:内藤濯『星の王子 パリ日記』


内藤濯『星の王子 パリ日記』(グラフ社 1984年)


 内藤濯が1922年(大正11年)、39歳になってからフランスへ留学した時の日記。ところどころ日本の家族とやり取りした手紙が挟まれ、最後にフランスから日本の新聞に送った原稿2篇と、田辺貞之助の「内藤先生と私」がついています。日記は書かれてから60年以上も埋もれていたもので、息子さんの内藤初穂という岩波書店にも勤めていた人が父親の遺品の整理をしている時に発見したものです。日記に父親の息子への思いが綴られているのを読んでおそらく涙したのではないでしょうか。

 当初2年の予定を切りあげて、1年余で帰国しています。その理由はいろいろありますが、いちばんは生まれたばかりの初穂を残してきたことが気になったことで、フランスで同じ歳くらいの小さい子どもを見ると初めのうちは楽しみだったのが次第につらくなり、最近では立ち去るようにしていると妻に書き送っています。それと結婚三年目だった妻への思いも強く、手紙が来ないかと待ちわびている様子がよく分かります。次に日本という国への思いも異国に来て徐々に強まったことで、すでに留学期間の切りあげが決まった後ですが、関東大震災で東京横浜が壊滅状態になったのを知って、帰国の決意を確固たるものにしたようです。

 フランス滞在中に、それまでになく日本的なものへの愛着が強くなったと見えて、同じ宿にいた折竹という留学生が、フランス一辺倒に心酔していることへの反発がところどころに書かれています。日本の演技に沈黙の間があるのをフランスの演技より優れていると見たり、日本の精神的な豊かさに気づいたりし、留学の後半は、日本の古来からの短歌や詩の良さを見直し、現代短歌のフランス語への翻訳や、日本の新しい詩のフランス語での紹介に精を出していたことが分かります。

 この本の中で私がいちばん惹きつけられたのは、引用されている短歌とそのフランス語訳の素晴らしさで、次のようなもの。「たそがれの水路に似たる心あり/やはらかき夢のひとりながるる(白秋)Je connais un coeur/ Qui ressemble à un canal dans le soir;/ Un rêve doux et tendre/ Y coule solitairement.」、「美しき夜の横顔見るごとく/遠き町見て心ひかれぬ(白秋)Cette ville là-bas/ Attire mon coeur./ O nuit, je crois voir/ Ta silhouette exquise!」(p274)。

 次に、目を引いたのは、頻繁に出かけている芝居やコンサートの記録です。週に二三度は出かけているようで、芝居では、ヴュー・コロンビエ座やコメディ・フランセーズに通い、当時の名優ルシアン・ギトリーやロシア・バレエ団を見ています。コンサートでは、ストラヴィンスキーラヴェルなど当時の現代音楽が盛んに演奏されている様がうかがえます。はたして今日の現代音楽はこのように日常的に演奏されているでしょうか。

 この間の社会の出来事としては、関東大震災がやはりショックが大きかったようで、日記の後半には震災に関する記述がとても多くなっています。そのなかで印象的だったのは、フランス政府が弔意を表するため、公共の建物には半旗を揚げ、国庫の補助を受けている劇場は休業、民間の劇場にもできるだけ休業をするように布告したことや(p231)、日本での朝鮮人虐殺の報告で、奥さんからの手紙に、鮮人が襲ってくるという恐怖感が生々しく綴られており、貴重な記録になっています(p271)。

 ほか日記にいろんな人名が登場するのも面白みのひとつで、行きの船でメレディスのファンタジー傑作「シャグパットの毛剃」を訳した皆川正禧と一緒だったり、当時パリに滞在していた辰野隆や山田珠樹、石井柏亭岸田国士と盛んに行き来したり、太田正雄と日本館へ出向いたり、太宰施門については「相変わらずお高くとまっている」という文章がありました。藤田嗣治に藤田嗣雄という外務省勤めの兄がいることや俳句をフランスに紹介した医師のクーシューがアナトール・フランスを診ていたことも知りました。田辺貞之助の回顧では、波多野完治が仏文志望だったのを内藤濯が仏文では食えないから心理学に行かせたとあり、田辺貞之助も同様に説得されたが仏文志望を貫き通したということで、本人も書いていますが、人間の運命が簡単に左右される恐ろしさを感じました。