:HENRI DE RÉGNIER『LES BONHEURS PERDUS』(アンリ・ド・レニエ『消え失せた幸福』)

ルリュール
HENRI DE RÉGNIER『LES BONHEURS PERDUS』(MERCURE DE FRANCE 1924年


 この本はヤフー・オークションで買ったもの。一見ルリュールされているように見えますが、カバーをかけただけで、中は普通の仮綴じ本に紙のカバーがかかったまま。ルリュールの外見、紙カバーの状態、中の仮綴じ本の3枚の写真を載せておきます。
カバー仮綴

 久しぶりにレニエを読みます。とても読みやすくて、一日20頁以上読み進めることができました。知らない単語もあまり出てこないし、構文はやや複雑ながら不自然なところがありません。それに私の波長に合っているからでしょうか、すっと頭に落ちてきます。

 少し長めの「ハルテンベルク」と「ヴィルクロ氏の中国でのアヴァンチュール」の2篇のほかは、いずれも短篇で全部で17篇からなります。冒頭の一篇を読み始めて、すぐに前回読んだジャン・ロランのやや下品な文章に比しての端正な文章に魅惑されました。読んでいて落ち着いた感じがするのは、ロランのエキセントリックさに比べて日常感があるからだと思います。奇異なことが起こるにしても、そこへ話を運ぶまではいたって普通の生活が穏やかに語られるからでしょう。

 いくつか共通の特徴がありますが、ひとつは語りのスタイルで、偶然見つけた手稿(「ゴンドラで見つけた手稿」)、手記(「藁の寝床」「ヴィルクロ氏の中国でのアヴァンチュール」)や残された手紙(「そのうちの一人」)、メモ(「酒飲み」)など書かれた物を引用する形の作品。次に、出会った老人(「赦し」)や温泉町で知り合った夫婦(「侵入」)、友(「聖なる時」「山の夜」)らが私に対して語る形、この極端な例では、ある婦人が牧師に告解したことを牧師が話すという二重構造のものがありました(「アンデルコスの蝋燭」)。また完全な独白スタイルの作品もありました(「白状」「舞踏会」「噴水」)。

 この一人称的な語りの手法は、いわゆる三人称客観小説と違って、話者の恣意的な視線によって現実が歪められているのではという不安を残します。本当はどうだったかが不確かになり、それが幻想小説特有の曖昧模糊とした雰囲気を醸成するわけです。それが顕著に出ていたのは、メモに運河に身を投げることがほのめかされていたが単なる酔っ払いの手慰みかもしれない「酒飲み」、夫人の寝室のバルコニーで撃ち殺された男は入ろうとしていたのか出てきたところかという曖昧さが鍵となる「侵入」、自分はシーザーの生まれ変わりだったと遺書で主張する「そのうちの一人」、語るにつれて話者の現実を見る目が、困惑、嫉妬、喜びへと変転する「白状」。

 また作品の多くが過去のことを回想するという組み立てになっています。この本のタイトル「消え失せた幸福」という言葉も、老人がもう経験することのできない美しい思い出に涙したり、悲惨な境遇にある話者が今は失われてしまった過去の幸福を懐かしんだり、かつて遠国で体験した密やかな艶事に思いを馳せたりするのが基調なのでつけられたに違いありません。実際に作品のなかでも「Le Bonheur perdu」という言葉が何か所か出てきました(「記憶」p86、「噴水」p167)。その話しぶりになんとも言えない切ない気分が掻き立てられます。

 以前読んだレニエ短篇と共通する特徴として、18世紀イタリア趣味と廃墟趣味が混交したような地所が出てきて、ロココ調の古家具やロカイユ式の装飾の部屋のある古びた館が朽ち果て、庭園も荒れ放題で泉も涸れているというような情景が描かれますが(「ゴンドラで見つけた手稿」「フォントフレドの謎」「侵入」「ハルテンベルク」「噴水」「ヴィルクロ氏の中国でのアヴァンチュール」)、こうした情調も上記の追憶の感情とたいへん親和的です。人よりも館が主人公としての役割を担っているような気さえします。さらに広げれば、舞台となっているヴェニスや人里離れた山あいが大きな背景になっているということが言えます。

