光に関する哲学書二冊

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山崎正一『幻想と悟り―主体性の哲学の破壊と再建』(朝日出版社 1977年)
H・ブルーメンベルク生松敬三/熊田陽一郎訳『光の形而上学―真理のメタファーとしての光』(朝日出版社 1977年)


 どちらも「エピステーメー叢書」なので本の装丁は同じ(たぶん杉浦康平)、内容も少し似通っています。ともに哲学の分野の本ですが、近代の哲学が抽象的な概念にこだわり過ぎた反省を踏まえ、『幻想と悟り』では、鏡、水、光(ほかに空海道元についての章もある)、『光の形而上学』では、光という根源的原理的な力を持った物質・現象をもとに考究しています。また両者ともギリシア哲学から説き起こす通史的な性格も帯びています。

 同じような発想では、バシュラールのイメージの詩学が思い浮かびますが、バシュラールが文学作品を中心に議論を展開していたのに対して、こちらは哲学思想を素材にしていて、そのせいか両者とも難しくて半分も理解できませんでした。とくに、『幻想と悟り』のほうは、西洋の思想のみならず、仏教思想からの引用が多く、道元の章などはほとんど理解不能でした。


 山崎正一は今春、『神話学の知と現代』という本を読んだ時に、近代の科学的な知を乗り越える神話的な知への期待を語っていたことで印象に残っていました(2019年3月11日記事参照)。この本でも、真理の世界がまずあって次に行動の世界があると考えるのは転倒の錯誤であるとし、価値の問題が主観的心理の感情の問題であるとして学問から追放された結果、意識の狭い世界に入り込んで誕生したのが近代科学であると批判していました。

 「鏡のエピステーメー」の章では、鏡に関するいろんな発想、比喩が出てきたので、おぼろげながら理解できた範囲で列挙してみます。まず鏡の幻影性を中心としては、①水に映る影の不確実さ、②感覚的事物は真実の存在が鏡に映じた映像のごときもの、③人間の心は歪んだ鏡であり事物を歪める、④夢は鏡中の像のごとし、⑤現実の世界も虚妄の世界であり映像に等しい、などが挙げられます。次に、鏡の明晰さについて、①普段は見えないものが鏡では見えるという曇りなき知性をあらわすもの、②心の明澄さを明鏡に喩える、のほか、③一切の事物事象が相互に区別され、対立しながら、しかも相互に含み合い、映し合っている、「一珠のうちに百千珠を映現し、しかも百千珠、ともに一珠の中に現ず」といった比喩がありました。

 「水のエピステーメー」では、水を生命、運動の原理と見て神的なものとしたタレースのように、水を万物の原理とする見方がある一方、地上の人間に不正の償いをさせる恐るべき水でもあるとして古代の洪水神話を挙げています。「人は二度と同じ河に入ること能わず」とヘラクレイトスは、水の流れに喩えて万物流転を説きましたが、東洋でも孔子が「子、川のほとりに在(いま)して曰く、逝くものは斯くの如きか。昼夜をおかず」と同様の感慨を漏らしていることに言及しています。また仏教に「水想観」「宝池観」というものがあるとして、恵心僧都水観をしたとき身体が水となり部屋が水で満たされたという逸話を紹介しています。

 「光のエピステーメー」では、地が暗黒に覆われていたときに、「神、光あれと言いたまいければ、光ありき」という『創世記』の言葉を引用し、当初から「光と闇」が「平和と禍」の意味で二元論的な構図を持っていたのが、プロチノスの時代に一者から流れ出る光として、またアウグスティヌスの時には父、子、聖霊がともに一つの光だとして一元論的になり、ヘーゲルの時代にまた光と闇の弁証法となったこと、東洋では、仏教の華厳経の「大毘盧遮那仏」や密教の「大日如来」がいずれも同じ光明遍照・無量光の御仏として一元的な太陽的な存在であることが指摘されていました。

 そのほかの章で、印象に残ったのは、プラトンなど哲学者が求めたのは独創性ではなく永遠の真理であり、人々が彼らに期待したのも真理だったという(p132)近代の独創性信仰を批判したような文章や、真理というものが閉鎖的な完結性をもつものでなく開かれた不完全な系であるという指摘(p132)、産業革命フランス革命やロマンティークの哲学が学問から敬虔さを奪い人間から調和の理想を奪ったという記述(p200)など。


 『光の形而上学』は、「はしがき」で生松敬三が述べているように、「ギリシア古典古代からヘレニズム期をへてローマ時代へと光のメタファーがいかなる変貌をとげて光のメタフィジークを生み、伝統を異にするキリスト教の中にいかに受容され、そして中世から近代へと流れこんでいったか」をたどった本ですが、このメタファーがメタフィジークに移っていくというところがよく分かりませんでした。途中、コラム的に「プラトンの洞窟」の比喩と「聞くことと見ること」の比喩についての文章が挟まれていました。神秘主義という言葉はあまり出てきませんが、ほとんど神秘主義思想の読解ともいえる内容となっています。また光をめぐるメタファーはそれ自身が美しい詩文のようで心惹かれるものがありました。

 まず、光の特徴や光に関する比喩をいくつか並べますと、暗闇の中で道しるべとなる光、逆に眼をくらませる光、真理は存在そのものにおける光、みずから光り輝きすべてのものに光を授ける善、洞窟の中の光と影、救い・不死性としての光、内的な道徳的明証性としての光、栄光という光、創造者としての神は光、神的意志の放射としての光、啓蒙としての光、などなど。

 ほかに、光をめぐる魅力的なメタファーに満ちた文章をいくつか引用しておきます。

光と闇とは、相互に排除しあいつつ、しかも世界の構造を仕上げるところの絶対的・形而上学的な対抗力を表わすことができる・・・光があらわれたときには暗黒はもはや存在しえない/p24

光と闇とは、火と土と同じく、元素的な始源の原理である/p25

光は、それが可視的ならしめたものにおいてのみ見られる。光が諸事物の可視性とともにはじめて「あらわれ」、したがって光が呼び出したものとは種類を異にするということが、まさしく光の「自然性」をなすわけである/p28

光のもとにあり、光のなかにある暗黒というものが存在する・・・古代悲劇は容赦のない明るい光でこの暗い底層を照らし出す/p30

絶対的な光と絶対的な闇は合致する。ディオニシウス・アレオパギタはこれを徹底して、あらゆる神秘主義に範型となる「神の闇」という定式をつくり出す/p32

人間はみずから光であることはできない・・・人間は光ではなく、たんに光によって点火される燈火たるにすぎない(アウグスティヌス)/p64

暗闇の中で眼を開けていることはなんの役にも立たないが、「光の中にあり」ながら眼を閉じたままでいることもまた役に立たぬ(アウグスティヌス)/p74→前者は善き異教徒、後者は悪しきキリスト者のことだそうです。