Jean Lorrain『Le Poison de la Riviera』(ジャン・ロラン『リヴィエラの毒』)

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Jean Lorrain『Le Poison de la Riviera』(LA TABLE RONDE 1992年)


 今はなき天牛書店堺筋本町店で買った古本。ロラン最後の作品のようですが、序文で、ティボー・ダントネが衝撃的な事実を暴いています。それはロラン研究の第一人者として、伝記も書き、死後出版を一手に引き受けていたジョルジュ・ノルマンディが、本作を改竄し自分の名前で発表していたというものです。

 ノルマンディは、まずロランの死後、1909年に「リヴィエラの噂話と人形たち」というタイトルで、原作の四分の一程度の分量の4つの短篇を自分の作品として発表し、1911年には、「クーリエ」紙に「故人」の筆名で全文を少し修正して連載。誰にもばれないことに気をよくして、1912年には、自分の名前で『ある娘の秋』というタイトルで単行本として出版した。ロランの親友であったラシルドは作者がロランだと見抜いて、メルキュール・ド・フランス誌で告発した。それに対するノルマンディの反論は不明だが、しかしラシルドが隠遁した1943年には、『リヴィエラの毒』というタイトルでまた自分の名前で再版した。

 ロランの死の5週間後に出版された小説『Le Tréteau(大道芝居小屋)』にも、すでに改竄が見られるといいますが、なぜそんなことをしたのでしょうか。ダントネは次のように書いています。

ノルマンディは師の悪徳と悪癖を小さく見せようと努力した。それがロランの一部なのに。そもそもノルマンディには、スキャンダルを恐れる小心なところがあって、彼の作品には辛辣なところもなく、師の淫らな才能も見当たらない。もうひとつの理由は、息子に加えられた侮辱、殴打、恥辱を雪ぎたいと願う、息子を失ったばかりの母親との約束があった(p9)。


 南仏の国際的リゾート地帯が主に舞台となった作品。前回、前々回と読んだロラン作品に比べて少し文章が難しくなり、細かいところは意味の分からない部分もありましたが、大筋はおおよそ次のようなものです。

作家のダルボスは、長年付き合っていた高等娼婦で女優のヴィヴィアンヌを、愛妻を亡くして傷心している彫刻家ドゥリクールに紹介した。ダルボスの師であったロジェ・ブルトンの彫像を作るモデルとして推薦したのだ。二人はダルボスの書いたモデル小説をきっかけに深く愛しあうようになり、南仏ナプールの近くの山の別荘に隠れる。

それ以前、ヴィヴィアンヌは、ダルボスから新進劇作家のファヴォルブルを紹介されて、ダルボスからファヴォルブルに鞍替えしていたが、ファヴォルブルがあまりに横暴なので、ドゥリクールと一緒にいるところを見せつけて高慢な鼻をへし折りたいというのと、自分も40歳近くになりそろそろ潮時なので、ドゥリクールと隠遁生活がしたいという気持ちを持っていた。

ダルボスはドゥリクールとヴィヴィアンヌが暮らしている別荘へ招かれて楽しく食事をする。帰りにドゥリクールに駅まで送られるが、途中ファヴォルブルらしき人物を見かける。駅に着くとドゥリクール宛の電報があり、ボードレールの記念碑の製作者として選ばれたとの通知だった。ドゥリクールは翌日単身パリへ戻る。

ダルボスは長年、フェサール男爵夫人という金持ちの文学好き老女につきまとわれており、南仏に来てもまた手紙電話攻勢を受けうんざりしていたが、彼女が自殺を図り、医者からの要請でしぶしぶ見舞いに行く。そのとき一緒にいた弟子のルフォアを連れて行く。ルフォアは売り出し中の作家で恋人もいたが、貧乏で、金持ちの女性と結婚することを願っていた。

ファヴォルブルは新作「嵐」を上演するにあたって、パブリシティのためにヴィヴィアンヌを利用したいと考えていた。エージェントを使ってヴィヴィアンヌの居所を察知したファヴォルブルは強引に彼女を拉致し、南仏カプ=ダーユの別荘に軟禁する。別荘に軟禁されながらも、ヴィヴィアンヌは親友のボグゼスカ夫人を通じて、ドゥリクールに手紙を書く。が、ドゥリクールから返事は来ない。

一方ダルボスは、記者仲間からファヴォルブルがヴィヴィアンヌと一緒に車に乗っているのを見たと聞き、ナプールの山の別荘へ行くが、すでに引き払われた後で、パリのドゥリクールのアトリエを訪ねていくことにする。しかし、扉は閉ざされたまま、電報を打っても返事がなく、再訪し強引に扉を破って入ると、ドゥリクールは中で頭を撃ち抜いて死んでいた。

