:富田仁の四冊

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富田仁『読書探訪 ふらんす学の小径』(桜楓社 1979年)
富田仁『フランス語事始―村上英俊とその時代』(NHKブックス 1983年)
富田仁『長崎フランス物語』(白水社 1987年)
富田仁『日本のフランス文化―日仏交流の斜断譜』(白地社 1993年)


 刊行順に並べています。この4冊は、いずれも幕末から明治にかけての日仏間の出来事、交流、影響について書かれています。初めの『ふらんす学の小径』で取り上げられているテーマのひとつひとつの詳細を発展させたのが後の三冊という見方ができるでしょう。


 テーマごとに各冊の重複を整理すると、
①フランス語がどのように学習されていったかについては、『フランス語事始』がもっとも詳しく、他の三冊にもかなり言及があります。
②フランス人神父の日本での殉教と活動については、『長崎フランス物語』第一章と第三章に詳しく、他の三冊でも少しずつ触れられています。
③フランス人商人ピニャテールの話は、『長崎フランス物語』第五章に詳しく、『ふらんす学の小径』でも一文があります。
①〜③以外のテーマでは、『日本のフランス文化』に、日本語化したフランス語の話、ナポレオンとフランス革命に対する日本人の見方、「少年世界」に紹介されたフランスの出来事など独自の内容が見られました。また『ふらんす学の小径』には、リヨンとの文化交流、ニール号破船事件など他にない話もありました。


 フランス語を日本人で初めて1808年に勉強し始めたのは長崎通詞たちで、ロシアの艦長がエトロフ島で狼藉を働いた後残したフランス語の文書を読もうとしたことに端を発していること。それが先生の帰国で途絶した約30年後、まったく独自にフランス語の勉強を始めた村上英俊も、オランダ語のつもりで注文した本がフランス語訳本で届き、再発注するには金も時間もないということから、フランス語の学習を始めたという。いずれも偶然が大きく作用している点が面白い。

 村上英俊はまずフランス文法を5ヵ月かけて勉強したが、まったく読めなかったので、今度は蘭仏辞書を丸写しして覚え、結局16ヶ月かけてその本を読破したと言います。本を読むには文法よりも単語熟語が大事ということがよく分かります。英俊はその後、蘭英仏日・仏英独日・仏英蘭羅日の各国語を対照させる辞書や仏和辞書の編纂に取り組んだほか、日仏修好通商条約の翻訳に携わったり、幕府の外交文書翻訳・教育機関である藩書調所の教授手伝を務めたりしています。その後フランス語の私塾を開き、中江兆民ら430人以上に教えたようですが、英俊自身は完全な独習だったので、先生のフランス語はフランス人には通じないという評判が立ち、門人は他の塾へ散っていったと言います。

 実際にフランスの地を踏んだ箕作麟祥が発音にすぐれていた点で人気を集めたようですが、その箕作すら、福地源一郎によれば、会話はできなかったらしい。また当時もっともフランス語が堪能であったとされる教授入江文郎ですら、代名動詞の複合過去の助動詞をavoirとする初歩的な誤りをしたと言いますから、先達たちにもフランス語はなかなか難しかったようで、安心しました。

 塾を閉じた村上英俊は、妻を亡くし、ひとり息子も放蕩三昧で、生計を立てるために医薬の製造を試みて失敗し、落魄の身となりますが、晩年、東京学士会院の会員に選出され、フランス政府から勲章を授けられ、仏学会の名誉会員に推されるなど、日本初のフランス語学者としての栄誉を受けることができました。最後が良かったから幸せだったと思います。


 フランス人神父については、クールテ神父が日本の土地にはじめて足を踏み入れたフランス人とされています。彼は他の3人の神父とともに1636年マニラから琉球へやってきて直ちに捕縛され、薩摩、長崎へと移送され、拷問の末処刑されました。1617年以降毎年2〜7名の宣教師が潜入し、1622年には宣教師、信徒、彼らを匿った者ら55名が火刑に処せられ、翌23年には9名の宣教師が殉教しています。そんな日本に渡ろうとする宣教師が絶えなかったことは驚きですが、そこに「殉教への渇望」があったという指摘を読んで、今日のISの戦闘員と現象は異なるとはいえ精神的には共通するものを感じてしまいます。一方、禁止する幕府側からすると、彼ら宣教師は植民地化の手先と見えたようです。

