雑誌「is 特集:庭園」

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「is 特集:庭園」(ポーラ文化研究所 1984年)


 「is」は何冊か所持しております。執筆者に私好みの人が多く、また毎回取り上げられているテーマも面白そうですが、読んでおりませんでした。よく考えてみると、昔は忙しかったせいか雑誌はパラパラ見をするぐらいで、まともに読むということはしてませんでした。最近は雑誌も、通読するように心がけております。

 今回読んでみると、デザイン先行で、非常に読みにくい。まず活字が小さく行間が狭いこと、3段組み、多いところでは4段組みになっていて、ページによっては紙にデザインが施されていて背景の絵と文字が重なっていること。私ぐらいの歳になると、白内障も出て、印字がぼやけて見えます。そろそろ手術した方がよいのかも。


 つまらぬ前置きはさておき、内容紹介に移りますと、面白かったのは、若桑みどりと横山正の対談「人間と庭園の歴史―ルネサンスの庭・神の庭」、川崎寿彦「イギリス庭園の栄光と恥部―絶対王政からロマン主義へ」、志村信英「歩行のカダンス―アンリ・ド・レニエと庭園」、それに庭園のテーマから外れますが、堂本正樹「鏡―異空間への窓」の4篇。

 なかでも、レニエの『碧玉の杖』を訳している志村信英の評論は、私の趣味にぴったりで、なぜもっと早く読んでおかなかったかと悔やまれるほど。レニエで庭と言えば、ヴェルサイユ宮殿でルイ十四世の亡霊に出会う「LE MÉNECHME(瓜二つ)」(『Couleur du Temps(時の色)』所収)を思い出しますが、レニエがフランス式庭園を愛したのは、庭園を歩いていると、幾何学的小径や並木、石像のもたらす独特の調子(カダンス)があり、また、滅びていった時代の都雅の跡を訪ねる趣きが感じられるからと言います。

 レニエがヴェネツィア固執したのも、ヴェネツィアの小路や、橋、広場、回廊が絡まる迷路には、庭園に通じる歩行のカダンスがあり、また前世紀の「退勢と完了の美」と「快い無聊」があったからで、レニエの反近代的傾向の特徴が、時代をむきになって否定するのではなく、新しい安ピカものを無視し、過去のカダンスを愛でるという点にあったと指摘しています。

 若桑と横山の対談は、巻頭を飾るにふさわしく、創世記から16世紀まで、またオリエント、ヨーロッパ、中国、日本にわたるパースペクティヴの広い内容で、さまざまな指摘がなされていました。十字架が立面図として見れば木になり平面図として見れば四分割の庭園になる(若桑)、古代の民が屋上庭園に驚いたのは揚水技術に対してだった(横山)、中国では王朝が北と南を往復することで北方の抽象性と南方の自然に即する姿勢が重なり合った庭が造られ、同様にイタリアのデザインがアルプスの北方で抽象化されることがあった(横山)とか、さらには、16世紀の庭の特徴であるグロッタは古代ローマにあったミトラス教のグロッタ信仰に起源がある(横山)や、16世紀になって古代の洞穴信仰が復活したのは、自然というものを隠された神秘と考える新プラトン主義とかかわっている(若桑)という発言。

 川崎寿彦の評論は、イギリスの王室が導入したフランス式整形庭園は、王の支配意志と秩序への志向が記号化されており、清教徒革命でそれらの庭園が破壊されたのは、清教徒たちがその暗黙のメッセージを直感したからで、同様に、ヴォルテールやルソーがイギリス式庭園に心酔したのは、その思想史的記号を解読していたからにほかならないと指摘しています。「ハハア」と呼ばれる隠し塀の名前の由来とか、庭に隠者のための庵が建てられ、瞑想する隠者が雇われたが、あまりの退屈さに脱け出して村の居酒屋で飲んでいて首になったというエピソードが面白い。

 堂本正樹の「鏡」は、私のふだんなじみのない日本の古典芸能の世界で、鏡がどう表現されているかを、豊富な引用で解説しており、鏡のいくつかの性格、パターンを示しています。例えば、鏡の中には時として映るべからざるものが映るという民俗信仰(『東海道四谷怪談』)、鏡は死者が異界から来る窓(金春権守『昭君』)、水に若かりし日が映る(世阿弥『実方』)、人の死を水鏡で知る(お伽草子貴船の本地』)、鏡を潜って死の国に赴く(コクトオ『オルフェ』)、盥の水に桜の花が映り女が桜の精と知る(金剛流『墨染桜』)、水鏡の中に髑髏が映って死霊たることを知られる(馬琴『俊寛僧都島物語』)など。


 その他で印象的だったのは、
益田勝実「古代人と庭―庭園前史」:日本人には古来から、ありふれた天然のあるがままを囲みとって賞でるという性格があり、その後の造園・園芸・盆栽・生け花などの基本姿勢を形作っているとする。地元奈良の遺跡が多く紹介されているので嬉しい。

高山宏「風景庭園―凸面鏡のなかの〈近代〉の自画像」:18世紀に的を絞り、その時代の「百科全書」と「庭」が所有という感覚で共通することを指摘し、人工的調和のフランス庭園への反動で誕生したはずの自然嗜好のイギリスの庭園が、次第に反自然的な偏奇に陥っていく様を描いている。

山口勝弘「理想の庭園―イマジナリュウム」:庭園は、イマジネーションの発生をテクノロジーの力を借りて実現する場であったと考え、現代のテクノロジーとメディアの複合機能によって生み出される現代芸術を論じている。イヴ・クラインの焔の噴水というのは強烈なイメージ。

金両基「マダンとマダン・ノリ―韓国の〈庭〉の芸能」:韓国固有の庭であるマダンとそこで生まれた芸能マダン・ノリについて解説している。自然とともにあるという韓国の美意識は日本と似ている気がした。

粉川哲夫「庭の文化装置的機能―作庭からテレビへ」:かつての庭の機能が現在どういう形で現われているか、まず庭の移動する機能の代替として自動車、そしてさらに遠大な距離を短縮できるテレビを取りあげ、それらが都市生活者が庭を持たなくなった一つの原因としている。

鴻英良「湖底の空中庭園―ロシア式庭園の不在について」:風景式庭園は、それまで建築的要素が優位にあったことへの反乱であるとし、人工的な廃墟建築は建築の死を告げるものだと言う。ロシアでは古代から庭を自然と同一視していたとも。これは日本や韓国と似ている。