中平解の語学随筆二冊

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中平解『言葉―風土と思考』(芳文堂 1943年)
中平解『郭公のパン―ことばの随筆』(大修館書店 1955年)


 先日読んだ『日本の名随筆 香』のなかの中平解「フランス文学と花」を読んで、フランスの小説がたくさん引用されていたのに驚いたので、しばらく中平解の本を読んでいこうと思います。中平解の本は、古本市やオークションなどで見つけるたびに面白そうなので買いためておりました。ずいぶん溜まってきたので、ここで一気に読もうと思います。まず少し手ごわそうな『フランス語學新考』を後回しにして、古い順から上記2冊を選びました。

 昔の学究らしく、とても勉強熱心なのに驚きます。他の本から知ったことも含めて書くと、動植物に関する一つの単語について、こまめにあちこちの辞書や先人の本を参照し、知り合いを通じてその動植物の日本各地での言い方について情報を得たり、またフランスの小説を読むたびに、植物名や動物名などをカードに記録しているようです。そこで得た知識を伝えようとするあまり、脱線に次ぐ脱線で、本筋がどこにあるか分からなくなってしまうぐらいです。それを避けようと、『言葉』では細かい部分を註釈に回していますが、そうなると今度は、註釈の方が本文より量が多くなってしまう有様(本文対註釈は、3:7ぐらいか)。とても博学ですが、本人は、田舎の自然の中で育ったので人より木や花や虫に詳しいだけだし、先人の書いた物をまとめ直したにすぎないと、いたって謙虚です。

 この二冊のなかで、言葉の一般的な法則というか性向についての著者の論点を紹介しておきます。
①日本で「猫柳」と言ってるものは、フランスではchaton(子猫)と言い、中国では「狗尾草」という似たような表現である。また「鶺鴒」は、日本では「いしたたき」とも言い、これは尻尾を振って石を叩くようにしているからだが、フランスでは俗にbranlequeue(しっぽ振り)と言う。また「鶏頭」はフランス語では、crète-de-coq(鶏のとさか)と言う。場所が変わっても人間の見方は変わらないというのが不思議。

②尾も頭も切り離さないで用いる「尾頭付」の魚を「御頭付」と勘違いしたり、もとは鰊をカドと言っていて卵は「カドの子」であったが、沢山あるので「数の子」と言うようになったり、インドのベンガルから来た塗料で「ベンガラ」と言ってたものが、赤い色から紅を連想して「紅殻」となったり、「ナプキン(napkin)」を布巾の連想から「ナフキン」と言ったりするのは、縁語牽引という。

③チーズのことをフランス語でfromageと言うが、これはもとformageであった。abreuver(牛馬に水を沢山飲ませる)という言葉は、12世紀にはabevrerだったものが、13世紀にはabreverになり、現在の形になった。これをmétathèse(字位転換→別の本では音位転換)という。

④日本語の語源を考える時、音は一緒なのに漢字が邪魔をする場合がある。スミ(炭、墨)、ヒ(日、火、灯)、アメ(天、雨)、ハナ(端、鼻、洟)、カミ(上、神、髪)、イキ(息、生)など。「アシタ(明日)」はもともと「アシタ(朝)」であり(フランス語でもdemainは元の意味はde matin)、「明朝」の意味で使っていたのが「明日」の意味を帯びるようになったものと考えられる。同様に「夕べ」も「昨晩」「昨夕」の意味に用いられている。
以上、『言葉』より。

⑤フランス語のbiche(牝鹿)のもとはおそらくラテン語のbestia(いきもの、獣類)であろう。このことは、フランスにおいていかに鹿が狩猟の対象として重視されていたかが分かる(『言葉』より)。Bible(聖書)はギリシャ語biblia(本、複数形)から来ており、イスラム聖典coranも本来は読み物のことである。フランス語のpomme(りんご)はラテン語poma(木の実)から来ており、日本語のモモも本来は「丸い形をした木の実」を指していた。このように重要なものが一般的な言葉の代表のようになって定着することがある。
 
⑥同じ動植物でも、場所が違えば、気候などによって生態が異なることがある。フランスで「一匹の燕は春を作らぬ」と言うが、イギリスやドイツでは「一匹の燕は夏を作らぬ」と言ったり、フランスの小説を読んでいると、コオロギが5月ごろ森の中で鳴いている場面が出てきたりする。フランスではたいへんいい匂いと書いている花も、日本ではあまり匂わなかったりする。

