アルベール・カミュ『ペスト』

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アルベール・カミュ宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫 2020年)


 奈良日仏協会の催しで、「カミュ『ペスト』を読む」という講演会があったので、原作を読んでおこうと手にしました。最近のコロナ騒ぎに見られる社会現象を考えるうえで参考になるかなという関心もありました。恥ずかしながら、学生時代に読んだ気になって、実は読んでなかったのです。


 読んで驚いたのは、今日のコロナ禍での状況とよく似たことが書き記されていることです。例えば、人々が陥った状況としては、町が閉鎖されたことで、突如別離の状態に置かれ、相見ることもできなくなったこと(p96)、活動的な生活が送れず閑散な身の上となり、虚しい追憶の遊戯にふけるしかなくなったこと(p101)、ひょっとすると一年、あるいはもっと続くかもしれないという不安(p103)、病人の家族たちは病人が全快もしくは死亡しないかぎり二度と会えなくなったこと(p130)。

 社会の変化としては、感染予防のためのハッカのドロップが薬屋から姿を消したこと(p165)、観光旅行の破滅(p168)、兵士、修道者、囚人など集団生活の人々の間に猛威を振るい、牢獄内では所長から軽微な罪人まで平等に正義が宣告されたこと(p251)、犠牲者の累増が墓地の収容能力をはるかに越えてしまったこと(p261)、貧しい家庭は苦しい事情に陥っていたが、富裕な家庭は不自由することがなかったこと(p350)。

 ペストについての解釈などさまざまな言説としては、ペスト感染初期の段階で穏便に済まそうとする一派(自治体の長や一部の医師)と早く対処を求める一派(主人公をはじめとする医師)の対立があったり(p71~76)、アルコールは伝染病を予防するという都合のいい観測が出たこと(p115)、男がおれはペストにかかったとわめきながらいきなり出会った女に飛びかかり抱きしめたという事件の噂(p116)、感染していないという証明を出したとしても、病院を出てからすぐ感染する可能性があるので、なんら保証できないという意見(p125)。

 現在のコロナ現象との明らかな相違点は、ペストの方が致死率が高いこと。しかし空気感染にまで至っていないので外出禁止はなく、カフェや集会など大勢が集まる場所での人々の交流が盛ん。それでこの小説も成り立っていると見ることができます。またデジタル社会でないので域外との通信手段が電報しかないこと、比較的早期に血清ができたので、4月に発生したペストは翌年1月、1年もたたない間に終息に向かったこと。


 この小説の面白さを特徴づけているのは大きく三つあると思います。ひとつは、アルジェリア港湾都市オランがペストに冒されるというSF的な設定で、それが克明なリアリズムでノンフィクション風に報告されていることです。実際に、物語全体は匿名の筆者によってルポルタージュとして語られるという仕組みになっており(最後のほうで、それが主人公の医師リウーであることが分かる)、途中でところどころ、友人タルーの手帳からの引用が交えられたりして、一つの社会のなかで、刻々のドラマが展開していくのをくっきりと浮かび上がらせるのに成功しています。

 さらに重要な要素は、ペストのなかで生きる人物のエピソードを積み上げているところです。妻を町の外の病院に入院させたあと町が閉鎖され別離の状態となった医師リウー(妻の死を知らせる電報を手にし平静を装うのは何とハードボイルド!)、父親が検事で死刑を求刑している姿を見て以来人に死を求めることを拒否しこの町に逃亡してきたタルー(人に死を求めるペストに対し自ら保健隊を結成し戦うが、結局ペストが終焉した頃にペストで死んでしまう)、秘かに小説の推敲に没頭しているしがない役人のグラン(ペストにかかって死の間際まで行くが血清が効いて治る)、たまたま取材に訪れて町に閉じ込められ恋人に会うために何とか脱出しようともがくランベール(逃げるチャンスが与えられた直後に町に留まることを決意する)、密告者の影におびえるどうやら犯罪者らしきコタール(ペストで人々が自分と同じに疑心暗鬼になり生きやすくなったと喜ぶがペスト終焉で発狂してしまう)、最後まで神の恩寵を信じながら治療を拒否しペストで死んでいくパヌルー神父、息子をペストで失ってから保健隊に参加するオトン判事など、カミュ的なテーマを具現したかのような癖の強い人物たちです。人物の造形が演劇的なのは、カミュが若い頃に演劇活動を行なっていたことがベースにあるのでしょう。

 もう一つの要素は、登場人物たちの会話からうかがえる、ペスト下での人間の生き方についての議論、神の恩寵を説く神父の説教、その神父とのあいだに繰り広げられる神学問答など、精神的な探究の様子が記録されていることです。カミュの大学の卒論テーマが「キリスト教形而上学ネオプラトニズム」とネットで知りましたが、神父の説教や神学問答にはそれが反映しているようです。人生論的、思想的な文章がちりばめられていることと、人物が観念的な枠組みのなかで動いているのを見ていると、この小説は評論ではないかとすら思えてきます。

 議論の内容は、実はよく理解できたわけではありませんが、いくつか拾ってみますと、
①緊急事態での身の振舞い方で、眼の前にある病気を何と呼ぶかは重要ではなく、患者が死んでいくのを防ぎとめること、できるだけ早く治療することが重要と主張し、それはヒロイズムでなく誠実さの問題と言い切る医師リウーの態度が印象的。

②神との関係では、「もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて・・・神に任せてしまうだろう」(p185)と言う無神論の現実主義者であるリウー医師と、「われわれは神を憎むか、あるいは愛するか、選ばねばならぬ・・・何びとが、神を憎むことをあえて選びうるであろうか」と主張するパヌルー神父のあいだに、いくつか議論があります。罪がないのに苦しみながらペストで死んでいく子どもを前にして、「われわれに理解できないことも愛さねばならない」と言うパヌルー神父に対して、「こんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」と言う医師リウー。「司祭が医者の診察を求めるとしたら、そこには矛盾がある」という神父の言葉をタルーは次のように解釈します。「罪なき者が目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受けいれるかだ」(p339)。

③幸福については、次のような議論がありました。「彼らは・・・不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった・・・まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」(p268)。また、恋人のもとへ脱出を図るランベールを励ますリウー医師の「幸福のほうを選ぶのになにも恥じるところはない」という言葉に対して、「しかし、自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです」(p307)とランベールは答えます。


 物語の最後のほう、友人タルーの通夜の席で医師リウーの洩らす次の言葉には、カミュの文筆にかける思いが表われていると思います。「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!」(p431)。

 例えば、リウーとタルーが議論をした後、やにわに二人で服を脱いで夜の海で泳ぐシーンとか(p383)、バルコニーから紙きれを蝶々に見せかけて飛ばし集まってきた猫に唾をかけて喜んでいる老人が登場するのは(p38)、一見本筋とは関係のない無意味なことのように思えますが、実はこうした部分があることで、この作品を小説として救っているのだと思います。あまりに理論や観念でがちがちになった世界は面白くも何ともありませんから。