M・ルルカー『象徴としての円』

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マンフレート・ルルカー竹内章訳『象徴としての円―人類の思想・宗教・芸術における表現』(法政大学出版局 1991年)


 「十字」と「渦巻」の次は「円」についての本です。円による文様は装飾のもっとも古いモチーフのひとつであり、また古来より、円はさまざまな信仰や宗教において重要な役割を与えられています。円はそれを生んだ人々の思想、感情と内的につながっているという考えをもとに、これまで円が時代や文化のなかでどのように捉えられてきたかを、いろんな資料を集めあらゆる角度から検討しています。一種の事典のようなものでしょうか。面白くまた勉強になりました。数多くの例証を読んでいるうちに、いくつかの基本的なことが見えてきます。例えば、

①何から円を学んだか、ということで、ひとつは、太陽や月、眼や臍や乳頭など身体的部位、水の波紋や雪の結晶など自然現象、花や果物、幹・茎の断面などの植物に見られる形状としての円。もうひとつは、太陽や月の動きが作る循環軌道。

②円は幾何学的性質に特徴があり、四角形や三角形とちがって、一様に丸みをもち、中心があり、求心力と遠心力が拮抗し、直径の倍数では円周曲線が測れないという不可解な存在であったこと。また円周によって空間は外部と内部に分けられること。

③そこから円の理念的象徴的な性質が生まれた。自己を取り囲む世界は円として経験され、神が創造した世界も円として考えられた。宇宙は円であり、神自体も球形として考えられることもあった。

 この本はとくに、③の理念の部分についての考察が多く、いくつかの指摘がありました。
①西洋においては、神を象徴円として描く系譜が、オルフェウス教からキリスト教神秘主義の新プラトン学派を経て近代にまで及んでおり、例えばあるルネッサンスの詩人は、「中心点が至る所にあり、どこにも周辺のない無辺際の円」として神を讃えている。神の姿は、神が創造した世界の内側に描くべきか、外側かという中世の画家たちの疑問に、アリストテレスはこう答えたという。「神は万物を己のなかに含み持っているがゆえに万物の内にあり、しかし、同時に、万物のうえに立つゆえに万物の外にある」と。 

②仏教においては、円はすべてを包括する仏陀の完全無欠を暗示するものである一方、輪廻転生という考え方や、サンスクリット語で「円」を意味する「曼荼羅」の世界観を持つ。ユングは、曼荼羅的世界は、中世の薔薇窓やナヴァホ族の砂絵など仏教以外の他の文化にも見られ、現代人の無意識の内にも潜んでいる、と指摘している。

③円周によって囲われた内部は、神聖な場所になる。宗教や法律や魔術に見られる影響圏、魔法陣という考え方がそれであり、中国の幸運の円の図柄はそれを表現している。円は、空間と時間を清め、己を神聖化し完全化し再び神の永遠の円に帰還しようとする人間の憧憬の可視的な表現となる。

④円と回転運動との関係。世界とそれに属する生き物が円形運動より生じたとする考え方は様々な宗教に見られる。円の中心は轂(こしき)となり臍となり、外部の影響から独立してそれ自体において回帰する運動を生み出すエネルギーの源となる。古代エジプト人は宇宙の形状を円だと考え世界を「太陽が回るもの」と呼んだ。ケルト人においては車輪は太陽の象徴であった。時間を時計から読み取るように、一年の太陽の運動を地球の縁から読み取ることができる。古代の文化民族において時間は循環的であったのである。この思想は「万物は去り、万物は帰る。存在の輪は永久に回る。時間は円である」と言うニーチェ永劫回帰につながっている。

 いくつか印象に残る記述がありました。

神の知ろしめす宇宙という円と私たち自身の生という円のそれぞれの中心を符合させることによって生存在の不調和と不確実性から脱出することが、幾千年もの間の人間のもっとも深い憧憬であった/p1

砂や石で円い壁や城をつくる・・・自分でつくった建物、すなわち「自分の世界」を築くことによって、子供はたいていは自分と円の中心とを同一視する。子供は自己を世界の中心として体験する・・・自己を小宇宙として経験し認識する/p25

そもそも生自体が死の国をめざして転がる車輪である/p107

人間がこの世に生を受ける場所とこの世を去る場所には存在の根源が口を開けている/p127

人は・・・知性に、論理に、ある時は感情にと、人間以外の動物にはない属性に頼りつつ、それをもって外の世界に対抗しようとして来た。しかし、忘れてはならないのは、人間の歴史にはもうひとつ、象徴による外界に対する接近方法があったということだ。この言葉によらない方法は、言葉をもたない分だけ人々の関心をそそらないが、その裏に自我では捉えられない生命の大きな源泉があるとしたらどうだろう(訳者あとがきより)/p175

 訳者あとがきで、ロマン主義的な論考と紹介されており、系譜として、ヴィーコ、クロイツァー、バッハオーフェンの名が挙げられていました。いずれも名前を聞いたことがある程度なので、また蒐書に励んでみようと思います。