:日本人のフランス滞在もの最終回の二冊

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久野収『日本遠近―ふだん着のパリ遊記』(朝日選書 1983年)
小沢正夫『フランスの空の下―国文学者の西洋見学』(和泉書院 1988年)


 続けて、フランス留学記、滞在記、旅行記、遊記などを読んできましたが、さすがにそろそろ飽きてきたので、この辺でいったんお休みとします。この二冊はいずれも学者であっても、フランス文学哲学とは別の分野の方によるフランス滞在記となっています。『日本遠近』は、哲学者であり社会活動家でもある著者が奥様とパリで半年滞在した時の記録を中心としたもの、『フランスの空の下』は、国文学者の著者がフランス人の日本文学者との交流のためにフランスやスペインへ行った時の話を中心に、フランスの日本文学研究など比較文学的な評論を収めています。

 『日本遠近』の著者久野収については、学生時代によく名前は聞きましたが、何も読んでおりませんでした(の筈)。今回読んでいて、いちばん評価できると思ったことは、やはり哲学者らしく、パリでの自分の経験をもとに実直にいろいろと考えていることです。フランス語を喋ることについての考察とか、フランス人と日本人の会話のあり方の比較、写真などの知識にはない体験の重要性を語ったり、日常的に芸術的な環境に触れることで人々が文化を支えているフランスの文化のあり方を発見したり、街路を自分の住居とみなす遊民たちのイメージがヒーローであるとして、ロマン主義の主人公から、ボードレールのダンディズム、映画の中のアンチヒーローに至る系譜を考えたり、貧乏な学生ほど公共活動へ少ない原資を投入している実態を見て、人間社会の深いパラドックス的真理なのかと慨嘆したりしています。

 他にも、日本の発信力が弱いことを憂いて、「少なくとも朝日、毎日、読売、共同の四つぐらいが資金を出し合い、政府の資金援助も得て、共同のデスクをつくり、現地で編集されたフランス語や英語の日本新聞を出す必要がある」(p139)と提案したり、パリを拠点に世界各地域を展望し世界に向けて発信する若い日本の評論家の出現を期待していると語ったりしているのは、そのとおりだと思います。さらに重ねて、その理由として、「大がかりな武器の体系を持ちたくないなら、それに代わる世界の真実の情報の蓄積と精通だけが日本を守る鍵を提供すると信じるから」(p141)と、武力に代わる力の必要性を説いているのは、並の平和主義者と一線を画していると思います。

 フランス語についての考察のなかでも役に立ったというか、励まされたのは、「たどたどしいフランス語であっても、フランス人は、相手の肉声や息づかいに接することに非常な喜びを示す」(p19)という言葉で、フランス語を話すことの恥ずかしさが吹っ切れたように思えたこと、さらに「フランス人のフランス語に上達するのは、とうてい不可能だから、日本式のフランス語をどうつくり、学ぶかの問題もある」と提起したうえで、①100までの数字を自在に喋りかつ聞き取れる練習を繰り返しする、②訊ね、聞き直す聞き方を5とおりぐらい覚える、③身振りで補助する話し方を訓練する、④相手をほめるほめ方を知る、⑤単語を5〜600ぐらい覚え使えるようにする、ことを推奨しています(p135)。これはなかなか実践的ではないでしょうか。

 悪い点を言えば、文章が少し妙なこと。「ですます体」と「である体」が混在して、リズムの悪い変な文章になっています。また、学者にありがちな能天気さがところどころ露呈していて、自分をインテリの端くれとか、大学インテリとか言っているのは違和感がありましたし、パリ地下鉄の改札口は無人なので柵を乗り越える連中もいると書いた後、「私も大きな声ではいえんけれど、何回かこの手を使いました」(p38)と書いていたり、劇場で前の席が空いていてみんな移動していると書いた後、「私たちも三幕目にはそちらへ移ることにしました」(p100)とか平然と書いているのには驚きました。今なら編集者が咎めるでしょうが、やはり時代のせいでしょうか。


 『フランスの空の下』の著者は、暁星小学校、中学校に学んだ人で、小学校からフランス語の授業があり、中学校では、週7時間もフランス人牧師から直接フランス語の授業を受けたという羨ましい環境で育ったようですが、大学では国文学を専攻し中世の和歌の研究者となったとのことです。フランスの日本文学研究者からパリで講演を依頼されたことをきっかけに、53歳にして初めてフランスに渡り、3カ月間、パリ、リヨン、ブルターニュを見て回り、その後、この本を書くまで西ヨーロッパに7回行ったと言います。その時々の思い出が紹介されています。

 なかでも、面白かったのは、「ロランの歌」のロンスヴォーでの戦いを中心に研究する「ロンスヴォー学会」の国際大会に「平家物語」の平曲を実演しに行った報告とともに、日本の軍記とフランスの中世叙事詩を比較した部分です。もともと「ロランの歌」など中世叙事詩も歌い手が語ったもので、世界中でも「語り」が伝えられ残っているのは日本ぐらいと言い、迎えに来た学会の代表者が、検校に「O! Jongleur(吟遊詩人)!」と呼びかけたというエピソードが紹介されていました。二つの比較としては、「ロランの歌」は1回の戦いを歌ったものですが、日本の軍記はかなり長い年月の流れを記述していることがまず大きな相違点であり、次に「ロランの歌」が、異教徒に対してキリスト教を護りフランスの国威を輝かす名誉の戦死であるのに対し、「平家物語」は諸行無常の仏教の教理を目のあたり人に教えたもので、そこに滅亡の美学が見られると指摘していました。

 また和歌と西洋の詩を比較した部分も面白く、日本文学研究者アグノエルが、「日本の歌は暗示的な一筆書きにすぎませんが、効果は強いです。西洋の詩は理知的すぎて、そして描写と説明を長々とやっています」(p67)と言っているのは、フランスの象徴主義と和歌の親和性を物語る証言だと思います。また短歌をフランス語に訳す形式として、西洋にはエピグラムと呼ばれる二行ぐらいの短い詩もあるが、四行詩ぐらいがふさわしいとし(p138)、また、国際短歌の会の「日本の短歌と同じく五七五七七の音綴を守り、脚韻を踏まない」作り方は、日本の短歌形式をそのまま模倣したものだと疑義を呈しています(と私は理解した)(p140)。

 ミシェル・ルヴォンの『日本文学選』というのが日本文学を体系的にフランスに紹介した初めての本として出てきましたが、偶然、ヤフー・オークションで見つけ先日落札することができました。また「最近買った古本」の中でご紹介します。