結末は次のとおり。ダルボスは、縒りを戻そうと呼びかけるヴィヴィアンヌからの手紙を丸め捨て、アフリカへ旅立った。「嵐」の上演が失敗に終わったファヴォルブルは、昔愛人だった女優と一緒になる。ルフォアはフェサール男爵夫人と結婚し、カマルグの夫人の地所でのんびり暮らしながら、男爵夫人はもうすぐ死ぬので一緒になろうと、恋人へ手紙を書く。ヴィヴィアンヌは社交界から身を引き、ひとりブルゴーニュの田舎での隠遁生活に入った。

 挿話として、女優ファンティーニが南仏ロデヴの公演の際、パリから来た新聞記者や批評家100人全員を籠絡したという話や、誰彼かまわず愛の交歓をする富豪チョコレート伯爵夫人の話、ヴィヴィアンヌの取り巻きの若者とファヴォルブルとの剣による決闘、などがありました。

 Une histoire à clefという言葉が出てきて、モデル小説なる用語があることを知りましたが、この作品はまさにモデル小説で、さらにその上、この小説のなかで披露される別の物語も小説の登場人物たちのモデル小説になっています。すなわち、現実―小説―小説中物語の入れ子構造になっているのです。それぞれの人物を図式にすると、ジャン・ロラン=ダルボス=コーショワ、ジャン・ロラン=ロジェ・ブルトン=モルラン、ジャン・ロラン=ルフォア=×、リアーヌ・ド・プージ=ヴィヴィアンヌ=イヴェーヌ、アンリ・ベルンシュタイン=ファヴォルブル=×、×=ドゥリクール=フェザン、タファール男爵夫人=フェサール男爵夫人=×(×は該当がないという意味)。ロラン自らをモデルにした3人の人物が出てきますが、ダルボスは作家として大成してからの、ロジェ・ブルトンは理想像、ルフォアはデビュしたてのころのロランの姿です。

 また、『リヴィエラの毒』の作中だけでも、人物の関係が同じ構造だったり、性格が相似する人物が反復されて出てくるところが見受けられました。ダルボスの文学仲間ガストン・ルメートルと大富豪の恋多き老女チョコレート伯爵夫人の関係が、貧乏文士ルフォアと富豪の老女フェサール男爵夫人とそっくりだったり、高等娼婦で女優のヴィヴィアンヌ、女優で娼婦的な振る舞いをするファンティーニ、それと高級娼婦で後に男爵夫人となるドロレス・ダンドールの三人の相似。

 モデル小説ですが、付随的な状況説明では、実名で当時の文学者、芸術家やグループの名前が出てきます。モーリス・ロリナ、アルベール・サマン、ピエール・ロティ、イドロパ、フェリシアン・ロップス、モーパッサン、ゾラ、アナトール・フランス、それらに混じってジャン・ロラン本人の名前が出てくるところが面白い。

 もっとも印象に残ったのは、奇態な飾りを身に着け、白塗り仮面に顰めたような笑いを浮かべた70代の骸骨、フェサール男爵夫人の狂気に満ちた色恋で、まさにグロテスクの極み。これがロランの描きたかったものに違いありません。また本作の根底には、女性不信というか女性への憎しみが色濃くあり、ヴィヴィアンヌの身勝手な画策が原因で純粋なドゥリクールが自殺に追いやられた後、ダルボスがヴィヴィアンヌからの手紙をくしゃくしゃにして床に叩きつける場面によく表れています。また最後の章でルフォアが恋人に書き送った手紙と、エピローグのヴィヴィアンヌのその後の生活の描写には、虚飾の文学や社交への訣別と、隠遁生活への憧憬という、死を前にしたロランの真情が溢れているように感じられました。

 魅力的な建物がいくつか登場します。フェサール男爵夫人の地所カマルグのセルヴィエールの館、ナプール近くの山に彫り込まれたようなアガーヴの別荘、若くして自殺した卿が造ったカプ=ダーユのロビニエ荘。それらの独創的また豪奢な建物が、まわりの自然美とともに描写されています。18世紀の人たちが生活を楽しんだことへのロランの礼讃がうかがえ、レニエとの共通項が感じられました。ロランが、18世紀に対する偏愛をテーマにした『Griserie(陶酔)』という詩集を出していることも知りました(p280)。

 他に、読んでいて気づいた些末な点ですが、日本に関して三カ所記述がありました。チョコレート伯爵夫人が世界各地を漫遊したというところで、「藤の花の日本」というのが出てきたのと(p91)、ヴィヴィアンヌがドゥリクールに悪漢から見つからないよう遠くに逃げましょうと呼びかける場面で、インドとともに出てきたのと(p171)、ロビニエ荘の部屋の装飾のなかで、「日本のユリ」、「狂ったように好色なラオスと日本の版画」というのがありました(p196)。ほかにRoman balnéaire(湯治小説)なる言葉が出てきました(p127)。