Hubert Haddad『La double conversion d’Al-Mostancir』(ユベール・アダッド『アル・モスタンシルの二重の改宗』)


Hubert Haddad『La double conversion d’Al-Mostancir』(fayard 2003年)


 ユベール・アダッドを読むのは、これで5冊目。最初に読んだ短篇「Le Secret de l’immortalité(不死の秘密)」があまりに衝撃的だったので、続けて読んできましたが、これまででは、同名の短篇集と『Géographie des nuages(雲の地誌)』が傑出していて、ほかの2冊はそれほどでもありませんでした。今回読んだ作品も、あまり感心できません。どうやら、アダッドは短篇に力の発揮できるタイプの作家のようです。以前読んだ日本を舞台にした長編『Le peintre d’éventail(扇絵師)』もそうでしたが、とくにアダッドの異境ものは失敗しているように思います。

 今回感心できなかったのは、分かりにくさで読書が停滞してしまうのが原因だと思いますが、私のフランス語読解力の乏しさはさておき、その分かりにくさの要素をいくつか考えてみると、まず人名がなじみのない中東の綴りで続出するほか、フランスの王の家系の名前が頻出すること(子どもが11人もいる)、さらに地名も聞いたことのないものが多い。次に、宗教の宗派の話や神秘主義的な言説が至る所に出てくること、そして、回想シーンと現在が段落分けもなく混在して描かれていること、があげられるでしょう。

 うまく要約できませんが、簡単に、あらすじを辿ってみますと(ネタバレ注意)、
十字軍遠征中のフランス王ルイが、チュニスでペストに罹り、死の間際にいる。そこに現地の羊飼いサイードが「羊代を寄こせ」と倒れ込んできた。自分にそっくりな男を見て、王は服を交換して逃亡する。あちこちを彷徨い、気がつくと、サイードの住まいに居た。母らしき人に見送られてまた旅に出る。が、太守アル・モスタンシルの牢獄に入れられてしまう。フランス人と見破られたのだ。そこで、囚人らと会話したり瞑想に耽ったりしていると、フランス王が死んだということらしく、釈放された。

(ここが謎だが一転場面が変わり)サイードは墓穴から蘇り、墓掘り人が驚愕する。最初は目が見えなかったが、見えるようになり、懐かしい地所に辿りつくと、そこにサイードの愛人が居て、二人は愛し合う。また旅に出て、村で子どもらに石を投げられ、村人から追われる癩者とともに教会へ逃げて、洗い場で傷口を洗った。癩者がその後に洗うと不思議なことに癩病が癒えた。奇蹟が村中に伝わり、連日教会に村人たちが列をなすこととなった。

奇蹟を知ったアル・モスタンシルから招かれ、宮殿に行くと、そこでは、各地からユダヤ教イスラム教、アルビ派などの学識者が招かれ、神学論争を行なっていた。最後にアル・モスタンシルから、奇蹟の秘密を尋ねられ、アラーの名をひたすら唱えただけと答えた。宮殿を出たところで、フランス王だったときの厩舎係ポンスに呼び止められた。ポンスは執拗に過去を思い出させようとして話しかけるが、すでにサイードとなっている王は彼を気違い扱いをする。そこを盗賊に襲われ、サイードは盗賊の剣を奪い取って防戦する。ポンスは相手の剣で死んでしまうが、かつての王の姿をそこに見た。

フランス王ルイは気がつくと、死の間際の床にまだ寝ており、司祭が立ち替わり現われた。ドイツ皇帝、モンゴル皇帝、天使ガブリエル、サイードの愛人、死んだはずの母、兄弟たちが次々と幻影となって出現するなか、死へと旅立っていくのだった。