⑦日本語には母音の発音がいくらか変わることによって、似ているものを区別する特徴がある。アナゴとウナギ、アマイ(甘い)とウマイ(甘い)、クロイ(黒い)とクライ(暗い)、マル(丸)とマリ(毬)、アサ(朝)とアス(明日)、ムラ(村)とムレ(群)、オキ(沖)とオク(奥)、ハエル(生える)とフエル(殖える)、アニ(兄)とアネ(姉)、アガム(崇む)とオガム(拝む)、ヤミ(闇)とヨミ(黄泉)、アクビ(欠伸)とオクビ(噯気)、イブキ(息吹)とイビキ(鼾)、イネ(稲)とヨネ(米)など。

⑧フランス語のcordonnier(靴屋、靴修理屋)は、13世紀ごろに生まれたcordoanier(コルドバ革の靴屋)と、cordon(靴などの紐)とのcontamination(混成)によってできたもの。croisement(混成)というのもあり、sabot(木靴)はsavate(古靴)とbot(木靴)が合体したもの。日本語でも、「ヤブル」+「サク」が「ヤブク」となり、「トラエル」+「ツカマエル」が「トラマエル」となる。(contaminationとcroisementがどう違うのかよく分かりませんでした)。

⑨イギリスとフランスとでは、マツとモミが互いに取り違えられているようである。しかし、日常語として用いられる植物の名などは、細かに物の区別を見る学者が作ったものではなく、一般民衆の言葉として生まれたものであるから、これくらいの混同があるのは当たり前であろう。
以上、『郭公のパン』より。


 個別の語源についての指摘は、分量が多くなるので、最小限にとどめますが、次のようなものです。
①フランス語animal(動物)」はラテン語のanimalis(生物、動物)から借りたものだが、さらにラテン語
anima(息)から来ているので、animalとは息をしているもの、すなわち「イキモノ」ということになる。

②フランス語のbranche(枝)の語源は、俗ラテン語のbranca(動物の足)である。これは動物の身体から4本の足が出ている姿が、樹の幹から枝が出ているのに似ているところから思いついたものだろう。漢字でも「肢」と書くのは、人間の身体の枝だからである。

③フランス語のbougre(奴)は古くはもっと悪い意味を持っていたが、俗ラテン語のBulgarus(ブルガリヤ人)から、ogre(鬼)はHongre(ハンガリヤ人)の訛ったものであろうと言われている。これらは外国人に対する蔑視的な表現で、他にも「挨拶なしに去る」ことを、フランスではs’en aller à l’anglais(イギリス人風の去り方をする)、イギリスではto take French leave(フランス人風の去り方をする)と言うなど。
以上、『言葉』より。

④フランス語のprunelle(瞳)は、prune(西洋スモモ)の指小辞で、本来小さい西洋スモモを意味するが、それは瞳がそう見えるからである。またpupilleとも言うが、これはラテン語のpupilla(小さい女の子)から来ている。瞳に映る人の姿が小さいことからこの名が生まれたとされる。中国の「瞳」も目の中の童子ということであろうし、日本語の「ヒトミ」も「人見」であり、人が中に見えるからであろう。

⑤フランス語のpenser(思う)の語源は、ラテン語のpensare(熟考する)で、もともとは「重さを計る」という意味だった。日本語でも「おし計る」、「気持がはかりかねる」という言い方がある。一方、フランス語で物の重さを計ることをpeserと言うが、これもラテン語pensareから来たもので、peserには熟考するという意味もある。日本語で「思う」と言う時の「オモ」も「重り」や「重い」の「オモ」と同じだろう。

⑥フランス語にlâcher une sottise(馬鹿なことを言う)という表現があるが、lâcherには「放す」という意味がある。日本語の「はなす(話す)」も「口から離す」という意味ではないだろうか。「嘘をつく」、「ため息をつく」の「つく」も激しい勢いで出すというのがもとの意味。フランス語でため息をつくのは、pousser un soupirで、口からため息を押し出すということだ。「何をぬかすか」というときの「ぬかす」は「言う」ということだが、これも「口から抜かす」ということである。
以上、『郭公のパン』より。


 「どこの国のことばでも語源がわかることは愉しい」(『郭公のパン』p249)と本人も述懐しているように、嬉々として語源追及にいそしんでいる様子がうかがえて、微笑ましくなります。また「毛虫眉と云えば、亡くなった祖父の顔を想い出す。毛虫と云っても嫌な気持がしないどころか、懐かしさに堪えない気持である」(『言葉』p88)など、近しい人を大切にする素朴な心情が伝わってきて、人柄に好感が持てました。