HUBERT HADDAD『Un rêve de glace』(ユベール・アダッド『氷の夢』)

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HUBERT HADDAD『Un rêve de glace』(ZULMA 2006年)


 前回読んだ『Géographie des nuages(雲の地誌)』が出色の出来ばえだったので、勢いこんで読みましたが、若干期待外れ。アダッドの小説の処女作のようです。そのせいか文章が凝っていて、単語も聞きなれないような語彙が出てくるのと、途中で改行もなく子どもの頃の情景に切り替わることがたびたびあり、初心者には読みにくい作品となっています。

 私が期待外れなのはもう一点。編集者は「序」で、この作品の魅力を、詩的な雰囲気と、あわいを探る力にあると書いています。たしかに現実と幻影、妄想の混淆があり、幻想小説の部類には入るものと思いますが、物語があまりにシリアスすぎてモダン。私が好むような懐旧的で夢幻的な雰囲気はありません。主人公の頭のなかでは夢幻的かもしれませんが、残酷で猟奇的な性向には共感ができません。


 話の内容を簡単に要約すると(ネタバレ注意)、
かつて医学生だったが、モルヒネ中毒のために指導教官から追放され、今は病院に付設された死体安置所の警備員をしている男が主人公。医学生時代に好意を寄せていた女性患者を指導教官が手術の失敗で死なせたことと、自分が追放されたことへの復讐を図ろうと、待ち伏せして尾行し銃で撃つ。慌てていたのでウィンドーに映った影のほうを撃ってしまった。指導教官はガラスで頭を傷つけられ、それがもとで精神に異常をきたす。

ある日、死体安置所に運ばれてきた若い女性の死体を見ると、指導教官の若い妻エヴァだった。手首を切って自殺したという。警備員は一目でその屍体に恋をし、死体安置所から近くの自分の部屋に運び込んで、眺めすがめつしていると、心臓のところに小さな穴が3つあるのに気づく。指導教官は鍼灸の専門でもあり、急所を心得ていた。

葬式の前日、警備員は、やはりエヴァを窓越しに見て恋し通夜にやってきた男から、エヴァが夫から虐待されていたことを聞く。警備員は殺人を確信し、その男に心臓の小さな穴が死因だと告げる。男は「正義は復讐する」と叫んで駆け出す。警察沙汰になればエヴァが解剖されると恐れた警備員は、その日、何もかも棄てて、エヴァを車に乗せて、幼いころ過ごした海辺の館めざして逃亡する。途中、警察が逃げた警備員を追っているというニュースを聞く。

その館の青い部屋で、幼い頃、誰もいないとき、若い叔母(?だと思う)が突然死に、なすすべもなく屍体がそのまま腐敗していく様子を見るという酷い体験をした。主人公は、青い部屋を冷蔵室に改造し、エヴァとともに永遠の生を生きようとする。警察がその館に捜査に入ったとき、青い部屋は氷の洞窟のようになっており、霜のなかで二人は凍りついた姿で横たわっていた。


 この粗筋だけでは、死体安置所の不気味な雰囲気、嘔吐を催すような解剖の様子、主人公が屍体を愛でる妖しい雰囲気を伝えることができないのが残念です。おそらくそれがこの小説の大事な部分だと思うからです。アダッドがいちばん描きたかったのは、最後に警官たちが館に踏み入ったときの青い部屋の情景だったに違いありません。冷凍技術を身につけた主人公が配線をして部屋を巨大な冷蔵室に仕上げており、床には氷の柱が乱立しまるで洞窟のようで、氷が降りかかるなかを警官たちが滑らないようにそっと進むと、ベッドの上に、寄り添う二人の姿が霜で覆われてかろうじて見えた、という場面。

 この小説は、病院に付設された死体安置所という設定が決め手です。主人公は元医学生で死体安置所の冷蔵室を冷凍技師と一緒に作りあげましたが、それはかつて叔母の屍体を腐敗させたことの悔恨がトラウマとなっているからです。途中で何度も、氷の夢、氷の命令と言った言葉が出てきますが、それは、死体安置所の冷蔵室と呼応するもので、エヴァを冷凍設備で長く保って行こうとする情熱のもとになっています。それが氷の命令ということなのでしょう。

 叔母の屍体が腐敗していく様子を描いたところは、小町の九相図のようなところがありました。美しく艶やかだった顔立ちが窶れて、唇は蒼くなり、手に染みができ、さらに時が経つと、顔が黄色くなって目のまわりに隈ができ、唇は枯葉のように割れた。また時が経ち、顔は木から落ちた果物のように斑になり、肌は黒ずみ、唇から歯が剥き出しになって、蠅が目のまわりにたかった、というもの。しかしエヴァの屍体を運ぶ場面では、屍体を長時間平温にさらしておいて腐敗の兆候すらないことや、冷蔵室のなかで普通の人間がしばらく留まっていられることなど、若干荒唐無稽な印象があるのは否めませんでした。