                                      
 各篇を簡単にご紹介します。
◎MANUSCRIT TROUVÉ DANS UNE GONDOLE(ゴンドラで見つけた手稿)
 ゴンドラで偶然見つけた手稿には、ヴェニスの才色兼備の女性を中心にしたあるサロンの出来事が回想されていた。ドイツから礼儀作法を身につけにきた男爵がたちどころに彼女に夢中になり、心霊術師に惚れ薬を処方してもらおうとしたが、逆に心霊術師にもてあそばれる。仮面をつけてベッドに寝ている彼女のもとに忍び寄った男爵が仮面を引き剥がすと・・・。もう一つの仮面物語。


〇LE PARDON(赦し)
 老友の語る思い出。50歳を越えもう恋などする歳ではないと思いながらローマを旅して、ある若い女性を交えたグループと知り合い、しばらく一緒にいるうちにお互いに惹かれ合う。女性から手紙が来て会いに行くが・・・。遠慮がちな男と大胆だが気の変わりやすい女性とのすれ違い。


LE BUVEUR(酒飲み)
 深夜人気もないカフェ・フロリアンで場違いな感じで酒を飲み続けている男。帰り道気になって観察していると、店を出て千鳥足で消えていったが、その後に紙が落ちていた。そこには恋人への思いが延々と綴られ、運河に身を投げると告げられていた。真正の悲劇か単なる酔っ払いの駄作か。


◎LE MYSTÈRE DE FONTEFRÈDE(フォントフレドの謎)
 何年も捨て置かれた館のなかに劇場があり2体の蝋人形が死体のように舞台に横たわっていた。昔住んでいた侯爵の美しい夫人と侯爵の親戚が駆け落ちした後、侯爵が作らせたものという。二人は小舟の上で胸を撃たれて死んでいるのが発見された。侯爵が殺したのか?語り口がうまい。


〇L’ESCALADE(侵入)
 夫婦が住む家の前の住人に起こった事件の話。亭主が留守の間に、夫人の寝室のバルコニーの手すりを跨ごうとした男が、早く帰ってきた亭主に撃たれて死んだ。亭主は寝室から出てくるところと言ったが、夫婦の夫は入ろうとしていたのではと言い、妻は逆。あなたはどっちを信じる?


LA BOUGIE DE M. D’ANDERCAUSSE(アンデルコスの蝋燭)
 人間嫌いで横暴な主人は、館を訪ねてきた親戚の男と妻の不義を疑っている様子。ある日、狩に出たとき男が銃弾で死ぬ。夫は事故だと言う。その日から毎晩蝋燭を消すのに、ピストルを撃って消すようになった。妻が忍従の日々を牧師に語り、牧師がその話をするという二重枠の構造。


〇L’UN D’EUX(そのうちの一人)
 いつもカフェで私のあの世談義を盗み聞きしていた平凡な男。その男から至急来られたしの伝言で駆けつけてみると死んでいた。手紙が遺されていて、そこには「私はシーザーの生まれ変わりだった」と記されていた。狂人扱いされることを恐れる狂人だったのだ。荒唐無稽だが引き込まれる。


LE SOUVENIR(記憶)
 つらい出来事で神経を痛め温泉地にいた時、いつも散歩する道で、紙切れを拾っては読み穴を掘って埋めるという偏執狂に出会った。パリに戻ってから、その人は、恋人からの別れの手紙にショックを受け紙を見ると読まずにおれなくなったと知り、私もつらい記憶は決して消えないと嘆く。


