志村ふくみの二冊

  
志村ふくみ『母なる色』(求龍堂 1999年)
志村ふくみ・文/井上隆雄・写真『色を奏でる』(ちくま文庫 1998年)


 志村ふくみを続けて読んでいます。『母なる色』は書き下ろしを中心とした随筆集、『色を奏でる』は、『色と糸と織と』(岩波書店1986年)を文庫化したもので、志村の染織作品や、糸、素材となった木や草の写真と随筆が併載されたもの。二冊ともに、草木など自然に触れた文章が多く、また色に対する鮮やかなイメージがたくさんあり、読んでいてとても気持ちの良い時間を過ごせました。

 文章がとても柔らかく、これはやはり女性らしい感性なのでしょう。人にフローラとファウナの2タイプがあるとすれば、間違いなくフローラに属する文章です。一つ困ったことは、私がまったく草花や樹木に関して疎いのに、これらの本には当然のように何の説明もなくいろんな植物の名が出てきて、半分も分からないこと。困ったもんです。

 先日、テレビで宇陀の薬草園に関する放送を見ていたら、そのなかで布を草木染する場面があり、草木を煮出した液の入った桶に布を浸けると、その瞬間にものの見事にきれいな色に染め上がるのに驚き、志村ふくみの言う「神が自然に託して私たちに示している秘義」(『色を奏でる』p49)を実感しました。『色を奏でる』には、それを思い出させるような美しい色の写真がたくさん添えられていて、堪能しました。


 今回改めて気がつきましたが、志村ふくみに私が惹きつけられているのは、彼女の神秘主義的な側面にあるということです。彼女の神秘主義の由来には二つあり、一つは、染色の体験や自然と触れ合うなかでいろいろ不思議なことが起こることから受けた一種の啓示、もう一つは、彼女の読書体験から来る神秘主義的な言説の影響が考えられます。

 例えば、前者でいえば次のような文章。

あの森での色彩体験から、「人間は内側から色を見る」ことを実感し、「人間自身、色を内包している」ことを確認した/p17

暗黒の夜空には、真空の中を流れる光の道があるのだろうか・・・すべてのものを照らし出す光は、みずからの光でさえぎって光自身をみえなくしている/p17

蜘蛛の巣・・・風にゆらぐでもなく、儚げでも、寂しげでもなくただ空間に銀の糸を、これ以上の精緻な紋様は考えられないほどのたしかな存在でかかっている。それがどこかで私の内部と通路を密にしているような気がする/p65

或日糸を染めていてあまりに予期せぬ泥んこのような色になったのを嘆いて、母屋の方へ走って行きながら、ふと手元を見ると、光り輝く糸があった。風と光の中にあって、色が誕生していたのだ/p153

この頃思うのは、日常あたりまえのことがすでに秘儀なのではないかと思うようになった。かくされているのものは何もなくて、私たちが気付かないだけだと/p154

光りがあなたをみなければ、あなたは存在しない/p163

(以上、『母なる色』)

自然の諸現象を注意深く見つめれば、自然はおのずから、その秘密を打ち明けてくれる。それは秘密などというものではなく・・・見落としている現象である/p84(『色を奏でる』)

 後者については、次のような引用がありました。

もしこの眼が太陽でなかったらば、なぜに光を見ることができようか、われらの中に神の力がなかったならば、聖なるものがなぜに心を惹きつけようか(プロティノス「エンネアデス」)/p14

光りのすぐそばには我々が黄と呼ぶ色彩があらわれ、闇のすぐそばには青という色があらわれる。この黄と青が最も純粋な状態で完全な均衡を保つように混合されると、緑と呼ばれる第三の色彩が出現する(ゲーテ)/p43

湖はその形態によって、独自の音色をもつという。その音色にしたがって湖全体は調律され、フルートや、弦楽器のようにその音色は上音(オーバートーン)をもっていて、月の軌道や、湖の干満と共鳴し合うのだという。月が湖上を移動する時、月はメロディをかなで、メロディは湖全域に響きわたる(テオドール・シュベンク『カオスの自然学』)/p151

あたりまえの事柄に高い意味を、当然の事柄に秘密に充ちた外観を、既知なるものに未知なるものの品位を、有限なるものに無限なるものの仮面をあたえる時、私はそれを浪漫化するのである(ノヴァーリス『断章』)/p155

(以上、『母なる色』)


 ほかに、いくつかの主張らしきものがありました。私の独断曲解を交えて要約しますと、一つは、近代文明に関する次のような指摘。
①自然(植物)と人間のどちらが主であるか考えれば、現状では、人間が主で、さまざまな化学を駆使して自然を従えている。それは人間の叡知がみずから生み出した道であり、自然が主だった時代はすでに古代となっている。それでも現代においても、両方の世界が共存していると信じ、私は古代の道を取る。(『母なる色』)

②現代は着物が不向きな時代であるが、それを裏返しに言えば、美の本質が着物のなかに隠されているということである。機能性のない袖、帯、お端折(はしょ)りなどは無用の用であり、着物の美しさはそのあたりに妖しく漂っている。袖というものが、いかに男女の情を交わすところであったか。(『色を奏でる』)

 もう一つは、染織や色彩感に関する史的展望で、
正倉院法隆寺の宝物のなかには、信じがたいほど鮮やかで豊潤な色彩が今も残っており、古代の人々が山野を渉猟して色を求めた情熱が伝わってくる。その頃の宮廷には染殿、縫殿などがあり、宮中の女性は競って色を染めさせていた。紫式部も相当な染の知識、実際の技術を知っていたのではないか。

②金に勝る墨蹟の美しさを発見したのは『源氏物語』が初めてではないか。白黒の世界と華麗な色調を対比させ、無彩色の世界に最高の美を見出したことに、日本的色彩の本質がひそんでいると思う。

③平安期の貴族の好む優雅鮮麗な色調から、江戸時代になると、洒脱、粋、わび、さびの色にと移り変わってゆく。百鼠の色が現われて、当時の庶民が、いかに自在に茶、鼠を粋に着こなし、楽しんでいたかが想像される。(以上、『母なる色』)

 またもう一つは、染織の技法に関するもので、これまで読んだ本にもたびたび書かれていたことですが、次のようなもの。
①植物の染の世界ではよく花の咲くまで、穂の出るまでと言うが、色は花とともに散り、穂とともに飛んでゆく、というのが自然法則。(『母なる色』)

②草木の染液から直接緑色を染めることはできない。たとえ葉を絞って緑の液が出ても、刻々色を失って灰色が残るばかりである。移ろいゆく生命の象徴こそ緑なのである。

③緑と紫は、補色に近い色彩だが、この補色どうしの色を交ぜると、ねむい灰色調になってしまう。この二色を隣り合わせに並べると、「視覚混合」の作用で、美しい真珠母色の輝きを得る(岡鹿之助の言葉)。

④一回で分かってしまうことを、何回も何回も繰り返しやらないと分からない。繰り返しやっていると、一回で分かったものとは本質的に違ったものが掴めてくる。そして、それを大きく包んでいるものが、運である。運は偶然にやってくるものではなく、コツコツ積み上げたものが、運という気を招き寄せるのである。(以上、『色を奏でる』)