『庭園の詩学』

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チャールズ・W・ムーア/ウィリアム・J・ミッチェル/ウィリアム・ターンブル・ジュニア有岡孝訳『庭園の詩学』(鹿島出版会 1995年)


 この本には、これまで読んだ庭園の本とは違うテイストがありました。タイトルどおり、詩的な着眼点がすばらしいこと、広い範囲で庭を捉えていること、庭の分類法が個性的なこと、世界の庭を公平に扱っていること、ディズニーランドを含め現代アメリカの庭園について過去の知識を動員して批評していること、新たに描き起こしたアクソノメトリックをはじめ図版が豊富なこと、それに王や作家など歴史的人物、庭園研究者による架空対談が最後に附録としてついているところ。メンバーの誰か(あるいは全員)が文学趣味の人なのかも知れません。


 序章で、居心地のよい自然の場所を切りとるだけでは庭とは言えず、そこに人間の働きかけがなければならないとし、第1章で、山水、植生、地形、日照、音、匂い、そよ風などの自然の要素を場所の精神として規定し、第2章で、人間が、それらの自然の要素を選択調整して、四分割やランドマークなど庭をどうデザインし、どんな素材を集め、水、光、香り、音など環境をどう整え、庭園に対してどのように特別な意味を賦与してきたかを追求しています。これらの部分はこれまで読んだ類書に比べてとても充実していて、庭に関する百科事典のようなところがあり、また風景に関する類語集とも思えるぐらい多様な言葉が出てきました。


 第3章では、現実の庭にはいくつもの要素があり厳密な分類ではないとしつつ、しつらい、収集、巡礼、パターンという四種類の独自の分類をして、各地の庭の実例を説明しています。
しつらい:自然がお膳立てしてくれた場所の力によって成り立っている庭、例えば、巨岩が圧倒的なオーストラリアのエアーズ・ロック、壮大な風景を僅かな石で表現する竜安寺枯山水など。

収集:人間が収集したものが集積された庭、例えば、帝国のさまざまな思い出を集めたハドリアヌスのヴィラ、ディズニー映画の世界を収集したディズニーランドなど。
「しつらいが隠喩であるならば、収集は、その由来を喚起する歴史的な遺物や断片で構成された転喩と見なされるかもしれない」(p67)とも書いてありました。

巡礼:中を旅するかのようにめぐることができる庭、例えば、巡礼たちが集まるヒマラヤのアルマナートヴェルギリウス「アエネイド」の世界を具象化したイギリスのストゥアヘッドなど。

パターン:これは十分理解できなかったが、四分割が基礎となって、細分化したり、対称的な展開をすることで、五点形などのいろんなパターンの庭をつくることができるという、例えば、四分割が反復的に細分化されているタージ・マハルの庭、左右対称が力強さを生んでいるヴォー・ル・ヴィコントの庭など。そして、「パターンの庭園には、詩との類似性がある。詩も、歩格とともに韻律や韻を踏む言葉がパターンを創出している」(p68)とありました。


 その他、いくつか印象的だった文章を羅列してみます。

ローマ人は、人の表情を読むように、場所の内に在る魂が外側に現わす表情を読み取った(p11)

哲学者の仕事として記述される以外にはない庭園もある。特に、日本庭園はそうである・・・京都の竜安寺の禅の庭園のように(p38)

庭園の階段は、無限の不思議さを想い起させることができる。区切られた、広がる空に向かって上がり、あるいはまた、土や水の中に下り、誰も知らない地下の奥深くに、廃墟が隠され、広がっていることを暗示させながら姿を消すこともできる(p41)

庭園の色彩は、明るさによっても変化する。中庸な光の下では、樹葉の色合い、そして花々の色合いは、最も純粋な状態にあるが、柔らかな月明かりの下では、多くの色合いが洗い流されてしまう・・・最後にあげるべき光の美しさは、光沢のある表面、特に水の表面から反射された光の煌めきと輝きである(p54~55)

小さくなだらかで、段階的に変化するものが、美しさの特徴であった・・・美しさは、崇高さの特徴である、恐ろしく荘厳で厳格な、自然、山々、大きな割れめ、獰猛な野獣のようなものとは対照的である(p61)

庭園は、庭園以外のすべての風景と同じ素材でできている。それは修辞学者の言葉が、他の人の言葉と同じ言語で構成されているのに、教示、感動、喜びを与えてくれるのと正しく同じである(p67)

乾隆帝の時代、皇帝の行幸のときに、山の頂から水が流される仕組みになっていたが、実は皇帝から見えない所で、クーリーたちが一列になってバケツをリレーして、山の頂まで水を運んでいた(p106)というのは、さすが中国と、驚いた。

 
 第3章以降、個々の庭園の紹介に入ると、詳細を語るのが専門的過ぎてついて行けないところがありました。また最後の架空座談会も自己満足的な印象があります。翻訳についてはかなり癖があり、発音を原音に忠実にしたいのか、普通名詞では、一般的に「イメージ」、「ゲーム」、「ステンドグラス」と書くところを、「イメィジ」、「ゲイム」、「スティンドグラス」としたり、人名では、「マルグリット・ユルスナール」、「ライナー・マリア・リルケ」を「マルグゥリート・ユースナー」、「レイネー・マリア・リルケ」と書くなど違和感がありました。また、技術系の横書き論文ではよくあるようですが、読点を「、」ではなく「,」としたりするなど、あまり好きにはなれませんでした。