庭についての二冊

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梅津忠雄『愛の庭―キリスト教美術探究』(日本基督教団出版局 1981年)
ジャック・ブノワ=メシャン河野鶴代/横山正訳『人間の庭』(思索社 1985年)


 庭という言葉がタイトルにある本を適当に選んだら、かなり色合いの異なる本が二冊並んでしまいました。『愛の庭』は、ドイツのルネサンス宗教改革の時代の思想と美術の関係を追った専門書で、その絡みで、キリスト教の閉じられた庭についても論じられています。『人間の庭』は、逆に広く世界に目を向けて、人類にとって造園がどんな意味をもつのかを追求したジャーナリスティックな書物です。                                         

 それぞれ初めて知り得たことなど印象深かった指摘を羅列しますと、『愛の庭』では、
クラーナハがルターと親交を結んでいたり、デューラーもルターの著作に特別な関心を寄せ、またエラスムスと親密だったなど、宗教思想家と画家との交流が意外と深いことに驚いた。ルターの談話には壁にかけられた授乳のマリア図を指しながら話す場面があって、それはクラーナハの絵ということだ。一方、クラーナハは、ルターの思想の図解を行なうなど宗教画を描いているが、古代神話や古典文学からの題材も多く、幅広い人文主義の美術家であったと位置づけている。

②人間の罪の歴史と人間の救済の歴史を対比する思想によれば、キリストは「新しきアダム」であるという。一方、マリアは神秘の結婚によってキリストの花嫁になったという思想があり、そうであればマリアは「新しきエヴァ」となる。

旧約聖書の『雅歌』には、花婿と花嫁が歌われているが、花婿はキリスト、花嫁は教会もしくは人間の魂という解釈があり、ルターも花婿を神、花嫁を神の民と考えている。『雅歌』にはまた庭の描写が出てくるが、ルターの解釈では、庭は聖徒たちである木々に満ちたパラダイスであるという。

④キリストの十字架降下から埋葬までについては、新約聖書では、ヨハネの「十字架のそばに、母マリアと愛弟子の一人が佇んでいた」という記述しかなく、マリアが死せるキリストを抱いて嘆く姿というのは、詩的所産であり、美術に現れるようになったのは11世紀以降のことであるという。

⑤マリアが幼な子イエスに乳を含ませる「授乳のマリア」という聖母図があるが、似たような図に「授乳のエクレシア」というのがあり、その意味するところは、「無知な者たちが教えの乳を摂取する旧約聖書」であるという。さらに淵源を辿れば、エジプトや中東の豊饒を司る大地女神の表現のモティーフに行きつく。「授乳のマリア」のモティーフも、中世もかなり末期になって盛んになったものらしい。

⑥「閉じられた庭における一角獣狩り」というテーマも、15から16世紀にかけて、とくにドイツで製作された。この一角獣狩りの絵には犬を連れたガブリエルが登場したり、祝福の言葉が添えられているように、受胎告知図として描かれていた。

 このほかの記述では、マリアが懐胎したのは14歳の時であり、キリストを出産したのは15歳の時というから驚きです。現代なら未成年の婚姻にひっかかるのでは。


 『人間の庭』では、各国の庭の特徴が述べられています。
①中国では、水盤や鉢に入ったり、掌に乗るような極端に小さな庭もあるが、自然の景が比例関係はそのままの形で縮小されていることが重要である。造園に際しては、過酷な現実という外的な拘束からの逃避だけでなく、魂を閉じこめている内的拘束からも解き放たれることを目指している。

②日本では、中世に夢窓国師が、岩の群があり砂利を敷き詰めただけで一滴の水もない簡素な庭を造り、庭に道徳的、哲学的な内容を与えたが、こうした清浄な庭の原型はすでに伊勢神宮の神域で示されていたものであった。

③ペルシアの神話では、光の神オルムズドが粘土から最初の一組の人間を創り出し、庭を住家として与えた。光の神に反抗した使者のひとりアーリマンが楽園から深淵に投げ落とされ悪の化身となったときに、人間がアーリマンに組したので、一緒に追放されることとなった。が哀れを催したオルムズドが、人間に何とか至福の可能性を与えようと善と悪のいずれかを選べるようにし、かつ庭造りという難しいわざを教えた。庭を育て美しくせんとする努力によって、人間は少しずつ「下界」から「上界」へと近づくことができるというのである。

イベリア半島を支配していた回教徒の総督たちが去った後、キリスト教修道院は回教寺院の方形の形態や鎖された空間のあり方などを模倣した。クロアートル(修道院回廊)の語源はホルトゥス・クラウス(鎖されし庭)である。ただその性格は、砂漠の脅威に対して鎖されたアラブ人の快楽の庭とは反対に、世俗に対して鎖された瞑想と祈りの庭となった。

⑤フランスの庭は、当初はイタリアからの影響を受けたが、「方形」と「矩形」の組合せの洗練された構図はフランス独自のもので、遠近法の利用、見渡せるような高低の確保、城館との一体的な軸線の考え、外景をも巻き込んだパースペクティヴなどに特徴がある。

⑥フランスでは、ル・ヴォーやヴェルサイユなどでの庭を舞台にしたパフォーマンスが際立っており、オペラやバレーがたえまなく演じられたことにより、「フランス人を世界中でもっとも芸術的な国民にした」(ヴォルテールの言葉)。が王を中心とする社交界が瓦解し、大貴族たちはヴェルサイユの勿体ぶった豪華さよりはパリの気のきいた夕食を好むようになった。

⑦結局、庭は人間が至福を求めて、それを自然のうちに造形しようとしたものであり、失った楽園のイメージをたよりにして、地上に楽園を築こうとたえず努力してきたさまざまな結果である、ということのようである。


 創世記やペルシアの神話では、造物主は罰する神として父権的な厳しい姿を見せていますが、一方、古代から大地母神のような自然の神格化があり、キリスト教のなかでも、授乳のマリアや聖母図に見られるマリア信仰が中世に盛んになるなど、優しく包み育てる女神という系譜があるようです。日本でも、天照大神をはじめとする女神はもちろん数多いですが、中世の観音信仰というのは、性は中性とは言え、女性的な優しさを持つ女神の系譜に連なるように思います。