J・キャンベル『宇宙意識』

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J・キャンベル鈴木晶/入江良平訳『宇宙意識―神話的アプローチ』(人文書院 1991年)

 

 古代の宇宙観に関連した本を引き続き読んでみました。キャンベルの本は、20年ほど前に、『神話の力』と『生きるよすがとしての神話』の二冊を読んだ記憶があります。当時の読書ノートを見てみると、東西の宗教思想や民族神話に対する知識の該博さに驚いていることと、そこに生き方の知恵を求める姿勢と柔らかい語り口に共感している様子がうかがえました。この本も、講演の記録をもとにしているので喋り言葉で分かりやすく書かれていました。

 

 いくつかの点で驚きましたが、ひとつは、著者が旧約聖書およびユダヤ教、ひいてはキリスト教のある一面に対して激しい憎悪を抱いていることです。聖書のなかに、他民族を殺戮し掠奪することを正当化するような文章があること、またキリストやキリスト教の聖人たち、聖母マリアでさえ、掠奪を重ねる軍隊の守護神に変えられていることを指摘し、その了見の狭さを厳しく叱責しています。

 

 もう一つは、現代の物理学も考察の射程のなかに加えている幅の広さです。現代物理学では宇宙を、180億年前のビッグバン以来膨張を続け、おびただしい数の渦巻型銀河がたがいに遠ざかりつつあるものと捉え、中心のない相対論的性格があるとしていますが、キャンベルは、すでに東洋の宇宙観にそのような見方があったことを指摘し、「いったい誰が宇宙の数を数えることができようか・・・これらの宇宙は頼りなげな小舟のように浮かんでいる。偉大なヴィシュヌの身体の毛孔と同じように、宇宙の数も無数であり、その一つ一つが神々を数知れず宿している」(p64)という紀元5世紀ごろのインドの物語の一節を引用しています。

 

 全体からうかがえることは、著者の東洋的な神秘主義への嗜好です。古代においては、全体との調和を重んじ、世界は円環的な時間のなかで充足していましたが、イランに起こったゾロアスター教が善と悪を峻別し終末を予言する二元論的宗教観を持ちこんだことによって、直線的な歴史的時間が始まり、闘争や努力、情熱をよしとする倫理観が生まれたとしています。著者はそれに対して、善と悪は時間的な幻影にすぎず、これまで悪を根絶しようとしたことでしばしば恐るべき悪夢を世界にもたらすことになったと、善悪を対峙させる考えを否定しています。

 

 いくつか印象に残った指摘がありました。曲解をまじえてまとめると次のようなことでしょうか。

①神話と夢を動機づけているのは、同一の精神生理学的な源泉であり、それは人間の想像力にもとづいている。神話の物語やイメージは、字義通りにではなく、隠喩として読まなければならない。芸術作品に接したとき人々が直観の中に残っている元型を感じ心が揺さぶられるように、神話にも太古の記憶を取り戻させる働きがあり、その神話を知ることによって、共同体の成員が精神と感情の両面で結束し、調和のうちに生きるよう仕向けるものである。

②人生の後半になって生涯の歩みを思い返すと、その当時は偶然と見えた出会いや出来事が、人生を築いてゆく決定的な要因になったということ、自らがこの人生を意図的に作り上げたわけではなく、これらの出会いや出来事が自分に潜在していた可能性を促してきたということに気づく。同様に、世界史のコンテクストそのものが、こういった相互的影響が織りなす広大な網の目なのであり、時間を通じて展開する人々の運命によって構成されているわけである。

③芸術作品は、生の祝祭のただ中にあって生に対して否と言うことができない。英雄の人生の盛りにおける死であっても、運命を非難すべきものとして描くのではなく、その悲しみを超えて運命が肯定されるのだ。この肯定そのものにおいて、精神は死の恐怖の彼方へと運ばれ、恐怖をぬぐわれ、浄化されることになる。これがカタルシスという悲劇の効果である。

 

 恒例により気に入った神話的イメージを引用しておきます。

杖でその像に触れようとして、杖を左から右へと振ってみた。杖はただ虚空を打っただけだった・・・次に彼が杖を右から左へと振ると、杖は像に触れた・・・こうして彼は、神が形をもちながら、同時に形なきものであることを悟った(ラーマクリシュナ)/p92

一つの存在者が夢見る大いなる夢・・・同時にその夢をすべての人物がともに夢見る・・・いっさいは相互にからみあい、適合しあうのである。網の中の宝石の各々には他のすべての宝石が映っているという、インドの「宝玉の網」のイメージは、この思想に照応・・・さらにこれと似たイメージに、仏教の「縁起」の説があります/p156

理解がない者によってのみ理解される、すなわち、理解する者はすべて、それを知らない。知る者によって知られない者、それは知らない者によって知られる(ケーナウパニシャッド)/p164

自然は私たちの外部にあると同時に、私たちの内部にもある・・・芸術はこの両者の境界にある鏡なのです/p186