区はますます青く/西の空は赤い」(「おれたちの青い地区」)といったものがあります。

 特徴のもうひとつは、詩句の意味がよく理解できないことです。比喩が多用され、その比喩に何か特別な意味が与えられているように感じ何となく分かるような気もしますが、結局は詩の全体の意味は明確には理解できません。しかし石原吉郎のときと同様、それが魅力につながっています。ひょっとして私の読みが足りないだけかもしれませんし、高木敏次のように完全な意味不明の世界にまでは行っていませんが、イロジスムの詩と言えるのではないでしょうか。

 例えば、この詩集の冒頭の「商人」をみると、「おれは大地の商人になろう/きのこを売ろう あくまでにがい茶を/色のひとつ足らぬ虹を//夕暮れにむずがゆくなる草を/わびしいたてがみを ひずめの青を/蜘蛛の巣を…」という詩句で始まります。どうやら詩人は大地の商人になることを決意していて、これら畳みかけるように列挙したもの「そいつらをみんなで//狂った麦を買おう/古びておゝきな共和国をひとつ」というふうに物々交換をしようとしていることがおぼろげに分かります。どうやら大地の商人とは詩人のことで、身辺のつまらぬもの或いはありもせぬ夢のようなもので、共和国という幻想を買おうとしていると言っているかのようです。しかし「それがおれの不幸の全部」なので、「つめたい時間を荷作りしろ/ひかりは桝にいれるのだ」とどこかへ旅立とうとしています。そしておそらく天上の人となった詩人は、最後の詩句「なんとまあ下界いちめんの贋金は/この真昼にも錆びやすいことだ」で、資本主義下の現実の商人の世界の偽善と虚偽と策謀を笑っていると思われます。的外れな解釈かもしれませんが、この詩を読むとき、無意識にせよそういった雰囲気が感じられるのです。

 いま読んで懐かしく思うのは、やはり「東京へゆくな」、次に「商人」「革命」「異邦の朝」「人間A」「おれたちの青い地区」です。最後に学生の頃愛唱していた「東京へゆくな」の前半部分を引用して終わります。

ふるさとの惡霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