辰野隆『ボオドレエル研究序説』

f:id:ikoma-san-jin:20200426125948j:plain:w150                                  
辰野隆『ボオドレエル研究序説』(酣燈社 1951年)


 20年前に一度読んだ本。まったく覚えていないので、新鮮な気持ちで読めました。前回読んだ矢野文夫/長谷川玖一『ボオドレエル研究』と比べて、文章が引き締まって理路整然としている印象があります。原詩を引用しながら、訳を載せてないところが不親切ですが、ところどころで披露している訳はなかなか良い。

構成としては、略伝に始まり、社会に対する態度としてのダンディスム、次に、女性に対する特異な恋愛の形、自然観、死の思想、キリスト教の信仰と展開しています。読み初めの頃は、知っているような記述ばかりで、独自性を欠いていると思いましたが、読み進めているうちに、自然観、死の思想あたりから俄然面白くなってきました。略伝は、ユジェーヌ&ジャック・クレペ、その他の部分では、ゴンザアグ・ド・レエノオルに多く負っているのが目につきました。

 いくつかの面白い論点がありました。
ボードレールの信仰や自然観をロマン派の詩人ヴィニーと対比しているのが特徴。ヴィニーもボードレールもともに旧制度(アンシャン・レジーム)の貴族趣味を持つダンディで、ヴィニーは冷酷な神に対する反逆の心を持ち、当時隆盛してきた実証主義に傾いたが、ボードレールは神に反逆し悪魔主義に傾きながらも最後は神に祈願するようになったこと。またヴィニーは一般のロマン派詩人が自然を恵みと捉えたのに対し、自然を悪意あるものと捉え、ボードレールもその流れを受け継いだが、ボードレールはさらに進めて、美的環境を抽出して想像上の自然、音と色と響きが交感する自然を作りだした。

②15世紀と19世紀を比較した論点も面白い。15世紀は死と墓の世紀で、19世紀のロマン主義にも墳墓趣味や死や髑髏に対する好奇心があると指摘。ボードレールの内面世界は15世紀の宗教的美術や苦悶の基督教を思わせ、ただキリスト教徒になるには実際の修業と謙譲の心が欠けていたとし、ヴィヨンとボードレールがそれぞれの時代の典型的な詩人としている。

ボードレールは特殊な恋愛恐怖病者であり、現実から離れて、恋愛を想像の世界に極限しようとしたが、それはかえって人工的夢幻の世界に徐々に陥って行くこととなった。同性愛の女性を描いたり、恋愛に対する戦慄や呪詛からアシッシュや鴉片による人工天国讃美にまで至った。

ボードレールの自然の表現は、観察から思索、喚起、暗示へと進んで行き、自然の生命を憎むところから、「我は石の夢の如く美し」という無機的な風景に辿り着く。彼の自然は想像上の自然で実は幻影である。「巴里の夢」は彼の幻景の最高度を示すものである。

⑤死の美学へ傾斜していったことを克明に記述。アンニュイは年を経るにつれて深刻味を増して死の色を帯びてくる。アルコール中毒で肺病となりやがて死ぬべき運命の連れ添いデュヴァルの姿を白鳥に仮託した詩篇「白鳥」、「何処を睨んでいるのか判らぬ気味の悪い瞳」を描いた「盲人」、「顔も寸分異ならぬ老爺の数が刻々に増して、遂には七人の老爺となり列をなし歩いて行く」幻影を見る「七老爺」、「彼のみに見ゆる髑髏に対して独言」を言う「死の舞踏」、そしてついには「シテールへの旅」において「シテエルの島の象徴の梟首台に自分の姿が懸かっている」のを見るに至る。

 いくつか疑問を抱かせる記述もありました。例えば、

アリストクラシイが尚お余喘を保っていたルイ・フィリップ時代が、反抗的に彼のダンディスムを煽った事は疑いない(p47)

とあるが、ボードレールのダンディスムはアリストクラシーから出発しているのではなかったか。

ボオドレエルは・・・超自然の光明を求め、科学的真理に不満を抱いた恐らく最初の近代的詩人であった(p58)

と位置づけていますが、ネルヴァルを初めとして、他にもいたのでは?

19世紀の浪漫主義、殊にボオドレエルの浪漫主義(p171)

とありました。たしかにボードレールの一部はロマン主義的ですが、ロマン主義に反発して生まれた部分も多いので、その点を踏まえた記述もあればなおよかった。