:戦後のフランス滞在記二冊

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朝比奈誼『デカルトの道から逸れて―フランス語教師の回想』(小沢書店 1998年)
桜井哲夫『サン・イヴ街からの眺め―フランスの社会と文化』(ちくま学芸文庫 1993年)


 これも読んだ順なので、著者の年齢に少し開きがありますが、この二冊はほぼ同じ時期にパリに滞在した時の話で、1980年代終わりから1990年代初めころのフランスについて書かれています。世界ではソ連が崩壊し、日本では昭和天皇が亡くなり、またバブルが絶頂を極めた時期です。片方はフランス文学者、もう片方は社会学者ですが、いずれも硬派な印象。

 朝比奈誼は、以前『フランス語 和訳の技法』という本を読んで、感心した記憶があります(2012年1月4日記事参照)。分析が鋭く、緻密な思考で、先人の誤訳をこっぴどく暴いていました。この本でも、よく考え抜かれており、その跡が辿れる筋道だった文章で、分かりやすく説得力があります。例えば、「『最後の授業』の読み方」では、ドーデが改稿を重ねるごとに、剥き出しの言葉を排除し、情景を簡素化させていく様子が明らかにされ、それによって感情のスムーズな盛り上がりに成功していることが解説されています。また、「ある展覧会評によせて」では、新聞の批評を取りあげ、「肩透かしのレトリック」や「条件法の連発」という文章上の特徴から、その評の皮肉っぽいトーンを明らかにしています。いずれもフランス文に詳しい著者ならではの芸当です。

 世代的な特徴だと思われますが、前回読んだ新倉俊一あたりから、実務的な印象を受けるようになりました。この本も文学者にしては即物的で、これまでの古い世代にあったようなフランスに対する憧れのようなものは感じられませんでした。ほぼ私と同世代の桜井哲夫の本は、さらにそれがひどく、やたらと数字が出てきて、フランス社会を統計的に叙述しようとしています。この味気なさは、これまでの憧れにみちたパリものの否定の極北に位置するのではないでしょうか。言葉を換えれば、もはやフランスも日本も対等の位置にあるという意識の表れでしょう。

 下宿探しの苦労、アパートでの水漏れ事件、自力での家の修繕など、一種のパリ騒動記という前半部分と、フランスのテレビ事情、テレビを通して見た政治文化、子どもの実態、さらにフランスから見た日本の姿を論じた後半からなります。ありのままのフランスが描かれているのは、社会学者ならでは。この目線をさらに低くしたのが玉村豊男の著作群ということになるのでしょうか。

 知らなかったフランスの事情がよく分かりました。例えば、ヴァカンスで長期間の休みを取っているのは管理職だけで(82.7%)、農民は少ないこと(22.9%、1987年の資料)、テレビのドラマ・映画のコマーシャルによる中断は一回以上を禁ずるという法案があること(1988年成立)、家庭内事故で死亡する15歳未満の子供の数が毎年700人にものぼることなど。


 印象に残った個所を下記に。

岡倉天心・・・がこれこそ西洋人の欠陥として批判したその指摘が、今では日本人に当てはまる/p93

こと小説の読み方に関するかぎり絶対的な真理のごときものはありえないこと、裏を返すなら、どんな読み方にも別解の余地がある/p155

以上、『デカルトの道から逸れて』

ユダヤは自然を呪いながら、自然から逃れた。この種の恐怖に忠実だったキリスト教は、動物という自然を人間から無限に遠い所に置き、格下げしたのである・・・かくて、動物愛護は、カトリック教会勢力と対決する共和派によって担われた/p79

日本のやくざ映画・・・閉ざされた世界であり、他者のいない世界である。従ってこの世界では、殺される側は徹底的に悪役であって、見る側が全く感情移入できないように仕組まれている。つまり、殺す側の目を通して浮かび上がってくる心象世界のみが描かれ、殺される側の心象世界は、全く浮かび上がってこない。つまりは私小説なのである/p190

日本のテレビコマーシャルで外国人(それも白人)タレントばかりがもてはやされるのか・・・明治時代に進化思想を受け入れたとき、人類の進化と文明の進歩とを簡単に同一視してしまったせいである/p199

フランス人は、あいかわらず王様が好きなのである。皇帝ナポレオン一世も、ナポレオン三世も一種の王様だったし、第五共和制ド・ゴール以来の大統領もその強大な権力から言えば、王様のようなものである/p244

以上、『サン・イヴ街からの眺め』