 その後、200余年を経た1844年、またフランスから神父たちが琉球にやってきます。通訳官に身を扮した二人を、強引に小舟に乗せて陸に送りつけ、琉球側もこの頃は拷問や処刑ということもなく、2年間軟禁同様に滞在させたと言います。1855年にも三人の神父を同様に送りつけています。この頃のフランスのやり口は、他国との競争意識からか強引で、同年ゲラン提督が230人の兵を率いて首里王府に銃剣を閃かして突入し、武力でもって琉仏和親条約を締結させたり、1858年には、幕府が制するのにかまわず、グロ全権公使が船で品川沖まで乗り込んだりしています。この時品川に上陸した通訳カションと秘書ド・コンタードの二人が日本本土の土を踏んだ初めてのフランス人ということです。

 布教の方はどうかと言えば、ずっとキリシタン禁令のために外国人宣教師の入国は許されていませんでしたが、ペリーの来航で情勢も変わり、1859年にはジラール神父が日本教区長として琉球から横浜に着任。その後、1864年長崎に外国人居留者の礼拝のためという名目で大浦天主堂ができるなど、少しずつ緩和されていったようです。しかし明治政府になっても、依然キリシタンは禁制であっため、欧米を訪れていた岩倉使節団が、日本のキリシタン迫害に対するきびしい反撥、抗議を受け、禁制を解かなければ交渉ができない旨本国宛電報を打ち、1874年ようやくキリシタン禁制を撤廃したということです。

 その後の活動では、長崎の出津(しつ)に教会を建て、二年後には保育所を併設した修道院として200人の子どもを面倒みるまでになり、貧しい人びとに福祉事業としてパン、マカロニ、ソーメン、織物などの技術を教え、「ド・ロさまソーメン」が今日も伝えられているというド・ロ神父、貧しい子どもたちのための教育施設や婦女子のための語学校を設けるなどし、後の雙葉学園の基礎を作ったマティルド修道女の活動が印象的です。


 フランス人商人ピニャテルの話は、『ふらんす学の小径』でも殺伐とした資料の記述の中にあって、そこだけ、ぽっと明かりが灯ったような温かい雰囲気で、慰められました。リヨン出身の父子が長崎で、時計、理化学機械、洋酒、織物などを輸入するピニャテル商会を始め、西郷隆盛などもやって来たそうです。息子ヴィクトルが24歳のとき父が亡くなり、その後一人で事業を発展させますが、丸山遊廓の正木という美妓を愛するようになり、落籍して二人で一緒に住むことになります。が、わずか3年で正木は病気で亡くなりました。

 正木の死後、ピニャテルは人が変わり蓄財一筋の人間になって、身なりにも構わなくなり西洋乞食とあだ名されるほどだったと言います。長崎医学専門学校に教授として在職中の斎藤茂吉がピニャテールのもとを訪れたとき、正木の死後40年以上も経っていたのに、正木の枕がまだ寝床に置かれていたのを見て歌に詠んでいます。
うら悲しきゆうべなれどもピナテールが/ふしどおもひてこころ和まん
寝所には括枕のかたはらに/朱の筥枕置きつつあはれ

 ピニャテルの死後、その寝室から30万円という大金が発見されたと言います。5万円あれば一生暮らせるという時代に。


 その他、印象に残ったものとしては、
蘭学事始』で杉田玄白が、漢学と蘭学を比較し、「漢学は章を飾れる文ゆゑ、その開け遅く、蘭学は実事をそのまま記せしものゆゑ、取り受けはやく、開け早かりしか」と書いているのは同感。玄白は、漢学の素養があったからこそ蘭学が発展したと補足をしています(『フランス語事始』p39)。
1846年頃にはアメリカの捕鯨業は最盛期を迎えており、日本近海で操業する船は300隻を数え、難破して日本に漂着する乗組員もあり、避難と飲料水などの補給のために港を日本に求める動きがみられるようになっていたこと(『フランス語事始』p55)。
幕府によって設置されたフランス語伝習所は、新政府に接収された翌年兵学寮に合併され、幼年学校と名称を改め、名実ともに陸軍の軍人養成機関となっていったが、これは幕府がフランスの軍事力を学ぼうとしたところからの延長線にあるもの(『フランス語事始』p138)。
ジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』の翻訳者川島忠之助は、フランスから技術を導入した富岡製糸場の通訳官であり、のちに横浜正金銀行に入り、リヨンで出張所長になった(『日本のフランス文化』p78)。永井荷風の先輩にあたるわけです。
「少年世界」の記事を読んでいると(『日本のフランス文化』p262〜3)、文体の変化が分かって面白い。明治30年10月の記事では文語で書かれているのに、明治31年2月号の記事では言文一致体になっています。調べてみると言文一致運動は明治21年頃から始まっていて、明治末頃までは文語口語が混在していたようです。