◎HARTENBERG(ハルテンベルク)
 前段の話の運びがなんとも魅力的。中学校時代に絵が好き同士で仲良くなったいきさつが語られ、長じてその友に紹介されたドイツの貴族が昔住んでいた家に遊びに行くことになる。そこは語り手の祖先が革命の際に身を寄せていたところ。いまは貴族の叔父叔母にあたる痩せとデブの個性的な兄妹が住んでいて喧嘩ばかりしているが実は仲の良い二人だ。ほのぼのとした感じで終わる。


〇L’AVEU(白状)
 甥は美青年だが困った男だ。大戦で武勲を立てたかと思えば今は社交界に君臨している。それに15年も前に私が恋に苦しんだ女性が美貌のまま甥の恋人となっているのは嫉妬で心が苛まれる。だが白状しよう。今回は彼女の方が恋に苦しみ、その姿を見るのは喜びだと。


L’HEURE DIVINE(聖なる時)
 かつて優雅でたくましく知性と若さにあふれていた友。5年間の失踪の後忽然と目の前に現れたのは窶れて無気力な姿だった。人生は終わったと嘆息し、いまは破局になったある女性と初めて会った時の恋に陥った神秘的な一瞬を物語る。


〇LE BAL(舞踏会)
 幼い頃に聞いたワルツやマズルカ、若い頃の新しいタンゴやフォックス・トロット。音楽には思い出がある。遠くから聞こえてくる村祭りの音楽を聞くと、かつて愛した女性と村祭りへ行った記憶とともに、その女性の移り気につらい思いをした過去がよみがえり、涙するのだ。

 
LA NUIT DANS LA MONTAGNE(山の夜)
 温泉地で出会った友が夜山のなかで過去の恋を語った。外交官としての栄達の道を捨ててまである女性との恋に打ち込んだが、彼女は社交界の花でこそこそと言葉を交わすだけだった。ある夜山の自然に心を動かされ、自分の恋は彼女の支配を受けただけの偽りの恋だったと知る。


LA RUPTURE(別れ)
 ある女性の突然の裏切りに茫然自失となり、ピレネーのある村に逃げた。窓を開け急流の轟きを聞くと、ますます怒りが込み上げてくる。何日か急峻な山の中を歩き回り静けさに触れているうちに心が和らぎ、平穏が訪れた。ただ今は泣くのみと。感情の起伏を自然とともに語る回想。


LE JET D’EAU(噴水)
 かつて住んでいた山荘に忍び込んで捕まった男の独白。噴水のそばで愛する人と過ごした幸福な時間。それも彼女に逃げられて消え失せた。もう一度あの幸福だった場所を見たかっただけなのに。噴水が私を笑い続けると言って噴水の首を絞めようとする。最後は狂気の様相を帯びる。


〇LA NATTE DE PAILLE(藁の寝床)
 異境の地中国で死の床につく白人の独白。死の偉大な愛に包まれ、光り輝く聖なる顔を見て死にたいと綴る。ある女性との犯罪につながるような過去がにおわされている。死と愛と聖が混然となった神秘的な境地が描かれている。


◎L’AVENTURE CHINOISE DE M. VILLECLOS(ヴィルクロ氏の中国でのアヴァンチュール
 恋愛を勉強しようと恋の街パリへ出てきた若者。カフェで奇妙な男から家に招かれ行ってみると中国趣味で彩られていた。昔船乗りだった男が語ったのは、中国へ行った時の皇女との神秘的なアヴァンチュールだった。そして恋愛は生涯密かな思い出を持つためにあると説く。

 
LE RETOUR DES ROIS MAGES(東方三博士の帰還)
 寓話風物語。東方の三博士が幼子イエスを見たのち長旅から自国に持ち帰ったものは?メルキオールは神の子とともに戦うのだと言い、ガスパールは武器を捨てて敵を許そうと語ったため、反対する臣下に二人とも幽閉されてしまう。バルタザールはそのことを知り、知恵ある行動をする。