 結局、タイトルの「アル・モスタンシルの二重の改宗」の意味が、「二重」も「改宗」もともによく分からないままに終わりました。アル・モスタンシルを改宗させようとして、実際改宗したのはフランス王の方だったのですが。邯鄲一炊の夢のように、王が高熱の病床で見た夢が長大な物語となって展開し、最後にまた病床の王の場面に戻るというふうに考えるのが妥当と思いますが、実際に、王の魂がサイードという羊飼いの体の中に入って展開する物語とも見えます。いずれにせよ、十字軍遠征中の王が、イスラム教徒の羊飼いになるという転倒した構図がこの小説のポイントです。

 著者の性向としていくつか垣間見えるのは、「科学とは所詮幻影の論理にすぎず、束の間の実用に供するものでしかない」(p140)というような科学蔑視。また、「理解するために信じる(credo ut intelligam)」(p75)というアンセルムスの言葉を引用するような格言好み。ちなみに、このラテン語の句は「信じなければ理解できない」というフランス語になって(p107)再び現われます。

 これらは、宗教的、神秘主義的性向に密接につながっているようです。エジプトのヒエロニムス、ボナヴェントゥーラ、クレルヴォーのベルナール、カンタベリーのアンセルムス、アビュ・イ・ハジャジュ、イブン・アラビ、ペルシアの秘教、アレクサンドリアグノーシスユダヤカバラ、自由聖霊派というような固有名詞がちりばめられていて、中世中東の神秘的な宗教カオスを外面的に描いた風俗小説という位置づけもできると思います。

 牢獄で王が神秘主義教説を思い出す場面や、アル・モスタンシルの宮殿での神学論争で、いろんな宗教的言説が断片的に紹介されていますが、表面をなぞるだけで深い考察がないのは、小説としての限界なのでしょう。結論めいたものとしては、10章の終わりに出てくる「物質から解き放たれた魂たちは神の前では一つの魂となる。一つの魂になるのなら、いろんな宗教や神学が競うのは無意味じゃないのか。ユダヤ教キリスト教イスラム教も、隠された一冊の聖書のまわりに群がっているだけだ。神は愛であり、愛とは他人の幸せを願うことだ。結局、我々は何ひとつ知らず、神をないがしろにしているだけ」(p151~2の要約)というような言葉に集約されると思います。

 死と再生についての場面や話題がたくさんありました。フランスの王位を継承する儀式のなかで、新しい王は亡き父王に身をやつして葬儀の床に横たわり、司教が杖で戸を叩くと、死の床から起き上がるという伝統(p55~56)。サイードに化身した王が死者として葬られようとしたときに、台車から転がり落ちて息を吹き返すという場面(p90)。また癩者の崩れた顔が白くきれいになった(p125)というのも再生の一種だと思いますが、いちばん重要な再生は、この物語のテーマの一つと考えられる死後の復活でしょう。

 もう一つ、いくつか出てきたのは、母なるものに包み込まれるというイメージや包み込まれたいという願望です。「夢が繊細に織り込まれた布地のような女性の手のなかで展開した。太陽や月が現われたあと、一人の巨大な女性がその光を吸い取り、その優しい胸を彼に寄せてきた」(p96)という文章、女性が呼びかける「私の胸で心安らかにお眠りなさい」(p104)という言葉、最後、死の床での王の「母よ、無限の光よ、そんなに早く虚無へと投げ棄てないでくれ!」(p173)という叫び。

 怪奇趣味的な興味から印象的だったのは、結末部分で、死の床にいる王の上に、死んだはずの妹が覆いかぶさると、顔が腐敗して唇が貼りつき、慌てて押しのけると、サイードの愛人の半開きの唇のきれいな顔になっているという場面(p172)、最初の方で、サイードが王の上に倒れ込んだとき、腐った唇が顔に貼りつくというのもこれと同じようなパターンでした(p17)。それと、サイードに変身した王が墓石に凭れていると、紐で繋がった盲人たちがやってきて、一つの数珠をみんなで手繰りお祈りを唱えながら、王のまわりを回り、その輪舞がだんだんと速くなっていくというシーンに(p61)、奇妙な味わいがありました。