:戦後フランス短期滞在の本二冊

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土岐健児『フランス再会』(蝸牛社 1975年)
九野民也『パリ・暖炉のある部屋で―フランス俳句紀行』(角川書店 2003年)


 今回はいずれも戦後もずいぶん経ってからフランスに渡った人の書いた本。土岐健児は1916年ごろ生まれで1974年春に1か月ほど滞在、九野民也は1939年生まれで、1993年冬から94年春まで5か月ほど滞在しています。共通しているのは、二人とも時事問題についての話題や文化比較のような抽象的な議論がほとんどなく、見聞きした体験を大事にして書いていること。また片方は短歌、片方は俳句を作り、双方ともスケッチを描いていることです。文中にも出てきます。絵は九野民也のほうが滑稽味があって味わいがあるように思われます。二人の絵を比較してみてください。
土岐九野

 『フランス再会』の土岐健児は、一高で内藤濯や川口篤、石川剛らにフランス語を習い、その後30年近く勤めていた三井金属鉱業を退職してから、若い頃の情熱を思い出して日仏学院でフランス語を学びなおしたということです。そのうちにフランスへの思いが断ち難くなり、ついに単身フランスへ渡ることになりますが、フランスに着いてから、「バルザックによく似た果物屋のおやじもいた。シュヴァリエが片目をつぶり、アナベラが笑っている。ジャンギャバンもいれば、ヴェルレーヌもうろついている」(p10)と感激を記しています。

 旧制一高の教養主義ということがよく言われますが、この人も経済人なのに文学や歴史に造詣が深く、短歌や絵心も持っていて、幅広い教養がうかがえます。いくつか自作の短歌が披露されていますので、ひとつ紹介。「池にうつす影うつくしきアゼ・ル・リドーも ふたたびは見ざらんと立ち仰ぎたり」(p20)

 サラリーマン生活を終えて、フランス語を学びなおしているというところは、なんとなく私と境遇が似ているような気がして親しみをおぼえます。それにしても高齢になってから、単身1ヵ月も滞在するのはたいへんな勇気だったと思われます。「どう頑張ったところで私が、フランス人なみのフランス語をしゃべれる道理はない。いい格好をしようと思う気持ちさえなければ、十分会話も楽しめる」(p128)と書いているあたりは見習わないといけません。

 土岐善麿が帯の推薦文を書いているのは、姓も一緒だし、親戚なのでしょうか。年齢から考えると、ひょっとして息子さんかも。


 『パリ・暖炉のある部屋で』の著者は、フランス文学者。文中から推測すると大阪芸術大学のフランス語の先生で、海外研修的な休暇をもらって渡仏したものと思われます。もともと俳句の好きな方のようで、この渡仏に際しても、「パリに生活して・・・俳句の世界にどれほど共感をおぼえることができるだろうか」(p32)とか、「フランス人は、春の到来をどんなときに感じるのだろうか」(p39)という問題意識から、フランスでの生活を体験しようとしています。

 それで、著者はフランスに着いてから、本屋に行って俳句をフランス語に訳した本を大量に買い込み、それを読み、訳されたフランス語をまた日本語に訳し直すという試みを行っています。例えば、「夕霞おもへばへだつ昔かな」(几菫)→「brume du soir/ pensant à autrefois/ comme c’est loin」→「夕方のもや/昔を思うと/なんと遥かなことであろう」(p29)という具合。

 引用されている江戸時代の俳句は、現代の句に比べて、奥深くてなかなか味があります。少しの句を読んだだけで簡単には言えませんが、現代の句は写生という言葉にこだわりすぎて、平板な寸景句になってしまっているような気がしてきました。古人の句には動きや思いがあり、宇宙に広がるようなスケールの大きさが感じられます。気に入った句をいくつか引用してみます。
落花枝に帰ると見れば胡蝶かな(守武)/p25
なきははや海見るたびに見るたびに(一茶)/p30
冬枯や世は一色に風の音(芭蕉)/p33
遅き日のつもりて遠き昔かな(蕪村)/p101→これは中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の元歌のように思えます
雲を呑んで花を吐くなる吉野山(蕪村)
花に来て花にいねぶるいとまかな(蕪村)/ p183

 著者の自作の句も引用されていますので、少し紹介。
母の声われ水底の貝の耳/p158
さざ波や帰らぬ日々のよみがえる/p173
月ひとつ聖夜の町をとおり過ぐ/p227→これはどこかで見たことのあるような。
牡蠣食うて海の深さを尋ねけり/p241→これも。
ma femme est partie/ que dois-je?/ solitude/p246


 日誌にはやたらと乞食を見たことが書かれていましたが、この時代はパリに乞食が多かったのか、それとも著者がそればかり気にしていたからでしょうか。