『異界の交錯 上巻』


細田あや子/渡辺和子編『異界の交錯 上巻』(LITHON 2006年)


 今はなき天牛書店堺筋本店での購入。宗教史学研究所というところが中心となって、論集を継続的に発行しているようです。この巻は、「異界」について、荒井献、松村一男、熊田陽一郎ら重鎮から若手まで総勢17名が、神話や宗教的言説、物語世界、美術、心理学など様々な分野から考察した論文が集められ、「西アジア北アフリカ」、「ヨーロッパ」、「日本・オセアニア」の三部に別けて編まれています。上巻だけで400ページを越え、これにまだ下巻があると言いますから、驚きです。


 なかでとりわけ面白かったのは、鈴木順「異界としての砂漠」、佐倉香「幻想的風景表現の生成」、市川裕「生と死をつなぐ想像力」、鷹巣純「幽明往還」の4篇。簡単に内容を紹介しますと。
「異界としての砂漠」:1世紀末からの初期キリスト教に見られる禁欲的修行が都市部を中心に展開していたのに対し、それから数世紀後に現われた修道制の修行者たちは都市から離れ砂漠への隠遁に向かった。これは、「異界性」を持つ砂漠が、「この世」の人的紐帯を断ち切り、悪霊との戦いという修道者の使命を果たすのに最もふさわしい場所だと彼らが判断したからとする。なぜなら修道者の第一の仕事は、自然的なもの、過度の飲食から来るもの、悪魔から来るものの3つの想念を識別することで、悪霊と対峙することだからである。

 修行者が、長老のところに、気が鎮まったと喜んで報告に行くと、長老は、再び悩みの葛藤のなかに戻れと諭したという事例が紹介されていて、誘惑の克服には終わりがあってはならないという考え方が面白かったのと、洗礼の儀式が、水槽の水底に沈潜することでイエスの死を体験し、浮上することでイエスの復活を共有する儀式だということを初めて知りました。                                            


「幻想的風景表現の生成」:風景表現が独立したのは16世紀のドイツとされるが、それまでに徐々に風景が、絵画の舞台背景から絵画空間全体の人物像を包みこむ自然世界の表現となってきていた。風景を見たままに画面に再現することへの関心も高まり、その技法も次々と生み出されたが、一方、画家が、風景表現に自らの個性を託し始めてもいた。幻想的風景の成立もほぼ同じ時期である。

幻想的風景とは、自然を題材にしながら現実にはないものを表わすものだが、現実の再現に見えるのであれ、逆にまったくの空想に見えるのであれ、美術表現は同じプロセスを経て成立するものである。異なるのは、内面から湧き上がるビジョンと眼に映る外観とのどちらをより重要視したかに過ぎない。また幻想的な風景表現が宗教的象徴的な意味を担う場合があることを指摘している。

 ボスの『快楽の園』の左と中央の画面から、奇妙な人物や生き物、神秘的な建物、樹木などを取り除いたら、美しい緑と水の風景になるというのは面白い発見。


「生と死をつなぐ想像力」:18世紀の後半に、ポーランドリトアニアで起こったユダヤ教の新しい宗教運動ハシディズムを取りあげ、悩みからの救済の方法として、現世の諸々の執着を抑え込むのではなく、魂を神の方向に向け、心を無にしたり踊りと音楽で忘我状態になることによって、雑念が生ずる隙を与えないようにするという方法を紹介している。

 これは、宗教全般に通じるものがあるように思われます。例えば、座禅において、呼吸に神経を集中させて、頭のなかを無にするやり方がそうでしょうし、極端に言えば、祈りや呪文というものは、それに意識を集中させることによって、日常生活から来る邪念や悩みから気をそらすということに最大の意味があって、唱える言葉は何でもいいとも言えるのではないでしょうか。


「幽明往還」:中世から近世にかけての縁起絵を豊富に引用しながら、現世と他界との境界としては、死出の山、三途の川、野辺がよく描かれていることを例示し、閻魔王庁が人を背負って行ける範囲にあるという地理感覚のおかしさや、蘇生説話の場合、蘇生の道程を描くのに黄泉路の描写を逆転させているなどいくつかの面白い指摘をしている。


 ほかに、私の興味の範囲で言えば、伝統的なキリスト教画が流行らなくなるなかで、崇高さや超越性という宗教的感性や神の遍在を表現しようとしたフリードリヒの風景画について語る松村一男「非宗教的表現と宗教」、旅行好きなアンデルセンが風景に熱烈に反応する感性を持ち、他郷すなわち他界を愛したとする大澤千恵子「アンデルセン童話における異郷への憧憬」を面白く読みました。


 最後に、熊田陽一郎「異界:エリウゲナの神学とトラークルの詩から」に引用されていたヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの言葉を引用しておきます。

光は空気がなければ光として輝くことがないが、空気のあるところに光が射し込めば、そこではすべてが光となって輝く・・・光は正に空気を媒体としてこそ光なのであり、空気のないところでは、光は人間にとっての光としては現れない。そのように神は、人間の知性においてこそ神として現れるのである。そしてそのように神が現れるとき、そこではすべてが神となる/p264