:加藤美雄『わたしのフランス物語』二冊

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加藤美雄『わたしのフランス物語―第二次大戦中の留学生活』(編集工房ノア 1992年)
加藤美雄『続わたしのフランス物語―第二次大戦中の留学生活』(編集工房ノア 1994年)


 著者は、三高、京都大学で学び、フランス給費留学生として、第二次世界大戦直前のパリに渡り、約1年滞在、帰国後フランス文学者として大学で教えていた人。定年後、日誌をもとにして当時を回想したもので、ともに大部な本です。克明な日誌をつけていたようですが、思念や感情を書き留めるよりも事実の記録に重きをおいていて、この本もそれを反映した記述となっています。

 フランスのクリスマスやお正月での町や家庭の雰囲気、ときおり在住日本人を集めて行われる大使館でのパーティ、往き帰りの船内の様子、またフランスがドイツに降伏するまで、刻々と変化していく町や人々の様子が報告されているのが貴重。ドイツ軍が侵攻してくるというので、著者がボルドーへいったん避難した後またパリへ戻ってきたとき、一般の飲食店、カフェ、レストランはそれほど変化はなく、また占領下でも芝居は続けられていたと言います。

 『続わたしのフランス物語』の「まえおき」で、読者から「心の動きの振幅とともに表現してはどうか」という意見があったと書かれていましたが、芝居以外は興味の薄い人のようで、文章全体に熱があまり感じられませんでした。これまで読んだフランス滞在記では、森有正のように観念的思弁的で熱く語る人、柳澤健のようにフランス詩への思いの溢れた人、小島善太郎のように求道的な態度がにじみ出た人が印象的でした。どうも人間には思念や感情に溢れ溺れるような人と、事実に即して淡々とした人の二種類あるのではという気がしてきます。それが浪漫派と古典派の二系統に反映されるということでしょうか。

 読んでいて羨ましかったのが三つあり、一つ目は、三高、京大時代に著者が受けたフランス語の授業。週6日、11〜12時間、優れた先生方からフランス語の文法を暗記させられ、比較的長文の詩や散文を暗誦させられたと書いてありました(『わたしのフランス物語』p17)。語学は丸覚えから入る方が上達が早くなると思いますが、私らの大学ではそんな授業はありませんでした。二つ目は、よく古本屋に行っていること。セーヌ河岸はもちろんボルドーでも古本屋まわりをしています(同p203)。三つ目は、コレージュ・ド・フランスポール・ヴァレリー詩学に関する講義を聴講していること(同p72)。


 私にとって新しい情報がいくつかありました。
①京都の市電がむかし京都駅から木屋町通りを北上して二条で西に折れ、寺町二条で再び北に曲がって御所の東側を北上し、出町柳まで走っていたこと(同p13)。
②パリの日本館が一時閉鎖されていたことがあるが、それはフランス政府が軍の病院として徴用しようとしたため(同p67)。
第二次世界大戦フランス軍が敗けた時、ペタン元帥がお昼のラジオ放送で国民にメッセージを送ったそうで、フランスでも玉音放送のようなものがあったということが分かった(同p191)。
④ドイツ占領下でもフランス語の新聞は発行されていたが、戦況はほとんど書かれておらず、ドイツ西部の町々、ときにはベルリンにも空襲があったことは載っていなかった(『続わたしのフランス物語』p103)。